星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第9話 約束のある場所

 

 

アイが出した名前のない手紙は、その日の放課後、先生の机の上に置かれていた。

 

宛名の欄は空白だった。

 

けれど、本文だけが小さな字で書かれている。

 

『ありがとうって書く相手が、まだ分かりません。

でも、書けるようになりたいです。

花を見る場所ができました。』

 

先生は、しばらくその紙から目を離せなかった。

 

星野アイは、よく笑う。

 

返事も明るく、友達の輪にもすぐ入れる。

困っている子がいれば手を貸し、先生に頼まれたことも嫌な顔をしない。

 

だからこそ、その短い手紙が気になった。

 

問題を起こしているわけではない。

授業についていけていないわけでもない。

友達と揉めている様子もない。

 

それでも、この紙には、星野アイが普段見せない何かがあった。

 

先生はプリントを丁寧に畳み直した。

 

大げさに騒ぐことではない。

けれど、見なかったことにしていいものでもない。

 

職員室の電話の前で、少しだけ迷う。

 

それから、受話器を取った。

 

「星野アイさんのことで、少し様子を共有したいことがありまして」

 

声は、できるだけ穏やかにした。

 

「最近、放課後に安心できる場所を見つけたようなんです」

 

手紙の内容をそのまま伝えるのではなく、最近の様子として。

 

笑顔の奥にあるものを、決めつけないように。

 

先生は、慎重に言葉を選んだ。

 

施設でその話を聞いた時、アイは一瞬だけ固まった。

 

「最近、花屋さんに寄っているの?」

 

職員は責めるような声ではなかった。

 

ただ、確認するような声だった。

 

それでも、アイの胸は跳ねた。

 

知られた。

 

先生が知った。

施設の人が知った。

 

自分だけの場所だったはずなのに。

 

アイはすぐに笑った。

 

「あ、はい。クラスの子の家で……見るだけです」

 

見るだけ。

 

そう言えば、まだ欲しがっていないことにできる気がした。

 

凛に会いに行っているわけではない。

渋谷家に居場所を求めているわけではない。

ただ、花を見ているだけ。

 

そう言えば、まだ平気でいられる気がした。

 

職員は少しだけ頷いた。

 

「そっか。危ない場所じゃないならいいんだけど、帰りが遅くなる時はちゃんと教えてね」

 

「はい」

 

「相手のお家にも、こちらから一度確認しておくね」

 

アイの指が、ランドセルの肩紐を握る。

 

「……すみません」

 

「謝らなくていいのよ。行くなって言ってるわけじゃないから」

 

アイは少しだけ目を瞬かせた。

 

行くなとは、言われなかった。

 

怒られなかった。

禁止されなかった。

 

それなのに、胸の奥は落ち着かなかった。

 

花屋は、自分だけが知っている逃げ道だった。

 

ブルースター。

凛。

渋谷家の味噌汁。

何も聞かれない場所。

 

それを大人が知った。

 

先生が知った。

施設の人が知った。

 

秘密ではないものは、壊れる時に大きな音がする。

 

アイはその日、花屋に行くかどうか迷った。

 

行きたい。

 

でも、行きたいと思っていることまで知られてしまうのは怖かった。

 

迷っているうちに、放課後の時間は過ぎていった。

 

アイが花屋へ行けずにいた頃。

 

渋谷家にも、一本の電話が入っていた。

 

凛の母は受話器を持ちながら、店先の花をちらりと見た。

 

相手は施設の職員だった。

 

内容は、確認に近かった。

 

アイが放課後に花屋へ寄っていること。

帰りが遅くなる日には連絡がほしいこと。

そして、渋谷家に迷惑がかかっていないか。

 

どれも責めるための言葉ではなかった。

 

けれど母は、電話の向こうにある慎重さを感じ取った。

 

「迷惑ではありません」

 

母は、はっきり答えた。

 

少しだけ間を置いて、続ける。

 

「アイちゃんが安心できる範囲で、無理のない関わりにしたいと思っています」

 

電話を切ったあと、母はしばらく受話器を見ていた。

 

夜。

 

父にそのことを話すと、父は少し考えてから言った。

 

「じゃあ、今度から“寄ってもいい日”を決めた方が、アイちゃんも安心するかもしれないな」

 

母は少し眉を寄せる。

 

「約束にすると、怖がるかもしれない」

 

「そうだな」

 

父は頷いた。

 

「でも、約束がある方が安心できる子もいる」

 

母は黙った。

 

たしかに、そうかもしれない。

 

来ていいのか。

迷惑ではないのか。

今日は行ってもいいのか。

 

毎回それを考えるくらいなら、決まっていた方が楽なこともある。

 

「押しつけないようにしないとね」

 

母が言う。

 

父は静かに頷いた。

 

「うん。選べる形がいい」

 

翌日の学校で、凛はすぐに気づいた。

 

アイはいつも通り笑っていた。

 

朝の挨拶も明るい。

友達との会話も上手い。

先生に頼まれたことも、いつものようにこなしている。

 

でも、少しだけ落ち着かない。

 

目が何度か窓の外へ向く。

 

授業中、鉛筆の先が止まる。

 

休み時間に笑ったあと、ほんの少しだけ表情が遅れて戻る。

 

昼休み。

 

凛はアイの横に立った。

 

「今日、来る?」

 

アイは一瞬、言葉に詰まった。

 

前なら、簡単に言えた。

 

見るだけ。

 

偶然。

ブルースターを見たいだけ。

凛に会いに来たわけじゃない。

 

でも今は、大人たちが知っている。

 

施設の人が知っている。

先生も、たぶん知っている。

渋谷家も、きっと連絡を受けている。

 

アイは小さく聞いた。

 

「……行っていいの?」

 

凛は少しだけ首を傾げる。

 

「来たいなら」

 

「そういうのじゃなくて」

 

「そういうのでいいと思う」

 

アイは困ったように笑った。

 

「凛ちゃんは、すぐそう言う」

 

「だめ?」

 

「だめじゃないけど……」

 

アイは言葉を探した。

 

来たいなら来ればいい。

 

それは、簡単すぎる。

 

でも、その簡単さに少し救われている自分がいる。

 

凛は少し考えてから言った。

 

「来ない日があってもいいし、来る日があってもいい」

 

「なにそれ」

 

「約束」

 

アイは眉を寄せた。

 

「約束って、破ったらだめなやつでしょ」

 

「破らなきゃいけない日もあるんじゃない」

 

アイは少しだけ驚いた。

 

アイの知っている約束は、守れなかった時に責められるものだった。

 

約束したのに。

 

そう言われるくらいなら、最初からしない方がいい。

 

でも凛は、当たり前みたいに言った。

 

破らなきゃいけない日もある、と。

 

「……変なの」

 

「うん」

 

「そこは認めるんだ」

 

「前にも言われたし」

 

アイは少しだけ笑いそうになった。

 

けれど、その笑いは途中で止まった。

 

約束。

 

怖い言葉なのに、少しだけ欲しい言葉でもあった。

 

放課後。

 

アイは花屋へ行った。

 

いつもより、少しだけ足取りが重い。

 

店先には凛がいた。

 

その奥から、凛の母が出てくる。

 

「アイちゃん」

 

優しい声だった。

 

アイの背中が少しだけ固くなる。

 

凛の母は、それに気づいたように少しだけ声を和らげた。

 

「施設の方から連絡をもらったよ」

 

アイは息を止めた。

 

やっぱり。

 

知られている。

ちゃんと話になっている。

自分の知らないところで、大人たちが話している。

 

胸の奥が冷たくなる。

 

怒られる。

迷惑だったと言われる。

もう来ない方がいいと言われる。

 

そんな考えが、一瞬で浮かんだ。

 

けれど、凛の母は続けた。

 

「だから、今度から遅くなる時は、こちらからもちゃんと連絡するね」

 

アイは顔を上げた。

 

「……迷惑じゃないんですか」

 

声が小さくなった。

 

凛の母は、すぐに「迷惑じゃないよ」とは言わなかった。

 

少しだけ考えてから、まっすぐに言った。

 

「困った時は、ちゃんと困ったって言うわ」

 

アイは返せなかった。

 

「でも今は、困ってないから、来てもいいって言ってるの」

 

その言葉は、ただ優しいだけの言葉よりも少しだけ信じやすかった。

 

困った時は、困ったと言う。

 

言わないのは、今は困っていないから。

 

そういう形なら、アイにも少し分かる気がした。

 

凛が横から言う。

 

「じゃあ、週に何回か来れば」

 

アイは凛を見る。

 

「決めるの?」

 

「決めた方が、来やすいなら」

 

「来やすいって……」

 

「違う?」

 

アイは黙った。

 

違わない。

 

毎日行くのは怖い。

行かないと決めるのも寂しい。

その日その日で迷うのは、もっと疲れる。

 

なら、決まっていた方が楽かもしれない。

 

でも、決めてしまったら。

 

来たいことを認めるみたいだ。

 

アイはブルースターを見た。

 

淡い青色の花が、風に揺れている。

 

「じゃあ……火曜日と金曜日」

 

小さな声だった。

 

凛は頷いた。

 

「うん」

 

「でも、来ない時もあるから」

 

「うん」

 

「来ないからって、怒らないでよ」

 

「怒らない」

 

「ほんと?」

 

「たぶん」

 

アイは思わず顔を上げた。

 

「そこは言い切って」

 

凛は少しだけ考え直した。

 

「怒らない」

 

「よし」

 

言ってから、アイは自分で少し驚いた。

 

よし、なんて。

 

そんな自然な言葉が、出るとは思わなかった。

 

凛の母が小さく笑う。

 

「じゃあ、火曜日と金曜日。無理のない範囲でね」

 

アイは頷いた。

 

「はい」

 

その日は、少しだけ花を見て帰った。

 

施設へ戻ると、アイは職員のところへ行った。

 

自分から声をかけるのは、少し緊張した。

 

「あの」

 

職員が振り向く。

 

「どうしたの?」

 

アイはランドセルの肩紐を握った。

 

「火曜日と金曜日、少し花屋さんに寄ってもいいですか」

 

言ってしまった。

 

言った瞬間、胸がぎゅっと縮む。

 

自分の希望を言うのは怖い。

 

断られたらどうしよう。

わがままだと思われたらどうしよう。

そんなに行きたいの、と笑われたらどうしよう。

 

職員は少し驚いた顔をした。

 

でも、すぐに柔らかく頷いた。

 

「帰る時間は守れる?」

 

「はい」

 

「遅くなる時は、連絡できる?」

 

「はい」

 

「じゃあ、火曜日と金曜日ね。相手のお家にも迷惑をかけないように」

 

「はい」

 

今度の「はい」は、少しだけ本当だった。

 

火曜日。

 

アイは、花屋へ向かった。

 

今日は、来る日。

 

そう思うと、足の運びが少し違った。

 

言い訳を作らなくていい。

偶然だと言わなくていい。

ブルースターが気になっただけだと、自分に言い聞かせなくていい。

 

来る日だから、来た。

 

ただそれだけ。

 

店先には、凛がいた。

 

いつも通りの顔で、水やりをしている。

 

アイは少しだけ立ち止まってから、言った。

 

「来たよ」

 

凛は顔を上げる。

 

「うん」

 

「それだけ?」

 

「来る日だから」

 

アイは変な顔になった。

 

来る日。

 

自分が来ることを、誰かが普通に受け止めている。

 

それが怖い。

 

でも、嬉しい。

 

「……凛ちゃんってさ」

 

「うん」

 

「たまに、すごく普通に変なこと言うよね」

 

「普通なのか変なのか、どっち?」

 

「どっちも」

 

「そっか」

 

アイはブルースターの前にしゃがんだ。

 

今日の花は、昨日より少しだけ元気に見えた。

 

「今日のブルースター、昨日より少し元気?」

 

「たぶん」

 

「ちゃんと見てる?」

 

「見てる」

 

凛は花を見たまま答えた。

 

アイは、その横顔を少しだけ見た。

 

「……私より?」

 

言ってから、アイは固まった。

 

今のは、何を聞いたのだろう。

 

凛がこちらを見る。

 

「花の話?」

 

アイは慌てて視線を逸らした。

 

「……なんでもない」

 

凛はそれ以上聞かなかった。

 

それが、ありがたかった。

 

でも少しだけ、物足りなかった。

 

アイはブルースターの葉に、そっと触れた。

 

壊れないように。

 

でも、前より少しだけ怖がらずに。

 

その日の夜。

 

施設の廊下は、いつもより静かだった。

 

アイは少しだけ穏やかな気持ちで部屋へ戻ろうとしていた。

 

火曜日と金曜日。

 

花を見る約束。

 

来る日。

 

その言葉が、胸の中にまだ残っている。

 

だから、職員に呼び止められた時も、最初はいつも通り笑えた。

 

「アイちゃん、少し話があるの」

 

「はい」

 

反射的に笑う。

 

職員は、少し言いにくそうな顔をしていた。

 

その表情を見た瞬間、アイの胸の奥が冷えた。

 

「お母さんのことで、少し話があるの」

 

笑顔が止まった。

 

凛。

ブルースター。

渋谷家。

火曜日と金曜日。

 

せっかく形になりかけていたものが、遠くなる。

 

火曜日と金曜日。

 

花を見る約束ができたばかりだった。

 

それなのに、アイの胸の奥で、ずっと閉めていた扉が、静かに軋んだ。

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