[仮] ユリ・プリンスと生命の水   作:K. L. Prince

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第三章 知らない人の訪問

 夏祭りで起きた奇妙な突風のおかげで、リリアの十歳の誕生日は、いままでで一番忘れられない一日になった。

 今日から九月だ。だけど、夏休みはまだ二日残っている。目を覚ましたリリアが最初に思い出したのは、くじ引きでバンビを当てたことでも、ヘクターがドッグショーで一等になったことでもなかった。あの風だった。

 

 リリアはベッドの上で、バンビをぎゅっと抱きしめた。昨日、クロエが舞台の上で歌っていた。白いスカートを揺らしながら、みんなの前で堂々と歌っていた。とても素敵だった。

リリアも、あんなふうに歌ってみたかった。誰にも止められず、何も怖がらず、ただ歌いたいから歌う。そんなふうに、普通に歌えたらいいのにと思った。ただ、それだけだった。リリアは歌っていない。口だって開いていなかった。

 それなのに、どこからか自分の歌声が聞こえてきた。最初は小さかった声が、クロエの歌に重なるように広場へ響き始めた。リリアには自分が歌っている感覚などないのに、周りの人たちは次々とこちらを振り返った。そして、風が吹いた。椅子が吹き飛び、人まで地面へ投げ出された。舞台の一部が崩れ、クロエも倒れたまま腕を押さえて泣いていた。あちこちから悲鳴が聞こえた。

それでも、リリアの歌声だけは止まらなかった。

「私がやったのかな……」小さく呟いた。

歌っていないのに。それでも、あの風は自分を中心に吹いていた。あの歌声も、自分の声だった。考えれば考えるほど、分からなくなった。それよりも怖かったのは、あのときのみんなの目だった。ジェーンも、マイケルも、クロエも、自分を見ていた。まるで、今まで知っていたリリアとは別の何かを見るような目で。明後日になれば、学校が始まる。

 

 夏休みが、もう少し長ければいいのに。リリアはもう一度、バンビを強く抱きしめた。

そんなことを考えているうちに、階下からエミリーの呼ぶ声がした。

「リリ、朝ごはんよ」

「はーい」

リリアはバンビをベッドの上に座らせると、階段を下りていった。

 朝食のあいだも、昨日のことが頭から離れなかった。エミリーが何度か話しかけてくれたけれど、リリアはいつもより少しだけ口数が少なかった。それでも、エミリーは昨日のことを何も聞かなかった。

 食事を終え、リリアが皿をキッチンへ運んでいると、リン、ゴーン。なんとも教会の鐘のような玄関のチャイムが鳴った。

「誰かしら」エミリーは手を拭くと、玄関へ向かった。

リリアもキッチンの入り口から、そっとその様子をうかがった。扉が開く。

「あら、プルウェットさん。おはようございます」

「おはよう、エミリー。朝から悪いわね」

聞き慣れた声に、リリアはたちまち笑顔になった。プルウェットおばさんだった。

「昨日はお祭りで忙しかったから渡せなかったのよ。ごめんなさいね」

 プルウェットおばさんの手には、小さな籠が下げられていた。「プルウェットおばさん!」リリアは急いで玄関へ駆けていった。

 

 「あら、リリーちゃん! 相変わらずかわいいわね! ほら、こちらへいらっしゃい」プルウェットおばさんは、リリアを見るなりぎゅっと抱きしめた。リリアも嬉しくなって、その腕の中で笑った。

「お誕生日おめでとう。今朝焼いたばかりなの。まだ温かいうちに食べてね」籠の中には、布に包まれたスコーンと、小さな瓶に入った苺のジャムが入っていた。

「わあ! ありがとう、プルウェットおばさん!」リリアは籠を受け取った。エミリーも隣から礼を言った。

「昨日は怖かったでしょう。怪我はない? どこか痛いところは?」プルウェットおばさんはリリアの肩に手を置き、頭の先から足元まで確かめるように見た。

「うん。大丈夫」

「そう。よかったわ」プルウェットおばさんは安心したように笑った。

それから、昨日のことを思い出したように言った。

「でも、リリーちゃんはちょっと力が強かったわね」おばさんはリリアにウインクをした。リリアは首を傾げた。

 おばさんの言った「力」が何を指しているのか、リリアにはよく分からなかった。

「まあ、元気ならそれでいいのよ」リリアはにっこり笑った。

プルウェットおばさんが来てくれたおかげで、さっきまで重かった気持ちが、ほんの少しだけ温かくなった。

「それじゃあ、私はそろそろ帰るわね」

「もう帰っちゃうの?」

「ええ。朝から長居したら悪いもの」プルウェットおばさんはリリアの頭を優しく撫でた。

「また家にも遊びにいらっしゃいね」

「はーい!」

「わざわざ、ありがとうございます」エミリーは頭を下げた。

 プルウェットおばさんは二人に手を振ると、玄関から続く石敷きの小道を通り、村へと歩いていった。リリアも玄関先から大きく手を振った。「またねー!」やがて姿が見えなくなると、エミリーは静かに扉を閉めた。

 

 夏休みの残り二日は、あっという間に過ぎてしまった。

九月三日の朝、リリアはいつもより重い足取りで学校へ向かった。 空はよく晴れていた。

道端の草には朝露が残り、いつもなら立ち止まって眺めるような小さな花も咲いている。けれど、その日は何ひとつ目に入らなかった。校門が見えてくるにつれて、胸の奥がどんどん苦しくなった。

 いつもなら、ジェーンやマイケルを見つけた途端に走っていったはずだった。 けれど今日は、できることなら誰にも会わずに教室へ入りたかった。

校舎の中へ入り、教室の扉を開ける。その瞬間、にぎやかだった声が少しだけ静かになった。

 リリアは足を止めた。何人もの子が、こちらを見ていた。ひそひそと何かを話す声がする。 目が合うと、慌ててそらす子もいた。リリアは俯いて、自分の席へ向かった。

 椅子に座り、鞄を机の横へ掛ける。どうしよう。 やっぱり、みんな覚えてる。

「……リリア」

 小さな声に顔を上げると、ジェーンとマイケルが少し離れたところに立っていた。いつもならジェーンは真っ先に隣へ来るし、マイケルもくだらないことを言って笑わせようとする。 けれど今日は、二人ともなかなか近づいてこなかった。

「おはよう」リリアが先に言った。

「……おはよう」 ジェーンが答えた。

マイケルも小さく「おはよう」と言った。

それきり、三人の間に沈黙が落ちた。リリアは無理に笑おうとした。

 「ねえ、お祭りのこと――」そこまで言ったとき、教室の入り口がざわついた。クロエだった。

リリアは息を呑んだ。

クロエの片腕は白い包帯で固定され、首から布で吊られていた。 いつもきれいに整えている髪も、今日は少し乱れている。

 クロエは教室に入るなり、まっすぐリリアを見た。その目を見た瞬間、リリアの喉がきゅっと縮んだ。クロエは足早にこちらへやって来た。

「あんたのせいよ!」教室中に響くほど大きな声だった。リリアはびくっと肩を震わせた。

「え……」

「あんたが変なことしたから、こんなことになったの!」クロエは吊られた腕を見せつけるように前へ出した。

「私、腕の骨にひびが入ったのよ! せっかくずっと練習してたのに、ステージだってめちゃくちゃになった!」

「ち、違う……」思わず言葉が出た。

でも、その先が続かなかった。

違うと言い切れるのだろうか。自分は歌っていなかった。 口も開いていなかった。

なのに、自分の声が聞こえた。 風は自分のまわりから吹いていた。何が起きたのか、リリア自身にも分からない。

「私……やってないよ」ようやくそれだけ言った。

「じゃあ、どうしてあんたのまわりだけ風が吹いてたのよ!」クロエが怒鳴った。

リリアは何も答えられなかった。教室のあちこちから、ひそひそ声が聞こえてきた。

「歌も聞こえたよね」 「でも口、動いてなかった」 「変だったよ」一つ一つの言葉が胸に刺さった。ジェーンもマイケルも黙っていた。そのことが、クロエの怒鳴り声よりもつらかった。

 

 やがて先生が教室へ入り、クロエを席へ戻した。 「もうその話はおしまい」と言われても、何も終わったようには思えなかった。

授業が始まっても、リリアは黒板の文字をほとんど頭に入れることができなかった。 休み時間になれば、誰かに見られている気がした。 廊下を歩けば、後ろから声が聞こえる気がした。ジェーンは何度か話しかけようとしてくれた。 マイケルも近くまで来た。けれど、二人とも以前のようには笑わなかった。

 昼休み、リリアは一人で窓の外を見ながら昼食を食べた。早く帰りたい。そればかり考えていた。ようやく最後の授業が終わり、先生が帰りの挨拶をすると、リリアは誰よりも早く鞄を掴んだ。

「リリア!」

後ろからジェーンの声がした。けれど、振り返ることができなかった。教室を飛び出し、廊下を走り、校門を抜けた。家までの道を、リリアは夢中で走った。

 

 息が苦しくなっても止まらなかった。 誰かに呼ばれたような気がしても、振り返らなかった。やがて貝殻の屋根が見えてきた。玄関を開ける。

「ただいま」

キッチンの方からエミリーが顔を出した。

「おかえり、リリ。学校はどうだった?」リリアは答えなかった。

 リリアはエミリーに目もくれず、そのまま階段へ駆けていった。

「リリ?」エミリーの声が追いかけてきた。

けれど、リリアは二階の自分の部屋へ飛び込み、扉を閉めた。

バタン。

背中を扉につけたまま、しばらく動けなかった。

やがてベッドの上のバンビを見つけると、駆け寄って抱きしめた。

 クロエの吊られた腕が頭から離れない。────あんたのせいよ!リリアは顔をバンビの柔らかい毛に埋めた。

「違うもん……」声が震えた。

「私じゃないもん……」リリアはもう一度、小さく呟いた。けれど、その言葉をいちばん信じられないのは、リリア自身だった。

ジェーンとマイケルの、どこか怯えたような顔も浮かんだ。

「リリア?」不意に、扉の向こうからエミリーの声がした。

リリアはバンビを抱いたまま、ベッドの上で丸くなっていた。

「学校で何かあったの?」

「……何でもない」

「でも───」

「何でもないの!」思ったより大きな声が出た。

扉の向こうが静かになった。

 リリアは唇をぎゅっと噛んだ。本当はエミリーに怒鳴りたかったわけではない。だけど今は、誰とも話したくなかった。

少しして、エミリーの優しい声が聞こえた。

「分かったわ。下にいるから、何かあったら呼んでね」

足音が少しずつ遠ざかっていった。

 悲しくて、怖くて、どうしていいのか分からなくて、リリアはとうとう泣き出した。

けれど、どれだけ泣いても涙は一滴もこぼれなかった。声だけが震え、息だけが途切れた。それでもリリアは、バンビを抱きしめながら、ずっと泣いた。

 

 いつの間に眠ってしまったのか、自分でも分からなかった。目を覚ますと、部屋は薄暗くなっていた。窓の外には夕暮れの海が広がり、昼間より冷たい色の光が部屋へ差し込んでいた。

 しばらくぼんやりしていると、扉の向こうからエミリーの声がした。

「リリ。夕ご飯ができたわよ」

リリアはバンビを抱き直した。

「……いらない」

「お腹、空いてない?」

「いらない」

また静かになった。今度こそエミリーは行ってしまうと思った。けれど、足音は聞こえなかった。しばらくして、扉の向こうから声がした。

「リリア」

「……なに?」

「ママ、リリアに会いたいわ」

リリアは顔を上げた。何があったのか教えて、と言われると思っていた。

 どうして学校から走って帰ってきたのか。 どうして部屋に閉じこもっているのか。 何をそんなに悲しんでいるのか。

でも、エミリーは何も聞かなかった。ただ、会いたいと言った。急に、リリアもママに会いたくなった。

 ベッドから降りると、バンビを置いて扉へ向かった。そっと開ける。エミリーが廊下に立っていた。目が合った途端、リリアはエミリーへ飛びついた。

「ママ……!」

エミリーは何も聞かず、リリアをしっかり抱きしめた。

「ママぁ……」また泣いた。やっぱり涙は出なかった。

 それでもエミリーは、リリアが泣き止むまで背中をゆっくり撫で続けた。その腕の中にいると、学校でずっと張りつめていたものが、少しずつほどけていくようだった。

 そのときだった。リン、ゴーン。

教会の鐘のような玄関のチャイムが、静かな貝殻の家に響いた。

リリアはエミリーの腕の中で顔を上げた。

「……誰かな?」

エミリーも玄関の方向を向いた。

「こんな時間に、誰かしら」

エミリーが玄関へ向かうと、リリアも少し遅れてあとをついていった。

 

 扉が開くと、そこには全身を黒で包んだ男が立っていた。長い黒髪に青白い顔。足元まで届く黒いマントは、まるで大きな烏のようだった。

 リリアは思わずエミリーの後ろへ隠れた。

すると、エミリーが息を呑んだ。

「セブルス……!」

「……しばらくだ」

ママの知っている人なんだ。それだけで、リリアはほんの少し安心した。けれど、エミリーの顔は強張っていた。

「ここに、リリアという娘がいるだろう?」

「どうしてそれを……」

「夏祭りの件で話がある」

リリアはエミリーの服をぎゅっと掴んだ。自分のことだ。

「リリ。こちらはセブルス・スネイプさん。ママの昔の同級生よ」

「……こんにちは」

小さな声で挨拶したが、スネイプは返事をしなかった。ただ、黒い目でじっとリリアを見つめている。

その目に見られていると、何もしていないのに何かを調べられているような気がした。

「君がリリアか」

「……はい」

「祭りでは負傷者が出た。会場にも被害があったと聞いている。君にいくつか聞きたいことがある」

 エミリーはしばらくスネイプを見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。

「……分かったわ。入って」

 

 居間に通されると、スネイプはソファに腰を下ろした。

エミリーは「お茶を入れるわ」と言ってキッチンへ向かった。リリアは立ったまま動けなかった。

できることなら、ママについていきたかった。

 

 けれど、スネイプは待たなかった。

「では、祭りで何が起きたのか、最初から話してもらおう」

リリアは口を開きかけて、また閉じた。

何から話せばいいのだろう。

 いつもママと過ごしている居間なのに、知らない男が一人座っているだけで、まるで別の場所のようだった。

スネイプは黒いマントを膝の脇へ寄せ、長い指を組んでいた。その目は、リリアが黙っていても少しも離れなかった。

キッチンから、食器の触れ合う音が聞こえた。ママはすぐそこにいる。そう思っても、振り返って呼ぶことはできなかった。

 リリアは視線を床に落とした。舞台の上で泣いていたクロエ。腕を吊ったまま怒鳴ってきたクロエ。自分の声と、風と、悲鳴。どれも一つに絡まり、うまく順番にできない。何とか言葉にしようとして、ようやく口から出たのは、いちばん気になっていたことだった。

「……クロエが……怪我しちゃって……」

「その前だ」リリアは俯いた。

「……クロエが、歌ってました」

「君は?」

「友達と一緒に聴いてました」

「それだけか?」

「……はい。でも、私も……あんなふうに歌えたらいいなって思って……」

「君自身は、歌っていなかったのだな?」

「……はい。口も開いてなかったのに……私の声が聞こえてきたんです」

「自分の声が?」

「……はい。でも、どうして聞こえたのか、分からなくて……」

スネイプは少し黙り、それから低く尋ねた。

「以前にも、同じような不可解な現象は起きたことがあるのか?」

「……あります。お花が急に大きくなったり、枯れたお花が元気になったり、小鳥が集まってきたり……風が吹いたり、物が踊ったり……少し身体が浮いたこともあります」

「それは、歌っているときに?」

「……はい。毎回、何かしら起きます」

 そのとき、エミリーがお茶を持って戻ってきた。カップが受け皿に触れ、かちゃりと小さな音を立てた。窓の外では、夕暮れの海が少しずつ暗くなり始めていた。

 

「リリ、そんなところに立っていないで、こっちにいらっしゃい。立ったままお話しするのは失礼ですよ」

「……はーい」

リリアはエミリーの隣に座り、母の服の袖をそっと掴んだ。隣にいてくれるだけで、少しほっとした。

「歌うと現象が起きると知っていたのだな?」

「……はい」

「普段はどうしていた?」

「……人前では、歌わないようにって……」

「誰に言われた?」

「……ママに」

スネイプの視線がエミリーへ向いた。

「ええ。人前では歌わないようにと言っていたの。学校の音楽の授業でも、みんなに合わせて口だけ動かすように教えているわ。でも、家では自由に歌っていいと言っているのよ」

「では、今も家では歌っているのか?」リリアは小さく首を横に振った。

「……あんまり」

「なぜだ? 家では歌っても構わないのだろう?」リリアは答えに迷った。

歌ってはいけないと言われたわけではなかった。けれど、いつの間にかママは一緒に歌ってくれなくなった。歌っていると、ときどき困ったような顔をすることもあった。

「……ママが、歌わなくなったから……」

エミリーが驚いたように顔を上げた。

「……リリ?」

「……前は、ママといっぱい歌ってたのに……」

「でも、リリ。あなたには好きなだけ歌っていいと言っていたでしょう?」

「……うん」

エミリーは戸惑ったように娘を見つめた。

 

 スネイプはソファに深く腰を下ろしていたが、いつの間にか前屈みになっていた。

両肘を膝につき、組んだ手を口元に当てている。

眉間には深い皺が寄り、その黒い目は二人を睨むように見据えていた。

リリアはちらりとスネイプを見た。けれど、彼は何も言わなかった。

「それに、歌以外にも楽しいことはたくさんあったでしょう? お絵描きも、お庭で遊ぶのも、いつも楽しそうにしていたじゃない」

リリアは頷いた。

「……それも楽しいよ。でも……」リリアはエミリーの顔を見上げた。

「ママと歌ってるときが、いちばん楽しかったの! また一緒に歌いたいの……」

言い終えるころには、リリアの顔は今にも泣き出しそうに歪んでいた。それなのに、その目は少しも潤まず、涙は一滴もこぼれなかった。

 

 エミリーは息を呑んだ。そのとき、床がほんのかすかに震えた。

カタリ。テーブルの上で、カップが小さな音を立てた。紅茶の表面に、細かな波紋が広がっている。

 リリアが不思議そうにそちらを見ると、スネイプもカップに目を向けていた。だが、すぐに視線を戻し、組んだ手の向こうからリリアの顔をじっと見つめた。

その黒い目が、涙のない彼女の頬に注がれているような気がした。

「……あなたが、そんなことを思っていたなんて」

「……うん」

エミリーは何か言おうとしたが、言葉が出てこないようだった。リリアは思わず視線を落とした。ママを困らせたかったわけではないのに。

 

居間が静まり返った。

コチ、コチ、コチ。

壁の時計が時を刻んでいた。いつもは気にも留めない音が、やけに大きく聞こえた。

 スネイプはまだ、組んだ手を口元に当てていた。やがて、ゆっくりとエミリーに視線を移した。

「……君が歌わなくなったのは、あの現象を避けるためか?」

エミリーはしばらく黙っていた。

「……ええ。歌うたびに、何が起きるか分からなかったから……」

そう答えると、エミリーはリリアに目を向けた。

「でも……この子まで歌わなくなるとは思わなかったの……」

スネイプはしばらく二人を見つめていた。

「……リリア。君自身は、歌うと起きる現象を恐ろしいと思っていたのか?」リリアは少し考えてから、首を横に振った。

「……いいえ。お花が大きくなったり、小鳥が集まってきたりするのは、とても嬉しい気持ちになります。でも……お祭りのときは、怖かった……」

「……なるほど」スネイプは再びエミリーへ視線を向けた。

 

 「この娘は、自分の力を恐れていたわけではない。だが、歌うことを控えるようになっていた。そして祭りでは、実際に歌っていないにもかかわらず、あれほどの現象が起きた」

エミリーは黙って聞いていた。

「魔法を抑え込むことで、どのような事態を招く場合があるかは知っているだろう?」

 エミリーの指が、膝の上でぎゅっと組み合わされた。テーブルに置かれた紅茶からは、もうほとんど湯気が立っていなかった。

「……まさか」

「あくまで、可能性の一つだ」

「リリアが、オブスキュリアルだとでも言うの?」

「断定はしていない。この娘には通常とは異なる点がある。だが、可能性を無視することもできん」

「そんな……リリアはオブスキュリアルなんかじゃないわ!」エミリーは思わず声を上げた。

 リリアは驚いて母を見た。オブスキュリアル。何のことか分からない。けれど、ママがこんなに取り乱しているのだから、きっと恐ろしいことなのだろう。

「……エミリー」スネイプの声は変わらず静かだった。

「君が魔法を遠ざけたい理由は承知している」エミリーは唇を噛んだ。

「でも……私は、もう……」

「それについて私が口を挟むつもりはない。だが、この娘の魔法については別だ」スネイプはリリアへ目を向けた。

 

 「……君は、今まで自分に起きた現象を何だと思っていた?」

「……え?」

「花が育ち、物が動く。その理由を考えたことはないのか?」リリアは困ったように首を傾げた。

「……分かりません。ただ、歌うと不思議なことが起きるから……」スネイプはしばらくリリアを見つめた。そして、エミリーに向き直った。

「……エミリー。まさか、この娘には何も話していないのか?」エミリーの表情が強張った。

「……セブルス」

「魔法についても?」

「……お願い。それは……」

───魔法?リリアは二人が一体何の話をしているのか、理解するのが精一杯だった。

「君自身が魔法を使わないことと、この娘に魔法の存在すら知らせないことは、同じではない」エミリーは何も答えなかった。スネイプは再びリリアを見た。

「……君は、自分が魔女だということを知らないのか?」

「……え?」

「セブルス、やめて!」

しかし、スネイプは構わなかった。

「君は魔女だ」

「……魔女?」

「そうだ」

リリアはぱちくりと瞬きをした。

それから、ぱっと立ち上がる。

「……イジー・ウィジー! とか、ホーカス・ポーカス! みたいな?」片手を振って魔法をかける真似をした。

少しでも、この重苦しい空気を変えたかった。ママがいつものように笑ってくれたら、それだけで安心できる気がした。

けれど、二人とも笑わなかった。どうやら違ったらしい。リリアは二人の顔を見比べた。

「……違うの?」

誰も答えない。リリアはそっと座り直し、ふとエミリーを見た。

 

「……ママも魔女なの?」エミリーは一瞬リリアの顔を見られなかった。やがて観念したように、

「……そうよ」とだけ答えた。

リリアは息を呑んだ。ママも魔女。何か言いたかったのに、言葉が出てこない。

「……話を戻す」

スネイプはテーブルのカップを一瞥した。

「先ほど、床がわずかに震えたことに気づいたか?」

「え? ……いいえ。分かりませんでした」

リリアはエミリーを見た。ママも気づかなかったらしく、不思議そうな顔をしていた。

「……そうか。では、祭りのあと、歌ってもいないのに不思議な現象が起きたことは?」

「……ないです」

「自分の歌声が聞こえたことも?」

「……ありません」

スネイプは長く黙り込んだあと、低く言った。

「……なるほど。現時点では、オブスキュラスの可能性を否定することはできん。だが、君の魔法には通常と異なる点が多すぎる。今ここで結論を出すことはできん」そして立ち上がった。

 

 「このことはダンブルドアに報告しておく。また後日ここへ来る」

「……ダンブルドア?」

エミリーが顔を上げた。「セブルス……あなた、どうしてあの人に?」

「私は現在、ホグワーツで魔法薬学を教えている。校長の指示でここへ来た」

「……あなたが?」

「それだけだ」

スネイプは玄関へ向かった。エミリーもそのあとを追う。

リリアは二人の背中を見つめた。このおじさん、学校の先生なんだ。それなら、分かってくれるかもしれない。今日、学校でみんなに白い目で見られたことも、クロエに怒鳴られたことも。

「待って……!」リリアが声を上げると、スネイプが振り返った。

「……何だ?」

「……おじさん……助けて!」

「リリ……?」

エミリーが驚いて振り向く。

「……私、どうしたらいいか分からないの……今日、学校で、みんな変な目で見てきて……クロエにも怒られて……私、怪我させるつもりなんてなかったのに……このままじゃ……私、学校に行けない……」

スネイプはしばらくリリアを見つめていた。やがて、

「……そうか」とだけ言った。

「……え?」

 リリアが目を瞬かせる間に、スネイプは黒いマントを翻し、そのまま玄関を出ていった。

 

 扉が静かに閉まった。

……そうか? それだけ?

助けてって言ったのに。学校に行けないって言ったのに。

 リリアは閉じられた玄関の扉を見つめたまま、動けなかった。家の中が急に静かになったように感じられた。

「……おじさん、何にもしてくれないのかな」

エミリーはリリアの前にしゃがんだ。

「そんなことないわ。あなたの願いは、ちゃんと聞き入れてくれたと思う。ママにもどうすることもできなかったことだから……きっと、何か考えてくれるわ」

リリアはしばらく黙っていたが、やがてエミリーを見た。

「ママ……私、本当に魔女なの? ママも?」

「ええ。本当よ」

「どうして教えてくれなかったの?」

エミリーはすぐには答えず、リリアの手をそっと取った。

「……ママはね、魔法から離れて暮らしたかったの。あなたにも、魔法のことを知らずに、普通に育ってほしかった」

「……普通に?」リリアは首を傾げた。

みんなと同じように歌えないことが、ずっと嫌だったのに。そのことを伝えようとエミリーの顔を見上げたが、うまく言葉にならなかった。

リリアは、握られた手をそっと握り返した。

「あなたを守っているつもりだったわ。でも、本当はママ自身が魔法を遠ざけたかったのね」エミリーは少し俯いた。

「人前では歌わないように言って、家では自由に歌っていいと言いながら……ママはいつの間にか、一緒に歌わなくなってしまった」

「……うん」

「お絵描きやお庭遊びを楽しんでいるあなたを見て、歌わなくても平気になったんだと思っていたの。でも……違ったのね」

エミリーはリリアの手を握り直した。

「あなたが歌わなくなって、ママは安心していたのかもしれない。……一緒に歌えなくなったことを、あなたがどんなに寂しく思っていたかも知らずに」エミリーは娘の顔を見つめた。

「……ごめんね、リリ」エミリーの頬を、一粒の涙が伝った。

「……ママ、泣いてるの?」

エミリーは一瞬驚いたように娘を見た。それから、頬の涙を指でそっと拭った。

 リリアはエミリーの指先をじっと見つめた。さっき、自分もあんなに泣いたのに。どうして自分の頬は、少しも濡れないのだろう。

「……ママ、もう泣かないで」リリアがそっと頬に手を伸ばすと、エミリーはその手を優しく包んだ。

「……じゃあ、私、これからも歌っていいの?」エミリーはリリアの手を包んだまま、優しく笑った。

「ええ。でも、まだ人前ではだめよ。セブルスがまた来るまでは、お家でいっぱい歌いましょう」

「ママも一緒に歌ってくれる?」

「もちろんよ。一緒に歌いましょう」ようやく、リリアの顔に笑顔が戻った。食べる気持ちも湧いてきた。

「……ご飯、食べようかな」

「ええ。食べましょう」

 二人は手をつないでキッチンへ向かった。

食事を終えると、エミリーはふと何かを思い出したようにリリアを居間へ連れていった。

 

 二人が並んで腰を下ろしたのは、さっきまでスネイプが座っていたソファだった。

けれど、もうそこにあの黒い男の気配はなく、二人のぬくもりでいっぱいになった。

エミリーはリリアの頭を優しく撫でた。

「お祭りの日、約束してたわね」

リリアも思い出した。

祭りのことがあってから、自分が頼んだことをすっかり忘れてしまっていた。

 

 エミリーは微笑むと、静かに歌い始めた。

夢を信じていれば、いつかその願いは叶う。そんな優しい歌だった。

リリアはエミリーの肩に寄り添い、久しぶりの歌声にじっと耳を澄ませた。

 やがて歌が終わると、リリアは嬉しそうに笑った。

「ママの歌、やっぱり大好き!」

エミリーも笑って、リリアの髪を撫でた。

「ママも、リリアの歌は大好きよ」

リリアは安心したように笑い、エミリーの肩にそっと頭を預けた。

 

 明日、学校へ行くのはやっぱり怖かった。クロエの怒った顔も、みんなの冷たい視線も、まだ忘れられそうになかった。

それに、自分が魔女だなんて、今でも信じられなかった。けれど、今夜はもう、そんなことを考えたくなかった。

 リリアが目を閉じると、エミリーは再び小さく歌を口ずさみ始めた。

窓の外では、夜の海が静かに波を寄せていた。

こうして、長いあいだ忘れられていた歌声が、再び貝殻の家に戻ってきたのだった。

 

 

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