星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜 作:百合太郎
金曜日。
アイは、施設の玄関でハンカチのことを思い出した。
いや、本当は朝からずっと覚えていた。
机の上の予定表。
金曜日、花屋。
その横に、自分だけに分かるように書いた小さな文字。
ハンカチ。
「行ってきます」
アイがそう言うと、職員は予定表を確認して顔を上げた。
「行ってらっしゃい。今日は五時半ね」
「はい」
少しだけ間を置いて、アイは付け足した。
「ハンカチ、取ってきます」
職員は小さく笑った。
「うん。忘れずにね」
「はい」
アイは靴を履き、外に出た。
ハンカチを取りに行く。
ただそれだけ。
小さな理由。
けれど、その小さな理由があるだけで、花屋へ向かう足は少し軽かった。
花屋に着くと、凛は店先で水やりをしていた。
アイを見ると、顔を上げる。
「来たよ」
「ハンカチ、取りに来た?」
「うん。そういう言い方されると、忘れ物した人みたいだけど」
「忘れ物でしょ」
「……そうだけど」
アイは少しだけ唇を尖らせた。
凛は水差しを置いて、店の奥へ顔を向ける。
「お母さん、アイ来た」
「はーい」
奥から凛の母の声が返ってくる。
少しして、凛の母が棚の上から小さく畳まれたハンカチを持ってきた。
「アイちゃん、乾いてるよ」
白い布。
端にある小さな星の刺繍。
アイはそれを受け取って、指を止めた。
ちゃんと畳まれていた。
ただ乾かしただけではない。
きれいに折って、なくならないように置いておいてくれた。
自分のものが、ここに残っていた。
「ありがとうございます」
アイは丁寧に頭を下げた。
凛の母は微笑む。
「どういたしまして」
凛が横から言う。
「また濡れたら置いていけば」
「濡らす前提にしないで」
「濡れるかもしれない」
「縁起でもないこと言わないの」
アイはハンカチをそっと握った。
置いてきたものが、ちゃんと残っていた。
捨てられていない。
忘れられていない。
誰かの邪魔にもなっていない。
それだけのことが、思っていたより深く沈んだ。
「今日は少し手伝ってくれる?」
凛の母が言う。
「はい。何をすればいいですか?」
「花束のリボン、選んでもらおうかな」
アイは瞬きをした。
「私が選んでいいんですか?」
「うん。アイちゃんの目で」
そう言われて、アイは少しだけ困った。
花の札を持つのとは違う。
落ちた葉を拾うのとも違う。
選ぶ。
自分が選んだものが、誰かの手に渡る花束につく。
「責任重大ですね」
「そんなに重くしなくていいよ」
凛の母は笑って、二本のリボンを並べた。
淡い黄色。
やわらかい青。
花束は白とピンクの花が中心だった。
アイは少し迷う。
青を選ぼうとして、やめた。
「黄色の方が、明るく見えるかも」
凛が横から言った。
「青じゃないんだ」
「毎回青だと思わないでよ」
「ブルースター、気にしてるから」
アイはリボンを見たまま、少し黙った。
それから、小さく言う。
「……まあ、気にはしてるけど」
凛は頷いた。
「うん」
「そこ、流すんだ」
「認めたから」
「凛ちゃんって、たまに変なところで素直だよね」
「たまに?」
「いつもだったかも」
凛の母が、選ばれた黄色のリボンを花束に合わせる。
「いいね。春っぽい」
アイは少しだけ表情を緩めた。
「よかった」
「アイちゃん、色を見るの上手ね」
「そんなことないです」
「そう?」
「たぶん、たまたまです」
すぐにそう返してしまう。
褒められると、どうしていいか分からない。
凛が花束を見る。
「たまたまでも、合ってる」
アイは凛を見る。
「……それ、褒めてる?」
「うん」
「分かりづらい」
「そう?」
「そう」
でも、嫌ではなかった。
夕方になると、玄関の方から声がした。
「ただいま」
凛の母が返す。
「おかえり」
凛も短く言う。
「おかえり」
アイは、その言葉のやり取りに少しだけ慣れてきた。
まだ自分の中に入ってくるには早い。
けれど、耳を塞ぎたくなるほどではない。
凛の父が店先に顔を出す。
「あ、アイちゃん。今日も来る日だったか」
「金曜日なので」
「そっか。じゃあ今日はリボン係?」
アイは手元のリボンを見た。
「係なんですか?」
「今決めた」
凛がすぐに言う。
「適当」
「凛に言われると刺さるな」
凛の父は大げさに胸を押さえた。
アイは思わず笑った。
作ろうとした笑顔ではなかった。
自然に、少しだけこぼれた。
「でも、アイちゃんが選んだリボン、いい感じだね」
「ありがとうございます」
「次からリボン係かな」
「責任が重いです」
「じゃあ、たまに」
凛が言う。
アイは少し考えた。
「それなら、まあ……」
言ってから、自分で少し笑った。
そのあと、店の奥でお茶を飲んだ。
夕飯まではいかない。
小さなお菓子と、温かいお茶。
アイの前には、いつもの湯呑みが置かれた。
もう驚かなかった。
驚かなかったことに、自分で少し驚いた。
ハンカチはランドセルの中にある。
取りに来たものを、ちゃんと持って帰れる。
それだけで、今日は帰れるはずだった。
けれど、時計の針が五時に近づくと、身体が少し重くなった。
五時半。
帰る時間。
施設へ戻る時間。
分かっている。
約束だから。
守るための約束。
怖いだけではない約束。
それでも、帰る時間が近づくと、店の空気が少し遠くなる。
凛の母が時計を見た。
「そろそろ送る時間だね」
アイは返事をしようとした。
「はい」
声が、ほんの少し遅れた。
凛が、アイの手元を見た。
ハンカチを握る指に、少しだけ力が入っている。
「帰りたくない?」
アイは固まった。
前なら、すぐ笑えた。
そんなことないよ。
そう返せたはずだった。
でも、今日はその言葉が出てこなかった。
凛の母も、凛の父も、何も言わない。
待っている。
急かさずに。
アイはハンカチを見た。
白い布。
小さな星。
渋谷家に置いておいたもの。
ちゃんと残っていたもの。
「……ちょっとだけ」
声にした瞬間、ハンカチを握る指に力が入った。
凛が首を傾げる。
「ちょっとだけ?」
アイは頷いた。
「うん。ちょっとだけ」
言ってから、喉の奥がきゅっと狭くなった。
わがままだと思われるかもしれない。
約束を守れない子だと思われるかもしれない。
帰りたくないなんて、言ってはいけないことだったかもしれない。
けれど、凛の母は責めなかった。
「じゃあ、施設に連絡して、十分だけ延ばせるか聞いてみようか」
アイは顔を上げた。
「え」
「全部は難しいけど、十分なら聞いてみられるから」
帰らなくていいとは言われなかった。
ずっといていいとも言われなかった。
でも、我慢しなさいとも言われなかった。
十分だけ。
その言葉が、今のアイには大きすぎるくらいだった。
凛の母が施設へ電話を入れる。
短いやり取りのあと、受話器を置いた。
「十分だけね」
アイは頷いた。
「……はい」
たった十分。
でも、帰りたくないと言っても怒られなかった。
そのことだけで、喉の奥が熱くなった。
凛が聞く。
「何する?」
アイは少しだけ目を瞬かせた。
「十分で?」
「うん」
「何ができるの?」
「花見る」
「いつもと同じじゃん」
「うん」
アイは少し笑った。
いつもと同じ。
でも、今はそれでよかった。
十分の間、特別なことは何も起きなかった。
凛が隣にいて、店の奥から片付けの音がして、凛の父の小さな冗談に凛の母が呆れる。
それだけだった。
それだけで、アイは少し息がしやすかった。
十分後。
凛の母が声をかけた。
「そろそろ行こうか」
アイはハンカチを握り直した。
今度は、すぐに頷けた。
「はい」
少しだけもらえたから。
自分の気持ちを、なかったことにされなかったから。
帰り道、凛と凛の母が並んで歩いた。
アイは真ん中ではなく、少しだけ凛の隣に寄っていた。
街灯がつき始めている。
アイは、小さく言った。
「言っても、よかったんですね」
凛の母が、少しだけ顔を向ける。
「全部叶えられるわけじゃないけどね」
「はい」
「でも、言ってくれたら一緒に考えられるよ」
アイは足元を見る。
「……はい」
その返事は、今日の中で一番ゆっくりだった。
施設に着くと、職員が玄関で待っていた。
「おかえり」
アイは一拍置いてから答える。
「戻りました」
職員は時計を見て、それからアイを見る。
「今日は少し延長だったね」
アイの肩がわずかに強ばる。
でも職員は、穏やかに続けた。
「連絡があったから大丈夫。遅くなりそうな時は、先に言ってね」
アイは頷いた。
「はい」
怒られなかった。
困らせたのに。
いや、困らせたわけではないのかもしれない。
言ったら、十分だけ増えた。
そんなことが本当にあるのだと、まだ少し信じきれなかった。
アイを送り届けた帰り道。
凛は母の隣を歩いていた。
しばらく黙っていたが、やがて口を開く。
「アイ、帰りたくないって言った」
「うん」
「言ったら、十分増えた」
「そうね」
凛は少し考える。
「もっと増やせないの?」
母はすぐには答えなかった。
凛は続ける。
「アイ、もっとここにいられないの?」
母は足を止めなかった。
けれど、その横顔は少しだけ真剣になった。
「……簡単には決められないよ」
「うん」
凛は頷く。
「でも、考えることはできる?」
母は凛を見る。
凛の声は、ただの思いつきには聞こえなかった。
アイが帰りたくないと口にしたこと。
公園で見つけた時の顔。
施設と約束を作ったこと。
その全部が、短い言葉の中に残っていた。
母は静かに答えた。
「考えよう」
凛は短く頷いた。
「うん」
その夜。
アイは部屋で、ハンカチを引き出しにしまった。
一度、渋谷家に置いてきたハンカチ。
ちゃんと戻ってきたハンカチ。
けれど、その布は前とは少し違って見えた。
予定表を見る。
火曜日。花屋。
金曜日。花屋。
アイは鉛筆を持つ。
少し迷って、金曜日の横に小さく書いた。
十分。
予定というより、忘れないためのメモだった。
誰かに見せるためではない。
自分だけが分かればよかった。
たった十分。
けれどアイには、その十分が、自分の気持ちを置いても消えなかった時間のように思えた。