ヒロアカ世界に転生した者が千手を背負い過ごしていく。 作:名も無き住人
目が覚めると、天井があった。
白くて、見慣れた、何の変哲もない天井だ。
それだけで今日も俺は生きていると実感する。前の世界では——二十七年間を過ごした、あの現代日本では——こんな感覚はなかった。目覚めた瞬間に「ああ、また今日も生きてるな」なんて思わなかった。朝なんてものは、ただ眠気と疲労と共にやってきて、アラームに叩き起こされて、コーヒーを飲んでスーツに着替えて、満員電車に揺られて——それだけだった。
でも今は違う。
俺は千手悠太、十五歳。
個性社会が当たり前となった世界の住人。そして前世の記憶を持つ転生者。
「……今日も良い朝だな」
呟いて、布団を払い退ける。窓の外から差し込む朝の光が、畳の上に細長い四角形を描いていた。
部屋は八畳。壁際に本棚があって、参考書や小説が並んでいる。机の上には昨日まとめていたノートと、ペン立て。それから小さなスピーカー。俺がいちばん気に入っているものだ。
ゆっくりと起き上がって、まず窓を開ける。
五月の朝の空気が、顔に当たった。気持ちいい。
隣の家が見える。二階建ての、うちとよく似た普通の住宅。あの家には波動家が住んでいる。俺が生まれたときから隣同士だから、もう十五年の付き合いだ。
視線を少し横にずらすと、二階の窓に明かりがついているのが見えた。
(ねじれ、もう起きてるな)
心の中で呟く。あいつは朝が早い。
波動ねじれ。俺の隣に住む、幼馴染。
ただし——彼女は俺より二つ年上の十七歳で、今はもう雄英高校の二年生だ。去年の春に入学して、今は学校の寮に住んでいる日の方が多い。それでもこういう長期休み中は実家に帰ってくるから、こうして顔を合わせる機会はある。
今週は帰ってきていた。
窓から差し込む朝の光を顔に受けながら、俺は伸びをした。背骨がぽきぽきと小気味よく鳴る。 身長は百七十八センチ。この歳にしては高い方だと親に言われたが、前世の感覚からすればそこまで驚くことでもない。体つきはがっしりしている。鍛えているのもあるが、個性の影響の方が大きいと思っている。
真数千手。
それが俺の個性だ。
俺の背後に——真数千手が顕現する。
巨大な、黄金色に輝く無数の腕。背中から放射状に広がるそれは、まるで仏像の後光のように見えるらしい。俺自身は背後のものだから直接目にする機会は少ないが、初めて見た人間が驚くのはわかる。幼い頃、公園で無意識に発動させてしまったとき、その場にいた子どもたちが全員固まったことがあった。
使い方を覚えるのに数年かかった。制御するのにさらに数年。
千の手はそれぞれが独立して動かせる。打撃にも防御にも使えるし、正の力を込めれば傷を癒すことすらできる——ただし、後者の力については、まだ信頼できる相手にしか使っていない。
今も、完璧だとは思っていない。
「おーし」
軽く手を叩いて、気合いを入れる。
まず着替え。Tシャツとジャージのパンツ。この格好で台所に下りて、朝飯を作るのが毎朝のルーティンだ。 台所には誰もいない。メモが一枚、テーブルの上に置いてあった。
『悠太へ。今日は父さん早出。母さんも六時から出勤。ご飯は冷蔵庫にあるからレンジで温めてね。ちゃんと食べること! 母より』
読んで、ふっと笑う。
毎度毎度、心配性な母だ。俺が料理できることを知っているくせに、こういうメモを残していく。まあ、それが愛情というものなのかもしれない。
冷蔵庫を開けると、確かに昨夜の残りのご飯と、味噌汁がラップをかけて入っていた。でも俺は手をつけずに、そのまま野菜室を開ける。
「……卵が三個。長ねぎ、ほうれん草、あとはだし昆布か」
あと十分あれば、ちゃんとしたものが作れる。
俺は手早く動いた。鍋に水を張って昆布を入れて火にかけながら、ほうれん草を洗って切る。長ねぎは薄い輪切りにして、卵は碗の中で溶いておく。だし昆布が香りを立ち始めたら火を少し落として、ほうれん草を入れる。色が変わったら溶き卵をゆっくり回し入れて、ねぎを散らして、仕上げに薄口醤油を数滴。
五分もかからなかった。
お椀に盛って、冷蔵庫のご飯をレンジで温めて、テーブルに並べる。
一人の朝ごはんにしては少し手が込みすぎかもしれないが、これが俺のやり方だ。前世でも料理は好きだった。仕事終わりに一人で台所に立って、ちゃんとしたものを作って食べる——それが一番の息抜きだったから。
手を合わせる。
「いただきます」
一口食べる。
うん。良い出汁が出てる。 食べ終わって、食器を洗って、着替えを済ませた頃。
インターホンが鳴った。
時計を見ると七時二十分。俺は特に急ぎもせずに玄関へ向かって、鍵を開けた。
「おはよー悠太! ていうかちょっとちょっとちょっと、聞いてよ!」
そこに立っていたのは、波動ねじれだった。
彼女を見るたびに思うのは——「ああ、水色だな」ということだ。
腰まで伸びたロングヘアが、鮮やかな水色をしている。しかも名前の通り、毛先に向かって緩やかにねじれている。これが個性によるものなのか天然なのか、聞いたことがないが、彼女のトレードマークになっていることは間違いない。目元はぱっちりとして、表情がよく動く。今も目をまん丸にして、玄関先でいきなりまくし立て始めていた。
「聞いてってなんだ、おはようもないのか」
「あ、おはよう! でも聞いてよ! 昨日の夜、同じクラスの子からLINEが来てさ——」
「上がれ、立ち話も何だろ」
「悠太ん家に上がってもいいの?」
「うちのこと知らんのか、何年隣に住んでると思ってんだ」
「それもそうか! お邪魔します!」
ねじれはずんずんと台所まで上がり込んで、椅子を引いて座った。水色の髪が揺れる。俺は麦茶を出しながら「で?」と促した。
「クラスの子がさ、今度のヒーロー演習でペアを組みたいって言ってきたんだけど、私ってば断っちゃったんだよね。で、それが悪かったかなーって」
「断った理由は?」
「他に組みたい子がいたから」
「それを相手に伝えたか?」
「あー……伝えてない」
「じゃあそっちに連絡しろ。理由がわかれば向こうも納得しやすい」
「そっか! そうだよね!」と言いながら、ねじれはもう麦茶を飲み始めていた。早い。「悠太って相談しやすいよね。ズバッて言ってくれるから」
「そうか」
「そうだよ。学校の先生みたい」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてるよ! 本当に!」
ねじれはにこにこしながら麦茶のコップを両手で持った。彼女はこういう人間だ。さっきまでの「ちょっと聞いてよ」の焦りはどこへやら、今はすっかりくつろいでいる。感情の切り替えが早い。
雄英の二年生——と言われると、傍から見れば俺の姉ポジションのような関係だと思われるかもしれないが、実際はそうでもない。ねじれは確かに年上だが、むしろ俺の方が落ち着いて見えることの方が多くて、周りからは「なんで年下の方が頼れそうなんだ」と言われる関係性だ。当のねじれは「悠太が達観しすぎなんだよ」と言っていた。
「透はまだ来ないの?」
「今日は透も来るのか?」
「うん! 私が声かけたんだよね、三人で出かけようって。ほら今日、本屋に行こうって昨日言ってたじゃん」
「言ってたな」
「悠太、準備できてる?」
「今日の今声かけんな」
「えー! ごめんてー! でもほら、悠太なら五分で準備できるでしょ!」
「……できるけど」
「でしょ!」
俺は立ち上がりながら「コップ台所に置いといてくれ」と言い残して、階段を上がった。
着替えながら、俺は少し笑った。
こういうノリがねじれだ。
前世の俺は、こういう人間が苦手だった——というより、どう対処したらいいかわからなかった。テンポが速くて、話題が飛んで、感情がそのまま言葉になる。社会人の世界では疲れる相手の部類に入る。
でも今世では不思議と苦じゃない。
ねじれが「悪意なく喋っている」のが、すぐわかるからだと思う。計算も、裏もない。ただそのままの感情を、そのまま出している。それはある意味、一番楽な関係性だ。 準備を終えて階段を下りると、台所からねじれの声がした。
「あ! 悠太の作ったやつまだ残ってる! これ食べていい?」
「食い終わってたか?」
「うちで食べてきたけど、でも良い匂いがして……」
「一口だけな」
「やった!」
コップを洗って台所に戻ると、ねじれがお椀に顔を近づけて匂いを嗅いでいた。大げさな仕草で「いい匂いーー!」と言ってから、一口飲んで目を輝かせた。
「美味しい! 悠太って本当に料理上手だよね! うちのお母さんよりうまいかも」
「ねじれん家のお母さんに言うなよそれ」
「言わないよー! でも本当においしい。何入れたの?」
「昆布だし。ほうれん草と卵」
「それだけでこんなになるの??」
「だしの取り方次第でだいぶ変わる」
「教えて!」
「いつでも」
ねじれが「やった!」と声を上げたところで、玄関の呼び鈴が鳴った。「おはよーーっ! ふたりとも待たせてごめんね!」
葉隠透。
彼女のことを外から見た人間がいたとしたら——「制服を着た何かが走ってきた」という認識になると思う。なぜならば、透は見た目が完全に透明だからだ。
個性「透明化」。文字通り体が透明になる個性で、生まれたときから透明。だから見えているのは白い手袋と靴下と、今日は私服のジャケットとスカートだけ——それが走ってくる。
慣れている俺とねじれには普通の光景だ。ただしねじれは毎回「透ちゃーん!」と大声で迎えに行くから、外から見ると少し不思議な絵面になっている。
「透ちゃんおはよ! 待ってたよ!」
「ねじれ先輩もいたんだ! てか悠太、今日もなんか作ってる? めちゃくちゃ良い匂いがしてきたんだけど!」
「吸い物。食べるか?」
「食べたい!」
「今日は透の分はない。明日三人分作る」
「えーっ!」
「ねじれに一口取られたから足りない。恨むならねじれに言え」
「ねじれ先輩!!」
「ごめんって! 匂いが良すぎて! でも悠太が明日作ってくれるって言ってたから!」
「本当に? 悠太!」
「作る。明日の朝、ちゃんと三人分用意する」
「やった!」
透が手袋をぱちぱちと叩いた。拍手の代わりだ。俺は食器を片付けながら「七時半に来い」と言っておいた。 三人で家を出た。
五月の朝。日差しは強いが、風がある。透の空っぽのジャケットが少し揺れる。ねじれの水色の髪が風に流れて、朝の光を反射してきらきらと光った。
「今日、本屋どのくらい見る?」
透が聞いた。
「私は一時間くらい見たい!」とねじれ。
「俺はいつでもいい」
「じゃあ一時間ね! あ、そのあとどこか行く?」
「公園でいいんじゃないか」
「賛成! ねじれ先輩は?」
「私も賛成! ていうかさー、透ちゃん! 受験の話聞いてもいい? 雄英受けるって言ってたじゃん!」
透の声のトーンが少し変わった。
「……うん、受けるつもりで勉強してる」
「どう、手応えは?」
「うーん……わかんない。頑張ってるけど」
「大丈夫だよ! 透ちゃんなら絶対受かる! 個性も実力も十分だって!」
「ねじれ先輩……」
「雄英、楽しいよ! 入ったら絶対楽しい! 私が一年のとき教えてあげるし!」
ねじれが元気よく言った。俺は横で聞きながら、透の緊張感が少し和らいだのを感じ取った。
「悠太も雄英受けるんだよね?」
ねじれが俺に聞いてきた。
「ああ」
「だよねー! 悠太の個性なら絶対受かるじゃん! てか悠太が雄英来るって思ったら私テンション上がるんだけど!」
「まだ受かってないからな」
「受かるって! 絶対受かる!」
ねじれは確信めいた口調で言った。俺はその楽観的な断言が少しおかしくて、でも悪い気はしなかった。
「ねじれさんって雄英の何組なの?」
透が聞いた。
「A組! ヒーロー科!」
「強そう!」
「強いよー! クラスに面白い子がいっぱいいてさ、毎日楽しいんだよね。悠太も透ちゃんも来たら絶対楽しいって!」
ねじれが両手を広げながら言った。水色の髪がまた揺れる。
俺はその横顔を見ながら、少しだけ考えた。
雄英高校。
俺が選んだ進路は——正直なところ、最初からそこじゃなかった。
歌い手になりたいという夢は本物だ。音楽の専門科がある高校を受けることも考えた。でも、最終的に雄英を選んだ。
理由は一つじゃない。
ねじれがいること。透が受けること。それもある。
でも一番大きいのは——俺の個性が、雄英という環境でなければ正しく鍛えられないと、どこかで感じていることだ。
真数千手は、強大な個性だ。
俺がそれを制御できていると思っているのは、あくまで「今の俺のレベルで」という話に過ぎない。まだ見えていない可能性が、この個性にはある。それを引き出すためには、相応の環境が必要だと——本能的にそう感じる。
歌い手の夢は、変わらない。
でも今は、まず雄英に入ることを考える。
(ねじれが楽しいって言うなら、きっとそうなんだろうな)
俺は空を見上げながら思った。