ダンジョンにはTSがつきもの 〜TS転生した怪物は自分への愛が強すぎる〜   作:炭水化物は飲み物

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邂逅

「人は誰かに出会うと言うけれど、本当は、誰かを思い出しているだけなのかもしれない」

 

 

 ──『失われた魂についての覚え書き』第二章、無名の祈祷者の手記より

 

 

 ◇

 

 〘千葉ダンジョン:下層六十一階層〙

 

 

 

 それは光と呼ぶには弱すぎる、岩肌に張りついた苔のような、燐光。

 

 空気は湿りがある。

 

 湿っているというよりは、重い。

 

 水のように、というほど露骨ではなく、もう少し抽象的な──瘴気と呼ばれる、ダンジョン下層特有の密度の高い空気。一呼吸ごとに、肺の奥がわずかに削れていく。

 

 

 音は遠い。

 

 奥の岩盤を伝って、何かの咆哮が反響している。

 

 けれど、それは「遠い」と感じられている時点でまだ生きている。

 

 距離がある。

 

 距離がある、ということは、まだ襲いに来ていないということ。

 

 

 そして、血の匂い。

 

 

 岩肌の凹みに、その『少女』は座り込んでいた。

 

 

 ◇

 

 

 白い髪が彼女の頬の横にほつれて垂れていた。

 

 白い肌は、もうほとんど血色を残していない。

 

 白いまつ毛が浅い呼吸に合わせて、わずかに揺れる。

 

 

 唯一、色を持っているのが瞳だった。

 

 淡い灰色がかった青。

 

 冬の朝、まだ太陽が顔を出す前の空の色。

 

 

 名前は、如月ここ。

 

 十八歳。

 

 探索者ランク、C。

 

 

 背中を岩壁に預けている。

 

 右手は、剣の柄を握っている。剣は、彼女の身体の脇に、垂直に地面へ突き刺さっていた。

 

 支柱の代わり、と言っていい。剣として機能させるためではなく、自分の身体を立たせるために。

 

 いや……座っている状態を維持するために、と言うべきか。

 

 柄を握っていなければ、彼女はもうとっくに真横へ倒れていた。

 

 

 左腕は、肩から先の感覚がない。

 

 右の脇腹は、装備の隙間から血が、止まらずに流れ続けている。

 

 白かったはずの装備の半分以上が赤い、というよりは乾きかけた茶に近い赤。

 

 時間の経った血の色。

 

 

 肩の上、襟元のところに小さな機器がついている。

 

 配信用の通信機器だ。

 

 画面のランプが、不規則に明滅している。

 

 接続は、もう何分も前から断続的にしか繋がっていない。

 

 

 ──……潮時、という単語が、今の状況にマッチしている。

 

 

 ココは、視線を自分の右脇腹に落とした。

 

 落とした、というよりは、視線が勝手にそこへ流れた。

 

 

 血の量を見る。

 

 ペースを、計算する。

 

 心拍数、呼吸の浅さ、視界の白さ。

 

 全部を合わせて、彼女はぼんやりと結論を出す。

 

 

 ……あと、何分保つかなぁ。

 

 

 冷静な計算だった。

 

 数字に感情は乗っていなかった。

 

 十分か、二十分か。はたまた五分程度か。能力をもう一度使えばもっと短くなる。能力を使わないとしても、出血量はもう致死の領域に踏み込んでいる。

 

 治癒魔法は使えない。彼女自身の魔法適性にはないから。

 

 止血用の魔具は最初の三十分で使い切った。

 

 残っているのは、剣一本と自分の身体と……左手のわずかな力だけ。

 

 

 不思議と、痛みはない。

 

 最初はあった。激痛なんて生易しいものじゃない。脇腹を抉られた時の、肩を裂かれた時の、その鮮明な痛み。

 

 けれど、ある一線を越えた後、痛みはすうっと消えた。

 

 消えた、というよりは……感じることを身体が諦めた。

 

 

 代わりに、寒さがある。

 

 

 下層の冷気は、湿っていて骨の中まで染みてくる。

 

 血を流し続けているせいで、ココの体温はもう平常時より随分低いはずだった。

 

 指先の感覚は半分以上消えている。

 

 

 ……寒い、なぁ。

 

 

 ぽつりと、ココは、思った。

 

 

 そして、その「寒い」という感覚に、彼女はほんの少しだけ安心した。

 

 寒い、ということは、まだ生きている『証』。

 

 感じる、ということはまだ自分がここにある『証拠』。

 

 

 ──ココが怖いのは、死ぬことではなかった。

 

 ココが怖いのは、何もできないまま死ぬことだった。

 

 

 何かを残してから、終わりたい。

 

 せめて、ひとつ。

 

 せめて、ひとつだけでも。

 

 

 ◇

 

 

 意識が、わずかに遠のいた。

 

 

 視界の端が白く染まる。

 

 それは、出血のせいでもあったし、過去の記憶が浮上してくる、そのきっかけでもあった。

 

 

 ……ああ。

 

 

 ──帰り、たいなぁ。

 

 

 そう思った瞬間、ココの脳裏にひとつの光景が滲んできた。

 

 

 

 ──貴方の名前はここ、『如月ここ』です

 

 

 

 ──古い、施設だった。

 

 

 木造で、壁の塗装は所々剥がれかかっていた。

 

 けれど、不潔な印象はない。誰かが毎日丁寧に拭いている家具の艶、洗い立ての洗濯物の匂い、廊下の隅に置かれた小さな花瓶の中の、季節の花。

 

 貧しくはあった。

 

 豊かではなかった。

 

 けれど暖かかった。

 

 

 食堂には長い木の机がひとつ。

 

 夕食の時間になると、その机の周りに年齢のばらばらの子供たちが、八人、九人と集まる。一番小さい子は四歳で一番大きい子は十六歳だった。

 

 料理を運んでくるのは、シスター。

 

 祈りを捧げるのは、施設長。

 

 子供たちは、皆、彼らのことを家族と呼んでいた。

 

 血の繋がりは誰ともない。

 

 けれど、それでも誰も困らなかった。

 

 

 ココが、施設に来たのは四歳の時だった。

 

 どこから来たのか、ココ自身覚えていない。覚えているのは、その日、施設長が自分を抱き上げた、その腕の温度だけだった。

 

 

 ココの容姿は当時から白かった。

 

 髪が白い。

 

 肌が白い。

 

 瞳の色も薄い。

 

 他の子供たちは最初、ココのことを少し怖がった。

 

 お化けみたい、と言った子もいた。

 

 幽霊みたい、と呟いた子もいた。

 

 

 けれど、施設長はその時何も叱らなかった。

 

 ただ、ココの頭を撫でながら、静かに子供たちに言った。

 

 

「あなたたちの顔も、ココの顔も、神様が描いた絵です。色が違うだけで、誰の絵も、間違いではありません。皆、等しく平等なんですよ」

 

 

 そして、ココの目を見て、もう一度、言った。

 

 

「あなたは、あなたのままでいいんです」

 

 

 その言葉をココは、十四年経った今でも覚えている。

 

 たぶん死ぬまで忘れない。

 

 

 シスターは、いつも台所に立っていた。

 

 皺だらけの、節くれだった手で人数分の野菜を刻み、汁物を煮込み、固いパンを切り分ける。

 

 ココが手伝いを覚えたのは、五歳になってからだった。

 

 包丁の握り方をシスターが何度も、何度も、教えてくれた。

 

 ココの細い指は最初、握力が足りなくて人参一本切るのにも苦労した。

 

 けれど、シスターは急かさなかった。

 

 ただ、隣に立って、ココの手の上に自分の手を重ねて、一緒に刃を下ろした。

 

 

 年上の、十六歳の少女。

 

 名前は……もうココは、呼ばないことにしている。固有の音にすると、思い出すのが辛くなるから。

 

 その少女はココが施設に来た時、すでに十二歳だった。

 

 物静かで、笑顔の少ない少女だったけれど、ココには優しく接してくれた。

 

 夜中、ココが悪い夢を見て泣いていると、毛布をもう一枚かけてくれた。

 

 冬の朝、ココが寒さで指がかじかんでいると、自分のミトンを黙って貸してくれた。

 

 彼女が、施設を出ていったのはココが八歳の時だった。

 

 別れの日、彼はココの頭を軽く撫でて言った。

 

 

「この子らを頼んだよ」

 

 

 それだけだった。

 

 けれど、その一言はココの中に十年経った今でも残っている。

 

 

 そして、子供たち。

 

 ココより小さい、四歳、五歳、六歳の子供たち。

 

 最初はココのことを怖がっていた彼らも、半年も経つとココを「お姉ちゃん」と呼ぶようになった。

 

 寝る時、ココの腕にしがみついてきた。

 

 遊ぶ時、ココの手を引いてきた。

 

 泣いた時、ココの胸に顔を埋めてきた。

 

 

 彼らは、皆、家族だった。

 

 

 血は繋がっていない。

 

 けれど、それは、ココにとって家族の定義ではなかった。

 

 

 ◇

 

 

 十四歳の冬だった。

 

 

 ココは、夕食の片付けを終えて自分の部屋に戻ろうとしていた。

 

 廊下の角を曲がろうとした時、扉の隙間から施設長とシスターの話す声が聞こえた。

 

 いつもなら聞かずに通り過ぎる。

 

 けれどその日、声の中にいつもとは違う『感情』。

 

 

「来年の冬は、厳しいかもしれません」

 

 

 シスターの声だった。

 

 

「寄付は減っています。子供たちの数も年々増えていって、食費や玩具の費用ももう削れないです……修繕費ももう限界が……」

 

 

 施設長の声はそれに、すぐには答えなかった。

 

 代わりに、長い、息の音だけが聞こえた。

 

 

「私の方でも様々な方々と掛け合ってみます。食費は山菜取り等で済ませ、玩具は他の区域から譲ってもらいますか。これから先も厳しくなるかもしれませんが……神様が、何とかしてくださると信じましょう」

 

 

 そう、施設長は言った。

 

 けれど、その声にはいつもの確信はなかった。

 

 

 ココは扉の前で、しばらく立ち尽くしていた。

 

 動けなかった。

 

 動いてしまえばもう、聞かなかったことにできなくなる。

 

 そう思った。

 

 

 けれど結局、彼女は動いた。

 

 自分の部屋に戻って、机の前に座って目を閉じた。

 

 

 そして、ココは思い出した。

 

 

 半年前に施設に来た探索者協会の調査員。

 

 そいつが、ココを見て軽く首を傾げて、こう言ったのだ。

 

 

「この子、中々良いユニークスキルと魔力量を保持できる器の素質を持っているのに、少しもったいないですね……」

 

 

 その時、ココは特に何も感じなかった。

 

 魔力素質があるからといって、施設を出る理由にはならない。

 

 

 けれど今は違う。

 

 魔力素質があるということは、探索者になれるということ。

 

 探索者になれる、ということは、ダンジョンに潜ってドロップ品を売却できる、ということ。

 

 ドロップ品の売却額は、施設の維持費を、補えるかもしれない。

 

 

 翌朝、ココは施設長の前に立って、言った。

 

 

「私、探索者になります」

 

 

 施設長は、最初何を言われているのか分からなかった。

 

 次の瞬間、ようやく理解して、激しく首を横に振った。

 

 

「駄目です、あなたはまだ14にもなって間もない子供なんですよ!? それなのに大人でも簡単に命を失う危険なところに? 私は反対です!」

 

 

 シスターも同じだった。

 

 子供たちもココの裾を引っ張った。

 

 お姉ちゃん、行かないで、と、小さい子が泣いた。

 

 

 けれど、ココは引かなかった。

 

 

 十四歳の少女の細い肩には、けれど、揺るがないものがあった。

 

 自分が今、ここで動かなければ来年の冬、施設の誰かが寒さで震えるかもしれない。

 

 小さい子供たちの、誰かが、お腹を空かせたまま夜を過ごすかもしれない。

 

 そんなことには、絶対にさせたくなかった。

 

 

「私が稼ぎます」

 

 

 ココは、もう一度言った。

 

 

「私には、力があると。素質があると、調査員の人が言っていました。それを放棄するのは宝の持ち腐れ。私が家族を守ります」

 

 

 施設長は最後まで首を縦には振らなかった。

 

 けれど、ココの目を見て、それ以上はもう、何も言わなかった。

 

 

 シスターがその夜、ココを抱きしめて長いこと泣いていた。

 

 

 ココは泣かなかった。

 

 

 ──四年が経った。

 

 

 ◇

 

 

 今、ココは、十八歳。

 

 探索者ランクは、C。

 

 同年代の中では、決して低くない。むしろ上位に近い。

 

 探索者協会の登録上、彼女は「期待の新星」と書かれる類いの存在になっていた。

 

 

 施設はまだある。

 

 子供たちはまだ皆、笑っている。

 

 シスターはまだ、台所に立っている。

 

 施設長は、毎晩祈っている。

 

 

 維持費は、ココの仕送りで何とか回っている。

 

 

 ココは十六歳の時、施設を出て、街中で安いアパートを借りた。

 

 出ていく理由は明確だった。

 

 危険な仕事に就いている自分が施設にいる、ということは、もしも自分に何かがあった時、施設の子供たちに影響が出るかもしれない。

 

 だから距離を置く。

 

 けれど月に一度、休みの日には必ず施設に帰る。

 

 子供たちと、一日遊んで、シスターの料理を食べて、施設長と近状報告で話す。

 

 それが、ココの「家に帰る」という時間だった。

 

 

 四歳の頃に初めて触れた、あの暖かさ。

 

 十八歳の今もココは、それを守り続けている。

 

 彼女にとって家族のためなら、命など惜しくない。

 

 それは、誰かに強制されたものではない。

 

 彼女自身が、選び取った愛の形だった。

 

 

 ◇

 

 

 ──遠くで、何かが崩れる音。

 

 ココの意識が回想から、現実へ引き戻された。

 

 

 岩盤の崩落ではない。

 

 魔物の足音。

 

 大型の何かの。

 

 

 ……。

 

 

 ココはゆっくりと、視線を上げた。

 

 

 薄暗い洞窟の奥、燐光の届かない闇の中で、複数の気配がこちらに近づいてくる。

 

 数は四。

 

 いや……五か。

 

 大型獣型と中型の魔導獣の混成。

 

 

 ココは剣の柄を握り直した。

 

 指が震えていた。

 

 握力がもうほとんど残っていない。

 

 

 それでも、彼女は立ち上がろうとした。

 

 壁に背中を擦りつけて、剣を支点にゆっくりと、身体を起こす。

 

 立ち上がる、というよりは引きずり上げる、という方が近い動作だった。

 

 

 立った。

 

 

 足が、震えていた。

 

 膝が、笑っていた。

 

 それでも立った。

 

 

 彼女は、左手を自分の前にかざした。

 

 何度も繰り返してきた構え。

 

 彼女の唯一の武器。

 

 

 ◇

 

 

 ココの能力は、未だに誰にも説明できないものだった。

 

 

 名前は便宜上、「拒絶」と呼ばれている。

 

 探索者協会の鑑定でも、既存の魔法体系のどれにも該当しないと分類された。

 

 能力分類上の「ユニークスキル」──唯一無二の能力枠。

 

 

 攻撃を自分に「届かないもの」にする力。

 

 防御魔法のように壁を立てるわけではない。

 

 結界のように空間を区切るわけでもない。

 

 衝撃を吸収する、という類いの能力でもない。

 

 

 ただ、彼女が左手をかざすと、その手の前で攻撃魔法の軌道が変わる。

 

 弾は、逸れる。

 

 炎は、逸れる。

 

 雷は、逸れる。

 

「届かない」という現象が発生する。

 

 

 ココ自身、その仕組みを理解していなかった。

 

 物心ついた頃から、その力は彼女の中にあった。

 

 施設の中で、子供たちと遊んでいる時に誤って魔法を当てられそうになって、無意識に左手をかざした。それで初めて自分にこの力があることを知った。

 

 シスターも、施設長も、その力について特に騒がなかった。

 

 ただ、シスターはココにひとつだけ、言った。

 

 

「神様があなたに与えたものは、神様が、誰かを助けるために、あなたに預けたものです」

 

 

 ココはその言葉を受け取った。

 

 そして自分なりに解釈した。

 

 

 ──この力は私のものじゃない。

 

 ──誰かを守るために、私に、貸し与えられたもの。

 

 ──だから、私がこれを自分のために、使うことはない。

 

 

 十四歳の冬、施設の維持費のために探索者になることを決めた時も、ココはその「貸し与えられた力」を、施設の家族を守るために使うと決めた。

 

 

 そして今、彼女はその力で、自分の命を繋いでいた。

 

 

 使うたびに、彼女の中の何かが削れていく。

 

 魔力ではない。

 

 もっと深い、本人にも説明できない場所からの供出。

 

 

 使えば使うほど、彼女の輪郭が薄くなっていく感覚。

 

 使い切ったら、自分が自分でなくなるかもしれないという、根拠のないけれど確信に近い予感。

 

 

 ……。

 

 

 ココは、それでも左手を上げた。

 

 

 使うしかない。

 

 使わなければここで終わる。

 

 ここで終われば来月施設に帰れない。

 

 帰れなければ、子供たちが心配する。

 

 心配させたく、ない。

 

 

 ──だから、私はまだ、立つ。

 

 

 ◇

 

 

 最初の魔物が動いた。

 

 

 大型獣型。

 

 四本足、頭部に角、皮膚は岩のように硬い。Cランクには本来、一対一でも厳しい相手。勝てない格上。

 

 それが、突進してくる。

 

 

 ココは半歩、横へ流れた。

 

 半歩だけ。

 

 それしかできなかった。

 

 

 次の瞬間、右の脇腹が悲鳴を上げた。

 

 動いた、ということ。

 

 動いた、ということは、傷が開いた、ということ。それは血流が脈動し始めたともとれる。

 

 血がまた流れ始めた。

 

 

 大型獣型の突進は、ココの脇をぎりぎりで通り過ぎた。

 

 風圧で白い髪が舞った。

 

 

「っ……!」

 

 

 あと一拍、遅ければ、突進そのものに押し潰されていた。

 

 

 二体目。

 

 左から中型の魔導獣。

 

 前肢の爪に、青白い魔力が纏わりついている。

 

 

 ココは剣を振った。

 

 軌道は、悪くない。

 

 けれど、重さが足りない。

 

 

 爪が剣にぶつかった。

 

 火花が散った。

 

 音が遅れて届いた。

 

 ココの足が地面を擦って後退した。

 

 

 押し負けた。

 

 

 バランスが、崩れる。

 

 三体目の魔導獣がその隙を狙った。

 

 

 口腔から魔力弾。

 

 密度の高い青白い弾丸。

 

 空気を削りながら、ココの正面へ。

 

 

 ──……。

 

 

 ココは、左手を上げた。

 

 

 能力が発動する。

 

 その手の前で空気が一度止まったように見えた。

 

 いや、止まったのではない。

 

 彼女の手の前だけ世界の縮尺がほんの少し変わった。

 

 

 弾の軌道が変わった。

 

 弾は、ココの脇を無造作に抜けて、後方の壁に当たった。

 

 爆風が、ココの白い髪を、また煽った。

 

 

 ココ自身は無傷。

 

 

 ──けれど視界が一瞬白くなった。

 

 能力の消耗のサインだった。

 

 

 彼女の中の深い場所から、また何かが削れた。

 

 削れた感覚を、彼女は知っていた。

 

 何度も味わってきた、感覚。

 

 けれど、今日のは削れる速度が、いつもよりずっと速い。

 

 

 たぶん、もう、あと二発が限界。

 

 いや、二発も保たないかもしれない。

 

 

 ココは、剣を握り直した。

 

 構え、とは呼べないような、ただ剣を立てているだけの姿勢。

 

 それでも立てていた。

 

 

 ◇

 

 

 そして、ココの意識がまたわずかに遠のいた。

 

 

 出血と、能力の消耗。

 

 二重に、彼女の中から何かが抜けていく。

 

 視界の端が白く揺れる。

 

 音が遠くなる。

 

 足の感覚が消える。

 

 

 

 ごめんね……みんな。

 

 

 

 ──その時。

 

 

 視界の端に何かが見えた。

 

 

 ……? 

 

 

 ココは、目を細めた。

 

 

 岩肌の影の中、ほんの一瞬、何かが立っていた、ような気がした。

 

 人影。

 

 小さな輪郭。

 

 髪の色は、黒と赤が混じっている。

 

 

 瞬きをした。

 

 それで、影は消えた。

 

 

 ……何だろうこれ。

 

 

 ココは、ぼんやりと思った。

 

 見間違い、だろう。たぶん。

 

 今このダンジョンに上位探索者はいなかったはず。助けに来るにしても、早すぎる。他の探索者が下層に──しかも一人──いるはずがない。ましてや、こんな小柄な少女が。

 

 きっと、走馬灯だ。見えるはずのないものが、見えただけ。

 

 そう、自分に言い聞かせた。

 

 

 けれど、なぜかその「黒と赤」という色合いが、彼女の中で、奇妙な余韻を残した。

 

 知らない、色のはずなのに。

 

 見たことが、ないはずなのに。

 

 なぜか、知っている気がした。

 

 

 ──気のせいだろう。

 

 ココは、頭を軽く振った。

 

 

 そして、目の前の現実に視線を戻した。

 

 

 魔物たちは、ココが能力を一度使ったことを理解していた。

 

 警戒している。

 

 けれど、襲うのをやめてはくれない。

 

 

 次の攻撃が、来た。

 

 

 爪が、ココの肩を裂いた。

 

 遅れて、布の裂ける音。

 

 遅れて、痛みが来るはずだった。けれど、痛みはもうほとんど感じない。

 

 血だけがまた、新しく流れ出した。

 

 

 牙が、ココの脇腹を擦った。

 

 遅れて、赤い線が装備の上に引かれた。

 

 

 吹き飛ばされた。

 

 背中を、壁に打ちつけた。

 

 遅れて視界が揺れた。

 

 遅れて、自分の血の匂いがまた濃くなった。

 

 

 ココは、地面に膝をついた。

 

 咳をした。

 

 口の端から血。

 

 

 ──……。

 

 

 もう、立てない。

 

 誰が見ても、そう思う姿だった。

 

 

 けれど、ココはゆっくりと地面に片手をつけた。

 

 剣を、もう一度握り直した。

 

 血で滑る、柄を握り直した。

 

 握る、というよりは、引っかけて保持する、という方が近かった。

 

 

 そして、彼女は立ち上がった。

 

 立ち上がる動作だけで、何度も、何度も、身体が揺れた。

 

 膝が崩れそうになるのを剣を地面に突き刺して支えた。

 

 それを支点に、ココは一歩、また一歩と立ち上がっていった。

 

 

 立った。

 

 

 構えた。

 

 

 構えた、と、自分でも思えないようなぐらぐらの姿勢。

 

 けれど構えた。

 

 

 ──……まだ。

 

 

 唇が、動いた。

 

 声はほとんど出ていなかった。

 

 ただ息と一緒に漏れた音。

 

 

 ……まだ、立てる。

 

 

 誰に向けた言葉でもなかった。

 

 魔物への挑発でもなかった。

 

 ただ、自分自身に言い聞かせていた。

 

 

 まだ、立てる。

 

 まだ、立てるんだ。

 

 

 ──ココは、目を閉じないようにした。

 

 閉じてしまえば、もう開かないかもしれない。

 

 だから、開けたまま目の前の闇を見据えた。

 

 

 そして、彼女は思い浮かべた。

 

 

 施設の食堂。

 

 夕食の時間の、賑やかな声。

 

 シスターの皺だらけの手が、自分の手の上に重なって、一緒に人参を切った日のこと。

 

 施設長が、自分を抱き上げて「あなたは、あなたのままでいい」と言ってくれた、あの夜のこと。

 

 十六歳の少女が、別れの日に「頼んだ」と、自分の頭を撫でたあの朝のこと。

 

 小さい子供たちが自分の腕にしがみついて眠ったあの冬のこと。

 

 

 全部、思い浮かべた。

 

 全部、覚えていた。

 

 

 ──彼らのために、私は立っている。

 

 ──彼らのために、私はまだ終われない。

 

 

 死ぬのは構わない。

 

 けれど、何もできないまま死ぬのは嫌だ。

 

 せめて、何かひとつ。

 

 せめて、何かひとつだけでも、家族のために残したい。

 

 

 そのためなら、立てる。

 

 何度でも、立てる。

 

 何度でも、立ってみせる。

 

 

 けれど、現実は、残酷だった。

 

 

 彼女の身体はもう、限界を超えていた。

 

 左手は上がらない。

 

 能力を発動する余力もない。

 

 剣を握る指の感覚も、もうほとんどない。

 

 

 魔物たちが最後の一手を組んでいた。

 

 四方から、同時に。

 

 避けられる位置は、ひとつもない。

 

 守れる手段も、もうない。

 

 

 ──ココは、()を閉じかけた。

 

 

 それでも、最後の一瞬、彼女は、目を開けたまま保ちたいと思った。

 

 最期くらい、ちゃんと見届けたい。

 

 自分の終わりを自分の目で。

 

 

 そう、思いながら彼女の視線が、岩壁の上の方へ、ふらりと流れた。

 

 

 ──……。

 

 

 そこに、いた。

 

 

 黒と、赤。

 

 

 岩壁の縁、闇の中、燐光のわずかな照り返しを受けて、人影が立っていた。

 

 小柄な少女の輪郭。

 

 黒と赤の長い髪が、瘴気の風にゆっくりと揺れていた。

 

 

 目を見開いた。

 

 

 見間違いじゃない。

 

 さっきの視界の端のあの色。

 

 あれが、現実の輪郭としてそこに立っていた。

 

 

 ……。

 

 ……誰なんだろう。

 

 

 ココがそう思った瞬間。

 

 

 人影が消えた。

 

 

 いや、消えた、というのは正確じゃない。

 

 

 移動した。

 

 けれど、ココの目には、消えたとしか見えなかった。

 

 

 次にココが認識したのは。

 

 

 目の前の大型獣型の魔物の頭が、唐突に砕けたことだった。

 

 

 音は遅れて届いた。

 

 

 続いて、二体目。

 

 続いて、三体目。

 

 ほぼ同時に潰れた。

 

 四体目が、何かを察して後ずさろうとしたその瞬間、その個体の胴体が横一文字に千切れた。

 

 

 音と血飛沫が遅れてココの視界に追いついた。

 

 

 何が起きたのか。

 

 ココには分からない。

 

 ただ、彼女と魔物の群れのその間に、いつの間にか、その小柄な少女が立っていた。

 

 

 背中を、こちらに向けて。

 

 

 黒と赤の長い髪。

 

 白い肌。

 

 細い肩。

 

 小柄な、けれどその輪郭の中に、奇妙に密度の高い何かを感じさせる後ろ姿。

 

 

 最後の魔物の気配が消えるのを待ってから、その少女はゆっくりと振り返った。

 

 

 底のない黒い瞳が、ココを見た。

 

 

 ──……知って、いる。

 

 

 ココは思った。

 

 なぜ、そう思ったのか分からない。

 

 

 会ったことがあるはずがない。

 

 こんな小柄で整いすぎた顔の少女を見覚えがあれば絶対に忘れない。

 

 なのに知っている気がした。

 

 

 初めて見るはずの顔。

 

 初めて聞くはずの足音。

 

 初めて感じるはずの気配。

 

 なのに。

 

 

 瞳の奥に、何かが引っかかる。

 

 忘れているはずの何かが、思い出されそうで思い出されない。

 

 喉の奥で声にならない何かが震える。

 

 

 ──……あなた、は。

 

 

 ココは唇を動かした。

 

 けれど、声は出なかった。

 

 出す力がもう、なかった。

 

 

 少女は、ココの呟きを聞き取ったか、聞き取らなかったか、表情を変えなかった。

 

 ただ、底のない瞳でココを観察していた。

 

 何の感情も乗っていなかった。

 

 喜びも、安堵も、誇りも、緊張も。

 

 ただ、自分の目の前にある、ひとつの事象を淡々と、検分するような目。

 

 

 そして、その少女がぽつりと、漏らした。

 

 

「瀕死状態でも生きてる、まるでミジンコだな」

 

 

 低い、静かな声。それと同時に、もっと聴きたくなるような声質。

 

 ココの想像していた「助けに来た人」の声色と発言ではなかったが。

 

 

 ◇

 

 

 少女が視線をココに戻した。

 

 

「……立てる?」

 

 

 問いかける、というよりは確認。

 

 返答を待っている風には見えなかった。

 

 

 ココは答えられなかった。

 

 声が出なかったし、何を答えればいいのかも分からなかった。

 

 助かったという感覚も、感謝という感情も、まだ彼女の中で形になっていなかった。

 

 ただ、目の前のこの少女が、自分の知っている誰かに似ている気がする。

 

 その根拠のない感覚だけが胸の奥で疼いていた。

 

 

 少女は、ココの返答を待たなかった。

 

 

 代わりに、少しだけ視線をココの左手の方へ流した。

 

 先ほどまで「拒絶」を発動していたその手。

 

 少女の目には、ココには見えない何かが、見えているようだった。

 

 

 そして、そのまますっと視線を、ココの全身へ戻す。

 

 

 次の瞬間。

 

 

 ココの身体から力が抜けた。

 

 

 抜けた、というよりも、もう保てる限界を超えた。

 

 右脇腹の出血が、最後のひと押しを奪った。

 

 膝が崩れた。

 

 身体が前のめりに倒れていく。

 

 

 その時の少女の動きは無造作だった。

 

 

 動作に優雅さは皆無。

 

 お姫様抱っこの慣れた手つきもない。

 

 看護師のような配慮のある支え方もない。

 

 

 ただ機能的に倒れる勢いだけを止めた。

 

 

 右腕でココの背中を、左腕でココの膝の裏を軽くすくい上げる。

 

 動作は素早く、けれど雑。

 

 荷物を受け止めるのと変わらない手つき。

 

 

 ──も、もうちょっと優しく……。

 

 

 それなのに、不思議と痛くはなかった。

 

 怪我を再発しないような力加減だけは計算していたらしい。

 

 

 ココの身体は、彼女の腕の中に収まった。

 

 

 至近距離でココは初めてその少女の顔を間近で見た。

 

 

 白い肌。

 

 薄い、けれど形の整った唇。

 

 睫毛は薄く、伏せ気味。

 

 瞳は底のない黒。

 

 そして、髪の色が揺れて、ココの頬を軽く撫でた。

 

 

 ──……綺麗。

 

 

 呼吸が、止まった。

 

 

 出血で薄くなりかけていた意識が、その瞬間だけ奇妙に覚醒した。

 

 整っている、という言葉では足りない。

 

 美しい、というのも何か違う。

 

 ココの語彙では追いつかない類の顔だった。

 

 

 人形に、似ていた。

 

 けれど、人形ではなかった。

 

 血の通った人間で、けれど、そのどれよりも輪郭がはっきりしていた。

 

 

 十八年、ココは色々な人を見てきた。

 

 施設の家族たち、子供たち、街の人たち、ギルドの探索者たち、配信で見る有名探索者たち。

 

 けれど、こんな(天使)は初めてだった。

 

 

 ──……何で。

 

 

 ココの胸の奥で何かが、小さく跳ねた。

 

 

 心臓がまた、動こうとしている。

 

 瀕死のはずなのに。

 

 出血でもう、止まりかけていたはずなのに。

 

 なぜか、この少女を見た瞬間、動き出した。

 

 動き出して、しまった。

 

 

 不思議と、恐怖はなかった。

 

 むしろ、なぜか安心していた。

 

 何の根拠もなく。

 

 ただ、この少女の腕の中だけは、安全な場所だと彼女の本能が囁いていた。

 

 

 ◇

 

 

 少女の白く細い指先が、ココの頬へそっと這うように伸ばされた。

 

 冷たくも、温かくもない。ひどく甘美な感触の指先。

 

 その柔らかい指の腹、ココの素肌を愛撫するようにねっとりと滑る。

 

 こぼれた血の一筋をすくい取る、その蠱惑的(こわくてき)な動作。

 

 検体を採取する、というような、淡々とした手つきではあった。

 

 あったはず、なのだけれど。

 

 そして。

 

 赤く濡れたその指先を、少女は、自らの艶やかな唇へと、ゆっくりと運んだ。

 

 ココの、熱に浮かされかけた視界の中で、その光景がひどく鮮明に映った。

 

 熱っぽい吐息とともに、少女の唇がわずかに開く。

 

 濡れて光る、その隙間から、柔らかく、艶めかしい桃色の舌先が覗いた。

 

 舌の先端が、指の腹をとろけるようになぞる。

 

 血の一滴を、絡め取る、その瞬間に。

 

 ねっとりと、吸い付くように、深く、舐め上げた。

 

 急がず。

 

 慌てず。

 

 

 ──極上の甘露を、じっくりと、味わうように……。

 

 

 赤い色が、濡れた舌の上で、艶やかに引き伸ばされて消えた。

 

 唇がまた閉じる。

 

 そして少女は、陶酔したように目をほんの一瞬伏せた。

 

 長い睫毛が、頬の上に色っぽい影を落とす。

 

 ココの体液を、自らの奥深くへと確かめながら迎え入れたような、その仕草。

 

 ──……。

 

 ココの口から甘い息が漏れた。

 

 何が起きているのか、頭ではもうどうでもよかった。

 

 目の前の少女が、自分の血を(みだ)らなほど丁寧に舐め取っている。

 

 その事実だけで、背筋にゾクゾクとするような、甘い痺れが走る。

 

 ──……綺麗、で。

 

 綺麗、だけれど、それだけではない、圧倒的な、『熱』。

 

 濡れた唇の開き方。

 

 舌の(なまめ)かしいほどの、桃色。

 

 指の上を、絡みつくように滑る、その曲線。

 

 かすかな吐息が漏れる、その一瞬。

 

 そのすべてが、ココの意識の一番無防備なところへ、容赦なく流れ込んでくる。

 

 拒絶する気持ちは全く湧かなかった。

 

 恐怖すら、甘い痺れへと塗り替えられていく。

 

 代わりに、身体の芯が熱くなった。

 

 瀕死で、血を失って冷え切っていたはずの身体が。

 

 なぜか、その瞬間だけ(たかぶ)るように熱く、火照り始めた。

 

 指先まで粟立つような心地よい感覚。

 

 身体の奥の一番やわらかい場所に、甘い火が灯ったみたいに。

 

 心臓が、狂おしく跳ねた。

 

 さっき、この少女の顔を見た時よりももっと激しく。

 

 すべてを委ねてしまいたいほど深く。

 

 

 ──……綺麗な、お姉、ちゃん。

 

 

 こうして、1人の純粋無垢な少女は、怪物に恋をしてしまったんだとさ。

 

 

 ◇

 

 

 ──ここからは視点がわずかに滑る。

 

 

 クロエの中で、混魂(サイト)のひとつの機能が起動した。

 

 血析(けっせき)

 

 

 相手の血を自分の体内に取り入れた瞬間、その血液から対象の身体情報を引き出す固有の処理。

 

 骨格、筋繊維、内臓の損傷度、神経の伝達速度、魔力の流路、そして、本人すら気づいていない深層の情報。

 

 そういったものをすべて一瞬で読み取る。

 

 

 データがクロエの中に流れ込んでくる。

 

 薄く舌の上に残った血のその一滴の中から。

 

 

 ココの肉体は、想像通り凡庸だった。

 

 Cランク相応の、平均的な骨格、平均的な筋肉量、平均的な魔力量。

 

 ただ、本人の意志の強さによってその平均が、極限まで引き伸ばされている。

 

 訓練の蓄積もそれなりにある。

 

 けれど、生まれ持ったものとしては、ごく普通の人間の少女だった。

 

 

 ──と、そこまで、読み取った時。

 

 

 クロエの中で、何かが引っかかった。

 

 

 魔力の流路の、根元。

 

 本来なら、誰もが持っている「魔力の起点」のその場所に、別のものが存在していた。

 

 

 ──……ほう? 

 

 

 クロエの内側でわずかな戸惑い。

 

 

 それは、魔力ではなかった。

 

 もっと根本的な何か。

 

 クロエ自身の戦気に近い。けれど、方向性が真逆。

 

「攻撃する」ためのものではなく「届かないものにする」ためのもの。

 

 

 拒絶。

 

 

 そして、それは後天的に獲得したものではなかった。

 

 ココの魂と一体化していた。

 

 生まれた時から、彼女の根本に刻み込まれた構造。

 

 彼女の存在そのものが「拒絶」だった。

 

 

 ──……。

 

 

 クロエの中で、何かが小さく引っかかった。

 

 

 血析を通して、ココの魂の輪郭に指先で、直接触れた、その感覚。

 

 初めて見るはずのものだった。

 

 なのに、なぜか、初めてという気がしなかった。

 

 

 ──……変だな。

 

 

 クロエは、抱きかかえているココの顔をもう一度見た。

 

 

 白い髪。

 

 白い肌。

 

 白いまつ毛。

 

 灰青の瞳。

 

 

 初めて見るはずの顔。

 

 なのに、視線がすうっと滑らかに馴染む。

 

 違和感なく収まる。

 

 そんな顔が世の中に何枚もあるはずがない。

 

 

 けれど、その感覚をクロエはそれ以上追わなかった。

 

 追わないような気がした。

 

 ──そういう気が、した。

 

 

 ◇

 

 

 クロエの目はしばらく、ココの顔の上で止まっていた。

 

 

 時間にすれば、五秒。

 

 あるいは、十秒。

 

 

 彼女の表情には、何の変化もなかった。

 

 眉が動くこともなく、唇が震えることもなく、瞳が揺らぐこともなかった。

 

 

 そして、ぽつりと漏らした。

 

 

「……へぇ」

 

 

 低く薄い声だった。

 

 けれど、その声色の奥にほんの僅かな揺らぎがあった。

 

 一般人100人に聞いて2,3人が分かるか分からないかというほどの違和感を覚えるぐらいの微細な変化。

 

 クロエ自身もたぶん気づいていない。

 

 

 そしてもう一言。

 

 

「……どこかで会ったような気がする、ねぇ……?」

 

 

 独白だった。

 

 誰に向けたものでもなかった。

 

 ココの耳にはもう届かなかった。

 

 彼女の意識はその瞬間に完全に途切れた。

 

 

 ◇

 

 

 クロエは表情を変えなかった。

 

 

 ココの呼吸は浅い。

 

 けれど止まってはいない。

 

 血析の結果として、ギリギリ致命傷ではないことは確認済みだった。出血量が多いだけで、応急処置を施せば十分保たせられる範囲。

 

 そして、何より彼女の魂の構造はまだ、しっかりとここにある。

 

 

 クロエはココの頬についていた、残りの血をもう一度指で軽く拭った。

 

 今度は舐めなかった。別に舐めたくて舐めてる訳じゃないし、とはクロエの感想。

 

 ただ、自分の戦闘服の布地でその血を軽く拭き取る。

 

 

 そして、左の手のひらをココの右脇腹、傷の上に軽く当てた。

 

 

 戦気を流す。

 

 

 攻撃用ではない。逆方向の流れ。

 

 向こうの世界で、自分の身体を組み替える時に使っていた修復系の戦気を、相手の身体に向ける。

 

 血管を繋ぎ直す。

 

 筋繊維を整える。

 

 皮膚の裂け目を寄せる。

 

 

 淡い、青みがかった燐光が、クロエの手のひらの下で一瞬灯った。

 

 そして消えた。

 

 

 出血が止まる。

 

 深い傷が表面だけ薄く塞がる。

 

 完全な治癒ではない。あくまで応急処置。けれどこれでココは、運ぶ間に死ぬ心配はなくなった。

 

 

 ──……。

 

 

 クロエの目には表情の動きはなかった。

 

 ただ、手のひらの下でココの呼吸がわずかに深くなったのを確認した。

 

 生きている。

 

 生かした。

 

 なら、大丈夫だろ。

 

 

 クロエは手を離し、ココを抱え直した。

 

 

 

 ──最初に抱き留めた時の雑な手つきは、もうどこにもなかった。

 

 

 右腕を、ココの背中の下に丁寧に回す。

 

 左腕を、ココの膝の裏にすくい上げるように添える。

 

 位置を調整する。

 

 ココの頭が、自分の鎖骨の少し下のあたりに収まるように。

 

 白い髪が、自分の戦闘服の留め具に絡まらないように。

 

 先ほど塞いだ右脇腹の傷に、力が加わらないように。

 

 

 お姫様抱っこ、と呼ぶ姿勢の最も丁寧な形。

 

 

 動作の中に優しさがある。

 

 

 けれど、その優しさは、誰かに見せるためのものではない。

 

 自分が、そうしたいと思ったからそうした。

 

 たぶん、自分でもなぜそうしたのか説明はできない。したくないし。

 

 

 ──さっきまでとは別人みたいだった。

 

 

 けれど、クロエ自身は自分の動作の変化に、まったく気づいていなかった。

 

 たぶんずっと、気づかない。

 

 半分は自覚していて、認めていないだけ、なのかもしれない。

 

 

 視線を上げた。

 

 下層、六十一階層の暗闇の奥。

 

 まだ複数の魔物の気配がある。

 

 近づいてくるものもある。

 

 

 クロエは、ぽつりと呟いた。

 

 

「今回は、いいか」

 

 

 そして軽く息を吐いた。

 

 

「とりあえず、このガキを上にやってから、今後のことは考えるか……」

 

 

 いつもの低温の声。

 

 いつもの、めんどくさそうな独白。

 

 けれど、ココを抱える腕の力は、最初に抱き留めた時とはもうまったくの別物だった。

 

 

 本当にほんの少しだけ丁寧だった──では、足りないほどに。

 

 

 クロエは、それに、気づいていない。

 

 

 けれど、それは今はどうでもいいことだった。

 

 

 ◇

 

 

 黒と赤の長い髪が、瘴気の風に揺れた。

 

 

 クロエの腕の中で、白い髪の少女の顔が静かに安らかになっていった。

 

 

 血の匂いがまだ残っていた。

 

 けれど、その血の中に混ざっていたほんの一滴。

 

 クロエの舌の上に残ったままの、その味はなぜか、奇妙に懐かしかった。

 

 

 ──……。

 

 

 クロエはココの顔をもう一度見下ろした。

 

 そして、何も言わなかった。

 

 

 下層、六十一階層の入口まで、彼女は歩く。

 

 

 これが、後の『伝説のはじまり』と言われる原初の邂逅だったりする。

 

 

 

 

【えぇ……なんか怒号の展開すぎて訳わかめ】

【とりあえず、コメ欄のほとんどが無量空処くらってるから、代弁するわ

 

 

 

 

 

 

 

 

『ココちゃんマジで助かってよかったあぁぁぁぁぁ!!!!』】

 

【それな】

【それな】

【それな】

【それな】

【うお、急に復活すんなや、死んどけや】

【さすがに辛辣すぎて草】

 

 

 

 

 ★☆★

 

 作者は官能小説が大好きです。

 あと、リョナ大好き変態です。

 

 多分、今後長ったらしい文章はあんまない、かも、しれない……お、重くなるし。

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