星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜 作:百合太郎
翌日の朝、凛は店先でブルースターを見ていた。
水をやる時間には、まだ少し早い。
けれど、何となくそこに立っていた。
昨日のことが、頭から離れなかった。
アイがハンカチを握っていたこと。
帰る時間になった時、声が少し遅れたこと。
そして、小さく言った言葉。
「……ちょっとだけ」
帰りたくない。
そうはっきり言ったわけではない。
でも、凛には分かった。
アイは、あの場所にもう少しいたかった。
花屋に。
渋谷家に。
凛たちのいる場所に。
そのあと、十分だけ時間が増えた。
たった十分。
けれどアイは、その十分を大事そうに受け取っていた。
凛は花の葉に残った水滴を見つめる。
十分で足りるのだろうか。
足りない気がした。
でも、どれくらいあれば足りるのかは分からない。
一時間。
一日。
毎日。
そこまで考えて、凛は店の奥を振り返った。
母は開店前の準備をしていた。
花の茎を整えながら、時々伝票を確認している。
凛は少しだけ迷ってから、声をかけた。
「お母さん」
「なに?」
母が顔を上げる。
凛は店先から動かずに聞いた。
「昨日のこと、考えた?」
母は手を止めた。
昨日のこと。
それだけで、母には伝わったようだった。
「考えてるよ」
「どれくらい?」
「ずっと、少しずつ」
凛は眉を寄せる。
「少しずつなんだ」
「急いで決められないことだから」
母はそう言って、持っていた花を桶に戻した。
凛は少し黙った。
そして、聞いた。
「アイは、うちの子になれないの?」
店の中が、少しだけ静かになった。
外を通る自転車の音が遠くで鳴る。
母はすぐに否定しなかった。
けれど、すぐに頷きもしなかった。
「凛」
「うん」
「それは、とても大きいことだよ」
「分かってる」
凛はすぐに答えた。
でも、母はもう一度聞いた。
「前より、分かってる?」
凛は言葉に詰まった。
前より。
あの時、凛はただ思った。
アイが帰りたくなさそうなら、帰らなくていい方がいい。
ここにいる時の方が、少しだけ笑っている。
だったら、うちにいればいい。
そう思った。
それは本気だった。
けれど、何が必要なのかは分かっていなかった。
アイに母親がいること。
施設の人がいること。
大人同士で考えなければいけないこと。
アイ自身が、簡単に欲しいと言えないこと。
前よりは、知っている。
でも、全部ではない。
凛は少し考えてから言った。
「全部は分からない」
母は黙って聞いている。
凛は続けた。
「でも、前よりは分かる」
母の表情が、少しだけ柔らかくなった。
「そっか」
凛はブルースターから視線を外さないまま言った。
「アイがかわいそうだから言ってるんじゃない」
母は少しだけ目を伏せた。
「それを聞こうと思ってた」
「そうなの?」
「うん」
母は凛の隣に立った。
「アイちゃんがかわいそうだから、うちに来ればいい。そういう気持ちだけでは、家族にはなれないと思う」
凛は少しだけ眉を寄せる。
「かわいそうだけじゃない」
「じゃあ、どうして?」
凛はすぐには答えられなかった。
言葉が見つからない。
でも、答えたかった。
凛は店先に並んだ花を見る。
アイがいつも見る場所。
ハンカチを握っていた場所。
「アイ、ここにいる時」
凛はゆっくり言った。
「息してる感じがする」
母は何も言わない。
凛は続ける。
「学校でも笑ってる。施設に帰る時も、ちゃんとしてる。でも、ここにいる時の方が、少し普通」
「凛の言う普通?」
「うん」
凛は頷く。
「でも帰る時間になると、少し消えそうになる」
母の指が、花の葉に触れたまま止まった。
凛は自分の言葉が変かもしれないと思った。
でも、他に言い方がなかった。
アイは泣かない。
叫ばない。
助けてとも言わない。
ただ、帰る時間になると、少し薄くなる。
そこにいるのに、少しずつ遠くなる。
凛には、そう見えた。
「だから」
凛は言った。
「もっとここにいていいなら、その方がいいと思う」
母はしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「凛」
「うん」
「もし本当に家族になるなら、いいことばかりじゃないよ」
凛は母を見る。
母の声は優しい。
でも、甘くはなかった。
「アイちゃんが不安になる日もあると思う。急に怒ったり、急に黙ったりする日もあるかもしれない」
「うん」
「お母さんやお父さんが、アイちゃんのことで時間を使う日も増える」
「うん」
「凛が寂しくなる日もあるかもしれない」
凛は黙った。
それは、考えていなかったわけではない。
でも、はっきり言われると少し重かった。
母は続ける。
「凛の家でもあるけど、アイちゃんが来たら、凛だけの家ではなくなる」
凛は足元を見た。
凛だけの家。
それは、今まで考えなくてもそこにあったものだった。
帰れば母がいる。
父が帰ってくる。
自分の湯呑みがある。
自分の部屋がある。
自分の居場所がある。
そこに、アイが入ってくる。
いいことばかりではない。
それは、たぶん本当だった。
母が聞く。
「それでも、凛はアイちゃんと家族になりたい?」
凛はすぐには答えなかった。
答えようとして、一度止めた。
すぐに言えば、また軽く見える気がした。
だから考えた。
アイが花を見ている顔。
湯呑みを両手で包んでいる顔。
ハンカチを置いていく時の顔。
帰りたくないと言った時の声。
公園のベンチで、笑えなかった顔。
それから、自分の家にアイがいるところを想像した。
朝、同じ玄関を使う。
夜、同じ食卓に座る。
時々、喧嘩するかもしれない。
アイが笑わない日もあるかもしれない。
自分が嫌になる日も、あるかもしれない。
それでも。
「分からないことはある」
凛は言った。
「でも、アイがいない方がいいとは思わない」
母は、凛を見つめた。
凛の声は短かった。
けれど、その短さの中に、凛なりの考えた跡があった。
母は少しだけ微笑んだ。
「そう」
「だめ?」
「だめとは言わない」
「じゃあ、いい?」
「それも、まだ言えない」
凛は少しだけ不満そうに母を見た。
母は凛の頭にそっと手を置いた。
「でも、考える。ちゃんと」
凛は小さく頷いた。
「うん」
その日の夜。
夕飯の片付けが終わったあと、母は父に話をした。
父は湯呑みを持ったまま、静かに聞いていた。
「凛がね、聞いたの」
母は言った。
「アイちゃんを、うちの子にできないのかって」
父は湯呑みを置いた。
「そうか」
驚いた顔はした。
けれど、茶化さなかった。
「昨日のことが大きかったみたい」
母は続ける。
「アイちゃんが帰りたくないって、少しだけ言えたでしょう。凛には、それが残ってる」
父はしばらく黙った。
「凛らしいな」
「うん」
「でも、凛だけの話じゃないな」
「うん」
父は腕を組んだ。
「アイちゃん自身は?」
母は首を横に振る。
「まだ何も言っていない。言える段階でもないと思う」
「だよな」
父は短く言った。
「俺たちが先に盛り上がって、アイちゃんの逃げ場をなくすのは違う」
「私もそう思う」
「でも、何もしないのも違う」
母は頷いた。
その言葉を待っていたように。
「私は、アイちゃんが来る場所を守りたい」
父は母を見た。
母は湯呑みを見つめながら、静かに言う。
「火曜日と金曜日に来るだけなら、今のままでもできる。でも、アイちゃんが帰りたくないと言った時、十分だけ増やすだけで本当にいいのかって思った」
父は黙って聞いている。
「もちろん、すぐに一緒に暮らすとか、そういう話ではないよ。そんな簡単じゃない」
「うん」
「でも、私たちがただの同級生の家として関わり続けるのか、それとももっと責任を持つのか。そこは考えなきゃいけないと思う」
父は、ゆっくり息を吐いた。
「守るって言うなら、ちゃんと大人として責任を持たないとな」
母は頷いた。
「うん」
「アイちゃんの気持ちが一番大事だ」
「うん」
「施設の人にも、ちゃんと相談しないといけない」
「うん」
「凛にも、これからもっと考えてもらう必要がある」
母は少しだけ笑った。
「今日、少し考えてたよ」
「そうか」
父は目を細める。
「凛がなあ」
「変?」
「いや」
父は少し考えてから言った。
「大きくなったなと思って」
母は小さく笑った。
「まだ小学生だけどね」
「だからこそ、ちゃんと大人が受け止めないとな」
父はそう言って、湯呑みを持ち直した。
「一度、施設の人に相談しよう」
母は静かに頷いた。
廊下の向こうで、凛は足を止めていた。
水を飲みに来ただけだった。
でも、自分の名前とアイの名前が聞こえて、動けなくなった。
全部は聞こえなかった。
けれど、いくつかの言葉だけが耳に残った。
アイちゃんの気持ち。
責任。
施設の人に相談。
凛はコップを持ったまま、しばらく立っていた。
自分が言ったことが、家の中で本当に話になっている。
それは少し怖かった。
ただの願いではなくなる。
大人が考えることになる。
アイが知らないところで、何かが動こうとしている。
嬉しいだけではなかった。
緊張した。
でも、凛はその場から逃げなかった。
翌日。
学校で、アイは少しだけ落ち着かない様子だった。
昨日の十分のことを気にしているのだろう。
凛が席に座っていると、アイが近づいてきた。
「凛ちゃん」
「なに?」
「昨日、迷惑じゃなかった?」
凛は首を傾げる。
「何が?」
「十分」
「十分だけで迷惑になる?」
「なるかもしれないじゃん」
凛は少しだけ考えた。
「ならなかった」
アイは口を尖らせる。
「凛ちゃんはすぐそう言う」
「なってないから」
「そうだけど」
アイは少し視線を落とした。
「でも、わがまま言ったかなって」
凛は昨日の母の言葉を思い出した。
アイちゃんの気持ちが一番大事。
形がないものを渡すと、壊れた時に痛い。
まだ言わない。
凛は、昨日の夜に聞いたことをアイには言わなかった。
言いたい気持ちはあった。
もっとここにいられるかもしれない。
お母さんたちが考えている。
そう言えば、アイは少し楽になるかもしれない。
でも、それはまだ形になっていない。
形のないものを渡すのは、危ない。
凛は短く言った。
「言ってよかったと思う」
アイが顔を上げる。
「昨日の?」
「うん」
「……そうかな」
「うん」
「凛ちゃんは、簡単に言うね」
「簡単じゃなかったのは分かる」
アイは少しだけ驚いた顔をした。
凛は続けない。
それ以上言うと、まだ言ってはいけないところまで触れてしまいそうだった。
アイは何かを探すように凛を見たあと、少し笑った。
「そっか」
凛は頷いた。
「うん」
その日の放課後、凛の母は施設へ電話をかけた。
店の奥。
夕方の光が、窓から斜めに入っている。
母は受話器を持つ手に、少しだけ力を込めた。
「いつもお世話になっています。渋谷です」
相手の職員の声が聞こえる。
母は丁寧に言葉を選んだ。
「アイちゃんとの今後の関わりについて、一度ご相談させていただきたいことがあります」
少し沈黙があった。
驚かれたのだと思う。
母は続ける。
「急に何かを決めたいという話ではありません。ただ、今の関わり方を続けるにしても、こちらとしてできること、してはいけないことをきちんと確認したいんです」
電話の向こうで、職員が静かに応じる。
「分かりました。日程を調整しましょう」
母は小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
電話を切ったあと、母はしばらく受話器を見ていた。
始まってしまった。
そう思った。
でも、始めなければならないことでもあった。
その夜。
凛は母に聞いた。
「アイに言うの?」
母は夕飯の支度をしながら、首を横に振った。
「まだ言わない」
「なんで?」
「まだ、形がないから」
凛は眉を寄せる。
母は火を弱めて、凛を見る。
「形がないものを先に渡すと、壊れた時にアイちゃんが痛いから」
凛は黙った。
アイが痛いのは嫌だった。
公園で見た顔を思い出す。
来なかった、と言った声を思い出す。
帰りたくないと、ハンカチを握っていた指を思い出す。
母は静かに言った。
「だから、まず大人がちゃんと形を作る」
「うん」
「凛も、言いたくても今は言わないでいられる?」
凛は少しだけ考えた。
言いたい。
でも、言わない方がいい。
それも、少しだけ分かる。
「言わない」
凛は答えた。
母は頷く。
「ありがとう」
「でも」
「うん」
「何もしてないわけじゃないんだよね」
母は少しだけ笑った。
「うん。何もしてないわけじゃない」
凛はそれを聞いて、少しだけ息を吐いた。
その夜、凛はアイにまだ何も言わないことにした。
けれど、何もしていないわけではなかった。
アイが知らないところで、初めて少しだけ、未来の形が動き出していた。