七つの大罪:暴食のヒナ   作:ていん?が〜

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第3話:正義のラーメン

 窓の外ではゲヘナ学園特有の爆発音と、それに対する風紀委員たちの怒声が遠く響いている。

 しかし、風紀委員会室の中だけは、冷徹なまでの静寂と、ページを捲る乾燥した音だけが支配していた。

 

 空崎ヒナは、デスクに肘をつき、最近キヴォトスで話題だという「至高のラーメン100選」という雑誌をパラパラと捲っていた。

 その瞳には、治安維持に奔走する時の怜悧さはなく、ただ底知れない嫌悪と侮蔑の色が混じっている。

 

 「……ハッ」

 

 不意に、ヒナの唇から乾いた、冷笑のような鼻笑いが漏れた。

 

 「どうしたんですか、委員長。また気に食わないことでもあったんですか?」

 

 横で書類の整理をしていた天雨アコが、呆れたように、しかし慣れた様子で声をかける。

 ヒナは雑誌の、あるページをアコの方へ突き出した。そこには「澄み渡る琥珀色の極上醤油スープ」という見出しと共に、透明度の高い上品なラーメンが掲載されていた。

 

 「アコ、見て。この世には、これほどまでに『偽物』のラーメンが蔓延っているわ」

 

 「偽物、ですか…?評判の店のようですけど」

 

 「ラーメンの皮を被った、ただの色のついたお湯よ。こんなもの、私に言わせれば『水たまり』の劣化版に過ぎない。……カエシをスープで薄める? 狂気の沙汰ね。そんな、はらわたが煮えくり返るような屈辱に、麺が耐えられると思っているの?」

 

 アコは溜息をついた。始まった。ヒナのラーメンに関する異常なまでの狂信的な拘り。通称、『ラーメン原理主義』である。

 

 「またですか、委員長。以前も言いましたけど、世間一般ではそれを『ラーメン』と呼ぶんです。……某マシマシトッピングができるお店のやつは、あなたも認めていましたよね?」

 

 「あれは例外よ。脂と醤油の比重が、辛うじて私の許容範囲に踏み止まっているから。でも、それ以外の大多数は死刑に値する。……本来、ラーメンとは『カエシ』そのものに麺と具材を投入して完成するべきもの。水分で割るなんて、素材に対する冒涜でしかないわ」

 

 「そんなもの、人間が食べたら即座に救急搬送されますよ。塩分濃度が物理法則を無視しています」

 

 アコの冷静なツッコミを、ヒナは意に介さない。彼女の指が、今度は「コク深い味噌ラーメン」のページを叩いた。

 

 「味噌ラーメンも救いようがないわね。どうしてお湯で溶いてしまうの? 私にとっての味噌ラーメンは、スープで溶く前の味噌そのものに、茹でた麺と具材を混ぜ合わせるもの。それこそが、味噌本来の力強さを正面から受け止める唯一の作法よ」

 

 「……それはもう、混ぜそばもびっくりの『味噌粘土混ぜそば』という名の異形ですよ。もはや料理じゃなくて、ただの粘土遊びじゃないですか」

 

 「泥水を啜るよりはマシだわ」

 

 ヒナの偏食は、もはや好みのレベルを超えて、一つの哲学へと昇華されていた。

 

 「……じゃあ、豚骨ラーメンはどうなんですか? アレはドロドロに濃縮されたカテゴリーに入ると思いますけど」

 

 期待を込めたアコの問いに、ヒナは心底つまらなそうに雑誌を投げ捨てた。

 

 「豚骨? ……あんなもの、味が薄すぎて話にならないわ。赤ちゃんにでも飲ませておけば? 離乳食代わりにちょうどいいんじゃない?」

 

 「赤ちゃんの血管が詰まりますよ! ……全く。あなたの舌は、一体どういう構造をしているんですか」

 

 「はぁ…。まったく、どいつもこいつも理解できない。私だけ異世界転生してしまったのかしらね?」

 

 ヒナは立ち上がった。その瞳に、狩人のような鋭い光が宿る。

 

 「行くわよ、アコ。……本物の『ラーメン』というものを教えてあげる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゲヘナ自治区の裏路地。昼間だというのに薄暗く、重苦しい獣脂の匂いが漂う場所に、その店はあった。

 看板には「黒」という一文字だけが、醤油を塗りたくったような墨文字で書かれている。

 

 ガラガラ、と引き戸を開けると、店内の空気はさらに重くなった。

 

 カウンターの向こう側では、筋肉が裂けんばかりに盛り上がった、強面のムキムキな大将が腕を組んで立っていた。

 

 しかし、入ってきたのがヒナだと確認した瞬間、その強面の顔が目に見えて強張り、額に嫌な汗が浮かんだ。

 

 「……いつものね」

 

 ヒナの短い一言。大将は喉を鳴らし、掠れた声で応えた。

 

 「へ、へい……喜んで……」

 

 「す、すみません。本当に、いつもいつも、ご迷惑を……」

 

 アコが横でぺこぺこと頭を下げる。大将の調理は、もはや儀式だった。寸胴からスープを掬うことはない。

 彼はただ、真っ黒な『カエシ』の詰まった巨大な甕(かめ)から、一滴の妥協もない醤油ダレを巨大などんぶりに並々と注ぎ込んだ。

 

 

 そして数分後。カウンターに置かれた「特製ヒナ・スペシャル」は、もはやラーメンというより、狂気の建築物だった。

 

 

 直径60センチという、洗面ボウルほどもあるどんぶり。そこに突き刺さっているのは、切り分ける前の巨大な1本のままのチャーシュー。それが4本、30センチという暴力的な長さで天を指している。

 

 どんぶりの中には、一切の加水を拒んだ暗黒のカエシが満ち、その隙間を埋めるように、ワシワシとした剛健な極太麺と、雪崩のような背脂が敷き詰められていた。

 

 「これよ、これ…。これこそがラーメンとしての存在を許せる代物なのよ」

 

 ヒナは無言で箸を取った。いや、箸を「2本」同時に使い、まるで凶器を振るうように食事という名の蹂躙を開始した。

 

 数分。たった数分の間に、4本の巨大チャーシューのうち2本が消え去った。

 咀嚼というプロセスを最小限に抑え、彼女は豪快に、そして休むことなくその「黒い塊」を啜り続ける。

 

 

 ズッ…! ゾボボボ…ッ!!

 

 

 その音は、もはや捕食者が獲物の骨を砕く音に近い。アコは隣で、その光景を眺めながら自分の感覚が麻痺していくことに恐怖を感じていた。

 彼女はそっとポケットから胃薬を取り出し、水なしで飲み込む。この「暴力」の余波だけで、自分まで胃もたれしそうだったからだ。

 

 

 どんぶりの向こうでは、大将がただただ、魂が抜けたように立ち尽くしていた。

 

 彼はかつて、夢と希望を持ってこの店を始めたのだ。澄んだスープで、多くの人に笑顔を届けたい。

 そんな純粋な思いでラーメンの道に入った。しかし、目の前の「死神」に目をつけられてから、全てが変わった。

 

 「(……俺は、いったい何をしてるんだ…? こんな劇物を作るために店を始めたのか?)」

 

 大将は問いかける。しかし、逆らうことはできない。ヒナの食事を邪魔した者がどうなったか。

 

 風紀委員長としての職務を離れた「飢えたヒナ」に、お節介な健康指導や味の批判をした愚か者たちの末路は、ゲヘナの裏社会では伝説となっている。

 重傷を負って入院し、二度とこの界隈でラーメンを口にできなくなった者たちのリストは、今や電話帳ほどに膨らんでいる。

 

 ヒナは、そんな大将の苦悩など1ミリたりとも気にしていない。彼女はどんぶりを両手で掴むと、物理的に光を遮断するほどの「暗黒のカエシ」を、ゴクゴクと喉を鳴らして飲み干した。

 

 「……ぷは。いつもと同じ味。安定感があるのは、良いことだわ」

 

 ヒナは満足げに吐息を漏らすと、万札を数枚カウンターに叩きつけ、一瞥もくれずに店を出た。

 

 「本当に申し訳ございません! ほら、大将、これ迷惑料と……あ、あと、お店の修繕費にでも使ってください! あなた、待ってください、歩くのが早すぎます!」

 

 アコは必死に謝罪と現金を押し付けると、風のように立ち去るヒナを追いかけた。

 

 

 

 

 

 

 「……さて、次は『白』ね」

 

 「……正気ですか、委員長。今ので、普通の軍隊一個小隊が全滅するほどの塩分を摂りましたよ」

 

 「足りないわ。……さっきのは少し醤油が立ちすぎていた。口の中を清めたいの」

 

 ヒナが足を向けたのは、そこから少し離れた場所にある「塩ラーメン」の看板を掲げる店だった。

 

 店に入ると、こちらの店主もまた、悟りを開いた仏のような顔で静かに麺を茹でていた。彼はヒナの姿を見るなり、一言も交わさず、秘蔵の壺を取り出した。

 

 

 カウンターに出されたのは、ヒナ専用の特別メニュー。

 

 通称「真・空崎塩ラーメン」。

 

 

 どんぶりの中には、100倍に濃縮された塩ダレが並々と注がれている。スープなど一滴も入っていない。

 さらに、麺そのものに極限まで塩を練り込んだ特製麺が、その塩の海に沈んでいる。

 

 そして最も異様なのは、どんぶりの中央に、20センチはある巨大な「岩塩の塊」が、まるで氷山のように突っ込まれていることだった。

 

 「(あぁ……美しい。この、純粋な結晶の輝き……)」

 

 ヒナはうっとりとした表情で、どんぶりから立ち上る、肺が焼け付くような塩辛い蒸気を吸い込んだ。

 

 「……完璧だわ」

 

 ヒナが箸を取り、その「純白の地獄」へと手を伸ばす。

 

 彼女の「暴食」の巡礼は、まだ終わらない。

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