星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第10話 母という名前

 

 

「アイちゃん、少し話があるの」

 

施設の廊下は、いつもより静かだった。

 

夕飯の片付けが終わり、小さい子たちの声も少しずつ部屋の中へ引いていく。

どこかで扉が閉まる音がした。

 

アイは、いつものように笑おうとした。

 

「はい」

 

職員はすぐには話し出さなかった。

 

その間で、アイは分かってしまった。

 

怒られる時の沈黙ではない。

確認される時の沈黙でもない。

 

言いにくいことを、できるだけ痛くない形にしようとしている時の沈黙だった。

 

「お母さんのことで、聞いておいてほしいことがあるの」

 

アイの指が、ランドセルの肩紐を握った。

 

火曜日と金曜日。

花を見る約束。

来る日。

 

さっきまで覚えていた花屋の空気が、急に遠くなった。

 

「お母さんが、釈放されたそうです」

 

笑顔が、途中で止まった。

 

アイはすぐに顔を整えようとした。

けれど、頬のあたりがうまく動かなかった。

 

「……そうなんですね」

 

自分の声が、少し遠い。

 

職員は慎重に続けた。

 

「今すぐ何かが変わるという話ではないよ。ただ、アイちゃんにも知っておいてほしかったの」

 

「分かりました」

 

きれいに返せた。

 

きれいに返せたことが、少し嫌だった。

 

職員が少しだけ眉を下げる。

 

「今日は、ひとりでいたい? それとも、誰かの近くにいたい?」

 

優しい聞き方だった。

 

だから、アイは困った。

 

ひとりになれば、考えてしまう。

誰かの近くにいれば、崩れないように笑わなければならない。

 

どちらも、少しだけ苦しい。

 

「部屋に戻ります」

 

アイはそう答えた。

 

「うん。何かあったら呼んでね」

 

「はい」

 

また、いい返事だった。

 

職員が少し安心した顔をしたから、アイは、また正解を選べてしまったのだと思った。

 

その夜、アイは眠れなかった。

 

布団の中で、目を閉じる。

 

暗くなると、昔のことは音から戻ってくる。

 

食器が置かれる音。

扉が開く音。

母の足音。

自分の呼吸。

 

白いご飯。

 

その白さを前に、箸が止まる感覚。

 

母の機嫌がいいのか、悪いのか。

何を言えば怒られないのか。

いつ笑えばいいのか。

いつ黙っていればいいのか。

 

幼い頃のアイは、そればかり考えていた気がする。

 

笑えば何とかなると思っていた。

 

かわいく笑えば。

いい子にしていれば。

邪魔にならなければ。

 

いつか、こちらを見てくれるかもしれない。

 

そう思っていた。

 

思っていたことを、思い出したくなかった。

 

アイは布団を少しだけ引き上げた。

 

釈放された。

 

その言葉が、頭の中で何度も形を変える。

 

来るのだろうか。

 

来ないのだろうか。

 

来たら、どうすればいいのだろう。

 

来なかったら。

 

そこまで考えて、アイは目を閉じる力を強めた。

 

来なくていい。

 

本当に、そう思う。

 

あの人が来たら困る。

何を言えばいいか分からない。

どんな顔をすればいいか分からない。

期待してしまう自分も、怖い。

 

だから、来なくていい。

 

そう思ったはずなのに。

 

眠れなかった。

 

翌日。

 

アイは、いつもより明るかった。

 

教室の扉を開ける前に、深く息を吸う。

 

そして、顔を上げる。

 

「おはよう!」

 

声はよく通った。

 

クラスメイトたちが振り向く。

 

「アイちゃん、おはよう」

 

「今日、元気だね」

 

「いつも元気だよ?」

 

アイは笑う。

 

授業中もよく手を挙げた。

休み時間も、誘われればすぐに輪へ入った。

先生に頼まれたプリント配りも、いつもより早く終えた。

 

誰も困らない。

 

誰も心配しない。

 

それが一番いい。

 

けれど、凛は見ていた。

 

アイが、遠い。

 

転校してきたばかりの頃に似ている。

 

笑顔がきれいすぎる。

返事が早すぎる。

誰かの求める形に、迷わず自分を合わせている。

 

昼休み。

 

アイが窓際でクラスメイトと話しているところへ、凛は近づいた。

 

「アイ」

 

「ん?」

 

アイが振り返る。

 

明るい顔。

 

凛は少しだけ黙った。

 

「何かあった?」

 

アイの表情が、一瞬だけ止まる。

 

ほんの短い間だった。

 

「何もないよ」

 

「嘘」

 

アイは笑った。

 

「凛ちゃん、それ好きだね」

 

「好きじゃない」

 

凛は短く返した。

 

「見えるだけ」

 

アイは言葉を失った。

 

でも、すぐに笑い直す。

 

「ほんとに何もないって」

 

凛は、それ以上踏み込まなかった。

 

今日のアイは、からかえば戻ってくる顔ではない。

問い詰めれば答える顔でもない。

 

少し触れただけで、もっと遠くへ行ってしまいそうだった。

 

だから凛は、ただ言った。

 

「そっか」

 

アイは拍子抜けしたように凛を見る。

 

何か言われると思っていたのかもしれない。

 

でも凛は、それ以上聞かなかった。

 

その日は火曜日だった。

 

放課後。

 

本当なら、花屋に行く日。

 

帰りの会が終わると、アイはすぐにランドセルを背負った。

 

「じゃあね」

 

クラスメイトに笑いかけて、そのまま教室を出ようとする。

 

凛は声をかけた。

 

「今日、火曜日」

 

アイは振り返る。

 

「うん」

 

笑顔はある。

 

けれど、薄い。

 

「でも今日は、ちょっと用事」

 

「そっか」

 

凛は引き止めなかった。

 

アイは少しだけ目を瞬かせる。

 

凛は続けた。

 

「来なくても怒らない」

 

アイの肩が、ほんの少し揺れた。

 

「……そういうところ、ほんと変」

 

声は笑っていた。

 

でも、笑いきれていなかった。

 

アイはそのまま廊下の向こうへ歩いていった。

 

夕方。

 

凛は店先でブルースターを見ていた。

 

来る日。

 

でも、アイは来ない。

 

それは約束を破ったことにはならない。

来ない日があってもいい、と決めた。

 

だから凛は怒っていない。

 

ただ、気になっていた。

 

母が店の奥から出てくる。

 

「今日は火曜日ね」

 

「うん」

 

「来ない日もあるって、約束したの?」

 

「うん」

 

母は小さく頷いた。

 

凛は花を見たまま言った。

 

「でも、今日のアイは、来ない日じゃなくて、来られない日っぽかった」

 

母の表情が少しだけ変わる。

 

「そう見えた?」

 

「うん」

 

凛は短く答えた。

 

「何かあったと思う」

 

母はすぐには動かなかった。

 

何も知らないまま踏み込むことはできない。

 

それでも、凛の言葉は覚えておこうと思った。

 

「分かった」

 

母は静かに言った。

 

「何か分かったら、一緒に考えよう」

 

凛は頷いた。

 

「うん」

 

施設に戻ったアイは、職員にもう一度呼ばれた。

 

小さな面談用の部屋。

 

机の上には、書類が一枚置かれている。

 

職員はそれを押しつけるようなことはしなかった。

 

ただ、アイの向かいに座る。

 

「お母さんのこと、もう少しだけ話しておくね」

 

アイは膝の上で手を重ねた。

 

「はい」

 

「今のところ、お母さんがアイちゃんを迎えに来るという話は出ていません」

 

言葉は静かだった。

 

静かだったから、余計に逃げ場がなかった。

 

アイは、膝の上で重ねた手に力を入れる。

 

来ない。

 

来なくていい。

 

そう思ったはずなのに、足元だけが少し遠くなった気がした。

 

「そうですか」

 

声は、ちゃんと出た。

 

職員はアイの顔を見ている。

 

「今後、連絡が来る可能性がないとは言えないけれど、今すぐ何かが変わるわけではないよ」

 

「はい」

 

「知らないままにするより、その方がいいと思ったの」

 

「ありがとうございます」

 

きちんと言えた。

 

言えたから、職員は少しだけ安心した顔をした。

 

「アイちゃん」

 

「はい」

 

「無理に、いい返事をしなくてもいいからね」

 

アイは笑いそうになった。

 

いい返事。

 

それなら、得意だ。

 

「分かりました」

 

それもまた、いい返事だった。

 

アイは部屋を出たあと、まっすぐ自室へ戻らなかった。

 

気づけば、施設を出ていた。

 

門を抜ける。

通りを歩く。

帰る時間は、もう過ぎている。

 

でも、足は花屋の方へ向かった。

 

火曜日の約束の時間は、とっくに終わっている。

 

来ない日だと言った。

 

それなのに来ている。

 

自分でも、何をしたいのか分からなかった。

 

ブルースターを見たいのか。

凛の顔を見たいのか。

ただ、どこかに立っていたいだけなのか。

 

どれも違うようで、少しずつ本当だった。

 

店は閉まりかけていた。

 

凛が店先の鉢を奥へ運んでいる。

 

アイは少し離れた場所で立ち止まった。

 

今日は、遠くから見るだけ。

 

そう思った瞬間、凛が顔を上げた。

 

「アイ」

 

見つかった。

 

アイは笑った。

 

「今日は来ない日って言ったのにね」

 

凛は少し考えた。

 

「来てもいい日でもある」

 

アイは何かを返そうとして、失敗した。

 

言葉が出なかった。

 

凛は何も聞かない。

 

どうして来なかったのか。

どうして今来たのか。

何があったのか。

 

そういうことを聞かずに、ただブルースターの鉢を少し手前へ出した。

 

アイは隣に立つ。

 

夜の花屋は、昼間より静かだった。

 

通りの音も少ない。

 

花の青は、暗がりの中で少しだけ沈んで見えた。

 

しばらく、二人は何も言わなかった。

 

先に口を開いたのは、アイだった。

 

「来てほしくない人に、来てほしい時ってある?」

 

凛は少し考えた。

 

「あるんじゃない」

 

「適当」

 

「分からない。でも、ありそう」

 

アイは少しだけ息を吐いた。

 

「凛ちゃんって、分からないのに言うよね」

 

「分からないって言った」

 

「そこは正直なんだ」

 

「うん」

 

アイは花を見る。

 

葉の先に残った小さな水滴が、店の明かりを受けて光っていた。

 

凛が言う。

 

「来てほしくないなら、来なくていいと思う」

 

アイは答えなかった。

 

それだけなら、簡単だった。

 

来ない方がいい。

 

本当にそう思う。

 

会わずに済むなら、その方がいい。

何も期待しなくて済む。

またがっかりしなくて済む。

 

でも。

 

「来ない方がいいって、分かってるのに」

 

声が、少しだけ掠れた。

 

「来なかったら、痛いんだよ」

 

言ってしまった。

 

言葉にした瞬間、自分がまだ期待していたことまで、凛に見られた気がした。

 

凛は何も言わなかった。

 

ただ、隣にいた。

 

その沈黙が、今はちょうどよかった。

 

店の奥から、凛の母が顔を出した。

 

アイの様子を見て、何かを察したように一度だけ目を伏せる。

 

けれど、深くは聞かなかった。

 

「温かいお茶、飲む?」

 

アイは反射的に断ろうとした。

 

「いえ、私は――」

 

そこまで言って、止まる。

 

凛が見ている。

 

アイは少しだけ肩の力を抜いた。

 

「……少しだけ」

 

凛の母は頷いた。

 

「少しだけね」

 

その言葉に、アイは救われた気がした。

 

全部話さなくていい。

 

全部受け取らなくていい。

 

少しだけ。

 

今は、それで足りた。

 

金曜日。

 

花屋に行く日。

 

アイは放課後、いつもの道を歩いた。

 

母のことは、まだ身体のどこかに残っている。

 

けれど、火曜日の夜よりは少しだけ呼吸がしやすかった。

 

店先に凛がいた。

 

水やりをしている。

 

アイは立ち止まり、いつものように言った。

 

「来たよ」

 

凛は顔を上げる。

 

「うん」

 

その普通さに、少しだけ肩の力が抜けた。

 

アイはブルースターの前にしゃがむ。

 

何か言わなければいけない気がした。

 

でも、何を言えばいいのか分からない。

 

母が釈放されたこと。

迎えに来ないこと。

ほっとしたこと。

痛かったこと。

 

どれも言葉にすると、形が変わりそうだった。

 

だから、アイは別の言い方をした。

 

「最近、ちょっと変かも」

 

凛は水を止める。

 

「うん」

 

「そこは否定しないんだ」

 

「見えるから」

 

アイは苦笑した。

 

「そういうところ、ほんと……」

 

変、と言いかけてやめた。

 

何度も言いすぎた気がした。

 

凛は少しだけ首を傾げる。

 

「気にするよ」

 

「え?」

 

「気にしないのは無理」

 

凛の声は、いつも通りだった。

 

淡々としていて、飾り気がない。

 

でも、嘘ではなかった。

 

アイは何も言えなくなった。

 

気にしないでほしい。

 

でも、気にしてほしい。

 

そのどちらも本当だった。

 

来なくてよかった。

 

そう思った。

 

なのに、来てくれなかったことが、痛かった。

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