ダンジョンにはTSがつきもの 〜TS転生した怪物は自分への愛が強すぎる〜   作:炭水化物は飲み物

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道化師

「人に値札を貼る者は、まず自分の顔を鏡に映さない。

 そこに人間が映ってしまえば、商売ができなくなるからだ」

 

 

 ──匿名報告書『白札市場に関する未確認記録』より

 

 

 ◇

 

 

 空気が爆ぜるような金属音が、夕暮れの公園に鳴り響いていた。

 

 白咲の刃が閃くたび、紅昏の光景に鋭い白い線が刻まれていく。ここは一切の容赦なく、ただ殺意のままに得物を振るっていた。

 

 対する紫の道化──橘シオンは、自身のユニークスキル『道化』の本命をまだ切っていなかった。

 

 

 ──『道化《クラウン》』。

 自身を中心とした半径二十メートル以内を絶対領域とし、その境界線内部における「武器生成」「対象への変身」「対象の記憶投影」の三権を完全に掌握する欺瞞のユニークスキル。

 

 領域内であれば、いかなる高位の魔道武具であれ一瞬で複製・具現化し、他者の姿はおろかその内面に至るまでを完璧に模倣・偽装する。多角的な戦術展開を一人で完結させるその固有能力こそが、彼女を国際探索者管理協会の「上位調査官」という超エリートの座に押し上げた最大の要因であった。

 

 唯一のデメリットとしては、相手の姿に偽造しても、本人の鍛え上げたスキル、ユニークスキル等は使用できないこと。

 

 シオンはここに対して、半径二十メートル以内の武器生成も、幻惑の位置ずらしも使わない。純粋な魔力操作と、基礎的な通常魔法、臨機応変な身体能力だけで、ここを迎え撃っていた。

 

 地を滑るようなステップ。最低限の身のこなし。

 

 シオンは近接主体の探索者ではない。本来はスピードと得意の妨害、惑わせ、誘惑、錯乱といった搦め手による支援を得意とするタイプだ。それでも彼女が引かないのは、Aランク探索者として培った、絶対的な自負があるからだった。

 

 格上が相手であっても、いなして逃亡するための訓練をシオンは嫌というほど積んでいる。並のC級やB級探索者が相手なら、固有スキルに頼らずとも余裕で切り抜けられる自信があった。

 

 だからこそ、目の前の白髪の少女が繰り出す猛攻に、シオンの計算は狂い始めていた。

 

 

 ──怒り心頭の割に、真面目に戦況を読んで戦ってるね、この子。

 

 

 シオンは内心で舌を巻いた。

 

 ただ怒りに任せて武器を振り回しているのではない。ここはシオンの動きを、その戦況を正確に読み、こちらの回避先を潰すように刃を置いていた。

 

 シオンはここを一人の人間──それも『A寄りのBランク探索者』として完全に認識を改めていた。情報資料にあった『ただの人気者のC級ソロ剣士』などという枠組みは、とうに吹き飛んでいる。

 

 なにより、恐ろしいのはその『戦いの才能』そのものだった。

 

 ここが攻撃を仕掛ける一瞬の『動作』。次になにをしてくるのかを完全に隠蔽するフェイントの『俊敏さ』。

 

 そこから突きつけられる重圧は、並の強者のそれではない。

 

 

 ──火力だけならAの上澄み、他はBクラスでも違和感ないレベルじゃん。

 

 

 肌がピリピリと粟立つ。笑うための唇の端が、引きつりそうになる。このまま通常戦闘の泥仕合を続ければ、どこかで致命的な一撃を貰いかねない。このガチすぎる情緒の怪物との戦いを早々に終わらせるため、シオンの脳細胞が高速で別の策を弾き出した。

 

 道化の表情が、一気に嫌らしく歪む。

 

 

「ん〜、やっぱり本物は怖いねぇ! じゃあ、これはどうかなぁ!?」

 

 

 シオンの身体が、一瞬で引き絞られるように縮んだ。

 

 紫の長い髪が黒く染まり、百八十センチを超えていた長身が、一気に百四十八センチの小柄な体躯へと変貌する。

 

 

「っ!?」

 

 

 衣服すらも、黒地に赤の差した見覚えのある姿へ。

 

 鏡写しの『クロエ』が、そこに立っていた。

 

 突如として現れたもう一人の自分に対し、本物のクロエはベンチの残骸に座ったまま、生カヌレをモグモグと咀嚼していた。

 

 じっと、自分と同じ顔をしたシオンを見つめる。

 

 ……ふぅん。

 

 外見に関してはケチのつけようがない。何しろ俺だからな。どこからどう見てもトリプル役満の可愛さだ。

 

 だが、致命的に気持ち悪い。

 

 中身が、ネオン街の路地裏に廃棄されていたどうしようもないカスのジャンク品だ。ガワが完璧な奇跡である分、そこから滲み出る魂の格の安っぽさが際立って、生理的な嫌悪感が湧いてくる。

 

 だが、シオンの目的はクロエを不快にさせることではなかった。

 

 

「ねぇ、クロエちゃん……自分で自分に触られるのって、どんな気分? ♡」

 

 

 偽物のクロエが、ねっとりとした甘い声で囁きながら、本物のクロエの胸元に両手を回した。

 

 小柄な身体同士がぴったりと密着する。傍から見れば、全く同じ二人の美少女が、互いの体温を分け合うようにして頬を寄せ合っている光景だった。

 

 偽物のクロエは、本物のクロエの顎を細い指先でクイと持ち上げ、きざな笑みを浮かべて自身の唇を近づけていく。

 

 

「ふぅん。確かに、悪くないな……」

 

 

 クロエはされるがままになりながら、目の前の『自分』をうっとりと眺めた。

 

 中身がカスだろうと、世界で一番可愛い俺の顔が、俺を求めて淫らに乱れている光景は極上の癒やしだ。俺の魅せ方だけは、このクソピエロもよく分かっている。

 

 だが、その光景を完全に正面から見せつけられたここは、脳の処理能力が完全に限界を迎えていた。

 

 

 ──な、何してるのあのクソピエロォォォォォォ!! 

 

 

 ここの内心が、狂乱の絶叫を上げる。

 

 自分の顔を使われた時ですら殺意の波動が止まらなかったのに、今度はクロエさんの姿になって、クロエさんの顎をクイってした。胸に抱きついてお互いの髪を弄り合っている。

 

 自分の顔で自分を口説いている。何これ新手の超高度な自慰行為。

 

 っていうかクロエさん、あっさり受け入れないで。さっきのわたしの顔の時はあんなに淡々としていたのに、自分の顔になった瞬間されるがままになってちょっと嬉しそうに目を細めるな。いくらクロエさんが自己愛の怪物だからってそれは人類には早すぎる。

 

 あ、偽物クロエがクロエさんの首筋に顔を埋めて、わざとらしく熱い吐息を吹きかけました。

 

 そこは。そこはいつかわたしが、命を賭けてダンジョンを百回くらい制覇して、クロエさんに『そこまで言うなら、ま、お前になら資材として管理されてやってもいいか』って言わせてから触るはずの聖域なのに。

 

 自分の顔をしたクソピエロに初体験を先越されるとかどんなバグ。脳細胞がトップギアで消滅していく。悔しい。羨ましい。わたしもクロエさんの首筋に顔を埋めてスーハースーハーしたい。いやそれ以上にあのクソピエロが憎いいいいいい。

 

 白咲を握るここの手が、ガタガタと激しく痙攣していた。灰青の瞳から完全にハイライトが消え失せ、どす黒い深淵のような怨念がどろどろと沸騰していく。

 

 

「殺す……絶対に殺す、そのクソふざけた頭を地球の裏側まで消し飛ばしてやるからそこに直れクソピエロぉぉぉぉぉぉ!!」

 

 

 ここが完全に頭のネジを飛ばして踏み込もうとした、その瞬間だった。

 

 

「ただ」

 

 

 本物のクロエが、短く言葉を添えた。

 

 偽物のクロエの耳元に熱い吐息を吹きかけられ、顎を弄らせていた少女の腕が、吸い込まれるように滑らかな動作で動く。

 

 偽物の腹部へ、吸い付くように配置された掌。

 

 ドン、と。

 

 音が遅れて響いた。公園の空気が一瞬だけ真空になったかのような、奇妙な錯覚。

 

 シオンは一応、この謎多き『クロエ』のレベル帯を計るため、あえて自分から攻撃を誘うような動作をしてそれを受けていた。どれほどの威力であろうとも、いなせる自信があったし、耐えられる算段があった。

 

 だが、その傲慢は肉体ごと粉砕された。

 

 

「ごふっ……!?」

「おいおい、俺の顔でダメージ受けんなよ、気持ちわりぃ」

 

 

 シオンの口から、大量の鮮血が噴き出す。

 

 内臓を丸ごと握り潰されたような、圧倒的な衝撃。衝撃波が背中から突き抜け、着ていたゴシック調の衣服が爆散した。クロエの変装が強制的に解除され、百八十センチの本来の姿へと引き戻されながら、シオンは地面へと激しく叩きつけられる。

 

 血反吐をぶちまけ、四つん這いになって激しく咳き込む。

 

 視界が明滅していた。痛みが遅れて脳髄を焼き、全身の筋肉が拒絶反応を起こして震える。

 

 

 ──マジかよ……っ。

 

 

 シオンは生まれて初めて、心の底から凍りついていた。

 

 

 ──特級クラスの攻撃でも、六割ぐらいはダメージを防げるはずの最高級の魔道武具を仕込んでおいてこれ……!? 防壁ごと、生身の肉体まで持っていかれそうになったんだけど……!! 

 

 

 血の味の奥で、口の端が勝手に持ち上がりかけた。

 

 シオンはそれを、血を拭うふりをして直した。

 

 ボタボタと顎から血を滴らせながら、シオンは自分の認識を完全に、丁寧にではなく、決定的に修正した。

 

 こいつは、ただの『特級相当』なんて可愛いものじゃない。世界の天井に位置する『特級のトップ』だ。もしも本気でこの化け物と敵対すれば、確実に個人で軍隊を、いや──世界との戦争に発展できる。そんな、歩く戦略兵器だ。

 

 ガタガタと震える手で地面を押し、シオンは必死に回復魔法を回して、腹部の治療を進めようとした。

 

 だが、その視界に黒い靴先が映る。

 

 下を向いていたシオンの顎に、クロエの右足の先が、無造作に当てられた。

 

 そのまま、くい、と。

 

 上を向かせるように、足先で顎を持ち上げられる。

 

 シオンの顔が上を向く。

 

 見下ろしていたのは、底のない黒い瞳だった。身長百四十八センチの、自分より遥かに小さな少女。なのに、そこから見下ろされる感覚は、高層ビルの屋上から地面を覗き込むような、圧倒的な高低差があった。

 

 刀を構えたまま硬直していたここは、その光景を見て、最初にこう思った。

 

 

 ──まるで、下僕と上位者。

 

 

 そう表現するほかないほどの、絶対的な強さ。触れることすら許されない格の差が、夕暮れの公園に、残酷なまでの絵画として完成していた。

 

 クロエは足先にシオンの顎を乗せたまま、ダウナーな声で告げる。

 

 

「ふぅん。案外、動きは悪くなかったな。おもちゃとしては上等だ。ここの壁にもちょうどいい」

 

 

 前世の冷酷な倫理観が、クロエの頭を占める。

 

 奪い合いの世界で生きてきた。気に入った資材、使えそうな人間は、絶対に逃がさない。誰にも盗られないよう、徹底的に手元で管理する。それが、()()と呼ばれた者の論理。

 

 

「お前、今日から俺の家に住め。面白そうだし」

 

 

 至極当然のように、クロエはシオンの所有権を主張した。

 

 

「……はぁぁぁ?!?!」

 

 

 真っ先に叫んだのは、ここだった。驚愕を通り越して、完全に思考が宇宙へ飛び去ったスペースキャットのような表情を浮かべている。

 

 また、増えた。同居人が増えた。しかもあのクソピエロ。なんで。どうしてそうなるの。

 

 一方、足先で顎を持ち上げられていたシオンは、さすがの道化の仮面が一瞬で剥ぎ取られていた。演技でも、惑わせでもない、本心からの驚愕。

 

 

「……はへぇ??」

 

 

 間抜けな声が、シオンの口から漏れる。

 

 それを見たクロエは、ふっと口の端を吊り上げた。

 

 

「へぇ。それがお前の『顔』か」

 

 

 シオンはとっさに、自分の頬へ指をやった。

 

 いま自分がどんな顔をしているのか、分からなかったからだ。

 

 

「……や、やだなぁ。素顔はもっと美人だよ?」

 

 

 ジョークが、半拍遅れた。

 

 常に道化を演じ、誰かを煙に巻いてきた女。だが、その驚愕の表情を見た瞬間、クロエは脳内で一つの結論を下していた。

 

 コイツ、道化の顔と本心からの顔の区別がつかなくなっている『半端もの』だな、と。

 

 もちろん、そんな内心の分析を口に出すほど、クロエは親切ではない。ただ、新しい玩具の歪な構造を、面白そうに眺めるだけだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 それから数時間後。

 

 

 東京中央ダンジョン直下、国際探索者管理協会日本支部。

 

 重苦しい空気が漂う上司の執務室のデスク前で、橘シオンは、いつも通り派手な道化の三角帽をくるくると回しながら、軽い調子で口を開いた。

 

 

「……で、そこからなんか色々とあって、対象と同棲することになりましたぁ☆」

 

 

 胸元の上位調査官バッジをいじりながら、ピースサインを作ってみせる。

 

 報告を受けた上司──ギルド本部の女は、手に持っていたペンを握ったまま、完全に停止していた。

 

 耳に入ってきた日本語の単語は理解できる。だが、それが構成する文脈が、彼女の脳内にある人類の常識とミリメートルも噛み合わなかった。

 

 女は、純粋極まりない、カサカサに乾いた声で呟いた。

 

 

「なんでぇ?????」

「いやぁ、ボクもよくわかんないんだけどさぁ」

 

 

 シオンは上司の困惑を浴びながら、へらへらと緊張感のない笑みを浮かべた。

 

 

「なんかめちゃくちゃ気に入られちゃって、そのまま徹底的に管理されちゃった☆」

「か、管理……?」

「そうそう。あ、それからついでに報告ね。命じられてた黒羊会の件だけど、現地で色々と話し合ってきちゃった。向こうに普通に話しちゃったうえで、ボクが一緒に暮らす感じになったから」

 

 

 上司は眉間を深く揉みほぐし、手元の端末を乱暴に叩いた。

 

 

「……で、そっちはいいわ。もう一つの最重要任務、対象の出自調査の件はどうなったの。それだけの接点を作っておいて、まさか手ぶらじゃないでしょうね。成果は?」

「成果はねぇ──白紙!」

 

 

 シオンは胸を張って、満面の笑顔で親指を立てた。

 

 上司の女は一瞬だけ、本当に自分の耳を疑った。

 

 

「は……? 白紙って、あなた何日あの子の横にいたのよ」

「いやぁ、自分を調査するって言ってきた組織の人間を、そのまま自分の家に住まわせるって、あの子ぶっ飛び過ぎじゃない???」

「殴られ……!? 戦闘になったら即時撤退と言ったわよね!?」

「撤退する前に同棲が決まっちゃって☆」

 

 

 あまりにもふざけきった部下の言葉に、上司は持っていたペンをデスクに叩きつけようとして──思い留まり、恐る恐る次の質問を口にした。

 

 

「……対象の能力面は? 何か掴めたの。あの力のコントロールや、ユニークスキルの詳細、あるいは精神的な傾向、何でもいいわ。まさかそれすら白紙だなんて言わないでしょうね」

 

 

 その言葉が室内に落ちた瞬間。

 

 シオンの指先が、いたずらっぽく回していた道化の帽子のつばで、ぴたりと、一度だけ止まった。

 

 脳裏を過るのは、あの公園の底知れない闇。自分の腹部を消し飛ばしかけた、圧倒的な『特級トップ』の一撃。属性も深度も、協会の知るどの魔力とも噛み合わない、正体不明のエネルギーの残滓。

 

 あれは、協会のシステムが決めた『特級』などという枠組みでは、とうに収まらない禁忌の領域だ。

 

 シオンは帽子の影で、細く、三日月のように目を細めた。

 

 

「……『可愛い』って書いといて」

 

 

 へらへらとした、いつもの道化の笑顔。

 

 上司の女は、はぁ、と深い、魂の抜けるようなため息を吐くと、手元の電子調書の画面へ視線を戻した。彼女の握るペン先は、対象クロエに関する『特記事項』の欄を、何も書き込むことなくそのまま素通りしていく。

 

 

「対象の人物像について、何か」

「カヌレは底のカリカリした部分から食べる」

「…………それ、報告書に要るの?」

「要るよぉ。大事大事」

「どうやって監査の人間に説明すんのよぉぉぉ……。特級超過疑いの監視任務が、ただの引っ越し同居報告になるとか、報告書の書き直しだけで私の命が尽きるわ……」

「んじゃ、そゆことだから! ボクの私物とか、そのうちクロエちゃんの家に発送よろ~」

 

 

 シオンはひらひらと片手を振りながら、早々に執務室を立ち去ろうと扉に手をかける。

 

 

「……あなた、ずいぶん楽しそうね」

 

 

 背後から届いた上司の、酷く乾いた、けれど本質を名指しするような声。

 

 シオンの手が、自分の頬に触れた。

 

 

「そんな顔してた?」

「鏡を見てから言いなさい。いつもの営業スマイルが破けてるわよ」

「あはは、お肌の曲がり角かなぁ☆」

 

 

 シオンは振り返ることなく、執務室を後にした。

 

 ガチャリと扉が閉まり、静寂が戻った室内に、ただ一人取り残された女。

 

 彼女はゆっくりと顔を上げ、机の上の胃薬の瓶を見つめた。

 

 

「……とりあえず、寝よ」

 

 

 すべてを諦めた社畜の呟きが、灰色の壁に虚しく消えた。

 

 

 ◇

 

 

 数時間前、夕暮れの公園。

 

 わたしは、完全にフリーズしていた。驚愕の許容量をとうに超えて、脳の処理チップが完全に焼き切れている。クロエさんは足先をシオンの顎から無造作に外すと、生カヌレを、何事もなかったかのように口へ放り込んでいた。

 

 シオンはぜぇぜぇと血混じりの荒い息を吐きながら、ボロボロになった服の破れを不器用に直している。

 

 かと思えば、懐からくしゃくしゃになった手帳とボールペンを取り出すと、何故かわたしの顔をじっと見つめてきた。妙にビジネスライクな手つきだ。

 

 

「えーっと、それじゃあ同居の手続きの前にさ。一応、ボクも上位調査官としての仕事の形だけでも作らなきゃいけないわけ。クロエちゃんの出自調査ってやつ? ちょっと簡単な質問に答えてもらえるかなぁ」

 

 

 シオンはボールペンをカチカチと鳴らしながら、クロエさんに視線を投げた。

 

 

「出身は?」

「忘れた」

 

 

 クロエさんは即答した。

 

 

「なるほどねぇ。お歳は?」

「数えるのをやめた」

「ほぉほぉ。ご家族は?」

「いたかもな」

「…………」

 

 

 シオンの手がぴたりと止まる。彼女は手帳の真っ白なページと、クロエさんの底のない黒い瞳を交互に見比べた。

 

 

「……調書、白紙なんだけど」

「ふぅん」

「うへぇ……」

 

 

 クロエさんはひどくつまらなそうに鼻を鳴らした。最初からまともに答える気など微塵もない、完全な門前払い。シオンは深くため息を吐くと、手帳をポケットへ放り込み、古いベンチの残骸へ腰を掛け直した。

 

 その瞳には、おチャラけたメスガキではなく、冷徹な『協会上位調査官』の本物の光が戻っている。

 

 シオンは帽子を目深にかぶり直し、視線をこちらへと向けてくる。

 

 

「……はぁ、マジで死ぬかと思った。笑えない冗談だよ、クロエちゃん」

 

 

 血を袖で拭い、シオンはわたしを見た。

 

 

「──で、ここちゃん。ボクが今日ここに来たのは、ただの嫌がらせじゃないんだよね。本題を言おうか。君、都市伝説の『白札』って聞いたことある?」

 

 

 白札。

 

 その単語が出た瞬間、空気の密度がわずかに変わったような気がした。配信のコメント欄や、探索者たちの噂話の端っこで、時折見かける不穏な陰謀論。人間が魔石より高く売られているだとか、登録前の適性者が神隠しに遭うだとかいう、質の悪いオカルトだ。

 

 

「君さ、C級で登録者百万人を超えてるでしょ? しかもユニークスキル持ち。おまけに、あの測定不能の特級案件、クロエちゃんの真横にいる唯一の人間。……この世界にいる、値札を貼りたがる連中にとっては、ちょっと眩しすぎるんだよ」

 

 

 シオンの長い指先が、自分のバッジの縁をなぞる。

 

 

「政府、協会、ギルドの上層部。連中は、君を直接拉致して売り飛ばすような馬鹿な真似はしないよ、そのへんは狡猾だからね……だから、もっと別の方法を使うんだ」

「専属の高額スポンサー契約。最先端の治療研究への協力要請。あるいは、若手探索者への特別な育成・保護プログラム。……断れないような大金と誘惑の書類で餌巻きで補足。そこから上手いこと言って、外に出られない檻に囲い込む。君を『媒介』にしてクロエちゃんを誘導し、観測し、コントロールするための最重要接点を手に入れるためにね。裏じゃ、情報はすぐに広まるからね」

 

 

 シオンの言葉が、わたしの鼓膜を冷たく擦る。

 

 自分が、知らないうちにそんな巨大な闇の標的にされているなんて、実感が湧かない。背筋に冷たい汗が伝わり、喉の奥がカラカラに乾いていく。

 

 

「この世界は君が思っているほど綺麗じゃないんだ。魔石より人間の方が高く売れることもある。──真偽不明の噂だけどね」

 

 

 シオンはいつものように、おどけた顔で肩をすくめて見せた。

 

 だが、その目の奥は一切笑っていない。

 

 わたしは息を呑み、思わず隣に立つ少女を見やった。クロエさんはカヌレの最後のひとかけらを口の中で転がし、ゆっくりと咀嚼し、飲み込んでから、ひどく淡白に、退屈そうに口を開いた。

 

 

「で? だからなに?」

 

 

 あまりにも他人事のような、地を走るようなダウナーな声だった。

 

 

「人間が売れるのは普通だろ。問題は値段じゃない。買ったあと、ちゃんと管理できるかだ」

 

 

 クロエさんは自分の黒に赤の混ざった髪の毛先を指先で弄りながら、実験動物のスペックでも眺めるような平然とした口調で、さらに言葉を重ねる。

 

 

「別に、その有象無象がここに手を出してもいいぞ。その他の方法で欺いて、罠にはめて遊んでやっても構わない。その方がコイツの生存能力があがりそうだしな」

「ク、クロエさん?!」

 

 

 さすがのわたしも、えぇ!? と素っ頓狂な声を上げてしまった。

 

 罠にはめられて遊ばれる前提!? 生存能力の向上って、わたしはサバイバル環境に放り込まれるトカゲか何かなんですか!? 

 

 だが、クロエさんは底のない黒い瞳を三日月のように細め、楽しそうに、クスクスと凶悪に笑った。

 

 

「ただ──俺の所有物に手を出しておいて、何もナシじゃ、等価ではないよなぁ?」

 

 

 その瞬間、声から一切の柔らかさが消えた。

 

 罠にはめてわたしを成長させる実験台にするのは構わない。だが、俺の玩具(わたし)に許可なく触れた、あるいは傷つけようとした有象無象の組織や人間は、等価交換として一人残らず肉片に変えて磨り潰す。指の骨が軋むような、絶対的な覇王の、死の宣告だった。

 

 真横にいるシオンの背筋が、再び恐怖で小さく強張るのが分かった。

 

 普通の人間なら、このあまりにも現世の倫理から逸脱した冷酷なセリフに、恐怖で腰を抜かして逃げ出すに違いない。資材だとか、所有物だとか、そんな歪みきった形でしか他人を認識できない、壊れた倫理観。

 

 けれど。

 

 わたしの胸の奥は、恐怖とは全く違う、奇妙な熱を帯び始めていた。

 

 クロエさんのそのズレた言葉の裏にある、底冷えするような圧倒的な孤独。きっと、そういう風に人を『管理』するか『敵』として排除するかしか選べないような、過酷な世界で生き、常識的な教育を一切受けられなかったのだろうという、悲しいほどの確信。孤児院でシスターたちから倫理や常識を教わって育ったわたしだからこそ、彼女のその未成熟な歪さが、痛いほど分かってしまう。

 

 自分を「俺のもの」として囲い込もうとする、その狂おしいほどの独占欲の奥に、不器用な子供が大切なぬいぐるみを抱きしめて怯えているような、そんな姿を幻視して。

 

 わたしの胸の奥で、ナニカが、切なく、どうしようもなく愛おしく疼き出す。

 

 

「……だから、クロエさんのモノにはなりませんって、何回も言ってるじゃないですか」

 

 

 わたしは、あえてその一点だけを、いつもの調子で膨れっ面を作って指摘した。

 

 クロエさんは、ふいと顔を背けると、聞こえるように短く音を鳴らした。

 

 

「ちっ」

 

 

 あ、舌打ちした。可愛い。ナルシストのくせにこういう子供っぽい八つ当たりをするの、本当にずるいと思います。

 

 その応酬を、シオンは黙って見ていた。

 

 帽子のつばを撫でる指が、二度、止まった。

 

 それからシオンが、首の骨を鳴らしながら、ふと思いついたように口を開いた。

 

 

「ねぇ、クロエちゃん。管理ってさぁ、ここちゃんみたいなナニカをボクにも付けるの?」

 

 

 シオンの視線は、わたしの首筋へと向けられていた。服の隙間から時折かすかに覗く、クロエさんの『赤黒い戦気の標』。位置も、感情も、すべてを握られる絶対的な所有の証。

 

 

「お前には要らない」

 

 

 クロエさんは、一言だけ淡々と告げた。

 

 

「えー、なんで? ボクも同居人になるんだし、マーキングしてくれてもいいんだよ?」

 

 

 シオンはからかうように唇を尖らせたが、クロエさんはそれ以上答えることなく、空になったカヌレの紙袋を、指先で器用に小さく折り畳んでいく。

 

 何故、シオンには付けないのか。クロエさんは理由を言わない。というより、たぶん本人も深く考えていない。

 

 

 ──え。

 

 

 わたしの胸の奥が、どくんと大きく跳ね上がった。

 

 シオンには、付けない。あのクソピエロには、わたしの首にあるこれと同じものを、クロエさんは絶対に与えない。

 

 ……わたしだけ? クロエさんの『標』があるのは、世界中でわたしだけなんですか?? 

 

 顔が一気に沸騰していく。恥ずかしい、嬉しい、でもやっぱり恥ずかしい。脳内のが奇声を上げて踊り狂う大バグが再々発し、わたしの処理能力はふたたび限界を迎えた。

 

 シオンは、そんなわたしたちのやり取りを呆然と見つめた後、降参だと言わんばかりに両手を上げて、深くため息を吐いた。

 

 

「はは。言うねぇ。そりゃ黒羊会も正面からは手が出せないわけだ。……ま、そういうわけだからさ。ボクが君たちの家に転がり込むのは、協会の正式な『監視任務』兼『対象の戸籍調査』。ついでに、ここちゃんを裏から狙う有象無象の虫ケラ除け……ってことで、これからよろしくね、ここちゃん?」

 

 

 シオンはいつもの道化の笑みを浮かべ、わざとらしくウィンクをして見せた。

 

 ……まだ、なにか裏がありそう。

 

 ガワは百八十センチの豊満な美女だが、中身が救いようのないカスなので、動作のすべてが致命的に気持ち悪い。あと信用できない。

 

 

「わたしの、クロエさんとの清らかな同居生活が、一瞬で泥沼のシェアハウスになったんですけどぉぉぉ?!?!」

「変なこと言ってないで帰るぞ。あと飯」

 

 

 カヌレの袋を完全に消し去ったクロエさんが、何事もなかったかのようにすくっと立ち上がり、歩き出す。

 

 

「…………三人分、作るんですか? わたしが??」

 

 

 わたしは、思わずその点だけを声を大にして指摘した。

 

 

「ボクねぇ、ハンバーグが食べたいなぁ☆ あ、オムライスでもいいよ! ここちゃんの愛情たっぷりケチャップ文字付きで!」

「聞いてない!」

 

 

 泥を払った三角帽を揺らしながら、自分の好きな食べ物を勝手に羅列し始めるシオンに、わたしはムッとしながら怒りの声をぶつけた。

 

 完全に沈みきった夕日が公園を暗転させ、歪な『三人』の、奇妙で最悪な共同生活へのカウントダウンが、今度こそ騒がしく幕を開けようとしていた。

 

 

 ◇

 

 

 引っ越しの荷造りは、一時間で終わった。

 

 協会の借り上げ住宅。家具付き。私物は衣装ケースが二つと、帽子の箱がひとつ。三年住んだ部屋は、入居した日と同じ顔をしていた。

 

 モデルルームみたいですね、と前に点検の職員が言っていた。

 

 そうだね、と笑った。いつもの顔で。

 

 シオンは段ボールの底へ、布で包んだ平たい欠片を最初に収めた。

 

 砕けた魔道武具の、いちばん大きな破片。特級の一撃を六割殺すはずだった超高級品。報告書には、全損・廃棄と書いた。

 

 廃棄は、していない。

 

 それから、腹の痣の上に手のひらを置いた。

 

 回復魔法なら一晩で消える。Aランクの嗜みだ。なのに三日、そのままにしている。服の上から押すと、鈍い熱が骨の奥まで届いた。

 

 痛い。

 

 ちゃんと、痛い。

 

 息を吐いて、手を離す。

 

 洗面所の鏡の前に立った。いつもの点検。頬の角度。目尻の曲げ方。唇の開き方。番組用。潜入用。新人を励ます用。上層部を煙に巻く用。

 

 ぜんぶ、いつも通りに作れた。

 

 最後に、力を抜く。

 

 鏡の中の女は、まだ笑っていた。

 

 作った覚えのない顔で。

 

 

『へぇ。それがお前の「顔」か』

 

 

 底のない黒い瞳が、耳の奥に住みついている。誰も見つけられなかったものを、退屈そうに、一秒で。

 

 

 ──任務だから。

 

 

 監視対象との同居は、任務として最適。理屈は百点。上司にもそう説明した。説明、できてしまった。

 

 

「……私」

 

 

 声が落ちて、止まった。

 

 シオンは帽子を深くかぶり直す。

 

 

「ボクは、仕事熱心なだけだよねぇ?」

 

 

 鏡の中の道化に聞いた。返事はない。

 

 いつもの締めの儀式に、指で銃を作ろうとして。

 

 人差し指は、最後まで形にならなかった。

R18見たい? スカは圏外

  • 見たい
  • あんま興味無いかも
  • どエロいの頼む
  • マニアックなのもいけるなら……
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