星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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出会い編
プロローグ 星は笑わなかった


 

 

歓声が、壁を震わせていた。

 

幾重にも重なった声。

名前を呼ぶ声。

泣きそうなほど熱を帯びた拍手。

光の海の向こうで、何万人もの想いが波のように揺れている。

 

ドーム。

 

星野アイにとって、そこは夢の果てだった。

 

ずっと遠くにあると思っていた場所。

いつか立てたらいいね、と笑っていた場所。

だけど本当は、笑いながらも信じきれなかった場所。

 

そのステージに、今日、アイは立っていた。

 

「アイ、次の出番まで三分!」

 

スタッフの声が飛ぶ。

 

「はーい」

 

アイは振り向き、完璧に笑った。

 

汗で前髪が少しだけ額に張りついている。

それでも笑顔は崩れない。

星のような瞳は、ライトを受けてきらきらと輝いていた。

 

それは、誰もが知っている星野アイの顔だった。

 

可愛くて。

明るくて。

無敵で。

誰からも愛される、完璧なアイドルの顔。

 

けれど、その笑顔を正面から見ていた凛だけは、ほんの少し眉を寄せた。

 

「……無理してない?」

 

「えー? してないよ」

 

アイは即答した。

 

「ドームだよ? 楽しいに決まってるじゃん」

 

「そう」

 

凛は短く返した。

 

アイの隣で、アクアが小さな身体で衣装ケースを避けながら歩いている。

ルビーはスタッフに髪飾りを直されながら、落ち着きなく足を揺らしていた。

 

「ママ、すごかった! さっきのソロ!」

 

「でしょ?」

 

アイはルビーに向けて、ぱっと笑う。

 

「ママ、天才だから」

 

「自分で言うなよ」

 

アクアが呆れたように言う。

 

けれど、その声は少しだけ柔らかい。

 

アイはそれを聞いて、満足そうに目を細めた。

 

この時間が好きだった。

 

ステージの熱。

控室の慌ただしさ。

家族の声。

凛が少し離れた場所で、当たり前みたいに立っていること。

 

昔のアイなら、こんな場所を怖がったかもしれない。

 

たくさんの人に見られること。

期待されること。

愛されること。

 

その全部が、いつか嘘になる気がしていた。

 

でも今は違う。

 

嘘はまだ使う。

アイドルだから。

星野アイだから。

 

けれど、全部が嘘ではないと知っている。

 

愛している、と言った時。

ただいま、と言った時。

おかえり、と返された時。

凛が隣にいて、アクアとルビーがそこにいて。

 

その中に、本物は確かにあった。

 

「アイ」

 

凛が呼んだ。

 

「ん?」

 

「このあと、少し裏導線変わるって。人の出入り多いから、こっち通って」

 

「はいはい。凛ちゃん、相変わらず過保護」

 

「アイが警戒しなさすぎ」

 

「大丈夫だよ。今日は警備も多いし」

 

アイは軽く笑った。

 

その瞬間。

 

凛の視線が、アイの後方へ動いた。

 

ほんの一瞬だった。

 

空気が変わった。

 

騒がしい舞台裏の音が、薄い膜の向こうへ遠ざかる。

凛の黒い瞳が、静かに細められる。

 

「アイ」

 

声の温度が落ちた。

 

「下がって」

 

「え?」

 

アイが振り向くより早く、凛が前に出た。

 

通路の影。

 

関係者用のパスらしきものを下げた男が、そこにいた。

 

知らない顔だった。

 

けれど、その目だけは異様にはっきりしていた。

熱に浮かされたような、焦点の合わない目。

 

男の手元で、何かが鈍く光った。

 

「アイ……」

 

かすれた声。

 

呼びかけるというより、呟きだった。

 

「アイ……アイ……」

 

アクアの顔色が変わる。

 

ルビーが息を呑む。

 

アイは、一歩も動けなかった。

 

その名前の呼ばれ方を、知っている気がした。

 

愛ではない。

憧れでもない。

祈りでもない。

 

それは、こちらの形を無理やり決めつけるような声だった。

 

男が踏み込む。

 

刃が、アイへ向かう。

 

その腕を、凛が掴んだ。

 

音もなく。

 

けれど、次の瞬間には男の手首は凛の指に封じられていた。

 

凛の表情は、刃物のように静かだった。

 

怒鳴らない。

慌てない。

ただ、目の奥だけが凍っている。

 

「その手、下ろして」

 

低い声だった。

 

男の身体が震えた。

 

凛の背後で、アイは動けないまま凛を見ていた。

 

その背中は、何度も見た背中だった。

 

小学生の頃から。

施設の前で。

雨の中で。

母に会った日の帰り道で。

ステージ裏で。

病院の廊下で。

 

何度も、凛はアイの前に立った。

 

守るために。

 

けれど、今日の凛は違った。

 

静かすぎる。

 

怒りすら凍らせたような横顔に、アイは思わず手を伸ばしかける。

 

「凛――」

 

その時だった。

 

男が笑った。

 

口の端が、不自然に吊り上がった。

 

「なんで」

 

声が濁る。

 

「なんで、お前がいる」

 

凛の眉が、わずかに動いた。

 

男の腕が膨れ上がる。

 

皮膚の下で、何かが蠢いた。

 

骨の形が変わるような、嫌な音がした。

人間の輪郭が崩れていく。

 

スタッフが悲鳴を上げた。

 

「下がって!」

 

凛の声が鋭く飛ぶ。

 

アクアがルビーを庇って後退する。

アイも反射的に下がった。

 

男だったものの背中から、黒い影が噴き出した。

 

獣とも、虫とも、人ともつかない。

歪んだ何か。

 

先祖返りではない。

 

凛は瞬時にそう判断した。

 

これは、血の目覚めではない。

魂の奥から生まれたものでもない。

 

外からねじ込まれた異物。

 

誰かが、この人間を壊した。

 

「っ……」

 

凛の額に、一対の角が現れる。

 

空気が鳴った。

 

手の中に、刀が顕現する。

 

蒼い稲妻が刀身を走り、凛の腕から肩へ、肩から全身へと駆け抜けた。

 

舞台裏の照明が一瞬、明滅する。

 

凛は迷わなかった。

 

ただし、斬るためではない。

 

後ろにはアイがいる。

アクアがいる。

ルビーがいる。

スタッフがいる。

 

ここで力任せに斬れば、被害が広がる。

 

凛は一歩踏み込み、男だったものの進路を塞いだ。

 

稲妻を纏った刀で、黒い腕を受け止める。

 

衝撃。

 

通路の床が軋んだ。

 

凛の足がわずかに沈む。

 

「凛!」

 

アイが叫んだ。

 

凛は振り返らない。

 

「来ないで」

 

短く、それだけ。

 

次の瞬間、怪物の身体から別の腕が伸びた。

 

凛の死角。

 

本来なら、避けられた。

凛なら見えていた。

 

けれど、その先にルビーがいた。

 

凛は避けなかった。

 

身体をずらし、ルビーへの軌道を自分で塞ぐ。

 

鈍い衝撃が走った。

 

凛の息が止まる。

 

蒼い稲妻が、弾けるように乱れた。

 

「凛ちゃん!」

 

ルビーの悲鳴。

 

アクアが何かを叫ぶ。

 

アイの耳には、何も届かなかった。

 

凛の身体が崩れる。

 

刀の先が床を擦る。

 

稲妻が、消えかけた。

 

アイの中で、何かが音を立てて切れた。

 

凛が倒れる。

 

その光景だけが、世界から浮き上がって見えた。

 

凛が。

 

凛が、倒れている。

 

いつも前に立っていた凛が。

いつも平気な顔をしていた凛が。

いつもアイを繋ぎ止めてくれた凛が。

 

床に膝をついている。

 

「……アイ」

 

凛の唇が動いた。

 

大丈夫、と言おうとしたのかもしれない。

 

でも声にはならなかった。

 

アイの視界が、すっと冷えた。

 

熱い怒りではなかった。

 

もっと静かで、もっと深い。

 

底のない水のような怒りだった。

 

「……許さない」

 

誰の声か、アイ自身にも分からなかった。

 

額が熱くなる。

 

星の瞳が、鋭く細まる。

 

アイの額に、一本の角が浮かび上がった。

 

小さく、けれど確かに。

月光と星明かりを混ぜたような、淡い光を帯びた一本角。

 

その手の中に、短刀が現れる。

 

凛の刀よりずっと短い。

けれど、その刃は静かに光っていた。

 

アイは笑っていなかった。

 

アクアは、母のその顔を見た。

 

見たことのない顔だった。

 

テレビの中のアイでもない。

ステージのアイでもない。

家でふざけるアイでもない。

泣きそうな時に笑うアイでもない。

 

そこにいたのは、怒りで星を凍らせた鬼だった。

 

「ママ……?」

 

ルビーの声が震える。

 

アイは聞いていなかった。

 

怪物が凛へ向かって腕を伸ばす。

 

その腕を、アイの短刀が断ち切った。

 

一瞬だった。

 

アイは踏み込む。

 

動きは荒い。

 

凛のように洗練されてはいない。

それでも、怒りだけが刃を迷わせなかった。

 

軽い。

速い。

舞うように、けれど痛々しいほど必死に。

 

怪物の動きが止まるより早く、アイはその懐に入った。

 

「凛を」

 

一撃。

 

「傷つけた」

 

二撃。

 

「凛を」

 

三撃。

 

「奪おうとした」

 

短刀が光るたび、怪物の身体から黒い影が散った。

 

アイは止まらない。

 

誰かが叫んでいる。

アクアかもしれない。

スタッフかもしれない。

ルビーかもしれない。

 

でも、アイには届かない。

 

届くわけがない。

 

だって、凛が倒れている。

 

アイに愛を教えた人が。

アイに家族をくれた人が。

アクアとルビーに繋がる奇跡を、一緒に抱えてくれた人が。

 

その人が、血の気を失った顔で倒れている。

 

許せるわけがなかった。

 

怪物が床に叩き伏せられる。

 

人間だった面影が、かすかに戻る。

 

男の目が怯えたように揺れた。

 

アイはその上に立った。

 

短刀を逆手に握る。

 

刃先が、静かに下を向く。

 

「アイ!」

 

アクアの声。

 

「やめて、ママ!」

 

ルビーの声。

 

それでも、アイの手は止まらなかった。

 

止める理由が分からなかった。

 

この男は凛を傷つけた。

この男の後ろには、誰かがいる。

誰かがアイを狙い、凛を傷つけ、家族を壊そうとした。

 

なら。

 

ここで終わらせる。

 

アイの瞳から、温度が消える。

 

短刀が振り下ろされようとした。

 

その時。

 

「……アイ」

 

かすれた声がした。

 

小さな声だった。

 

歓声よりも。

悲鳴よりも。

アクアとルビーの叫びよりも。

 

ずっと小さい。

 

なのに、アイの耳には届いた。

 

「だめ」

 

凛の声だった。

 

アイの手が止まる。

 

短刀の切っ先が、男のすぐ横で震えた。

 

アイはゆっくりと振り返る。

 

凛が、わずかに目を開けていた。

 

顔色は悪い。

呼吸も浅い。

蒼い稲妻は、もうほとんど見えない。

 

それでも凛は、アイを見ていた。

 

怒ってはいなかった。

 

責めてもいなかった。

 

ただ、いつものように。

 

アイがどこかへ行ってしまわないように、見ていた。

 

「……凛」

 

アイの声が崩れた。

 

短刀が手から消える。

 

一本角の光が揺らぐ。

 

アイは凛のそばに膝をついた。

 

「凛、凛……っ」

 

凛はほんの少しだけ、指を動かした。

 

アイの手に触れる。

 

「……大丈夫」

 

いつもの言葉。

 

けれど、今だけは何よりも信用できなかった。

 

アイは首を振る。

 

「大丈夫じゃない」

 

声が震える。

 

「全然、大丈夫じゃない」

 

凛は薄く息を吐いた。

 

笑おうとしたのかもしれない。

 

でも、それは笑顔にはならなかった。

 

アクアは、その光景を見ていた。

 

母が、泣きそうな顔で凛の手を握っている。

ルビーが震えながら泣いている。

スタッフが倒れた男を押さえ、誰かが救急車を呼んでいる。

 

そして床には、さっきまで凛の身体を包んでいた蒼い稲妻の残滓が、火花のように一つ、また一つと消えていた。

 

アクアの中で、何かが冷たく固まっていく。

 

これは事故じゃない。

 

あの男は、ただのファンじゃなかった。

少なくとも、最後はそうではなかった。

 

誰かがいる。

 

誰かが、家族を壊そうとした。

 

アクアは小さな拳を握った。

 

その視線の先で、アイが顔を上げる。

 

涙に濡れているのに、その瞳は暗く澄んでいた。

 

アクアは思わず息を止める。

 

母の顔ではなかった。

 

アイドルの顔でもなかった。

 

それは、凛を傷つけたものを絶対に許さないと決めた者の顔だった。

 

ルビーも、それを見ていた。

 

二人はその日、初めて知った。

 

星野アイは、ただ笑うだけの人ではない。

 

愛するものを奪われかけた時、星は笑わない。

 

静かに、冷たく、牙を剥く。

 

遠くで救急隊の足音が近づいてくる。

 

凛の指が、アイの手を弱く握った。

 

アイはその手を両手で包み込む。

 

「凛」

 

返事はない。

 

けれど、凛の呼吸はまだそこにあった。

 

アイは震える唇で、何度も名前を呼んだ。

 

「凛……凛……」

 

ドームの歓声は、まだ遠くで続いていた。

 

誰も知らない。

 

ステージの裏で、星が笑うことをやめたことを。

鬼の雷が、音もなく消えたことを。

そして一人の小さな少年が、静かに犯人を探すと決めたことを。

 

その日、星野アイは笑わなかった。

 

そして凛の雷は、その日、音もなく沈黙した。

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