星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜 作:百合太郎
月曜日の朝、アイはいつもの声で挨拶をした。
「おはよう、凛ちゃん」
凛は席から顔を上げる。
「おはよう」
「今日は普通でしょ?」
アイは少しだけ得意げに笑った。
朝の教室によく馴染む声。
誰も違和感を持たないくらい、明るい顔。
でも凛は、少しだけ黙った。
「普通に見せてる」
アイの笑顔が、一瞬だけ止まる。
けれどすぐに、困ったような笑いに変わった。
「ほんと、容赦ないね」
「そう?」
「そうだよ」
アイはそう言って、自分の席へ向かった。
周りの子が話しかけると、すぐに笑って返している。
それは上手だった。
上手で、明るくて、誰も困らない。
だからこそ、凛には気になった。
アイは落ち着いたわけではない。
ただ、きれいにしまい込んだだけだ。
見えないところへ。
誰にも触られないように。
放課後。
アイは施設に戻ると、職員に呼ばれた。
「アイちゃん、お母さんのこと、もう少し話しておくね」
小さな面談室だった。
机。
椅子。
薄いカーテン。
少しだけ古い書類の匂い。
アイはきちんと椅子に座った。
膝の上で手を重ねる。
「はい」
職員は、急がずに言葉を選んだ。
「今のところ、お母さんがアイちゃんを引き取る予定はないそうです」
アイは瞬きをしなかった。
動いたら、何かがこぼれそうだった。
「生活を立て直すことを優先したい、という話でした」
生活を立て直す。
それは、たぶん正しいことなのだろう。
大人には大人の事情がある。
暮らす場所も、お金も、仕事も、いろいろある。
分かる。
分かるような顔なら、できる。
「そうですか」
アイは笑った。
きれいに笑えたと思う。
職員の表情が、少しだけ曇る。
「アイちゃん」
「はい」
「今すぐ、ここでの生活が変わるわけじゃないからね」
「分かりました」
「……無理に、全部分かった顔をしなくていいよ」
アイは少しだけ目を伏せた。
そう言われると困る。
分かりました、と言えば終わる。
大丈夫です、と言えば、相手は少し安心する。
でも、今はそのどちらも言いにくかった。
だからアイは、もう一度だけ笑った。
「ありがとうございます」
それだけ言って、席を立った。
廊下に出る。
子どもたちの声が聞こえる。
誰かが笑っている。
誰かが走って、職員に注意されている。
夕飯の匂いがする。
いつもの施設。
いつもの時間。
でも、アイの足は自室へ向かなかった。
廊下を少し歩いて、窓の前で止まる。
外は夕方だった。
母は来ない。
来なくてよかった。
本当に、そう思った。
なのに、次の瞬間には別の言葉が浮かんだ。
私、捨てられたんだ。
アイは息を止めた。
そんなこと、今さらだった。
分かっていたはずだった。
それなのに、言葉になった途端、初めて傷になった。
違う。
期待なんてしていない。
迎えに来てほしかったわけじゃない。
母親に何かを求めていたわけじゃない。
そう思おうとした。
でも、思おうとするほど、その言葉は濃くなった。
捨てられた。
アイは窓から目を逸らした。
翌日は火曜日だった。
花屋に行く日。
けれど、アイは行かなかった。
学校では、誰も困らない程度に明るくした。
誰かに心配されるほど暗くはなく。
けれど、凛にはすぐ分かるくらい遠かった。
放課後、アイはまっすぐ施設へ戻った。
戻ったはずだった。
でも、門の前で足が止まる。
中へ入れば、夕飯の時間が来る。
職員が声をかけてくる。
小さい子たちの声が聞こえる。
そこは帰る場所のようで、帰る場所ではない。
花屋へ行けば、凛がいる。
凛がいたら、きっと見られる。
それも怖い。
なのに。
見つけてほしいと思っている自分もいた。
アイは施設の門から少し離れた。
遠くへ行くつもりはなかった。
ただ、今はどこにも入りたくなかった。
足が向いたのは、学校と施設の間にある小さな公園だった。
夕方の公園には、もうあまり人がいない。
滑り台。
ブランコ。
低いフェンス。
砂場の端に置き忘れられた小さなスコップ。
アイはベンチに座った。
ランドセルを下ろすこともせず、ただ座る。
泣いてはいない。
泣けるほど、まだ何かが形になっていなかった。
花屋では、凛が店先に立っていた。
火曜日。
来る日。
でも、アイは来ない。
凛はブルースターの鉢を見た。
花はいつも通りそこにある。
でも、今日はその前に立つアイがいない。
母が店の奥から出てくる。
「今日は、来られない日かもしれないね」
凛は頷いた。
「うん」
少し黙る。
それから、凛は顔を上げた。
「でも、見えないところに行きそう」
母が凛を見る。
「凛?」
「分からない」
凛は短く言った。
「でも、そう見えた」
母はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり頷く。
「見てくる?」
「うん」
「公園までね。それ以上は行かないこと。見つけたら、すぐ戻って教えて」
「分かった」
母は店の外まで凛を見送った。
手には、すぐ施設へ連絡できるように携帯を握っている。
凛は走らなかった。
走ると、何か大変なことが起きているようで嫌だった。
でも、足は自然と早くなる。
学校から施設までの道。
アイが通りそうな道。
花屋ではない場所。
凛は、小さな公園の前で足を止めた。
ベンチに、アイがいた。
ランドセルを背負ったまま。
膝の上に手を置いて、何も見ていない顔で座っていた。
「アイ」
凛が呼ぶ。
アイは振り返らなかった。
「来ちゃだめでしょ」
声はいつもより低かった。
凛は少しだけ近づく。
「見に来ただけ」
「私は花じゃないよ」
「知ってる」
アイはやっと凛を見た。
その顔には笑顔がなかった。
けれど、泣いてもいなかった。
凛はベンチの端に座った。
近すぎない場所。
しばらく、二人の間に夕方の音だけが落ちる。
遠くで自転車のベルが鳴った。
小さな子を呼ぶ母親の声がして、すぐに遠ざかった。
アイが先に口を開いた。
「来なかった」
凛は頷く。
「うん」
「来ない方がいいって思ってたのに」
「うん」
「でも、本当に来なかった」
声が、そこで少しだけ崩れた。
アイは笑おうとした。
でも、できなかった。
「私、いらないんだって」
凛はすぐには否定しなかった。
そんなことない。
そう言うのは簡単だった。
けれど、それではアイの言葉をなかったことにしてしまう気がした。
凛は少し考えた。
「お母さんが来なかったことと、アイがいらないことは、同じじゃないと思う」
アイの顔が歪む。
「分かったようなこと言わないで」
「分からない」
「じゃあ言わないでよ」
「でも、同じにしたくない」
アイは言葉を失った。
凛の声は静かだった。
慰めるための言葉ではない。
正しい答えでもない。
ただ、凛がどうしても譲れないことを言っただけだった。
それが、余計に痛かった。
「凛ちゃんはいいよね」
言ってしまってから、自分で傷ついた。
それでも、止まらなかった。
「帰ったら、おかえりって言ってくれる人がいる」
凛は黙って聞いていた。
「私は、そういうの、分かんない」
アイは膝の上の手を握った。
「分かりたかったのに」
その一言で、アイはもう何も言えなくなった。
公園の空気が、少し冷えている。
凛は立ち上がらなかった。
ただ、少しだけ手を伸ばした。
触れるか触れないかの距離で、止める。
「帰ろう」
アイはその手を見た。
「どこに?」
「今は、花屋」
「私の家じゃない」
「うん」
「施設にも戻らなきゃいけない」
「うん」
「じゃあ、帰る場所じゃないじゃん」
凛は少しだけ考えた。
そして言った。
「でも、行っていい場所でしょ」
アイは何も言えなかった。
凛は続ける。
「今日は、少しだけそこに帰ればいい」
家じゃない。
帰る場所でもない。
でも、行っていい場所。
その言い方が、今のアイにはぎりぎり受け取れる形だった。
アイは凛の手を見た。
すぐには取らなかった。
でも、立ち上がった。
「……少しだけ」
「うん」
凛は頷き、アイと一緒に公園を出た。
花屋に戻る頃には、空はもう薄暗くなっていた。
店先の灯りがついている。
凛の母は、店の前で待っていた。
アイを見ると、何かを聞きそうになって、やめた。
それから、少しだけ迷ったように笑う。
「おかえり……というには、まだ早いかな」
アイの足が止まる。
その言葉は、まだ重かった。
重すぎて、受け取れなかった。
凛の母は、すぐに言い直した。
「来てくれてよかった」
アイは視線を落とした。
その言葉なら、聞けた。
「……すみません」
「謝らなくていいよ」
「でも」
「今日は、まず座ろうか」
凛の母はそれ以上、何も言わなかった。
店の奥に入る。
温かいお茶が出された。
アイは両手で湯呑みを包んだ。
指先に、少しずつ温度が戻ってくる。
凛は隣に座っていた。
何も言わない。
母は奥で施設へ連絡している。
「はい、こちらにいます。落ち着いたら送ります」
声は静かだった。
責める声ではない。
慌てる声でもない。
アイは湯呑みを見つめた。
ブルースターの鉢が、店先に見える。
今日は、それをきれいだと思う余裕はなかった。
でも、そこにあることだけは分かった。
アイは小さく言った。
「私、ここにいていいのかな」
凛が答える。
「今いる」
「答えになってない」
「じゃあ、いていい」
アイは何も言えなかった。
泣きそうだった。
でも、泣かなかった。
泣かなくても、その場にいられた。
家ではなかった。
まだ、ただいまと言える場所でもなかった。
それでもその夜、アイは初めて、どこにも行かなくていい時間を少しだけ知った。