星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第12話 行っていい場所

 

 

施設へ戻る道で、アイはほとんど話さなかった。

 

隣を歩く凛の母も、無理に声をかけなかった。

 

街灯の下を通るたびに、足元の影が伸びたり縮んだりする。

湯呑みを包んでいた指先には、まだ少しだけ温度が残っていた。

 

施設の玄関には、職員が待っていた。

 

アイの姿を見ると、ほっとしたように息を吐く。

 

「アイちゃん」

 

アイはすぐに頭を下げた。

 

「すみませんでした」

 

その声は、きちんとしていた。

 

きちんとしすぎていた。

 

職員は首を横に振った。

 

「怒ってるんじゃないよ」

 

アイは顔を上げる。

 

「でも」

 

「どこにいるか分からないと、心配するの」

 

その言葉は、思っていたより静かだった。

 

責めるためではなく、本当に心配していた人の声だった。

 

アイは少しだけ視線を落とす。

 

「……はい」

 

凛の母が一歩前に出た。

 

「こちらにも来ていました。連絡が遅くなってしまって、すみません」

 

「いえ、連絡をいただけて助かりました」

 

職員はそう言って、少しだけ表情を和らげる。

 

「渋谷さんのお宅には、いつもお世話になっているようで」

 

「こちらこそ。アイちゃんが来てくれると、凛も嬉しそうなので」

 

アイは思わず凛の母を見た。

 

嬉しそう。

 

凛が。

 

そんな風に見えるのだろうか。

 

職員はアイに向き直る。

 

「次から、しんどくなった時にどうするか、一緒に決めておこう」

 

「どうするか……ですか」

 

「うん。勝手に我慢しなくていいように。どこにいるか、ちゃんと分かるように」

 

禁止されると思っていた。

 

もう行かないように、と言われると思っていた。

 

でも、返ってきたのは違う言葉だった。

 

逃げる場所ではなく、行っていい場所を決める。

 

アイはその意味を、すぐには飲み込めなかった。

 

凛の母が静かに言う。

 

「アイちゃんがうちに来た時は、こちらから連絡します」

 

少しだけ間を置いて、続ける。

 

「時間も守ります。無理に引き止めることもしません」

 

職員は頷いた。

 

凛の母は、もう一度アイを見た。

 

「でも、来た子を追い返すことも、できればしたくないんです」

 

アイは唇を結んだ。

 

胸のあたりが、少しだけ苦しくなる。

 

職員は少し考えてから頷いた。

 

「こちらとしても、所在が分かる形なら助かります。帰る時間や連絡の仕方だけ、決めておきましょう」

 

大人たちが話している。

 

自分のことなのに、自分を置いて勝手に決まっていく話ではなかった。

 

そこにアイもいる。

 

ちゃんと、聞こえる場所にいる。

 

それが少し怖かった。

 

でも、前ほど嫌ではなかった。

 

その夜。

 

凛の家へ戻ると、凛は母を待っていた。

 

「アイ、もう来ちゃだめって言われる?」

 

玄関で、凛はすぐに聞いた。

 

母は靴を脱ぎながら、少しだけ笑う。

 

「逆かな」

 

「逆?」

 

「来ていいようにするために、約束を作るの」

 

凛は眉を寄せた。

 

「約束」

 

「好きに来ていい、だけだと大人は心配するの。どこにいるか分からなくなるから」

 

母はコートを掛けながら続ける。

 

「でも、いつ来るか、どこにいるか、何時に帰るかが分かれば、守れることが増える」

 

凛は少し考えた。

 

「約束って、止めるためだけじゃないんだ」

 

「うん」

 

母は頷いた。

 

「守るための約束もあるよ」

 

凛はその言葉を、ゆっくり覚えるように黙った。

 

約束。

 

アイにとっては怖い言葉だった。

 

でも、怖いだけではないのかもしれない。

 

翌日。

 

施設の小さな面談室で、職員はアイに聞いた。

 

「渋谷さんのお家、これからも行きたい?」

 

アイはすぐには答えられなかった。

 

行きたい。

 

そう思った。

 

思った瞬間、喉の奥が狭くなる。

 

欲しがるのは怖い。

 

欲しいと言えば、なくなった時に痛い。

行きたいと言えば、行けなくなった時に困る。

誰かがその場所を知ってしまえば、もう自分だけの逃げ道にはならない。

 

でも。

 

あの日、公園で見つけてくれた凛の声を思い出す。

 

今日は、少しだけそこに帰ればいい。

 

アイは膝の上で指を重ねた。

 

「……火曜日と金曜日だけなら」

 

職員は頷く。

 

「火曜日と金曜日ね」

 

「毎回じゃなくてもいいですか」

 

「もちろん」

 

「行けない日もあります」

 

「それも含めて、約束にしよう」

 

アイは顔を上げる。

 

職員は、紙にゆっくり書いていく。

 

火曜日。

金曜日。

渋谷花店。

帰所時間。

連絡先。

 

文字になると、少しだけ現実の形を持つ。

 

アイはそれを見つめた。

 

逃げ道ではなくなる。

 

でも、消えない場所にもなる。

 

その日の学校で、アイは凛に声をかけた。

 

「凛ちゃん」

 

「なに?」

 

「火曜日と金曜日、ちゃんと行っていいって」

 

凛は顔を上げた。

 

いつものように、表情は大きく動かない。

 

でも少しだけ、目が柔らかくなった気がした。

 

「よかった」

 

アイは言葉に詰まった。

 

「……凛ちゃんは、別にいいの?」

 

「なにが?」

 

「私が行くの」

 

凛は迷わず言った。

 

「嬉しい」

 

アイは目を逸らした。

 

「……そっか」

 

声が、少し小さくなった。

 

嬉しい。

 

凛が。

 

自分が火曜日と金曜日に行くことを。

 

そう思うと、変な感じがした。

 

胸がくすぐったいような、逃げ出したいような。

 

「なに?」

 

凛が聞く。

 

「なんでもない」

 

「顔、赤い」

 

「赤くない」

 

「そう?」

 

「そう」

 

アイは少しだけ早口で言った。

 

凛はそれ以上聞かなかった。

 

それが少しありがたくて、少しだけ悔しかった。

 

金曜日。

 

アイは施設の玄関で、職員に声をかけた。

 

「あの、行ってきます」

 

言ってから、自分で少し驚いた。

 

行ってきます。

 

その言葉が、自分の口から出た。

 

職員は一瞬だけ目を細めて、それから普通に返した。

 

「行ってらっしゃい。時間は守ってね」

 

アイは小さく頷いた。

 

「はい」

 

行ってらっしゃい。

 

その言葉は、まだ慣れない。

 

けれど、背中を押すような響きがあった。

 

花屋に着くと、凛が店先にいた。

 

水差しを持って、鉢の間にしゃがんでいる。

 

アイは少しだけ立ち止まってから言った。

 

「来たよ」

 

凛は顔を上げる。

 

「来る日だから」

 

「それ、前も聞いた」

 

「今日も来る日」

 

アイは少し笑った。

 

今度は、作った笑顔ではなかった。

 

「そっか。じゃあ、来た」

 

「うん」

 

凛はそれだけ言って、水やりを続ける。

 

店先には、いつもの花が並んでいた。

 

ガーベラ。

アスター。

カスミソウ。

 

そして、ブルースター。

 

アイは札を持つ。

 

凛が鉢を少し動かす。

 

凛の母は店の奥で電話をしていた。

 

「はい、今こちらに来ています。予定通り、五時半には送りますね」

 

アイはその声を聞いていた。

 

前なら、知られていることが怖かった。

 

自分だけの場所ではなくなっていくみたいで。

 

でも今日は、少し違った。

 

知られているのに、追い出されない。

 

そのことが、今日は少しだけ楽だった。

 

「アイ」

 

凛が札を指さす。

 

「それ、アスター」

 

「あ、うん」

 

アイは慌てて札を渡す。

 

「ぼーっとしてた?」

 

「ちょっとだけ」

 

「珍しい」

 

「そう?」

 

「うん。いつもは、ぼーっとしてるふりがうまい」

 

「それ、褒めてないよね」

 

「うん」

 

「認めるんだ」

 

凛は頷いた。

 

アイは少しだけ笑う。

 

その笑い声を聞いて、店の奥の母が静かに目を細めた。

 

夕方になって、凛の父が帰ってきた。

 

玄関の方から声がする。

 

「ただいま」

 

凛の母が返す。

 

「おかえり」

 

凛も店先から短く言った。

 

「おかえり」

 

アイはそのやり取りに、少しだけ肩を揺らした。

 

前ほど強くはない。

 

でも、まだ慣れない。

 

凛の父は店先に顔を出す。

 

「あ、アイちゃん。今日は来る日だっけ」

 

アイは一瞬、固まった。

 

父まで知っている。

 

火曜日と金曜日。

 

自分が来る日。

 

それが、この家の中に普通に置かれている。

 

「……はい。金曜日なので」

 

「そっか。じゃあ、お茶もう一杯飲んでく?」

 

それだけだった。

 

どうして来るのか。

最近どうなのか。

お母さんのことはどうなのか。

 

何も聞かない。

 

ただ、お茶の話をする。

 

アイは少しだけ肩の力を抜いた。

 

「……少しだけ、いただきます」

 

「はいよ」

 

凛の父は軽く手を振って、奥へ戻っていった。

 

凛がこちらを見る。

 

「よかったね」

 

「なにが?」

 

「お茶」

 

「そこ?」

 

「違う?」

 

アイは少し考えた。

 

違わない。

 

たぶん、違わない。

 

「……ううん。そうかも」

 

店先の片付けが終わる頃、空は薄い橙色になっていた。

 

アイはブルースターの前に立った。

 

凛も隣にいる。

 

アイは花を見ながら、小さく言った。

 

「知られてるの、怖かったんだけど」

 

「うん」

 

「でも、今日は少し楽だった」

 

凛は頷いた。

 

「よかった」

 

アイは凛を見る。

 

「今日はそれなんだ」

 

「なにが?」

 

「いつもの返事じゃない」

 

凛は少しだけ考える。

 

「そっか、の方がよかった?」

 

「別に」

 

アイは視線を花に戻した。

 

「よかったで、いい」

 

その言葉を言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。

 

凛は何も言わない。

 

ただ隣にいた。

 

帰る時間になった。

 

凛の母が施設へ連絡し、凛と一緒に途中まで送ってくれる。

 

施設の玄関に着くと、職員が迎えてくれた。

 

「おかえり」

 

アイは一瞬だけ止まった。

 

その言葉は、まだうまく受け取れない。

 

でも、前ほど苦しくはなかった。

 

「……戻りました」

 

そう答えると、職員は頷いた。

 

「今日はどうだった?」

 

アイは少し考えた。

 

楽しかった。

 

そう言えば簡単だった。

 

問題ありませんでした。

 

そう言えば、もっと簡単だった。

 

でも、そのどちらも少し違う気がした。

 

「少し、楽でした」

 

職員は、ゆっくり微笑んだ。

 

「そっか」

 

アイは自分の部屋へ戻った。

 

机の上に、小さな紙を置く。

 

予定を書くための紙だった。

 

鉛筆を持つ。

 

火曜日。

花屋。

 

金曜日。

花屋。

 

書いた文字は、少しだけ硬かった。

 

でも、消さなかった。

 

家ではない。

 

まだ、ただいまと言える場所でもない。

 

それでも、予定に書いていい場所ができた。

 

アイはその文字を、しばらく見つめていた。

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