ダンジョンにはTSがつきもの 〜TS転生した怪物は自分への愛が強すぎる〜   作:炭水化物は飲み物

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官能小説読んだあとに書くのダメだわ。
最悪例の部分だけ削除するかも…羞恥心で


☆ 生の謳歌 ☆

「人が娯楽を知るのは、明日も生きていると信じられるようになってからだ。飢えた獣に、味の良し悪しなど分かりはしない」

 

 

 ――明日見獣道『生存圏における娯楽論』

 

 

 ◇

 

 

 その日の千葉支部は、朝から妙にざわついていた。

 

 受付ホールに人が多い。それも、依頼の貼り出しを眺めるでもなく、酒場へ流れるでもなく、ただ手持ち無沙汰に柱の陰や壁際にたむろして誰かを待っている。探索者の装備をした男たちが似たような顔つきで入り口のほうをちらちらと窺っていた。

 

 話の中身はどれもひとつのことに収束していく。

 

 千葉ダンジョン。五大ダンジョンと呼ばれる、この国でも指折りの大穴のひとつ。確認された人類到達記録は、長らく七十四階で頭打ちになっていた。組織された特級、Sランク探索者で固めたパーティが何ヶ月もかけてようやく一層を削り取る。未踏の一層に踏み込むには数ヶ月から数年間。それがこの数年の動かしようのない常識だった。

 

 その記録が昨日、一夜にして塗り替えられた。

 

 ソロによって。

 

 配信に張りついていた者たちが、口々にその名を交わしている。

 

 

「見たか、昨日のあれ」

「見た。八十のボス倒したと思ったら、そのまま九十まで下りていったぞ」

「あのダンジョンの八十階層のボスヤバすぎるだろ。他の五大ダンジョンの最下層でもあんなバケモン見たことねぇよ…」

「九十のボスなんて、竜どころじゃなかっただろ。武器が無限に生えて飛ばしてくるとか、悪夢かよ」

「あれをソロ、しかも一方的に殺してたぞ…? ありえねぇよマジで…」

「他の特級の配信も見たことあるが、同じレベルだったぞ」

「てことは特級?」

「いや、まだ…」

「同接もダン生過去最高記録更新。あの見た目とのギャップも加味してとんでもないことになってた」

「マジであの見た目だけでもイける。なんなら男なら尚良」

「おいコイツあの変態コメント野郎じゃねぇかたたき出せ」

「ギルドから聞いた話だと、パーティーも未登録。完全にソロで、しかもどのランク表にもねぇんだとさ」

「はぁ? 特級じゃねぇのかよ!? マジで何者なんだよ!」

 

 

 話が一巡するたびに、ホールの空気がひと回り張り詰めていく。

 

 考察好きの古参が指を折りながら階層更新の異常さを並べ立てる。その隣で、配信の救出回を引き合いに出して助けられた白髪の少女との関係をしきりに気にする者がいる。初めてその話を聞いた新人が目を丸くし、酔狂な野次馬が「どうせ運営の仕込みだろ」と茶々を入れ、それを古株が鼻で笑って黙らせる。

 

 誰もがその人物を一目見たがっていた。

 

 前人未到の階層を、可愛い服を買う金欲しさに散歩のように踏み抜いた化け物を。

 

 その化け物はホールの奥の鑑定カウンターにいた。

 

 

 鑑定士の男は、さっきから一言も発していない。

 

 カウンターの上には見たこともない素材が積み上がっていた。虹色に光る巨大な鱗。腐った魔力の流路ごと干からびた、八つの未成の蛇頭。六本脚の異形の、青白い複眼を連ねた外殻。そして、こぶし二つ分はある黒い魔石。芯のほうで赤と紫の光がゆっくりと渦を巻いている。

 

 どれもこれも、図鑑に載っていない。値のつけようがない。まさに未知。不明。なにこれ。

 

 鑑定士の手が何度も止まる。止まっては額の汗を拭い、また天秤に手を伸ばし結局また止まる。背後では協会の上役が腕を組んで唸り、別の職員が血相を変えてどこかへ走っていった。査定額の桁が、この支部の過去の記録を軽々と飛び越えていく。

 

 その素材を出した張本人は、カウンターの前でぼんやりと立っていた。

 

 小柄な少女だった。

 

 夜をそのまま糸にしたような黒髪に、燃え残りのような赤が潜んでいる。光の角度が変わるたび黒の奥から赤がちらつく。肌は陶器のように白く、底の見えない黒い瞳がどこを見るともなく宙に向けられていた。

 

 ざわめいていたはずのホールが、いつの間にか静かになっていた。

 

 最初に黙ったのが誰だったのか、もう誰にも分からない。ただ、入り口のほうから順に波が引くように声が消えていった。

 

 探索者たちがその少女を見ていた。

 

 誰も瞬きをしない。

 

 まるで、天才の絵師が、それも一人や二人ではなく、数百人が数十年をかけて模索の果てにようやく一枚の絵を完成させ、そうしてその絵が額縁を抜け出して現実に立っているかのようだった。色のひとつ、細部、線のひとつに至るまで、人の手で意図して整えられたとしか思えない。偶然では、こうはならない。

 

 恐怖ではなかった。憧れとも違った。

 

 視界に入った瞬間、人間の処理が一拍遅れる。理解より先に見惚れが来る。そういう類いの美がそこにあった。

 

 受付カウンターの女性も例外ではなかった。

 

 同性であるはずなのに、彼女は完全に手を止めて口を半開きにしたまま、少女に見入っていた。頬がじわじわと赤くなり瞳の焦点が合わなくなっていく。

 

 なのに――書類を捌く手だけはなぜか正確に動き続けていた。

 

 判子を押し、控えを切り取り、次の用紙へ。意識はとうにどこかへ飛んでいるのに、長年の習慣だけが勝手に職務を遂行している。クロエは少し困惑した。

 

 静寂の中心でその少女だけが何も気づいていないようだった。

 

 ただ、ぼうっと虚空を見つめている。

 

 

 ◇

 

 

 ……あの戸籍と口座、誰が用意したんだろ。

 

 俺は、ぼんやりとそんなことを考えていた。

 

 素材を出してから、鑑定士のおっさんがやけに難しい顔で唸っているが、まあそれはどうでもいい。値をつけるのが大変なのは向こうの仕事だ。気に食わなかったら話し殺いだ。俺は俺で別のことに思考を巡らせる。

 

 ここに来て、素材を売ろうとした。当然、登録だの身分だのを求められると思っていた。なにせ俺はこの世界に来たばかりで戸籍も何もないのだから。第一話の時点でそれはもう確認している。戸籍ないなったな、めんどくせ、と。

 

 メタイヨォ~

 

 ところが、だ。

 

 端末を差し出した瞬間、職員は何の疑問も持たずに手続きを進めた。俺の登録はとっくに済んでいた。身分も、口座も、振込先まで。。最初から綺麗に整っている。査定の金は後日その口座に送られてくるらしい。

 

 ……誰がやった。いやなんとなく分かるけども。

 

 前の世界なら、即座に警戒する場面だ。誰かが俺の知らないところで、俺の周りを勝手に整えている。これはそういう嫌な気配の手口だ。心当たりが、ないわけじゃない。あのマンションも同じだった。帰る場所が最初から用意されていた。風呂の香りの瓶まで揃っていた。

 

 誰かが俺のために生活ごと先回りして揃えている。

 

 

 ──……ま、後で考えるか。

 

 

 その方向を辿ろうとした瞬間、胸の奥がもやっとしたのでいつものように放り出した。考えるのは後でいい。今はどうせ答えが出ない。出たところで面倒なだけだろう。どうせアレだろうし…。

 

 そう決めて、ようやく俺は周りを意識した。

 

 

「……わっ」

 

 

 思わず、声が漏れた。

 

 人が多い。やたらと多い。いつの間にかホールが人で埋まっている。それも、全員がこっちを見ている。視線が束になって突き刺さってくる。

 

 反射的に、身体が半歩沈んだ。

 

 戦気が勝手に首筋から末端へ走りかける。重心を落とし最短で動ける形に骨を組み替えいちばん手前の数人の急所を無意識のうちに数えていた。

 

 囲まれている。逃げ場の少ない屋内。出入り口は背後の一箇所。これだけの数で一斉に来られたら――。

 

 

 ──……襲撃か?

 

 

 そこまで考えて、止まった。

 

 ……いや。

 

 よく見れば、こいつらは武器を構えていない。殺気もない。流れてくるのは警戒でも敵意でもなく、もっと締まりのないふわふわした視線ばかり。

 

 なにこれ。

 

 しばらく考えて、思い当たった。

 

 

 ──あぁ。配信のやつか。

 

 

 さっきのあれだ。八十だの九十だの、人類記録だのとやたら騒がれていた。それで、俺の顔を拝みに来たということらしい。情報出回るのはやない? まだ配信切って2時間も経ってねぇぞ。野次馬すぎる。

 

 他人が穴の奥で何をしようが、自分の身に関わりがあるわけでもないだろうに。わざわざ集まって、遠巻きに眺めて何が面白いのか。

 

 もっとも、それだけ暇だということでもある。命の取り合いをしていない。今日生き延びるために必死になっていない。だから他人の偉業なんてものを娯楽として消費する余裕がある。

 

 平和な証拠だ。

 

 正直面白くはないがな。

 

 誰も命を懸けていない。誰も本気で何かを奪い合っていない。穏やかで退屈な世界。俺の血が沸くようなものはこの群れの中には一人もいない。

 

 まあ、それはそれとして。

 

 俺はカウンターのほうへ向き直った。

 

 

「お、おお、終わりま、終わりました、です」

 

 

 受付の女が、妙にどもっていた。顔が茹でた蛸みたいに真っ赤だ。なぜかこっちと一切目を合わせようとしない。書類だけを両手で差し出してくる。

 

 ……熱でもあるのか?

 

 査定の総額は、あと数時間のうちに口座のほうへ振り込まれるという。今のところは控えだけ受け取っておけばいいらしい。素材は協会が買い取り、足のついた額は…なんというか、俺の想像していた「可愛い服が何着か買える」という規模をだいぶ通り越していた。

 

 ひぃふぅみぃ…この世界の通貨と前の世界で……数億…ふぅん。悪くない。これだけあれば当分は服にも化粧にも困らない。

 

 

「ん」

 

 

 了解、という意味で……ちょっとした好奇心による、ピースをしてみる。配信の最後らへんで『アヘ顔ダブルピースをして〇〇をぶち込まれながら〇〇〇〇で〇〇〇のような格好で街中で〇〇〇して欲しいです』みたいな、よく分からないものがあった。

 

 大半何書いてんのかわからなかったが、とりあえずピースという単語だけ分かった。あの後、コメントがソイツに対して殺害予告をしてたな。相当ブチ切れていた。

 

 俺のピース返事を見た瞬間。

 

 受付の女が、ぴた、と固まった。

 

 数秒の沈黙のあと、彼女の鼻から、つーっと赤いものが垂れた。

 

 

「……?」

 

 

 な、なんだ。怪我でもしていたのか。鼻血なんて、戦ってもいないのに。

 

 コイツもあれか、『ち、血を流しながら「まふちゃん、お前の臓腑で家具を作らせろ」とお願いしてくだしゃい…! なんなら今すぐにでもお試しでやって!!!』と息を荒々しくして鼻血出してたあのイカれた女共と一緒なのか。

 

 ……要注意人物、と。

 

 まあ、人間には人間の事情があるんだろう。俺は深く詮索せず、控えを格納庫の隅に放り込んだ。出来れば記憶を消しておきたい。

 

 さて。帰るか。

 

 振り返って、出入り口を見る。

 

 

 ……塞がっている。

 

 

 野次馬どもが、出口の前にみっちりと群れていた。完全に道を塞いでいる。俺を見るために集まったくせに、いざ俺が出ようとすると誰も動かない。突っ立ってぽかんとこっちを眺めているだけだ。

 

 めんどくさいなぁ。

 

 数人がようやく我に返ったらしい。あ、と声を上げて慌てて左右に身を引き、道を空けようとし始める。

 

 だが、人間の動作というのは遅い。

 

 退こうとして、ぶつかって、よろけて、また退いて。その一連がもたもたと展開されていく。完全に道が開くまであと数秒はかかるだろう。

 

 待つ理由はない。

 

 俺は、開きかけた人垣のほんのわずかな隙間に目をつけた。肩と肩の間。腰のひねりひとつぶん。普通の人間なら通れない、けれど俺の今の身体なら、余裕で抜けられる幅。

 

 踏み込む。

 

 身を細くして隙間へ滑り込む。誰の肩にも触れず、誰の足も踏まず、流れる水みたいに人垣の内側を縫っていく。一人が「あ」と気づいた時には、もう次の隙間に移っている。

 

 一秒もかからなかった。

 

 気づけば、俺は包囲の外に立っていた。

 

 

「……ふぅ」

 

 

 背後でようやく道が開ききった。誰もいなくなった空間に向かって間抜けに手が差し伸べられている。当の本人は、もうとっくにそこにいない。

 

 何事もなかったように出口へ歩いていく。

 

 ――と。

 

 背中に、ほんの二筋。

 

 明確に俺の動きを追っている視線があった。

 

 

 他の連中の束になっただけの締まりのない視線とは種類が違う。あの一瞬の人垣抜けをちゃんと目で捉えていた者が二人。野次馬の中に紛れている。

 

 俺は歩きながら、混魂《サイト》を薄く流してそいつらの輪郭を読んだ。

 

 一人は分かりやすい。

 

 戦気にも似た、しっかり練り上げた力の流路。骨の据わり方、重心の沈め方。上級探索者。それも相当に。この群れの中では頭ひとつ抜けている。俺の速さに辛うじて目だけはついてきた。なるほど、こいつとなら少しは遊べるかもしれない。

 

 ……ふぅん。悪くない。

 

 もう一人は――妙だった。

 

 強さの質が、さっきの男とは違う。力で追ってきたという感じがしない。もっと、底が読めない。輪郭そのものが、わざとぼかされているような、うさん臭さ。戦気でなぞっても、芯の手応えがするりと逃げる。変身か、投影か、そういう形をいじる類いの力の気配がうっすらと漂っている。

 

 戦って強いというより、まとわりつくのが得意な手合い。

 

 ……こっちは、別の意味で引っかかるな。

 

 まあ、どちらにせよだ。

 

 

 ──まだまだ、面白そうな奴等がいるじゃないか。

 

 

 口の端が、ほんの少しだけ持ち上がった。

 

 強い人間と殴り合いたい、というのは俺の数少ない意識的な目的のひとつだ。この退屈な平和の中にも、多少は骨のありそうな連中が混ざっている。それが分かっただけでも今日ここへ来た甲斐はあった。

 

 一応、二人の顔だけ、覚えておく。

 

 いつか、役に立つかもしれないからな。

 

 俺はそのまま、支部の扉を抜けて外の光の中へ出ていった。

 

 

 

 

「5%……いや、1%もないわ。何あの子バケモン過ぎない?」

 

 

 一人、冷や汗をかいている女性は、そのまま何事も無かったかのようにその場を離れる。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

「んっ…」

 

 

 湯が、俺を奥深くから侵食していく。

 

 骨の芯、細胞の隙間にまで凝り固まっていた戦の怪物としての自意識が、この花を模した甘い香りの水の中でじわじわと、かつてないほど無残に形を失ってふやけていく。

 

 誰の殺気も届かない、誰も俺を害することのない透明な結界。その静寂の中で、武器を奪われ、ただの「生きている生身」に引きずり戻された肉体と対峙する時間は、あまりにも速度を欠いていて、目眩がするほどに退屈で、そして恐ろしいほどに甘美だった。

 

 

「んっ…んぅ」

 

 

 ふと、水面に映る、湯気と油分を吸って艶めく己の輪郭が目に入る。

 

 これまで敵を断ち切り、返り血を浴び、硝煙を燻らせるためだけの無機質な「鋼の道具」でしかなかったはずの部位が、お湯の屈折のせいでひどく無防備に生々しく波打っている。

 

 鎖骨のくぼみに溜まるきらめく水滴、濡れて肌に張り付く髪、今まで意識すらしてこなかった胸元のなだらかな傾斜、そこから続く腰のくびれ、そして湯の中で一層白さを増していく太腿の吸い付くような柔らかい肉。

 

 

「ぁ…っ」

 

 

 それらは、軍律という名の強固な鎧を剥ぎ取られたことで初めて露わになった得体の知れない、今すぐにでも熟れ落ちそうな「果実」のようだった。

 

 見入れば見入るほど、喉の奥が乾いて胸の奥が不規則に騒がしくなる。

 己の肉体でありながら、まるで他人の最も深い秘め事を至近距離で覗き見しているかのような、じっとりと肌にまとわりつく背徳感。そして、その秘められた内側をもっと、もっともっと隅々まで触って暴いてみたいという、底の割れた器のような際限のない好奇心と脈動。

 それが全身の肌を粟立たせ、奇妙などろりとした熱となって下腹部へと一点に集まっていく。

 

 この、皮膚の内側から突き上げてくる衝動を、かつての俺は知らなかった。どんな凄腕の暗殺者に刃を突きつけられるよりも、ただ鏡の前で己の瞳に舐め回され、視線だけで輪郭をなぞられることの方がずっと俺の理性を芯から狂わせていく。

 逃げ場のない熱気に当てられ、もう身体を繋ぎ止めていた理性の糸はどこを探しても一本すら残っていなかった。

 

 俺は、自らの熱を孕んだ指先をその水面下の柔らかな境界線へと、深く滑り込ませた。

 

 

「っ〜〜〜〜!!!」

 

 

 一度、大きく背中が跳ねるようにして、脳の奥の細い線が焼き切れる。戦気の爆発によって神経が昂るのとはまるで違う。

 

 身体の内側、最も柔らかい粘膜から直接脳髄を焦がすような、痺れるような麻痺。快楽という名の激しい拒絶反応。

 だが、一度決壊してしまった欲の器は、それしきの衝撃では到底満たされはしなかった。

 

「これで終わりだ」と、頭の片隅で冷えかけた俺が呟くのを無視して、二度目、三度目と重ねる。

 

 寄せては返す容赦のない潮のように、さらに高い熱が内側から押し寄せ、そのたびに俺の境界線はさらに深く、湯の中に溶けてふやけていく。

 

 四度目、五度目。時間の感覚はとうに消え失せ、今が昼なのか夜なのか、何分が経過したのかも分からない。ただ、指先が狭い水槽の中で描く不埒な軌跡と、水音、そして自分でも聞いたことのないような、低く荒くなる呼吸だけが、湿った浴室の壁に反響して鼓膜を打っていた。

 

 

「~~~~~っ!!!!」

 

 

 肌は摩擦と充血によって、痛々しいほどに鮮やかな朱に染まり、ふやけて感覚の鋭敏になった指先は、まるで自分という存在が確かにここに在ることを、何度も、何度も、強迫観念のように確かめるようにして執拗に引き金を弾き続ける。

 

 これほどまでに自分という肉体は貪り尽くせるものだったのか……!

 

 最後、六度目のすべてを白白と燃やし尽くすような大きな波が押し寄せ、己の最奥から何かが決定的に溢れ出し、それが湯の中に溶けて完全に浚われていったとき、俺の内側を満たしていた底なしの渇きは、ようやく泥のような深い虚脱と静寂に変わった。

 

 

 すっかり冷めてしまった浴室で、白く曇った鏡を手のひらで乱暴に拭うと、そこにはお湯の熱だけではない、酷く生々しい理由で上気した顔の視線の定まらない『俺』が立っている。

 指先や手のひらに残る、自分のものなのに、どこか他人の、あるいは野生の「獣」のような、濃厚で生々しい匂い。

 俺はそのすべてを、胸の乱高下が収まるのを待ちながら、シャワーの冷たい水で、ただ静かに形を消すようにして洗い流した。

 

 

 

 ◇

 

 

 最高に気持ちよかったです。

 

 

「……やりすぎた」

 

 

 思わず、乾いた声が漏れた。

 

 だるい。ひどく、だるい。戦ったあとの疲労とはまるで種類が違う。あれは熱を持った剥き出しの鋭い痛みだ。だが、こいつはもっと内側の、芯のほうが限界までふやけて、形を失ったかのような気だるさだった。指の先までとろとろになって、ろくに力が入らない。

 

 

 ……ナンデコンナニイタインダ(現実逃避)

 

 

 念のため戦気で全身を一周、くまなく確認してみる。骨も、筋も、異常なし。どこも壊れていない。(現実逃避パートツー)

 なのに、肉体のあちこちが妙にズキズキと鈍い熱を持って主張してくる。

 

 特に、何度も繰り返し同じ軌道を往復させられた右の指先。酷使されすぎて、かすかに震えている。

 そして何より、あの短い時間の間に、一度ならず、二度、三度……いや、両手でも足りなくなるほど、何度も激しい「天頂への跳躍」を強いられた下腹部の奥のほうが、まるで休むことなく局地戦を繰り返したあとのようにじくじくと痺れていた。

 

 外傷は一切ない。それなのに、ただ真っ直ぐ立っていることすら足の付け根に力が入らずに笑ってしまいそうだ。敵の強力な呪詛かあるいは精神攻撃でも喰らったかのようなこの不可解な消耗の正体。

 

 

 ──本当になんだろうか(パートスリー)

 

 

 ずっと張りっぱなしだった糸が、生まれて初めて全部ゆるんだ。

 緊張が抜けると、人間ってのはこんなに腑抜けるものらしい。おまけに、己の好奇心の赴くままに、何度も何度も「果実」の甘い蜜を搾り取るような真似をすれば、戦場よりもし烈に体力を削り落とされる。

 

 ……知らなかった。

 数百年生きて、数多の修羅場を潜り抜けてきて、知らないことがまだこんなにある。

 

 同じ引き金を、指の感覚が麻痺するまで弾き続けることが、これほど全身にガタが来るような痛みを伴うものだとは。あの狭い水槽の中で、俺は一体、何回「自分」に敗北したのだろうか。

 

 濡れた髪を適当にタオルで挟んで、鏡の前に立つ。黒に赤の差した髪が、湯気で湿っていつもより重たげに垂れている。白い肌がほんのり桃色に上気していた。

 

 ……うん。やっぱり俺は美しい。

 

 我ながらよくできた造形だと思う。何度見ても飽きない。鏡の中の自分に向かって軽く首を傾げてみる。傾げた角度がまた可愛い。

 

 これほど美しい「敵」に、六度も立て続けに急所を突かれたのだ。俺の身体が腰から砕け、これほど痛みを訴えているのも、これはもう、不可抗力の必然というやつだろう。我ながら、腹が立つくらいによくできている。

 

 と。

 

 首筋の標が、ぴく、と微かに反応した。

 

 遠くから、薄い波形が届いている。淡い、ピンクの霞みたいなやつ。憧憬と懸想。そこに、依存と執着のごく薄い影。

 

 ……ああ。あのガキまだ生きてんのか。

 

 千葉の穴で拾った白い髪の。死にかけのくせにしぶとく息を繋いでいたあのガキだ。標を残しておいたからこうして時々、向こうの感情が勝手に流れ込んでくる。

 

 相変わらず、ピンクだなぁ。

 

 まあ、いい。前の世界の連中が灼熱の真紅だったとすれば、こいつのは、淡いピンクの霞ぐらいの差がある。可愛いもんだ。まだ『あっち側』には入っていない。なら、急いで対処する必要もない。

 

 波形を頭の隅に放り込んで俺は鏡から離れた。

 

 さて。

 

 ここからが、本番だ。

 

 

 ◇

 

 

 タオルを巻いたまま、端末を手に取る。

 

 『Danzon』。注文すると、早ければ数十分、遅くとも一時間ほどで、頼んだものが家まで届くらしい。便利な世の中だ。前の世界では、欲しいものは死体から剥ぎ取るか、店ごと潰して奪うかの二択だったから、こうして指先ひとつで物が湧いて出てくるのは、なんだか魔法じみている。

 

 査定の金は、まだ口座に届いていない。だが、控えがあれば与信がどうとかで、先に買えるらしかった。仕組みはよく分からん。とにかくそういうことだ。

 

 俺は片っ端から物を放り込んでいった。

 

 まずは、服。

 

 可愛いやつを、とにかく可愛いやつを。白いふわふわのワンピース。リボンのついたブラウス。それから、黒いレースをふんだんに使ったゴスロリ、とかいうやつ。画面の中の見本を見た瞬間これは絶対に俺に似合うという確信があった。黒と赤の髪に、黒のレース。間違いない。役満だ。

 

 下着も、適当に。普通のやつから、なんだか紐みたいに面積の小さいやつまで、面白半分で籠に放り込んだ。よく分からんが、種類が多いと選ぶ楽しみがある。これも娯楽というやつだろう。ダブル役満。

 

 次に、目についた魔法具。

 

 効果がよく分からないものを、面白そうというだけの理由でいくつか。光るやつ、音が出るやつ、温度を変えるやつ。実用性は二の次だ。新しい玩具はいじってみないと値打ちが分からない。

 

 それから――武具。

 

 こっちは、解析用だ。この世界の剣だの槍だのが前世のものと比べてどういう作りになっているのか、一度ばらして調べてみたかった。鍛え方、魔力の通し方、付与の仕込み方。データは多いに越したことはない。戦闘狂の血はこういうところで顔を出す。可愛い服を選ぶ指と武器を物色する指が同じテンションで動いているのが我ながら愛おしく感じる。ローカル役満。

 

 ……ま、両方とも俺だし。

 

 矛盾は感じない。

 

 注文を確定すると、ほどなくして扉の向こうに荷物が届いた気配がした。標で探るまでもない。

 

 俺はわざわざ玄関まで歩くのも面倒なので、その場で戦気を編んで、虚空格納庫の口を扉の外の荷物のあたりに薄く展開した。

 

 すっ、と。

 

 箱が音もなく格納庫へ吸い込まれ、次の瞬間には俺の足元の床にどさどさと積み上がる。受け取りも、開封も、運搬も、全部すっ飛ばして物だけが手元に湧いた。

 

 配達しているロボットが混乱していたが……まぁ、そういうこともある。

 

 積み上がった箱を片っ端から開けていく。

 

 ふわふわのワンピースを広げ、身体に当ててみる。鏡の前で、くるりと回る。裾がふわっと広がった。

 

 

「……うん。可愛い」

 

 

 トリプル役満だ。

 

 黒いゴスロリのほうも当ててみる。これもいい。どっちもいい。甲乙つけがたい。むしろ両方着たい。日替わりでもいい。

 

 化粧道具も適当に揃えた。使い方はまだよく分からないが、覚えればもっと可愛くなれるという確信だけはある。

 

 これが買い物というやつか。

 

 欲しいものを、欲しいだけ、自分のために買う。無駄だと、前の世界では切り捨てていた行為。戦いの役に立たないものに金と時間を費やすなんて、馬鹿のすることだと思っていた。

 

 なのに今はこれがたまらなく楽しい。

 

 自分が惚れた、自分のために。可愛い俺を、もっと可愛くするために。金を注ぎ込む。

 

 ……ふにゃ、とする。

 

 頬のあたりが、勝手に緩む。戦場のあの冷えた温度とは正反対。だらしない、と言われればその通りなんだろうが別にいい。誰も見ていない。今は俺が、俺のために、緩んでいられる時間だ。

 

 

 ◇

 

 

 そして。

 

 いよいよ、本命だ。

 

 俺が、今日いちばん楽しみにしていたもの。

 

 

「……食い物」

 

 

 前の世界でも美味いものはあった。食べたこともある。だがそれは、本当の意味での「天然」ではなかった。

 

 あの世界で「天然」と呼ばれていたものは要するに、人間が改良に改良を重ねた環境で育てた人工物だ。土も、水も、光も、全部調整されている。そして、その作物は「人間の味覚が、最も脳汁を溢れさせ、最大の幸福感を覚えるように」最適化されていた。

 

 美味い。確かに、美味い。だがそれは設計された美味さだ。誰かが人間を効率よく満足させるために計算して組み上げた味。

 

 本当の意味で、自然界で育ち、人間の手に一切汚されていない食べ物。

 

 そんなものはあの世界にはなかった。幻だった。

 

 ……それが、この世界には当たり前に在るらしい。

 

 俺は、緊張していた。

 

 この身体になってから、前であっても、敵を前にしても緊張なんてしなかった俺が、たかが食い物を前にして指先がわずかに固くなっている。

 

 馬鹿げている。だが、本当だ。

 

 Danzonで、果物を大量に注文しておいた。オーソドックスなものから、よく分からない珍味まで。林檎、葡萄、桃、苺。それから――ドリアン、とかいうやつ。

 

 箱を開けた瞬間、強烈な臭いが、鼻を突いた。

 

 ……うぇぇ。

 

 むわっとした、甘いような、腐ったような、ガスのような。普通なら顔をしかめて遠ざける類いの臭い。なんならちょっとしてた。

 

 それも上回るほど、興奮したのもそう。

 

 この、容赦のない臭さ。人間に媚びていない、この強烈な自己主張。これこそが、誰の手にも調整されていない、天然由来の証なんじゃないか。あの世界の計算され尽くした「美味い臭い」とは、まるで違う。野生のありのままの匂い。

 

 ……いい。

 

 山盛りの果物を皿に飾る。色とりどりの、つやつやした塊。眺めているだけでなんだか心臓のあたりがそわそわする。

 

 まずは、桃。

 

 手に取ると、産毛の生えた皮が、しっとりと指に吸いつく。爪を立てると、薄い皮がつるりと剥けた。中から、淡い黄みを帯びた透き通るような果肉が現れる。指で割ると果汁が、つ、と糸を引いて滴り落ちた。

 

 口に、運ぶ。

 

 齧った瞬間。

 

 

「――……っ」

 

 

 息が、止まった。

 

 果肉が、歯の間でほろりと崩れる。崩れた断面から、冷たい果汁が舌の上いっぱいに溢れ出した。

 

 甘い。

 

 ただ甘いんじゃない。甘さの奥に、ほんのわずかな酸味があって、その酸味が、甘さの輪郭を、くっきりと際立たせている。香りが、鼻の奥から脳天へ抜けていく。果肉の繊維の一本一本が、舌の上でほどけて溶けていく。

 

 計算された味じゃない。むらがある。一口ごとに、甘さも、酸味も、わずかに違う。完璧じゃない。完璧じゃないからこそ、それが生きていた証拠だった。

 

 この桃は、土の中から水を吸い上げて、陽の光を浴びて、自分の力でこの甘さを作り上げた。誰の都合でもなく。誰の計算でもなく。ただ、そういうものとして実った。

 

 ……そうか。

 

 これが。

 

 これが、本当の、天然。

 

 次の一口を、口に運ぶ。止まらない。葡萄を、房ごと。皮ごと噛み潰すと、弾けるように、果汁が飛び散る。苺は先端のいちばん甘いところから。林檎は瑞々しい音を立ててしゃくりと。

 

 そして、ドリアン。

 

 あの強烈な臭いの正体を、口に入れる。臭いとは裏腹に舌に乗せた瞬間、濃厚なとろけるような甘さが広がった。クリームのようなねっとりとした舌触り。臭いと味のこの落差。なんというふざけた果物だ。

 

 最高だ。

 

 俺はもう夢中だった。

 

 言葉にならなかった。

 

 戦いの中で感じる、あの冷えた高揚とも、自分の身体を眺めるときの、あの甘い満足とも違う。もっと根の深いところが満たされていく感覚。

 

 生きている。

 

 俺は今、生きていて、平和な場所で、本物の食べ物を味わっている。

 

 追われていない。襲われていない。誰かを殺さなくていい。ただ座って、果物を食べているだけでこんなにも幸福だ。

 

 胸の奥のずっと冷えて固まっていた何かが、じわじわと溶けていくのが分かった。それが何なのか、俺にはまだうまく名前がつけられない。つけたくもない。ただ、悪いものではないらしい。

 

 気づけば山盛りだった皿は空になっていた。

 

 あんなにあった果物が、ひとつ残らず消えている。指先も口の端も果汁でべたべただ。

 

 腹が満ちている。前の世界での食事は、戦うための燃料補給でしかなかった。腹に詰め込んで、動ければそれでいい。味なんて二の次だ。

 

 今は違う。

 

 味わうために食べた。満たされるために食べた。そしてちゃんと満たされた。

 

 なんとうう。なんという。

 

 俺は空になった皿をぼんやりと眺めた。

 

 頭がふわふわする。風呂で緩んだ身体に、満腹と満足が重なって、もう何も考えられない。

 

 ふらふらとベッドのほうへ歩いていく。

 

 ふかふかの白い寝具。これも、誰かが用意したものだ。だが今はどうでもいい。

 

 そのまま、ぼすん、と身体ごと倒れ込んだ。

 

 柔らかい。沈み込む。

 

 目を閉じる。

 

 果物の甘さが、まだ、舌の奥に残っている。風呂の温もりが、まだ、肌の奥に残っている。

 

 誰も襲ってこない。

 

 ただ眠れる。ゆっくりと。

 

 

 ──……これが、幸福感ってやつか……。

 

 

 ぽつりと、こぼれた。

 

 誰に言うでもない独り言。

 

 戦いしか知らなかった。それ以外のものは全部、無駄だと思っていた。

 

 なのに。

 

 こんなにも、穏やかで、甘くて、満たされたものが世界にはあったのか。

 

 ……ふぅん。んふふ。

 

 悪くないなぁ。

 

 まぶたが、重い。意識が、温かい泥の中へゆっくりと沈んでいく。

 

 数百年生きて、初めて。

 

 俺は戦うためでも、生き延びるためでもなく――ただ、満たされて眠りに落ちた。

 

 その寝顔は、戦場の化け物の面影などどこにもない。

 

 ただの、幸せそうなひとりの少女のものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガシャン。

 

 1つ目、『食事の幸福感』によって、鎖が壊される。

 

 

 あと、『5つ』。

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