彼女にしては非常に珍しい事だった。様々な出来事が幾つか重なり今の状況に陥ったのだ。
まず一つは前日に宴会をした事。次に、前日の宴会によって居候している知人がしばらく家を空けてしまったこと。そして何より致命的だったのは、家の中の食材が足りない事だった。
これらが重なった結果、彼女は死ぬほど激しい二日酔いを抱えながら村に下り、買い物をせざるを得なくなった。高低関わらずあらゆる音に対して共鳴するかのような頭痛と、焦点すら時折揺れる視界を押さえ込み、おぼつかない足で村の中を歩いて行く。
誰もが彼女の姿を見て心配そうに手を伸ばすが、しかしやはり近寄りたくないとその手を引っ込めてしまう。触らぬ神に祟りなし。君子危うきに近寄らず。誰もが
(……あぁ、後は大根ね。……安く売ってくれないかしら……交渉するのもありだけど……ぅ!?)
強烈な吐き気を覚えてるのとほぼ同時に、彼女の胃から何かが急激に込み上げる。うぷっ、と声を漏らし路地裏に駆け込んでからややもすると、何か液状のものが道の横の水路に落ちる音と、ツンとした臭いが路上まで流れ出た。
あぁ……。と誰もが惨状を頭に浮かべながら路地から離れて行く。
そんな中、一人の男がこともなさげな足取りで路地の中に歩んで行く。男は四つん這いになって嘔吐する彼女に近づき、丸まった背中をトントンと軽く叩いた。
……胃の内容物が全て出たようだ。
大分マシになった頭痛と吐き気を感じながら、背中を叩いてくれた人物に目を向ける。
彼女が彼を見たときの第一印象は、柄が悪そうという事だった。伸ばしっぱなしの無精髭は彼の人相を悪くし、三白眼気味の目は何かを鋭く睨みつけているかのようだった。加えて、手に持ったキセルと服まで染み込んだタバコの臭い。なんだか厭世的な空気すら感じる。カラカラと打ち鳴らす黒下駄は、どこか飄々と、浮世離れした印象を加えていた。
「えっと…ありがとう、かしら。手伝ってくれて…」
「……ふー」
ほとんど色のない煙を男は吐き出す。
「いや、困ったときはって奴ですよ。それより……その、少しばかり、臭いが……うがいでもされたらいかがですか……?」
タバコ臭いあんたに言われたくない。と睨みつけるが、男は真っ青な空を見上げて煙を吐き出していた。こんなにヤニ臭い男に臭いについて指摘されるのは若干癪だが、確かに口が気持ち悪いし昨夜の酒の残り香と混じって相当ひどい臭いだろう。何か、口をゆすぐ物は無いだろうか。
周りを見渡した彼女は、周囲を見渡して初めて自分に差し出された竹筒が目に付いた。差し出した主は当然件の男である。彼女は僅かにためらうが、男は特に何も考えていないように空をみつめていた。彼女は呟くように礼を言い、手から竹筒を受け取る。
竹筒の中の水で口をゆすぎ、スッキリとした様な顔で改めて彼女は男に向かい合う。
「はぁ、すっきりしたわ……。一宿一飯じゃないけど、さすがに何かお礼をしないわけにはいかないわね、何か私に頼みたい事とかある?」
「……え?あぁはは。いや、頼み事なんてそんな。いつもお忙しそうですし……何より懐がさみしいと良く話に聞きますのでお礼などはお気になさらず」
男の言葉に、少し眉間に皺を寄せてムッとしながら彼女は反論する。
「あら、私は別に村の人たちが言うほどお金がないわけじゃないわよ?時間も沢山あるんだから」
「なるほど。えーと……初対面の巫女さんにこんな生臭い話をするのも恐縮なんですが……実は私、村の高利貸しにそこそこ金を借りてまして。利息を今日中に払わないとならないんですが、大体これぐらい……」
酒と酸っぱい臭いのする彼女に身を寄せるようにして、顔の近くで数字を囁きながら手を広げておおよその額を伝える。
一瞬動揺したような表情を見せた後表情が硬直し、何かを思案するかのように瞳が上下左右へと揺れる。少しして、何かしらの結論へたどり着いたのか彼女は誇らしそうな表情をしながら口を開いたが、視界の端に映る地面へ置かれた彼女自身の手荷物を見た瞬間、また硬直して閉口してしまった。
男に目を合わせない様に彼女は震える声で言う。
「……ぉ、お金以外のことで頼むわ……!」
「あぁっ、なんかすみません!」
そうですねぇ、と左手はキセルを持ち右手は無精髭を撫でながら、男は口元を緩めて熟考を始めた。彼女は地面へと置いてしまった手荷物についた砂を払い、ふぅと一息ついた。
今の時刻は丁度昼頃。村人たちが人気のある飯屋に向かって連れ立って歩く姿が、男越しに見える。下駄のからころという軽快な音が、路地まで響いて来ていた。
……まだ胃がムカムカするのか、それとも先ほどの恥ずかしさが残っているのか、あるいは別の理由があるのか。ともかく彼女は若干苛立ったように組んだ腕の指をトントンと鳴らし始めた。
うぅん、と男は時折呻く。過ぎた時間に比例して彼女の苛立ちが募っていく。
数回ほどそれらを繰り返した時、我慢しきれずに彼女が声をだ──そうとしたまさにその時、男が膝を打った。
「あ!そうだ巫女さん……。って、どうしたんですそんな大口を開けて」
彼女が意見しようと開いた口が男の目にどう映ったか、それは聞くまでもなかった。男は少し申し訳なさそうに、しかしこらえきれないというような表情をしながら、噛み殺すようにくつくつと笑い声を立てた。
確かに間抜けな面をしているだろう。こんな表情を初対面の男にさらしていることに、さすがに恥ずかしさを覚えてしまう。
しばらくくつくつと笑ってから、男はハッとした。どうやらかなり遅れて彼女の心情を察したらしく、男は今更すぎる言葉たちを一応建前として並べることにした。
「あっ!?……は、はは、あいえいえ巫女さん、決してあなたの間抜けヅラ、あいや違くて。お顔を笑った訳ではなくてですね、ちょっと思い出し笑いをしたというか、なんといいますか、は、はは……」
全くもって反省しているようにしか見えない表情、言動だというのに、この的確な煽りはいったいどういうことだろうか?それほど頑丈でもない巫女の堪忍袋の緒はギチギチとはちきれそうになっていた。
半ば無意識的に懐に手を入れたところで、いや待てと彼女の理性が制止する。さすがに無辜の村人に、しかも介抱をしてくた人物に対してこの程度で声を荒げたり手を出すのは良識のある巫女としていかがなものだろうか?彼女は懐から手を抜いた。
……しかしその理性とやらは、苛立ちを完璧に抑え込むほど強力ではなく、また意味合いも感じていなかった。なので発散のため、彼女はドスの効いた声で端的に苛立ちを吐き出すだけにとどめておくことにした。
「あんた……祓うわよ」
「あぁ!!!!気に障ったのならすみません!!そんなつもりはなかったんです!!!!!」
ぺこぺことする男の後頭部を見ながら、しかし胸のつかえは全く取れない。
……やはり昨日のあの事が────
「あの……」
「……なによ」
すっかり不機嫌そうな彼女に対して、男は恐る恐る声を掛けた。
「先ほどのお礼の件なんですけど」
「……お金以外でお礼するって言った件のね」
「あ、そうですお金以外でお礼すると言っていたあの件なんですが……」
「少し、ついて来ていただけませんか?」
男が歩くままに、彼女は後を付いて歩く。異性と連れ立って歩く姿はどうも珍しいようで、周囲の奇異の目は、彼女、次に男へと向けられた。一方両者はその視線を一切気にする事はなく、淡々と歩を進めていた。
男が煙管をポンと手でたたいてガラを落とす。
目的地に着いたのか、足を止めた。
男の前には村の中で数軒もある食事処の看板と暖簾があった。
暖簾には、足立屋。引き戸の両隣には食事処と目立つように朱色で描かれたのぼりが立っている。
「えーと、なかなか悪くなさそうな店ね?……だけどさっきも言った通りあいにくとそれほど持ち合わせは……」
ばつの悪そうな表情で自分の腕を心もとなさげに抱く彼女を背に、男はガチャガチャと音を立てながら扉に触っている。男は先ほどまで持っていたはずのキセルを腰の帯に差し込み、無精髭に手をやりながら少し照れるように笑った。
「まぁ、奢っていただくというか……」
なにかを言いたげに頭を掻いた後、男は引き戸を開いた。
首を傾げて止まる彼女を見て、男も首を傾げる。
「あの、どうぞ……?」
「どうぞって……別にあんたの家の訳でもないんだから」
ぶつくさと文句を言いつつ、彼女は店の中に足を踏み入れた。店の中は昼飯刻にも関わらず客の姿は一人も見えない。御座敷を仕切るための障子が三つほどあり、他には木の机が四つと椅子がそれぞれ四つずつ置いてあった。壁の一つに大きな紫の布がかかっており、前にはカウンターと一際古びた椅子が四つ並んでいた。布の向こう側は不自然に明るく、どうも空間があるらしい。
「お好きな席にお座りください」
「……良いけど。ここって食事処よね。こんな時間なのになんで人が……」
後ろを振り向いた彼女は、その場面を見た。薄ら寒い笑みを浮かべた男が引き戸に鍵をかけるところだ。一秒にも満たない時間でピンと緊張の糸を張り詰めさせた彼女は、妙に据わった目で問いかける。
「あら、何のつもりかしら?」
「え?いや、えーと……他の方が入らないようにしたくて……?」
「そう」
懐に手を忍ばせ、彼女は彼女の武器たるものに手をかける。それを不思議そうに横目で見ながら、男は彼女の横を歩き抜ける。
ずるり、と肩口がずれるような錯覚を覚えた。
彼女の頭の上には今や疑問符がいっぱいだった。
「……あんた、一体何がしたいワケ?」
「あ、言ってませんでしたね、すみません。もちろんこんなところですることと言えば……」
男の声が次第に遠ざかっていく、店の勝手を知っているのか、迷う事なく奥へと進んでいるようだ。
遠くからかすかに聞こえる村人たちの話し声。隙間風の音。静寂。
次第に、誰もいない店内で一人警戒するのもバカバカしくなり、彼女はカウンターの椅子に腰掛ける。
……良い雰囲気だ。と彼女は感じた。
初めて来る場所なのに、なぜか懐かしいような気すらした。
里の端という立地もあり、ほとんど物音もしない。内装も落ち着いた風で、机や柱の木の匂いとそれに染み付いた料理の匂いから、店が長く続いている事が感じられる。明かり障子から差し込む暖かい光に、否が応にも気が緩む。
いつしか彼女の緊張は解れ、頬杖を机についていた。
……ただ、その表情は暗い。
気の抜けた姿勢とは裏腹に、口からはため息が漏れ出ていた。
ふと時間が生まれるとやはり頭の中には昨日のことが浮かんでしまう。気にするほどのことでもないことは自分が一番わかっているのに、頭から離れない。
──少しだけ、言いすぎたかもしれない、でもアレは……。
「大丈夫ですか?表情が暗いようですけど……」
「……へぇ」
男が声をかけたのは布の向こう側、厨房側からだった。布はいつの間にか捲り上げられ、カウンターになっている事がわかる。
だが、厨房の全容が見える事などより、彼女は男の変貌に少なからず驚いていた。
「あんた、料理人だったのね」
「えぇ、その通りです」
真っ白な割烹着を着た男の印象は先ほどとはまるで変わっていた。なぜ今に至るまで男が料理人かもしれないことに気づけなかったのかと今でこそ思うが、しかし背筋はピンと伸びたうえ、顔色まですっかり変わってしまっている。身にまとっていた濃いヤニの臭いすらさっぱり消えていた。目などもきりりとつり上がっていて別人のようだ。
その変貌ぶりは、普段他人の外見に対して興味のない彼女の目すらも強く惹きつけるほどだった。
じろじろと見られて気恥ずかしいのか、はにかみながら男が尋ねる。
「で、何を食べたいですか?」
「……へ?どういうこと?」
「えーと、【お礼】です。俺が料理をふるまうので、食べてほしいんです」
「……はぁ???」
あまりにも意味不明な言葉に、霊夢は今日一番というほど大口を開けて声を上げてしまった。
意味が分からない、なぜお礼をする側が食事をおごるのではなく、おごられる……いや、それどころか作ってもらうのか?
「いやあんた……はっ、まさか食事と酒に何か仕込んで私のことを狙おうってわけじゃないでしょうね!?」「狙うわけないじゃないですか!!?」
──静寂。
「……す、すごい反応速度ね……そこまで全力で否定されるとなんだか複雑な気分になるわ……」
「えぇ?えーと……すみません(?)……何か希望の料理とか種類がなければこちらが勝手に「肉」決め──え?」
「肉、それも脂たっぷりの奴頼むわ。いまだになんでお礼する側の私に料理を作るか意味わかんないけど……ともかくタダ飯にありつけるっていうなら遠慮する理由もないし、ご厚意に甘えるとしようかしら?」
「なるほど……承りました、肉、ですね」
途端に男の目つきが鋭くなる。
何か思案しているのか、十秒ほど小声でぶつぶつとつぶやきカウンターに対して背を向けた。
と、背を向けて十秒もしないうちに男は小鉢と一膳の木の箸を彼女の前に置いた。お通しだった。
「どうぞ、お通しです」
「あら、随分早い……わねぇ?」
彼女は、目の前の小鉢に目を落とす。
……正直、彼女はお通しと呼ばれるものを好ましく思っていない。なぜあれほどの量なのにわざわざ出すのか、なぜ大抵薄味なのか、そしてなぜ勝手に出してくるわりに別料金を取るのか。疑問は尽きない……
しかも、目の前にあるものの見た目といえばどうだろう。そのしなびた深緑の葉はとても人が食べるようなものとは思えず、加えて、その上に乗っている茶褐色の薄いものはなんなのだろうか。木の薄切り?表面を削ったもの?いや……以前知人のスキマおばけが何か言っていたものに似ている気もするが……
男と言葉を交わしながら小鉢を目視し、もう一度顔を上げるまで約三秒。
三秒で彼女の意思は確定していた。
「ねぇ、私、この野菜?が苦手、なんだけれど」
「……まさかとは思いますけど、見た目だけ見て、あ、無理、って突っぱねたりしませんよね。清貧を旨とする神社の巫女さんが、食卓に並べられた料理を前に……そんなことしませんよね」
顔すら上げず男はそう言った。とんとんと野菜らしきものを刻む音が静かに響く。
痛いところを突いてくる、と彼女は下唇を噛んだ。
生唾を飲み込み、意を決したように目の前の得体の知れない物を睨みつける。
右手の箸でその葉?の一部をつまんで持ち上げる。それからは何か黒い液体(香りからしておそらく醤油と思われるもの)が滴っているが、依然として不明なものの方が多い。主に食べる事になるであろう緑の葉も木のような茶色のものも一体何なのかが分からない。
勇気を出して、一気に口に運んだ。
そして何も考えずに噛む。噛む、噛む、噛む。
何度も必死に咀嚼したところで、彼女の口の動きは止まった。今度は味わうようにゆっくりと咀嚼する。
意外に美味しかった。なんの出汁を使っているかは知らないが、口の中に広がる正体不明の香りと、この緑の葉っぱのしんなりとした食感は嫌な感じではない。そして上に乗っていた木の皮を削いだような物も食感を引き立てる芳しい匂いを放出していた。
ふぅ、と一息吐き空っぽの小鉢の上に箸を置く。
と同時に、すでに若干満足な彼女の鼻腔をなんとも言えない匂いが満たした。思わず少し身を乗り出すと台所の中の様子が見える。火にかけられている浅い鍋と、垂直に付いた取手。鶏卵特有の香り……
「親子、丼……!?」
間違いない、これは親子丼に相違ない。
一度彼女の知人のスキマおばけに連れて行ってもらった店で食べたことがある。鶏の身と卵を使った筆舌に尽くしがたいほどに豪華な食事。一度食べて以来夢出てくることさえあった。そんな料理とこんな唐突に再会できるとは。
口の中いっぱいの唾液を、彼女は飲み込む。
ぐつぐつと煮える音がだんだんと小さくなっていく……盛り付けの準備をしているのだろうか?
──ふと、違和感が彼女の脳裏をよぎる。
……小鉢は……小鉢の料理を食べるのに一分もかからない、と思う……それなのに親子丼が完成するものなのだろうか?仕込みをしていたとしても煮込む時間は間違いなくもっと必要なはず。いや、親子丼どころか炊き立てのご飯の匂いまでする……
おかしい……なんだか調理の時間が異様に短いような……?
──などという、そんな違和感は。黄金色に輝く親子丼が音を立てて目の前に置かれた瞬間彼女の脳裏から吹き飛んだ。暴力的、あるいは殺人的、官能的にさえ感じる濃厚な肉と卵の匂いは、他事に脳の容量を割くことを決して許さなかった。
「おまたせしました~」
どこか気怠そうな声も、少し困ったような表情も最早眼中にない。
彼女の聴覚は遮断され、視覚は丼に、嗅覚は肉と卵に、触覚は箸と器に。味覚は自らの力を発揮する時を、今か今かと待っている。
震える左手で丼を引き寄せながら、彼女は右手を大きく上げた。
肉から食べるか
ご飯と一緒にかき込んで食べるか
卵と一緒に食べるか
上の三つ葉は退かすか
玉ねぎだけ食べるか
全部一緒に食べるか
冷めるまで待つか
丁寧に食べるべきなのか
あ゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!
勢いよく振り下ろされた箸は、当然ながら勢い良く丼のご飯に深々と突き刺さり、玉ねぎとご飯と鶏肉を同時に口の中へかき入れた。
興奮して貧乏ゆすりのようになってしまっている左脚とは裏腹に、脳は正確に味を分析していた。
炊いてから少し蒸らされたであろう米が親子丼の汁と実に巧妙に絡んでいる。米一粒一粒を選別しているかのように、白米の中に多すぎず、かと言って少なすぎない程度に染み込んでいる。決して濃くはないはずの鶏の脂のうま味が米を噛むごとに際立ち、箸を加速させる。はっきり言ってしまうとこのご飯だけで一つの料理として成り立ちそうな完成度だ。
上に載っている玉ねぎ。以前食べた店ではしんなりとしていた(それも嫌いではない)が、これは打って変わってシャキシャキとしている。それでいて玉ねぎの甘みがしっかりと出ていて、爽やかな甘さが出汁と混ざりあって無限に食べられるのではないかと錯覚しそうになる。
さらにこれらを包む卵は玉ねぎより多くの出汁を含んでおり、ざっくばらんに混ぜられているため(敢えてだろうか?)時折出汁の多いところがあるが、それを噛んだ瞬間ジュワっと口の中いっぱいに広がる出汁には信じられないほどの幸福感を覚えた。
そして鶏肉は……!
筆舌に尽くしがたい………!強いていうならとても柔らかく、味も深く染み込んでいる。それでいて瑞々しさは一切損なっていない、信じられないことに、全く乾燥していたり煮過ぎて硬くなった部分がないのだ!(どう作ればこうなるのか?)。鶏肉に染み込んだ味付け出汁も肉本来の味を塗り潰すようなものではなく、むしろ鶏肉の香りを強く感じる。だというのに肉の味を際立たせ、食欲を増進させる香ばしさも同時に現れては消え、決して飽きることがない。醤油、みりんを土台にしたことはわかるがほかにどんな香味を使ったかなんて、見当もつかない。
鶏肉自体が最初からこんな味だったのかもしれないと思わせるまでに自然な味わい……!それに、それに……
……違う。
どれだけ美辞麗句を並べ立てても意味はない。
だって、これはたった一言で済むものなのだから。
「おいしいじゃない……」
彼女がようやくそう言ったのは、無言で親子丼を完食して椅子の背もたれに背中を付けてからだった。
額に浮かべた汗と頬についた二三の米粒が、いかに勢いよく食べていたかを物語っている。ぐったりとしているが表情は柔らかで、文字通り、余すとこなく満ち足りているようだった。
彼女の眼の前に、ちょうど良く湯飲みが置かれた。いつ着替えたのか、男はタバコの匂いのする服で彼女の隣に立っていた。彼女は男の存在を思い出し、少しだけ凛とした表情を取り繕う。コロリと変わった表情に男は曖昧な笑顔を浮かべた。
「……ご満足いただけました?」
「……えぇ、その、かなり美味しかったわ……」
そういう彼女の表情はどこか暗かった。
男は不安そうな表情を浮かべる。
「まさか……お口に合いませんでしたか……?」
「あ、いや、そうじゃなくて……やっぱり持ち合わせ、ないん、だけど……」
余りに縮こまって言葉を紡ぐその姿が面白かったのか、吹き出しながら男は言う。
「あはは!いやいやいや!私が食べて欲しくて食べていただいただけですから!!むしろ食べていただけただけで私は「ダメよ!!!」満足……え?」
突然声を荒げた彼女を驚いたように男は見つめる。
「はっきり言って……一口食べた瞬間にわかったわ。こんな……完璧な料理初めてよ。まるで【この世に存在しない】んじゃないかってぐらいの美味しさだった。私だってある程度自炊をするからわかるわ、一朝一夕で絶っっっっ対に辿り着ける味じゃない、というかこんな料理作れるのあんただけよ、間違いないわ」
スッと一呼吸する。
「大げさかもしれないけど、これは絵画や彫刻と同じぐらい、芸術みたいに私は感じたの。煮込む時間が一秒……ううん、一瞬長かったり、たった一分(※約3.03ミリメートル)食材を長く切ったりしただけですべて崩れるような、そんな感じ……こんなものを前に何のお返しもしないのはさすがに私の名が廃るわ」
キッと男を見つめる目は強い意志があり、是が非でも何か返そうという意思を感じる。
ポリポリと頭を掻きながら、困ったような表情を男は浮かべながらつぶやいた。
「なるほど……あの人が言ってたのはこういうことか……?」
「さぁ!なんでも言いなさい。私の名前に懸けて、出来ることはなんでもするわ」
なるほど。と改めて男は思いながら、こうなったときどうするべきか【彼女】から言われていたことをそのまま目の前の巫女に言うことにした。
「……ではその、最近身近であった困ったことなどお話いただけますか?……いや、困ったことというか、悩んでいること、ですかね。その……表情がお辛そうですので。お話しするだけでも気持ちが楽になるんじゃないかと」
「な!?そんなことでお礼に……!」
「なりますとも。巫女さんとお話する機会だって普通はほとんどないじゃないですか?普段通り料理を作るだけで素敵な巫女さんのお悩み相談に乗れるなんて、料理人冥利に尽きることだと思いませんか?」
ねぇ?と男は同意を求めてくる。
ふぅ、と彼女はため息を吐いた。
なんとなく釈然としない。
……そもそもそれほど自分は顔に出やすかっただろうか?
いや、そんな事は余り他人に言われた覚えがない。なら、ただ目の前の男が鋭いだけなのかもしれない、確かに最初から、なんとなくそんな感じはしていた。
「……わかったわ」
これが本当にお礼になるのなら、と、彼女は、とつとつと語りだす。
「あれはね……、つい昨日の宴会、あんたも知ってるでしょ?」
「……まぁ、はい。妖怪と人間の入り混じる宴会なんてそうそうあることじゃないですから」
「そう。でね、その宴会で、私の……、ともだち、かしら。まぁ、そんな奴と口喧嘩をしちゃったの。
きっかけは大したことじゃないわ。つまみの一つをとったとかどうとか。理由も思い出せないくらいつまらないものよ。
で、私が少し意地の悪いことを言っちゃってね、内容は流石に言えないんだけど……、売り言葉に買い言葉、向こうも言葉を返して、それで収まりのつかないまんま。結局は喧嘩別れみたいになっちゃったの」
男は何も言わない。キセルを噴かし、自分が聞いたくせに、自分には全く関係ないとでも言いたげに外を眺めていた。
つられ、窓を見遣る。
日は山に沈み夜の帳が降り始めていた。まるで別れを惜しむかのように、山上から僅かに漏れ出た日の光が、赤みがかった濃い橙色のそれが、壁を赤く染め上げる。男の吐き出した煙も、巫女も、偏に赤く色づいていく。
──ここに入った時は日が真上に昇ったばかりだというのに、何故だろうか。やはり時間が過ぎるのが早い。
さっきもそうだった。料理が出るのがやけに早すぎた気がする、小鉢を食べるのに二分とかからない。
気のせいではない、なんだか、時間の感覚が――
「ね、あんた――」
そこには、果たして。
彼女の立つ場所は、人の行き交う道のど真ん中だった。立ち止まっているのは彼女だけだった。
煌々と照る街灯と、そこらの食事処から漏れる淡い光と雑踏。人々の出す音が、静寂を埋めるかのように彼女の耳になだれ込む。
呆然と立ち尽くす彼女は、ふと手元を見る。小さな四角い箱。顔に近づけて匂いを嗅ぐと淡い香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
小さな包みと満腹感だけが、彼女の味わった幻影を肯定していた。
静かに息を吐く。
彼女はすっかり暗くなった空を見上げると、足を一歩踏み出した――
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「………なぁ、いるかぁ?いないなら返事をしなくていいぞー……?」
寂れた神社に一人の少女が立っていた。白黒の
少女の問いかけに答えるものはいない。
「………んだよ、骨折り損かぁ?」
「そんなに苦労して、ここまで来てないでしょ」
「お゛っ!?おっ、お、おー、久しぶり」
「二日ぶりよ」
「あー、だな……」
「……」
「……」
「……あー、その。じゃ!私はこの辺で」
「……えぇ」
「……」
「……」
少女は神社に背を向ける。
箒を持つ手には、明らかに過分に力が入っている。
少女はうつむいている。
表情は暗い。何か言いたげに口を開いては、再び閉じる。
少女の箒に魔力が籠っていく。
うつむいたまま、ふと、視界の端にあの包みが見えた。
いまだに鼻に残る香り。
舌に残っている味。
──いいんですかこのままで?
「……いいわけないわよ」
意を決したように、彼女は一つ大きく息を吸った。
「ねぇ!!!!!」
「へわぁ!!??なに!?びっくりしたぁ!!」
バクバクと鳴る心臓を抑えながら振り返る少女を見て、くつくつと彼女は笑う。
「ふふ……ねぇ、いいお茶菓子があるの、上がっていったらどうかしら」
それはあまりに魅力的な提案。
あっけにとられたような表情を少ししてから、帽子をグイっと引っ張り目元を隠す。
「いいのか?」
「もちろんいいわよ。それとも……なにか困ることでもあるのかしら?」
「困ること……?困るだって……?」
目元を隠しながら、ふっふっふと少女は不敵に笑った。
「困るのは……私に全部のお菓子を食い尽くされるお前だーーーー!!」
鋭い犬歯を光らせながら、白黒の彼女は満面の笑みを浮かべて障子の向こうへと飛び込んでいった。