星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜 作:百合太郎
火曜日。
アイは施設の玄関で、職員に声をかけた。
「行ってきます」
前よりは、少しだけ自然に言えた。
まだ慣れない。
けれど、言ったあとに足が止まることはなかった。
職員は予定表を確認して、顔を上げる。
「行ってらっしゃい。今日は五時半ね」
「はい」
アイは頷いた。
靴を履き、外へ出る。
春の夕方の空気は、少しだけ冷たい。
でも、前みたいに歩く理由を探さなくてよかった。
火曜日。
花屋に行っていい日。
そう決まっているだけで、足はちゃんと前へ出る。
それが少し楽で。
その楽さに慣れてしまうのが、少し怖かった。
花屋に着くと、凛は店先で鉢の位置を直していた。
アイを見ると、顔を上げる。
「来たよ」
「うん」
アイは少し待った。
けれど凛は、それ以上何も言わない。
「今日は“来る日だから”って言わないの?」
凛は首を傾げた。
「言った方がいい?」
「別に」
「来る日だから」
「今言うんだ」
アイは思わず笑った。
凛は真顔のまま、鉢を少しだけ動かす。
「違った?」
「違わないけど」
「じゃあいい」
「そういうところだよね」
「どこ?」
「もういい」
アイはランドセルを店先の端に置き、花の札を手に取った。
前は、見ているだけだった。
花を壊しそうで、触るのも怖かった。
札を持つことさえ、少しだけ内側に入るようで落ち着かなかった。
でも今は、札を並べるくらいならできる。
落ちた葉を拾うことも。
曲がった札を直すことも。
凛に間違いを指摘されることも。
「アイ、それガーベラ」
「分かってるし。置こうとしただけ」
「アスターの前に?」
「……手が勝手に」
「また手」
「うるさいなぁ」
アイはそう言って、札を差し直した。
店の奥から、凛の母が顔を出す。
「アイちゃん、今日は座っててもいいよ」
「いえ、これくらいなら」
反射的に返す。
凛が横から言った。
「座るのも手伝い」
アイは凛を見る。
「それは無理があるでしょ」
「邪魔しない手伝い」
「それ、私が邪魔みたいじゃん」
「違うの?」
「違うよ」
凛の母がくすりと笑う。
「じゃあ、疲れたら座る。それでいい?」
アイは少しだけ迷ってから、頷いた。
「……はい」
何かをしていないと落ち着かない。
でも、何もしなくても責められない場所がある。
その二つを、アイはまだうまく並べられなかった。
店先の片付けが一段落すると、凛の母がお茶を出してくれた。
「アイちゃん、こっち使ってね」
出された湯呑みを見て、アイは指を止めた。
白地に小さな青い模様が入った湯呑み。
見覚えがある。
「これ……」
「ああ、前もそれだったね」
凛の母は何気ない声で言った。
「なんとなく、それ、アイちゃんの湯呑みみたいになってきたね」
アイちゃんの湯呑み。
その響きは、思ったより重かった。
今日だけではない。
たまたまでもない。
次に来た時も、きっとこれが出てくる。
嬉しい。
そう思いかけて、すぐ怖くなる。
「そんな、別に何でもいいですよ」
アイは笑って言った。
凛が湯呑みを見る。
「じゃあ、それでいい」
「そういう意味じゃなくて」
「でも使うでしょ」
「……使うけど」
「なら、それ」
凛はそれだけ言って、自分の麦茶を飲んだ。
アイは湯呑みを両手で包む。
自分のものがある場所。
それは温かい。
でも、もし来られなくなったら。
もし、ある日急に「もう使わないもの」になったら。
残るものは、なくなる時に痛い。
けれど、何も残らない場所ばかりも、寂しい。
アイは湯呑みのふちを、指でそっとなぞった。
そのあと、店先で手を洗った時だった。
アイのハンカチが、思ったより濡れてしまった。
鉢の受け皿に溜まった水をこぼして、慌てて拭いたせいだった。
「濡れた?」
凛が聞く。
「うん。ハンカチだけ」
「乾かす?」
「いいよ。持って帰るから」
アイがそう言うと、凛の母がハンカチを受け取って広げた。
「まだかなり濡れてるね。次に来る時まで置いておこうか」
アイの動きが止まった。
次に来る時まで。
置いておく。
何でもない言葉のはずなのに、そこだけ大きく聞こえた。
「でも、迷惑じゃ」
「ハンカチ一枚だよ」
凛が言う。
アイは眉を寄せた。
「そういう問題じゃなくて」
「じゃあ、どういう問題?」
凛の問いは、責めているわけではなかった。
本当に分からないから聞いている。
だから、アイは余計に答えられなかった。
どういう問題なのか。
ハンカチ一枚を置いていくことが、どうしてこんなに怖いのか。
言葉にできない。
凛は少しだけ首を傾げる。
「置いておけば」
「簡単に言うね」
「持って帰る方が大変なら」
「そういうことじゃない」
「でも、また来るでしょ」
アイは息を止めた。
また来る。
火曜日と金曜日。
予定に書いた。
職員にも言った。
凛の母も知っている。
凛の父も知っている。
それでも、人の口から言われると、少しだけ揺れる。
「……来るけど」
「じゃあ、置いておけば」
凛にとっては、それだけの話なのだろう。
でも、アイにとっては、それだけではなかった。
凛の母が、濡れたハンカチを軽く絞ってから、椅子の背にかけた。
「嫌なら持って帰っていいよ」
アイは顔を上げる。
「置いていくなら、乾かして畳んでおくね」
選べる言い方だった。
置いていきなさい、ではない。
持って帰りなさい、でもない。
アイが決めていい形。
持って帰れば、何も残らない。
置いていけば、次に来る前提になる。
アイはハンカチを見た。
白い布の端に、小さな星の刺繍がある。
施設に来る時、持たされたものだ。
特別なものではない。
でも、自分のものだった。
それを、ここに置く。
アイは小さく息を吸った。
「……置いておいてもいいですか」
凛の母はすぐに頷いた。
「もちろん」
「うん」
凛も頷く。
アイは凛を見る。
「凛ちゃんには聞いてない」
「でも、いい」
「もう」
アイは少しだけ笑った。
濡れたハンカチは、椅子の背で静かに乾き始めていた。
帰る時間になった。
凛の母が施設へ連絡を入れ、いつものように途中まで送ってくれる。
施設の玄関で、職員が迎えた。
「おかえり」
アイはまだ、その言葉に一瞬だけ遅れる。
けれど今日は、前より早く返せた。
「戻りました」
職員は頷く。
「今日はどうだった?」
アイは少し考えた。
楽しかったです。
そう言えば簡単だった。
でも、それだけではない。
少し楽でした。
それも、前に言った。
今日は違うことを言いたかった。
「ハンカチ、忘れてきました」
職員が少し目を丸くする。
「困らない?」
アイは首を振る。
「乾いてなかったので、置いてきました」
言ってから、一拍置く。
「次に行った時、取ってきます」
自然に出た。
次に行った時。
アイは自分の言葉に気づき、少しだけ視線を落とした。
職員は何も大げさにしなかった。
ただ、静かに微笑んだ。
「そっか」
その返事に、アイは少しだけ安心した。
部屋に戻ると、机の上に予定を書いた紙があった。
火曜日。花屋。
金曜日。花屋。
アイは鉛筆を持つ。
少し迷って、火曜日の横に小さく書き足した。
ハンカチ。
また行く理由。
取ってくるため。
でも、本当はそれだけじゃない。
アイは鉛筆を置き、紙を見つめた。
渋谷家に置いてきたのは、ハンカチ一枚だった。
けれどアイには、それが自分の一部を少しだけ預けたみたいに思えた。
怖かった。
でも、次に行く理由があることは、少しだけ嬉しかった。