[仮] ユリ・プリンスと生命の水 作:K. L. Prince
エミリーが玄関の石段に赤ん坊がいるのを見つけてから、九年の歳月がたった。
貝殻の家はあの不気味な嵐が嘘だったかのように、それ以来、何も変わらなかった。
海は穏やかに波打ち、朝日が貝殻の屋根を照らすと、一つ一つの貝殻はキラキラと輝きを放っていた。その光が、這うようにキッチンに差し込んでゆく。
嵐の翌日、リリーとジェームズの訃報を新聞で目にした。その日を境に、エミリーの暮らしは大きく変わった。
小さな口でミルク粥を食べていた赤ん坊は、やがてエミリーのあとをついて庭を歩くようになった。花の名前を覚え、土に触れ、エミリーの歌を聴き、いつしか自分でも歌うようになった。そうして九年のあいだ、エミリーはリリアをわが子として育ててきた。
普通の家庭なら、暖炉の上には家族の写真が何枚か飾られていてもよさそうなものだ。リリアが初めて歩いた日。海へ遊びに行った日。誕生日のケーキを前に笑った日。九年も一緒に暮らしていれば、そうした思い出が一枚や二枚、残っていても不思議ではない。けれど、貝殻の家には、一枚の写真も飾られていなかった。それは、ただ写真を飾る習慣がなかったからではない。この世界のどこにも、この少女が存在している気配がないのだ。
しかし、ユリ・プリンスはそこにいた。
リリアはもう目を覚ましていた。もっとも、いつ眠り、いつ目覚めたのか、自分でもよく分からない。
やがて、一階からエミリーの足音が聞こえてきた。足音は階段を上がり、リリアの部屋の前で止まった。扉を軽く叩く音がした。
「おはよう。リリア、降りてらっしゃい」その声を聞いて、リリアはようやく朝が来たのだと知った。こうして、リリアの特別な一日が始まった。
「はーい!」返事をすると、扉の向こうでエミリーが笑った気配がした。
「今日は何の日か、忘れてないでしょうね?」
「忘れてないよ!」忘れるはずがなかった。今日は、リリアの十歳の誕生日なのだ。
エミリーが階段を下りていく音がした。やがてキッチンの方から、食器を並べる音や、鍋を火にかける音が聞こえてきた。
リリアはベッドの上で、ほんの少しだけ目を閉じた。眠っていたあいだのことを思い出そうとしてみる。けれど、何も思い出せなかった。昨日も、その前の日も、そのずっと前もそうだった。眠って目を閉じれば、次に目を開けたときには朝になっている。その間に何かを見たことなど、一度もない。夢というものは、いったいどんなものなのだろう。
けれど、今日は夢のことを考えている場合ではない。リリアはベッドから飛び起きた。急いで服を着ると、階段を駆け下りた。そのまま一目散にキッチンへ向かった。
リリアがキッチンへ飛び込んでも、食卓が誕生日プレゼントの山に埋もれているようなことはなかった。いつもの皿と、いつものカップ。それから、エミリーが朝から用意してくれた朝食が並んでいる。
ただ、今日はいつもの朝とは少しだけ違っていた。
「リリア、お誕生日おめでとう!」エミリーは満面の笑みで声をかけた。
「ありがとう、ママ」リリアも笑顔で返した。
エミリーは笑っているはずなのに、その笑顔はどこか寂しそうだった。ママはいつも自分の前では明るく振る舞おうとしていた。リリアは、その笑顔がどこか無理をしているように感じることがあった。
だからリリアはエミリーが笑顔になるような話をするようにしていた。たとえ、それが本当のことではなくても。
「ママ、聞いて! 今朝、素敵な夢を見たよ! 王子様に抱っこされて綺麗な夜空を飛んでたの!」
「そうなの? それは誕生日に素敵な夢を見たわね」
「うん!」
リリアは少し笑った。今日は、きっと楽しくなる気がした。
「さあ、食事にしましょう。早く顔を洗ってらっしゃい」エミリーにそう言われると、リリアは「はーい!」と言って洗面所へ駆けていった。
リリアは食べる日と食べない日の差が激しかった。驚くほど食べる日もあれば、数口で「もう、いらない」と言う日もある。そのせいなのか、年のわりには小柄だった。
けれど、庭を駆け回って遊ぶ元気だけは誰にも負けなかった。病気で寝込んだことなど一度もなかった。
リリアは、透き通るような白い肌をしていた。細面の顔を、黒く癖のある長い髪が縁取り、瞳も吸い込まれそうなほど黒かった。笑った顔までエミリーによく似ていて、どこから見てもエミリーの子どもに思えた。
洗面所から戻ってくると、エミリーがリリアを見て笑った。「あら、あなた寝癖がついてるわよ」
「え、どこー?」
「ほら、じっとして」エミリーは笑いながら、リリアの髪をそっと手櫛でといた。すると、リリアの目の前に小さな花の飾りのついた髪留めを取り出して見せた。
「今日は、これをつけてあげるわね。ママからのプレゼントよ」エミリーはまとめた髪をその髪留めでくくった。
「はい、これで完璧」そう言って、リリアの肩をぽんと叩いた。
「ありがとう、ママ。おまつりにつけて行ってもいい?」
「ええ。いいわよ」エミリーはそう言ってエプロンを外し、食卓についた。
今日は村の夏まつりだった。リリアはずっと楽しみにしていた。広場には、くじ引きの店や、手作りのジャムやスコーンを売る屋台が並び、ドッグショーなどの催しも開かれる。
そして、まつりのメインイベントはコンサートだった。
「ほら、冷めないうちに食べましょう」
エミリーに促され、リリアは食卓についた。皿には焼いた卵とベーコン、ソーセージ、それに豆が添えられていた。
「いただきます」リリアは小さく手を合わせた。
「今日はクロエがコンサートに出るね」
「ああ、あの歌の上手な子?」
「そう。いつも完ぺきなんだ」
リリアはフォークを手に取り、皿の端の豆を一粒つついた。
リリアのクラスメイト、クロエ・ベネットがステージに立つ予定だった。クロエは学校でも人気者だった。クラスでもとびきり可愛く、歌もダンスも上手かった。
だけど、クロエはいつもリリアと目を合わせると、チクッと嫌味を言ってくる。リリアには、どうして自分が嫌われているのか分からなかった。
それでも、クロエが歌うところを見るのは楽しみだった。
「お祭りに行ったら、最初に何を見るの?」エミリーが尋ねた。
「うーん……ドッグショー! それから、くじ引きもしたい。あとクロエのコンサート!」
「ずいぶん忙しそうね」
「だって、見たいところいっぱいあるんだもん」リリアは楽しそうに答えた。
それから卵を口に運びながら、ふと思い出したようにエミリーを見た。
「ねぇ、ママ」
「なあに?」
「今日、もう一つお願いしてもいい?」
「まあ。お誕生日だからって、欲張りね」
エミリーは笑った。
リリアは少し迷ってから言った。
「……ママの歌、聴きたい」
エミリーの手が、ほんの少し止まった。
「歌?」
「うん。ママ、お家でぜんぜん歌わなくなったから」
リリアはエミリーの顔をうかがった。
「ダメ?」
「そんなことで悩んでいたの?」
エミリーは少し驚いたように笑った。
「もちろんよ。お祭りから帰ってきたら、久しぶりに歌うわね」
「ほんと?」
「ええ。今日はあなたのお誕生日ですもの」
リリアの顔がぱっと明るくなった。
朝食を食べ終えると、リリアは「ごちそうさまでした」と小さく手を合わせた。
エミリーと一緒に食器を片付けると、リリアは待ちきれないように何度も窓の外を見た。朝から穏やかだった海の向こうには白い雲が浮かび、夏の終わりの陽射しが庭いっぱいに広がっていた。
「そんなに急がなくても、お祭りは逃げないわよ」
エミリーが笑った。
「だって、早く行きたいんだもん」
リリアは髪留めがちゃんとついているか確かめるように、そっと頭に触れた。せっかくママにもらった誕生日の髪留めだ。なくしたくはなかった。
エミリーは小さな鞄を肩に掛けると、戸締まりを確かめた。
「さあ、行きましょうか」
「うん!」
二人は玄関を出た。
貝殻の家を離れ、村へ続く道を歩いていく。いつもの道なのに、今日はどこか違って見えた。道の向こうを歩く人たちも、みんな同じ方角へ向かっている。子どもたちは駆け足で親の先を行き、大人たちは籠や包みを抱えて歩いていた。
しばらくすると、風に乗って遠くから祭りの音楽が聞こえてきた。リリアはぱっと顔を上げた。
「ママ、聞こえる!」
「ええ。もう始まっているみたいね」
昔は、貝殻の家にもいつも歌声があった。リリアが歌うようになると、エミリーも一緒に歌った。庭仕事をしながら、料理をしながら、何でもないことで笑いながら、二人はよく歌った。
けれど、あるころから、その歌声は少しずつ聞こえなくなっていった。
祭りの音楽につられるように、リリアは口を開きかけた。
「リリア」エミリーに名前を呼ばれ、リリアはすぐに口を閉た。
小さいころから、何度も言われてきた。
学校や人のいるところでは、大きな声で歌ってはいけない。それは、ママとリリアだけの特別な秘密。
家で歌うことまで禁じられたわけではなかった 。けれど、何度も声を抑えるうちに、リリアはいつしか家でも歌わなくなった。
そして、リリアの歌を気にするようになってから、エミリーもまた、いつしか歌わなくなった。
そうして、あれほど歌であふれていた貝殻の家から、いつしか歌声はすっかり消えてしまったのだった。
やがて、村の広場が見えてきた。道の先には色とりどりの小さな旗が渡され、その下を大勢の人たちが行き交っていた。
「わあ……!」リリアは思わず足を速めた。
「リリア、走ったら転ぶわよ」
「分かってる!」そう返事をしながらも、足取りはどんどん軽くなっていく。エミリーは仕方なさそうに笑いながら、そのあとを歩いた。
いつも見慣れている村の広場は、今日はまるで別の場所のようだった。白や赤の布を張った屋台がいくつも並び、瓶に詰められた色とりどりのジャムや、籠いっぱいのスコーン、花や手作りの小物が売られている。くじ引きの店には子どもたちが集まり、少し離れたところからは、ドッグショーに出るらしい犬たちの元気な鳴き声が聞こえてきた。
大人たちはあちらこちらで立ち話をし、子どもたちは友達を見つけては人混みの中を駆けていく。
「リリアー!」聞き慣れた声に、リリアはぱっと振り返った。
「ジェーン!」同じクラスのジェーンが、大きく手を振りながらこちらへ駆けてくる。その後ろにはマイケルもいた。
「お誕生日おめでとう!」
「ありがとう!」
ジェーンはリリアの前まで来ると、すぐにその髪に目を留めた。
「あ、その髪留めかわいい!」
リリアは嬉しそうに、頭につけた小さな花の髪留めへそっと触れた。
「今日、ママにもらったの。誕生日のプレゼント!」
「いいなあ。すごく似合ってる!」
「俺も。誕生日おめでとう」
マイケルが横から言った。
「ありがとう、マイケル!」
「今日、誕生日なんだから、くじ引きで一等当たるんじゃない?」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
リリアが笑うと、ジェーンも吹き出した。
「マイケル、さっきやって外れたんだよ」
「あれは練習!」
「くじ引きに練習なんてあるの?」
「ある!」
三人は声を上げて笑った。
「ねえ、リリアも一緒に行こうよ!」
「うん!」
リリアはすぐにジェーンたちの方へ行きかけたが、思い出してエミリーを振り返った。
「ママ、行ってきてもいい?」
「ええ。遠くへ行かないようにね」
「はーい!」
今度こそ駆け出そうとしたリリアを、エミリーが呼び止めた。
「ちょっと待って、リリア」
エミリーは肩に掛けていた鞄を開き、小さな財布を取り出した。そこから硬貨を何枚か出すと、リリアの手のひらにそっと載せた。
「はい。今日のお小遣い」
リリアは目を丸くした。
「いいの?」
「もちろん。年に一度のお祭りですもの。楽しんでいらっしゃい」
エミリーは笑ってから、少しだけ念を押した。
「でも、全部くじ引きに使ってしまわないこと」
「分かってる!」
「マイケルみたいにね」
「聞こえてるよ!」
少し離れたところからマイケルが言った。
ジェーンが笑い、リリアもつられて笑った。
リリアはもらった硬貨を大事そうに握ると、今度こそ二人のところへ駆けていった。
「待ってー!」
三人はそのまま、人で賑わう祭りの中へ走っていった。
「ねえ、どこから行く?」
リリアが辺りを見回した。あちらにもこちらにも、楽しそうな店が並んでいる。どこから見ればいいのか迷ってしまうほどだった。
「あれ!」
マイケルが真っ先に指を差した。
少し先に、細い棒の上へ茶色いココナッツをいくつも乗せた店があった。手前の籠には、木でできたボールが山のように積まれている。
「なにするの?」
「ココナッツ・シャイだよ。あのボールを投げて、ココナッツを落とすの」
ジェーンが教えた。
「簡単そう!」
リリアが言うと、マイケルがにやりとした。
「やってみれば分かるよ」
「じゃあ、やる!」
三人はさっそく店の前に並んだ。
リリアが硬貨を渡すと、店のおじさんが木のボールを三つ手渡した。
「好きなのを狙っていいよ」
リリアは一番手前のココナッツに狙いを定めた。
「いくよ!」
一つ目のボールを思いきり投げる。
けれど、ボールはココナッツの右側を勢いよく通り過ぎた。
「あれ?」
ジェーンがくすくす笑った。
「だから簡単じゃないんだって」
「もう一回!」
二つ目は棒に当たった。ココナッツがぐらりと揺れる。
「惜しい!」
マイケルが声を上げた。
リリアは最後の一つを両手でぎゅっと握った。
「今度こそ!」
投げたボールはココナッツの横っ腹にこつんと当たった。
ココナッツは大きく揺れたものの、しぶとく棒の上に残った。
「なんで落ちないのー!」
リリアが頬を膨らませると、マイケルが得意そうに前へ出た。
「貸してみろよ。こういうのは力じゃなくて、狙いなんだよ」
「じゃあ、マイケルなら落とせるの?」
「もちろん」
ところが、一球目は外れた。
二球目も外れた。
三球目は棒に当たっただけだった。
「……今日はちょっと調子が悪いな」
「さっきもそんなこと言ってたよね」
ジェーンが言った。
「言ってない!」
リリアは声を上げて笑った。
次に目についたのは輪投げの店だった。台の上には何本もの棒が立ち、そのまわりに小さな玩具や飾りが並べられている。
「今度は私!」
ジェーンが張り切って輪を受け取った。
一投目は棒の手前。
二投目は、輪が棒の縁に当たって跳ね返った。
「惜しい!」
三投目。
ジェーンがそっと投げた輪は、くるくると回りながら飛んでいき────すぽん、と一本の棒に入った。
「入った!」
ジェーンが飛び跳ねた。
景品は、小さな青い花の形をしたブローチだった。店のおばさんにつけてもらうと、ジェーンは得意そうに胸を張った。
「どう?」
「かわいい!」
リリアが言った。
「次はリリアもやってみる?」
「うーん……」
リリアは残った硬貨を手のひらで数えた。まだ見たい店はたくさんある。
「あとにする!」
「ちゃんと考えて使ってるじゃん」
マイケルが感心したように言った。
「ママに、全部使っちゃダメって言われたもん」
三人はまた歩き始めた。
今度は、乾いた音が何度も聞こえてきた。
パンッ。
パンッ。
「あっ、あれやろう!」
マイケルが急に走り出した。
そこには、コルクの弾を飛ばす小さな銃が並べられていた。奥には星や丸、アヒルなどの絵が描かれた的がぶら下がっている。
「射的?」
リリアが興味深そうに覗き込んだ。
「的に当てれば景品がもらえるんだよ」
マイケルはさっそく硬貨を払い、コルク銃を受け取った。
「今度こそ見てろよ」
「また言ってる」
ジェーンが笑った。
マイケルは片目をつぶって銃を構えた。
パンッ。
一発目は的のすぐ横。
「惜しい!」
二発目。
パンッ。
今度は星の端に当たり、的がくるりと回った。
「当たった!」
「端っこだよ」
ジェーンが言った。
「当たりは当たり!」
三発目は、見事に丸い的の真ん中へ当たった。
「やった!」
マイケルは小さな赤いミニカーを景品にもらうと、二人に見せびらかすように手のひらへ乗せた。
「ほらな!」
「やっと一個当たったね」
「“やっと”は余計!」
リリアとジェーンは顔を見合わせて笑った。
「次はどこ行く?」
リリアは辺りを見回した。
そのとき、少し先にたくさんの子どもが集まっている店が目に入った。店の後ろには、色とりどりの玩具がずらりと並んでいる。
マイケルが、にやりとした。
「今度こそ、くじ引き行こうぜ」
リリアの目がぱっと輝いた。
「うん!」
三人はくじ引きの店へ駆けていった。
人混みをかき分けて進むと、白い布を張った台の上に大きな箱が置かれ、その後ろには色とりどりの景品が所狭しと並んでいた。
水鉄砲、ミニカー、色鉛筆、縄跳び、万華鏡、小さなおままごとのティーセット。それから、熊や犬や兎など、いろいろな動物のぬいぐるみも並んでいる。
一番目立つところには、ぴかぴかの赤い子ども用自転車が飾られていた。
「あれが一等」
マイケルが指を差した。
「すごい!」
ジェーンが目を輝かせる。
けれど、リリアは自転車とは別のところを見ていた。
二等の札のそばに、一匹の子鹿のぬいぐるみが座っている。やわらかそうな茶色い毛に、背中には小さな白い斑点。大きな黒い目をして、少し首を傾げるようにこちらを見ていた。
「……かわいい」
リリアは思わず呟いた。
「自転車じゃなくて?」
マイケルが不思議そうに聞いた。
「うん。私、あの子がいい!」
「あれ、二等だよ。なかなか当たらないよ」
ジェーンが言った。
「でも、あの子がいいの」
リリアは子鹿から目を離さなかった。
店番のおじさんに硬貨を一枚渡すと、大きな箱がリリアの前へ差し出された。中には、小さく折り畳まれた紙がたくさん入っている。
「さあ、一枚だけだよ」
リリアは箱の中へ手を入れた。
「どれにしよう……」
「それ!」とマイケル。
「マイケルが選んだら外れるよ」とジェーン。
「今度は当たる!」
二人の声を聞きながら、リリアは箱の底の方に指を伸ばした。何枚かの紙に触れ、その中から一枚だけをつまみ上げる。
「これにする!」
三人はぴったり顔を寄せた。
リリアが折り畳まれた紙をゆっくり開く。
「……二?」
一瞬、三人とも黙った。
店番のおじさんが紙を覗き込み、ぱっと顔をほころばせた。
「おや! 二等だ!」
「えっ!」
「うそ!」
「当たった!」
三人の声がいっぺんに上がった。
「ほら! 言っただろ! 誕生日だから当たるって!」
マイケルが得意そうに胸を張った。
「『たぶん』って言ってたじゃない」
ジェーンがすかさず言う。
リリアはまだ信じられないように、二等の札と子鹿を交互に見ていた。
やがて、おじさんが棚から子鹿のぬいぐるみを下ろして、リリアへ差し出した。
「はい。おめでとう、お嬢ちゃん」
「ありがとう!」
リリアは両腕で子鹿をぎゅっと抱きしめた。思っていたよりも大きく、ふわふわした頭がリリアの顎の下まで届いた。
「よかったね!」
ジェーンが子鹿の頭を撫でる。
「うん!」
リリアは嬉しそうに、子鹿の黒い目を覗き込んだ。
「なんだか、バンビみたい」
「じゃあ、バンビって名前にするの?」
ジェーンに聞かれ、リリアは少し考えるふりをした。それから子鹿をもう一度ぎゅっと抱きしめた。
「うん。今日からバンビ!」
「そのまんまじゃん」
マイケルが笑った。
「いいの。バンビはバンビだもん!」
リリアはそう言って、得意そうに笑った。
リリアがバンビを抱えて歩いていると、少し先から犬たちの鳴き声が聞こえてきた。
「あっ、ドッグショー!」
リリアの足取りがいっそう速くなった。
広場の一角には低い柵が立てられ、その周りを大勢の人が囲んでいた。小さなテリアから大きな牧羊犬まで、何匹もの犬が飼い主と一緒に出番を待っている。
「あ、ヘクター!」
リリアは見慣れた大きな犬を見つけた。村の自転車屋で飼われているヘクターだ。いつもは灰色と白の長い毛をもじゃもじゃさせているのに、今日はきれいに梳かれ、ふわふわに整えられていた。
「ずいぶん格好よくなったでしょう?」
自転車屋のおじさんが得意そうに言った。
「昨日、村の店で手入れしてもらったんだ」
リリアがヘクターの頭を撫でると、ヘクターは鼻を鳴らして、ぶるぶると頭を振った。
「どうしたの?」
もう一度撫でると、ヘクターは耳を伏せ、小さく喉を鳴らした。
「……あそこ、嫌なの?」
「ワン!」
「え?」
ジェーンが首を傾げた。
リリアはヘクターを見たまま言った。
「ヘクターね、いつもの美容室が嫌なんだって。毛を引っ張られたりして、痛いんだって」
自転車屋のおじさんは驚いたようにヘクターを見下ろした。
「そういえば、あそこへ連れて行こうとすると、いつも店の奥に逃げるな……」
「もう行きたくないって」
ヘクターがもう一度「ワン!」と吠えた。
「ほんとに話してるみたい」
ジェーンが笑う。
「話してるよ?」
リリアは不思議そうに答えた。
そのとき、係の人がヘクターの名前を呼んだ。
「ほら、出番だぞ」
ヘクターが出るのは、犬たちが簡単な障害物を順番に越えていく競技だった。
合図とともに走り出すと、まず低い柵を軽々と飛び越えた。続いて並んだ棒の間を右へ左へ器用にすり抜け、大きな体をかがめて短いトンネルをくぐり抜ける。
「ヘクター、がんばれー!」
リリアはバンビを片腕に抱え、空いた手を大きく振った。
最後の柵を飛び越えたヘクターが飼い主のもとへ駆け戻ると、見物人から大きな拍手が起こった。
しばらくして結果が発表されると、ヘクターは障害物競走の部で一等になった。
「やったー!」
首輪に青いロゼットをつけてもらったヘクターが戻ってくる。
「すごい、ヘクター!」
リリアが褒めると、ヘクターは得意そうに尻尾を振り、その大きな体をぐいっとリリアへ押しつけた。
「わっ、重いってば!」
三人は声を上げて笑った。
その時、広場の向こうから音楽が聞こえてきた。
「あ、コンサート!」
ジェーンがステージの方を指差した。
まだ本番には少し早かったが、舞台の上では出演者たちが順番に音を確かめているらしい。
「クロエいるかな?」
三人は人混みを抜けて、ステージの方へ向かった。
舞台の前にはまだ椅子が空いていた。その向こうで、クロエが一人、マイクの前に立っている。白いスカートを揺らしながら、伴奏に合わせて何度か同じところを歌っていた。
「いた!」
リリアは思わず足を止めた。
本番ではないのに、クロエの声はよく通った。歌い終えると、舞台のそばにいた大人が何かを伝え、クロエは頷いて、もう一度最初から歌い始める。
「やっぱり上手だね」
リリアが言った。
「クロエ、ずっと練習してたもん」
ジェーンもキラキラした瞳でクロエを見つめていた。
リリアはしばらく舞台を見つめた。
あんな風に、みんなの前で思いきり歌えたら────。
そう思ったときだった。
「あ、ごめん!」
横から来た男の子と、危うくぶつかりそうになった。
「大丈夫?」
「うん。平気」
隣のクラスのエドリックだった。黒い髪が少し乱れている。
エドリックはリリアの腕の中の子鹿のぬいぐるみを見た。
「それ、くじ引き?」
「うん! 二等だったの」
「すごいな」
「バンビっていうの!」
リリアが得意そうに見せると、エドリックは少し笑った。
「似合ってる」
「エドリック!」
少し離れたところから男の人の声がした。
「父さんが呼んでる。じゃあ、また学校で」
「うん。またね!」
エドリックは手を上げると、人混みの中へ戻っていった。
「ねえ、もうすぐ始まるんじゃない?」
マイケルがステージの方を見る。
クロエのリハーサルは終わったらしく、舞台の上では係の人たちが椅子やマイクを整え始めていた。
広場にも少しずつ人が集まり始めている。
「前で見よう!」
リリアはバンビを抱え直すと、ジェーンとマイケルと一緒にステージの前へ向かった。
やがて舞台の準備が整い、広場には大勢の人が集まり始めた。何人かの出演者が歌や楽器を披露したあと、クロエの名前が呼ばれた。
大きな拍手の中、クロエが舞台へ上がった。白いスカートを揺らし、客席へ笑顔を向ける。
伴奏が始まった。
クロエが歌い始める。
それは、明日への希望をまっすぐに歌う、明るく力強い歌だった。
クロエのよく通る声が、広場いっぱいに響いた。
「やっぱり上手……」
リリアはバンビを抱いたまま、舞台から目を離せなかった。
みんなの前で、何も気にせず思いきり歌っている。
私も、あんなふうに歌えたら────。
胸の奥がむずむずした。
歌いたい。
けれど、リリアは口を閉じていた。
歌ってはいけない。何度もママに言われてきたことだった。
一度目のサビが終わると、客席から拍手が起こった。
リリアはバンビをぎゅっと抱きしめる。
歌いたい。
そのとき、足元をふわりと風が通り抜けた。
一枚の紙切れが、ころころと転がっていく。
歌は二度目のサビへ向かい、クロエの声もいっそう力強くなっていった。
ふわっ。
今度はリリアの長い髪が揺れた。
「風、出てきたね」
ジェーンが言った。
けれど、少し離れたところに渡された旗は、ほとんど揺れていなかった。
風は、リリアのまわりだけを回っていた。
歌いたい。
歌いたい。
二度目のサビが始まった。
その瞬間、風が一気に吹き上がった。
「きゃあ!」
客席の紙が舞い上がり、椅子が倒れた。舞台脇に飾られていた花が吹き飛び、色とりどりの布が激しくはためく。
伴奏が止まった。
それでも風は止まらない。
「危ない!」
誰かが叫んだ。
舞台の支柱が大きく揺れ、背景の一部が音を立てて倒れた。クロエが悲鳴を上げて身をかがめる。
広場はたちまち混乱に包まれた。
「リリア!」
ジェーンの声がした。
リリアはその場に立ち尽くしていた。黒い髪が激しく舞い上がり、腕の中のバンビの耳も風に揺れている。
「私……?」
風は、明らかにリリアを中心に渦巻いていた。
「リリア!」
今度はエミリーの声だった。
人混みを押し分け、エミリーが駆けてくる。そのままリリアの肩を掴んだ。
「リリア、私を見て」
「ママ……私、歌ってないよ」
エミリーの顔から血の気が引いた。
「分かってるわ。私を見て」
エミリーはリリアを強く抱きしめた。
すると、あれほど荒れていた風が少しずつ弱まっていった。舞い上がっていた紙が、ひらひらと地面へ落ちていく。
リリアはエミリーの腕の中から、恐る恐る周りを見た。
倒れた椅子。散らばった花。壊れた舞台。
そして、自分を見つめる人々。
さっきまで一緒に笑っていたジェーンもマイケルも、何も言わなかった。
舞台の上では、クロエが青ざめた顔でリリアを見ていた。
「帰りましょう」
エミリーが小さく言った。
「でも……」
「今すぐよ」
リリアは何も言えなかった。
バンビを胸に抱きしめたまま、エミリーに手を引かれて広場をあとにした。
帰り道、二人はほとんど口をきかなかった。
朝にはあんなに楽しく歩いた道を、今度は急ぐように貝殻の家へ戻った。
家に着くと、エミリーはリリアを中へ入れ、自分もすぐに玄関をくぐった。
そして扉を閉め、鍵をかけた。
カチリ。
小さな音が、静まり返った貝殻の家に響いた。
エミリーは鍵をかけたあともしばらく扉の前に立っていた。
やがて窓のカーテンを閉めると、ようやく小さく息を吐いた。
「今日はもう、お家にいましょう」
リリアは黙って頷いた。
腕の中には、朝には持っていなかったバンビがいた。ふわふわした子鹿を見ていると、ほんの少し前までジェーンやマイケルと笑っていたことが、ずっと昔のことのように思えた。
エミリーも何も話さなかった。
リリアも、祭りのことを聞くことができなかった。
夕方になっても、貝殻の家に歌声が響くことはなかった。
朝、エミリーは「お祭りから帰ってきたら、久しぶりに歌うわね」と約束してくれた。
けれどリリアは、その約束を思い出しても口には出さなかった。
夜になると、リリアはバンビを抱いてベッドに入った。
目を閉じると、今日の出来事が次々と浮かんできた。
花の髪留め。
ジェーンの笑い声。
ヘクターの青いロゼット。
舞台の上のクロエ。
そして、風。
「私、歌ってないのに……」
リリアはバンビをぎゅっと抱きしめた。
やがて、考えることにも疲れて、そっと目を閉じた。
そのときだった。
暗闇の中で、一瞬だけ、光が走った。
リリアは驚いて目を開けた。
部屋は暗いままだった。
「……今の、なに?」
もう一度目を閉じてみる。
けれど、今度は何も見えなかった。
リリアはしばらく待ったが、やはり暗闇があるだけだった。
夢というものは、こんなふうに始まるのだろうか。
そう思いながら、リリアはいつの間にか眠りについていた。