[仮] ユリ・プリンスと生命の水 作:K. L. Prince
貝殻の入り江に住むエミリーは、「どこから見ても、ごく普通の人間として生きている」───それが彼女のささやかな誇りだった。
不思議や神秘といったものを、彼女は決して否定しない。ただ、それらを自分の生きる場所に置かないだけだった。
その入り江に聞こえるのは、風と波の音ばかりだった。
朝になれば庭に出る。小さな畑に植えたハーブを摘み、丁寧に束ねる。それを籠に入れて町へ向かうのが彼女の日課だった。
エミリーのハーブはよく効くと評判だった。具合の悪い者がいればそれを差し出し、困っている者がいれば手を貸す。そうしてエミリーは、静かに人の役に立っていた。
細身の体つきに、どこか東洋の面影を残したその姿は、この町では少しだけ珍しかった。けれど、誰もそれを気にする者はいなかった。
かつて彼女の周りには、いくつもの声と、張りつめた気配があった。その記憶は、まだ胸の奥に生々しく残っていた。それでも、思い出さないで済む時間が少しずつ増えていた。
そんな中にも、確かに笑い合えた時間があった。 それだけは、今も失いたくない記憶だった。
辺りはまだ薄暗く、夜の名残がそこかしこに残っていた。東の空がかすかに白みはじめ、冷たい薄明かりが、濡れた庭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
しばらくして、太陽の光が少しずつ辺りを照らし始めた。
エミリーは窓を開けて、息をのんだ。海が、庭まで来ていた。昨夜の嵐が置き去りにした流木や海藻が散らばり、庭は見る影もなく荒れていた。それなのに、風は止んでいる。さっきまで吹いていたとは思えないほど、静かだった。こんなことは、初めてだった。エミリーはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
エミリーは窓を閉めると、急いで服を引っかけた。このままでは庭が酷いことになる。階段を駆け下り、玄関へ向かった。
目の前には、割れた貝殻や海藻、流れ着いたゴミが散らばっていた。磯の匂いと湿った木の匂いが入り混じっている。流木は畑の上に倒れ、元気に育っていたハーブが踏みつけられていた。
それでも、空はいつになく晴れ渡っていた。風はなく、海は穏やかに煌めいていた。
その光景はあまりにも静かで、どこか不自然だった。エミリーは呆然としながら、足元の貝殻を拾い上げた。
「やぁ!エミリー!」海から聞こえてくる声の方に顔を上げると、小さな船がゆっくりと沖を進んでいた。
「ロバートさん…」舵を取っているのは、毎朝家の前を通りかかっては挨拶をしてくれる漁師の姿だった。
「大丈夫か。ずいぶん荒れてるようだな」エミリーは庭を振り返り、苦笑した。
「ええ……こんなの、初めて」
「昨夜は風が強かったものな!」彼はそう言って慰めた。
「奥さんと、赤ちゃんは大丈夫ですか?」
「ああ、ぐっすりだ。」ロバートは笑った。
「風が少々強いくらいじゃ起きやしないさ!」エミリーも小さく笑い返す。
「今日は町に出るのか?」
「ええ、片付けが終わったらハーブを少し持っていこうかと」
「気をつけて行ってこいよ!」
「ありがとう」
「じゃあな」と船は汽笛を鳴らしゆっくりと離れていった。
ロバートの船を見送り、エミリーはもう一度庭を見渡した。ひどい有様だったが、立ち尽くしていても仕方がない。小さく息をつくと、彼女はゆっくりと歩き出した。
ふと、キッチンの奥深く、重い戸棚の裏。そこに隠したままの使い込まれた木片のことが、ふと脳裏をよぎった。かつて手放したはずのもの。もう二度と触れないと誓ったはずのものだった。「……やっぱり、やめておくわ」誰に言うでもなくそう呟いて、エミリーは手作業で片付けを始めた。
足の踏み場を作るように、散らばった海藻や流れ着いた折れた木を一つずつ脇へ寄せていった。
濡れた海藻は、思ったよりも重かった。引きずるたびに、ぬるりとした感触が手に残る。思うように作業が進まないながらも、彼女は黙々と手を動かした。
畑に目を向けると、育てていたハーブの上に大きな流木が倒れ込んでいた。エミリーは両手でそれを押し上げ、慎重に脇へとどかした。押し潰されていた葉が、ようやく朝の光に触れる。
足元には、いくつもの貝殻が散らばっていた。割れていないものだけを選び、泥をそっと払い落としていった。
「あとで、お願いしましょう」近所の人に頼めば、屋根にきれいにあしらってくれるだろうとエミリーは貝殻を大事に上着のポケットにしまった。
気がつけば、日はすっかり高くなっていた。一通りの片付けを終える頃には、庭にはようやく人が通れるだけの空間が戻っていた。エミリーは息を整え、畑の前にしゃがみ込んだ。残っているハーブの中から、まだ瑞々しいものだけを選んで摘み取った。だが、今日の収穫はわずかだった。
それでも束にして抱え、彼女は家の中へ戻った。
少し遅い朝食をとりながら、ゆっくりと身体を休めた。食器を片付けると、そのままキッチンに立った。摘んできたばかりのハーブを水で洗い、包丁で細かく刻んでいく。包丁さばきにもだいぶ慣れてきた。鍋に火をかけると、やわらかな香りがすぐに立ちのぼった。
「あの人も、驚いているかしら」ふと昨夜の嵐を思い出しながら、エミリーは静かにスープをかき混ぜる。
町に住む年老いた女性に届けるためのものだ。こんな日のあとだからこそ、温かいものがあればいい。
火を止め、味を確かめてから器に移す。身支度を整え、出かける準備をした。いつものように薄く化粧を施し、髪は手ぐしでまとめるだけだった。玄関の鏡に自分の顔を映し、ひとつ頷くと、スープとハーブの入った籠を手に、エミリーは外へ出た。
今日から十一月だというのに空気は寒さを感じなかった。草が生い茂る小道を早歩きで進んだ。道には、日が燦々と当たり乾いた砂の匂いがした。町の方向から二人の子どもが駆けてきた。
「エミリーさん!」女の子が手を振ってこちらへ向かってくる。エミリーは目を細めた。
その後ろから女の子より少し年上の少年が女の子の後を追ってきた。
「おはようございます。エミリーさん」彼女のスカートに飛びつく女の子。
「ダメだろ!メリア!」少年がメリアを叱った。「メリア、ヘンリー。おはよう。昨夜の嵐は凄かったわね。お家は大丈夫だった?」エミリーは訊ねた。
二人は顔を見合わせ首を傾げた。すると、ヘンリーが思い出したように口を開いた。
「あぁ、昨夜は少し風が強かったですね。家は大丈夫です」エミリーはそれを聞いて安心した。
「ねぇ、エミリーさん聞いて!昨日、とっても小さな子犬を拾ったの!」メリアは目を輝かせて言った。エミリーは微笑んで彼女の話を聞いた。
「でもね、ママが子犬は飼っちゃいけないって言うの」メリアは少し俯いた。
「仕方ないよ。うちは貧乏なんだから…」ヘンリーがメリアの肩に手を置いた。メリアは仕方がない事は分かっていた。
「その子犬はどうしたの?」エミリーは訊ねた。
「元の場所に戻した…可哀想に、ママを探すように鳴いてた…」メリアの顔が曇った。
エミリーはメリアの頭を撫でた。
「大丈夫よ、メリア。つらい思いをした子はね……」エミリーは少しだけ目を細めた。
「幸せになっていいのよ」それを聞いてメリアは顔を上げた。エミリーはメリアの頭を撫でたまま、少しだけ空を見上げた。
「………少し歌いましょうか」とエミリーはそっと息を整えた。さざ波が揺れる、どこか懐かしい調べ。子ども達は言葉の意味が分からなかった。
それでもメリアは、さっきまでの表情を少しだけゆるめた。
歌が終わると、メリアは満足そうに息をついた。
「ありがとう、エミリーさん」メリアの顔にはまた笑顔が戻っていた。
「ありがとう!エミリーさん。またね」ヘンリーが軽く手を挙げる。
「僕たち、今から貝を拾いに行くんです」二人は振り返りエミリーに手を振った。
「気をつけてね」エミリーがそう言うと、メリアは笑ってうなずいた。
「エミリーさんもね」二人はそのまま駆け出していった。
その背中は、すぐに海の光の中に溶けた。胸の奥で静かに違和感を感じたエミリーは、しばらく二人を見送ってから、ゆっくりと町の方へ歩き出した。
エミリーがエルムステッドの町に辿り着く頃には、日は頭の真上に近くなっていた。坂の先に、石造りの家々が見えてくる。灰色の壁と、くすんだ屋根瓦。窓辺には小さな鉢植えが並び、潮風に揺れた洗濯物が、家と家のあいだに細く渡された縄の上で、静かに揺れていた。
通りへ足を踏み入れると、石畳の上に靴音がこつりと響いた。遠くでは配達用のバンが石畳の上をがたつかせていた。どこかの店先からは焼きたてのパンの匂いが漂ってきた。
魚屋の前では、店主が威勢よく声を張り上げていた。その声に混じって、港の方からはカモメの鳴き声が流れてきた。エルムステッドの通りも、ようやく彼女の日常になりつつあった。
人々は朝の仕事に勤しみ、立ち話をする女たちの笑い声が通りを転がっていた。ブロンズ像の前を子どもが駆け抜け、犬がその後を追っていった。どこを見ても、昨夜の嵐の名残は見当たらなかった。エミリーは、思わず足をゆるめた。
家の庭に散らばっていた流木や海藻、濡れた土の匂いが、まだ指先に残っている気がした。それなのに、町は何事もなかったような朝の顔をしていた。理由もなく胸の奥がざわつく。けれどエミリーはその違和感を追いかけず、籠を抱え直した。
今日はハーブの量が少なかった。それでも、待っている人はいる。エミリーは、いつもハーブを置かせてもらっている薬屋へと向かった。
店先には、欠けた木の板に色褪せた文字で『ブラウン薬店』と記された看板が掲げられていた。町へ出る日は、注文を受けたハーブをそこで渡すことにしていた。店に辿り着くと、ガラス越しに店内が見えた。風邪薬や包帯の箱がきれいに並び、その片隅には乾燥ハーブの瓶も置かれていた。店の戸口からは、石鹸と乾いた薬草の匂いが静かに流れてきた。
エミリーは戸口に手をかけ、そっと押し開けた。ちりん、と小さなベルが鳴った。店の中の空気は、外よりも少しひんやりとしていた。そのとき、再びベルが鳴った。
「おはよう、エミリー」振り返ると、町外れの小さな屋敷に住むカーターさんが、買い物籠を腕に下げて立っていた。
口調は少しきつく聞こえるが、悪い人ではない。
「おはようございます」エミリーは軽く頭を下げ、籠の中から用意しておいたハーブの束を取り上げた。
「今日は少しだけ量が少なくて……ごめんなさい」カーターさんはそれを受け取り、ひと目見て小さく眉を上げた。
「あら、本当ね」そう言いながらも、声にとげはない。
「何かあったの?」エミリーは束を差し出しながら答える。「昨夜の嵐で、庭がだいぶ荒れてしまって…」その言葉に、カーターさんの動きがわずかに止まった。
「嵐?」
「ええ」カーターさんは少し考えるように首をかしげる。
「風は少し強かったけれど……嵐というほどだったかしら」エミリーは答えなかった。店の中には、さっきと変わらない静けさがあった。外からは、通りのざわめきがかすかに入り込んでくる。
「少なくとも、この辺りでは何もなかったわよ」カーターさんはそう言って、ハーブを籠にしまった。
「洗濯物が少し揺れたくらいで」その言葉が、妙に軽く響いた。
「……そうですか」エミリーはようやくそれだけを返す。カーターさんは小さな二ペンス硬貨をいくつか取り出し、エミリーの手に乗せた。いつものようにきちんとした口調で言った。
「ありがとう、助かるわ」その声は、やはりやわらかかった。エミリーは礼を言い、カーターさんを見送った。カーターさんが店を出ていくと、再びベルが鳴り、店の中は元の静けさに戻った。
残っていたハーブは、そのあとすぐに別の客が買っていった。量が少ないことを詫びると、相手は「今日はそれで十分よ」と気軽に笑った。籠の中が空になると、エミリーは小さく息をついた。
それから、店の隅に置いていたもう一つの包みを手に取った。スープはまだ温かかった。
ブラウン薬店を出ると、外の光が少しだけまぶしく感じられた。向かう先は、町の外れにある古い家。通りを離れ、静かな路地へ入ると、人の気配は少しずつ遠のいていった。行き着いた先にあったのは、ツタの絡まる小さな家だった。
石の壁はところどころ黒ずみ、窓枠のまわりを這う緑が、静かに外界を遠ざけていた。庭は荒れているわけではないが、どこか手入れの手が止まっているようにも見えた。背の低い柵の向こうで、風に揺れる草だけがかすかに音を立てていた。
窓は開かれており、そこから差し込む光が、部屋の奥へまっすぐに伸びていた。けれど、その光が強ければ強いほど、届かない場所の影は濃く、深く沈んでいた。そこに、年老いたマーサがひとりで暮らしていた。
エミリーは戸口の前で一度足を止め、小さく息を整えてから扉を叩いた。中から返事はなかったが、鍵はかかっていなかった。そっと扉を押し開けると、外から差し込んでいた光が、そのまま床の上に細長く伸びた。
「マーサ、入りますね」潜めた声でそう言いながら、中へ入った。
部屋の中は、思っていたよりも明るかった。
窓からの光が、ほこりの浮かぶ空気を淡く照らしている。その中央で、マーサは腰掛け椅子に座っていた。膝の上には、小さな人形があった。マーサはその人形を、まるで本物の赤ん坊に触れるような手つきで、そっと撫でていた。
「ほら、大丈夫よ」やわらかな声が、ぽつりと落ちた。
人形の髪を整え、頬に触れ、もう一度ゆっくりと揺らした。その仕草はどこまでも丁寧で、どこか懐かしいものを扱うようでもあった。エミリーは何も言わず、その様子を少しだけ見守る。やがて、マーサはふと思い出したように顔を上げた。
「あら……エミリー」その声は、さっきのカーターさんとは違う、少し遠くを見ているような響きだった。
「来てくれたのね」エミリーは微笑み、持ってきた包みを持ち上げる。
「スープを持ってきました。まだ温かいですが、少し温め直しますね」返事を待たずに、台所の方へ向かった。
小さな鍋にスープを移し、火にかけた。しばらくすると、白い湯気が立ちのぼり、部屋の中に温かな匂いが広がっていった。その匂いの中でも、マーサは相変わらず人形を抱いたままだった。
「いい子ね」そう言って微笑んだ。テレビのスイッチが入った。
少し遅れて、ざらついた音とともに画面が明るくなった。流れているのは、昼の番組だった。
人の声が、どこか遠くから響いてくるように部屋に満ちた。けれどマーサの視線は、画面ではなく、膝の上の人形に向けられていた。
まるで、そこにしか現実がないかのように見えた。
スープが温まるころ、エミリーは火を弱めて器に移した。湯気がゆっくりと立ち上る。
「さぁどうぞ、温かいうちに」そう言ってテーブルに置くが、マーサはすぐには手を伸ばさなかった。
代わりに、膝の上の人形の方へ視線を落とした。
「この子もね、さっき少しぐずっていたの」やさしく語りかけるような声だった。
エミリーは、その言葉に一瞬だけ手を止めた。
「……そうなんですね」それ以上は何も言わず、そっと椅子を引いた。
マーサは人形の頭を撫で、軽く揺らしながら続ける。
「でも、もう大丈夫。いい子だから」その声には、確かな愛情があった。
その愛情が本物であるほど、エミリーの胸は静かに締めつけられた。
窓から差し込む光が、テーブルの上に落ちていた。そのすぐ隣に、深い影が沈んでいた。
エミリーはその境目を、しばらく見つめていた。言葉にすれば壊れてしまいそうなものが、そこにある気がした。
やがてマーサはようやくスープに手を伸ばした。ひと口飲んで、小さく息をついた。
「……あたたかいわ。とても美味しい」少し間を置いて、マーサは続けた。
「あなたの手は、魔法の手ね」その一言に、エミリーはかすかに目を伏せる。
それ以上は、何も言わなかった。
ふと、テレビの音が部屋の隅でぼんやりと流れていた。画面の中では、誰かが早口で何かを伝えていた。
「——ロンドンでの爆発事故について、新たな情報が——」
音ははっきりしているはずなのに、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
「多数の死傷者が出ており——」
マーサは顔も上げず、また人形の髪を整えていた。エミリーもまた、その言葉を追おうとはしなかった。ただ、胸の奥のざわつきが、ほんの少しだけ強くなった。
マーサはスープを飲み終えると、満足そうに小さく息をついた。人形は、相変わらずその膝の上にあった。
「ありがとうね、エミリー」やわらかな声だった。
エミリーは静かにうなずき、立ち上がった。「また来ます」それだけを言って、部屋を見渡した。
窓から差し込む光は、さっきよりも少しだけ傾いていた。けれど、影の濃さは変わらないままだった。
テレビの音が、まだかすかに続いていた。
「——爆発の原因については、現在も調査が続いており——」
「ただいま、爆発事故の犯人の名前が公開されました。名前はシリウス───」
言葉ははっきりしているのに、意味だけが遠くにあるようだった。
エミリーはその音から目をそらし、扉へ向かった。
「気をつけて帰りなさいよ」マーサの声が背中に落ちた。
その言葉に、エミリーはほんの一瞬だけ足を止めた。
「……はい」振り返らずに答える。扉を開けると、外の光が流れ込んできた。
風が、静かに頬をなでる。家の中の空気が、すっと後ろへ引いていくようだった。
一歩外へ出ると、あの家の静けさが嘘のように遠くなった。けれど、胸の奥に残ったものだけは、消えなかった。
エミリーは扉をそっと閉めた。ツタの絡まる壁を一度だけ見上げてから、ゆっくりと歩き出した。
その日の帰り道、エミリーはほとんど何も考えずに歩いていた。風の音と、遠くの波の音だけが耳に残っている。家に着くころには、空の色は少しずつ傾きはじめていた。玄関へ向かう前に、エミリーは一度だけ庭を見回した。
朝のうちに足の踏み場は作ったものの、流木も海藻も、まだ庭のあちこちに取り残されたままだった。畑のそばにも、折れた枝や濡れた砂が残っていた。
西日に照らされたそれらは、かえって片付かなさを際立たせて見えた。エミリーは小さく息をつく。——続きは明日でいい。
そう思って、扉を開けた。
ふと下を見ると、玄関の前にひとつの新聞が置かれていた。エミリーは足を止め、それを拾い上げる。指先に、紙のざらりとした感触が伝わった。一瞬だけ迷ったあと、ゆっくりと開いた。
そこに書かれていたのは、衝撃の知らせだった。
ジェームズ・ポッター、
リリー・ポッター 死亡
そして、赤ん坊だけが生き残った と。
エミリーの視線は、その一行に止まった。しばらく、動かなかった。その名を、エミリーは何度も目でなぞった。
読めているはずなのに、意味だけがどこか遠い。風に揺れる紙の音ばかりが、やけに現実のように聞こえた。その音だけが、やけに大きく響いた。
エミリーは、しばらく玄関の前に立ち尽くしていた。西日が強くなり、光が足元まで長く伸びていた。風が吹くたびに、冷えた空気が頬をかすめた。その冷たさに、ふと我に返る。
エミリーは扉を開け、中へ入った。家の中は、朝と変わらない静けさに包まれていた。籠を机の上に置き、手を洗った。指先に触れる水の冷たさが、やけにくっきりと感じられた。
火の様子を確かめようとしたところで、ふと動きが止まった。何をしようとしていたのか、一瞬だけ分からなくなった。そのまま、しばらく立ち尽くした。
部屋の中には、何も変わらない時間が流れていた。けれど、その中で何かひとつだけが確実に変わってしまったようだった。
机の上に置いた新聞には、もう手を伸ばさなかった。何かを考えようとするたびに、思考は途中でほどけていった。ただ、時間だけがゆっくりと過ぎていった。
火のはぜる音だけが、静かに部屋に満ちていた。エミリーは椅子に座ったまま、暮れていく窓の色をしばらく見ていた。
夜は、思っていたよりも早く訪れた。家の中には、火の音だけが静かに響いていた。エミリーは簡単な食事を済ませ、片付けを終えると、椅子に腰を下ろした。何かを考えようとして、やめる。
そのとき、扉を叩く音がした。控えめで、けれどはっきりとした音だった。
エミリーは顔を上げた。もう一度、扉を叩く音がした。こんな時間に訪ねてくる者など、ほとんどいない。
ゆっくりと立ち上がり、扉へ向かった。手をかけて、開く。外の夜の空気が、すっと流れ込んできた。
——誰もいない。そう思った、その瞬間。視界の端で、黒い影が動いた。遠くの方へ、滑るように。風に溶けるようにして、それは消えていった。
エミリーは思わず目を凝らした。けれど、そこにはもう何もなかった。ただ、夜の気配だけが残っていた。そして——足元に、小さな包みが置かれていた。
エミリーは、しばらくその場に立ち尽くしていた。足元に置かれた包みから、かすかな音がした。ほんの小さな、息のような音だった。ゆっくりとしゃがみ込み、手を伸ばした。布に触れた指先が、わずかに震えた。
ためらうように、包みを開いた。中にいたのは赤ん坊だった。小さな体は白い布にくるまれていた。静かに眠っているように見えた。その頬に、かすかな温もりがある。生きている。
その事実だけが、ゆっくりと胸の奥に落ちていく。エミリーは息を止めたまま、その顔を見つめた。どこかで見たことがあるような気がして、けれど思い出せない。
ただ、確かなものがひとつだけあった。
───この子は、ひとりだ。
その瞬間、胸の奥で強張っていたものが、少しだけ緩んだ。
赤ん坊は、かすかに身じろぎをした。エミリーははっとして、そっとその体を抱き上げた。腕の中に収まる重さが、あまりにも軽かった。それでも、その温もりは微かにあった。
「……大丈夫よ」
声に出した瞬間、自分に言っているのか、この子に言っているのか分からなくなる。
ただ、その言葉だけが、そこにあった。夜の空気が、静かにふたりを包んでいる。
エミリーは赤ん坊を抱いたまま、家の中へ入った。扉を閉めると、外の夜がすっと遠のいた。しばらくその場に立ち尽くしてから、ゆっくりとソファへ腰を下ろした。腕の中の小さな重みが、まだ現実のものとして馴染んでいないようだった。
ふと、毛布の中に何かが挟まれているのに気づいた。そっと取り出すと、小さな羊皮紙の切れ端が添えてあった。そこには一言こう書いてあった。
“この子をどうか守ってほしい。 A.D”
それは昔の恩師からだった。彼女が魔法界を去る日、唯一、彼女の背中を見送ってくれた人だった。紙切れには、赤ん坊の名前は書いていなかった。赤ん坊が、かすかに身じろぎをした。その小さな動きに、エミリーははっと息をついた。——寝かせる場所を。そう思った瞬間、体が先に動いていた。
キッチンの奥へ向かい、棚の中に手を伸ばした。そこには、長いあいだ触れていなかった杖がしまわれていた。ためらいが、ほんの一瞬だけ指先を止めた。それでも、ゆっくりとそれを取り出した。
杖は昔のままだった。静かに振ると、空気がかすかに揺れた。古く湿気を帯びた木箱が、音もなく形を変えていく。編まれた籠の縁が現れ、内側には柔らかな布がふわりと敷かれた。赤ん坊を寝かせるための、小さなバスケットだった。エミリーは赤ん坊をそっとその中へ寝かせた。そして、再び戸棚の裏に静かに杖をしまった。
気持ちも少し落ち着いた頃、改めて覗き込んだ赤ん坊の顔は、静かに美しさを湛えていた。どうやら、赤ん坊は女の子のようだ。肌は夜明けの露に濡れた花びらのように瑞々しく、頬は驚くほど柔らかかった。
エミリーが赤ん坊の指先をそっと握った。小さな手がぎゅっと彼女の人差し指を握り返した。その瞬間、エミリーの凍りついていた心に小さな火が灯るような感覚が走った。
小さな胸が、規則正しく上下している。しばらくその様子を見つめてから、エミリーはふと、小さく息を吐いた。記憶の奥から、言葉が浮かぶ。百合の花の詩の一節。
「……リリア」
その名を、そっと口にした。
それが、この子の名前になる気がした。部屋の静けさが、わずかに形を変えたように思えた。先ほど目にした知らせを思い出したエミリーは、気づくと涙が頬を伝っていた。音もなく、ただ静かに。止めようとも思わなかった。
そのとき、赤ん坊も小さく泣き声を上げた。エミリーは涙を拭うとすぐに手を伸ばし、抱き上げた。腕の中で、その体がかすかに震えていた。
「大丈夫よ」静かにそう言いながら、部屋の中をゆっくりと歩いた。
赤ん坊の泣き声は、次第に小さくなっていった。エミリーはその背を一定のリズムで揺らし続けた。気づけば、自分の呼吸までゆっくりと整っていた。その温もりだけが、確かなものだった。
そのまま、何度か行き来するうちに、ふと壁にかかった鏡の前を通り過ぎた。何気なく視線を向けた。
そこには、エミリーの姿が映っていた。
エミリーは足を止めた。もう一度、鏡を見た。確かに腕の中には、微かな温もりがあった。言葉にならない違和感があった。けれど、もう二度と鏡を見てはいけないと思った。
その小さな命は確かにここにあった。
────けれど、それがこの世界に“生まれてきた”ものなのかは、まだ誰にも分からなかった。