トリニティ総合学園の夜は、ゲヘナのそれとは対照的に、どこまでも静謐で、どこまでも「優雅」であった。
しかし、その静寂を切り裂くように走る1台の高級車の車内には、キヴォトスで最も噛み合わない2人の少女が並んで座っていた。
「今日は本当によく来てくださいましたわ、ヒナさん。前回の、あの…生命力に溢れたお食事風景が忘れられなくて……ふふ、またこうしてお誘いできて、本当に光栄です」
ティーパーティーの桐藤ナギサは、心底嬉しそうに、まるで宝物でも眺めるような眼差しを隣の少女に向けていた。
その口元は絶えず緩み、その手は自身のスマートフォンを愛おしそうに握りしめている。
一方、空崎ヒナは、窓の外を流れるトリニティの整った街並みを、死んだ魚のような目で見つめていた。
「……馴れ馴れしいわよ、ナギサ。私とあなたは、そんな仲じゃないはずでしょう」
「あら、私はもう、ヒナさんのことを親友だと思っておりますわよ?」
「……まあいい、今日はあなたの奢りよね? タダ飯なら文句はない。ゲヘナの治安維持で削られた私のカロリーを、トリニティの予算で補填できるなら、それは一つの『外交』よ」
ヒナは毒づき、重い溜息をついた。実は、前回の寿司屋での1件以降、ナギサの中で何かが決定的に「開花」してしまったことを、ヒナはまだ正確には理解していなかった。
ナギサにとって、ヒナのあの常軌を逸した、理性を踏みにじるような暴食の光景は、上品なティータイムでは決して味わえない強烈な「悦楽」として脳に刻まれていたのである。
案内されたのは、トリニティの奥座敷に佇む、完全紹介制の最高級天ぷら屋「天啓」であった。
白木のカウンターに座る2人。職人が背筋を伸ばし、「本日は、まず旬の山菜から……」と、芸術品のようなタラの芽とフキノトウを差し出した。
その瞬間、店内の温度が氷点下まで下がった。
ヒナの瞳から、光が完全に消える。
「……野菜」
その一言には、深い殺意と、魂を削るような嫌悪が凝縮されていた。
「……この店、私を殺す気なの? なぜ、食べ物ですらない『草』を、よりによって油で揚げるなんて無駄な工程を経て私の前に出すわけ?」
「ヒナさん、落ち着いて。ここの山菜は、大地の恵みが……」
「うるさい。大地なんて踏みつけるためのものでしょう。……店主。今すぐ、そのゴミを下げなさい。私の視界に、1秒たりとも植物を存在させないで。不愉快だわ」
ヒナは、職人が精魂込めて揚げた山菜を、一瞥もせずにゴミ箱へと追いやるような冷徹な眼光を向けた。そして、メニューを睨みつけると、耳を疑うような要求を突きつけた。
「いい? 今から私が言うものだけを、キロ単位で揚げなさい。車海老、穴子、ホタテ、かしわ(鶏肉)。以上よ。これ以外の『食品もどき』は一切認めない。私の胃袋に、植物性繊維という汚物を入れる隙間はないの」
「な、何だと……!? お嬢ちゃん、うちはな、旬のバランスを大事にしてるんだ!! そんな無茶な注文、受けられるわけが……!」
職人が激昂し、カウンター越しにヒナへ掴みかかろうとする。
だが、その腕がヒナに届くより早く、ナギサがその手を制した。
「店主、落ち着きなさい。……これは『正当な取引』ですわ。追加料金はティーパーティーの名において、言い値の3倍をお支払いします。だから……」
ナギサの顔は、恍惚とした笑みに染まっていた。彼女は空いた方の手で、既にスマートフォンのカメラをヒナに向けていた。
「(……もっと。もっとヒナさん、私にあなたのエゴを見せてください!その、美しき暴虐をっ!!)」
ナギサの瞳は、興奮で紅潮していた。彼女にとって、この修羅場こそが最高のデザートだった。
やがて、カウンターの上には異様な光景が広がった。
皿の上には、天ぷらの山。いや、海老と穴子と帆立と肉の「死骸」が築いた、黄金の要塞。
店主が用意した上品な天つゆと薬味のセットが置かれたが、ヒナはそれを手に取ると、驚くべき行動に出た。
ゴキュッ…ゴキュッ…ゴキュッ…
彼女は天つゆの入った鉢を、まるで水でも飲むかのように一気に飲み干したのだ。
「ぷはぁ…少ない。次からはピッチャーで用意しなさい。天つゆは飲むものでしょ? 天ぷらをこれに浸すなんて、繊細な衣に対する侮辱だわ」
「(……言っていることが滅茶苦茶だわ、この人……素敵!)」
ナギサは連写モードでシャッターを切り続ける。
そしてヒナの食事は、ここからが本番だった。彼女は卓上の塩の瓶をひっくり返すと、揚げたての車海老の上に、ザーッと白銀の粉末を振りかけ始めた。
塩が天ぷらを覆い尽くし、もはや何が揚げられているのか判別できない。
そこにあるのは、純白の「塩の砂漠」に埋もれた、黄金の破片。
「……よし。これでようやく、寛大な心で食べることを許してやるわ」
ヒナは塩の塊をそのまま口に放り込み、ガリガリという暴力的な音を立てて咀嚼した。
普通の人間なら即座に腎機能が崩壊し、喉が焼け付くような濃度。だが、ヒナはそれを至福の表情で飲み込む。
もちろん残った塩の砂漠は持ち上げた皿を傾け、一粒残らずヒナの口へと消えていった。
「店主、まだ足りないわ。次は、サーロインとトントロ。それから、肉の脂身をバターで分厚く包んで揚げなさい。それぞれ10ダースずつよ」
「き、貴様あああああああぁぁぁ!!!!」
ヒナの一線を超えた暴言にも等しい注文に店主の理性は蒸発した。カウンターを乗り越え、今まで食材を育んできた拳をヒナに振りかざす。
が、
「さっさと揚げなさい」
店主の鉄槌がヒナに届く前に、ヒナのか細い手が店主の手首を掴み、万力のような力で捻りあげる。
「が、あああああああああああぁぁぁぁ!!!!!」
キヴォトス人の中でも上澄の超人的握力に耐えられるはずもなく、ヒナが手を離した後も店主は痛みに悶絶し、ゴロンゴロンと床を転げ回る。
そんな店主の元にナギサはそっと歩み寄り、耳元へ静かに囁く。
「店主、彼女の言う通りになさい。そうしないと……うっかりティーパーティーの出資がストップしてしまうかもしれませんよ?」
「ッ…!?」
ナギサのマネーパワーとヒナの恐喝。よろよろと立ち上がった職人は涙を呑んで、自らの信念を捨て去り、脂身のバター包み揚げという狂気の料理に着手した。
そして食が進むにつれ、ヒナは塩だけでは満足できなくなってきた。
彼女は愛用のバッグから特大のとんかつソースのボトルを掴み、店主から譲り受けた(強奪した)ボウルにドッポドッポと垂れ流す。
そして高級天ぷらをその中にビシャビシャと、まるで串カツの二度漬け禁止のルールを無視して洗うかのように浸し始めた。
「……ソースに浸すのは、ある種の『禊(みそぎ)』よ。こうして衣を真っ黒に染めることで、天ぷらという罪人の罪を洗い流し、初めて『食べ物』としての存在を許される。ソースの酸味と塩分が、揚げ油の罪深さと共鳴して、私の魂を鎮めてくれる……」
「(何をおっしゃっているのか1ミリも理解できませんけれど、その支離滅裂な独白、最高にゾクゾクしますわ……!)」
ナギサはもはや、自分に供された海老や穴子も「さあ、どうぞ」とヒナの皿に貢ぎ、頬を紅潮させながら動画の撮影を続けていた。
やがて、店内の異変に気づいた。
職人が青ざめた顔で報告する。
「……油が、油の在庫が……尽きました。1人の客に、これほどまでの油を消費されるなんて……」
そう、ヒナが食べた膨大な量の衣と、彼女が追加注文した「脂身の揚げ物」によって、店の厨房にあった一斗缶の油が在庫ごと全て吸い尽くされてしまったのだ。
「……チッ。まだ腹3分目にも届いていないけど、在庫切れなら仕方ないわ。不本意だけど、今日はここまでにしましょう」
ヒナは気だるげに席を立つと、口の周りに付着したソースと脂をハンカチで拭った。
ナギサは満足しきった溜息をつき、法外な額の札束をドン、とカウンターに叩きつけると、ヒナの後に続いた。
トリニティの夜道を、二人の少女が歩く。
「ヒナさん、今日も最高のお食事でしたわ。あなたのあの、世界の理を壊していくような食べっぷり……私、もう病みつきになりそうですの」
「勝手にすれば? 私はまだ、全然足りていないのよ。あんな軟弱な揚げ物じゃ、私の胃はウォーミングアップにもならないわ」
ヒナは苛立ち混じりに言い捨てると、前方にある一軒の店を見据えた。
そこは、24時間営業の唐揚げ専門店。店の前には「肉こそ真理、脂こそ生命」という、ヒナの哲学を体現したような看板が掲げられている。
「(揚げ物が中途半端だったせいで、逆に火がついてしまった。……あそこでいつものメニューを入れないと、今夜は眠れそうにないわ)」
「あら、まだ召し上がるのですか? ふふ、どこまでもついていきますわよ、ヒナさん!」
ナギサは嬉々として、スマートフォンのカメラを構え直した。
「……店員。いつものメニュー。鶏をまるごと一頭使った丸揚げ唐揚げを30個。それと、白米を15キロ。……あぁ、あと、マヨネーズを容器ごと30本用意なさい。……そんなにない? だったらすぐにスーパーにでも買いに行きなさい」
注文を受けた店員が驚愕の声を上げる中、ヒナは不敵な笑みを浮かべて席に着く。
ナギサは、その光景を記録するために、最も美しいアングルを探して嬉しそうに動き回る。
ゲヘナの暴食委員長と、トリニティの性癖開花ティーパーティー。
2人の奇妙な、そして胃がもたれるような夜は、まだ始まったばかりであった。