星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜 作:百合太郎
翌朝、凛はいつもより少しだけ早く教室に着いた。
ランドセルを置いて、筆箱を出す。
教科書を机の中に入れる。
鉛筆の向きを揃える。
いつもと同じことをしているはずなのに、手元が少し落ち着かなかった。
母に言われた言葉が残っている。
まだ、形がないから言わない。
形がないものを先に渡すと、壊れた時にアイが痛い。
凛は鉛筆の先を見つめた。
言わない。
それは、思っていたより難しかった。
「おはよう、凛ちゃん」
顔を上げると、アイが立っていた。
いつもの笑顔だった。
明るくて、少しだけ軽くて、教室の空気にすぐ馴染む顔。
凛は短く返す。
「おはよう」
アイは少し首を傾げた。
「何か顔、変じゃない?」
凛は一瞬だけ止まった。
「変じゃない」
「今の間、怪しい」
「眠いだけ」
「凛ちゃん、眠い時も顔変わらなそう」
「変わる」
「ほんと?」
「変わる」
アイはじっと凛を見た。
凛は目を逸らさなかった。
でも、言葉は出さなかった。
アイは少しだけ笑った。
「……そっか」
その声は軽かった。
けれど、凛には分かった。
アイは気づいている。
全部ではなくても、何かを。
凛が何かを言わないようにしていることを。
アイは自分の席へ向かった。
ランドセルを下ろし、教科書を出す。
その動きはいつも通りだった。
けれど、アイは一度だけ凛の方を見た。
すぐに視線を戻す。
知らないままの方がいいこともある。
アイはそう思った。
聞かない方が楽なこともある。
聞いてしまったら、戻れなくなることもある。
でも。
知らないまま置いていかれるのは、もっと怖い。
凛が隠していることが、自分に関係あるのかどうか。
分からない。
分からないから、怖かった。
その日の夕方。
渋谷家では、凛が店先に立っていた。
父と母は、出かける準備をしている。
母は落ち着いた色の服に着替え、父はいつもより少しきちんとした上着を羽織っていた。
凛は二人を見上げる。
「私も行っちゃだめ?」
母はしゃがんで、凛と目線を合わせた。
「今日は大人の話だから」
「アイの話なのに?」
「だからこそ、先に大人が話すの」
凛は唇を結んだ。
納得したわけではない。
けれど、母の顔が真剣だったから、これ以上は言わなかった。
父が靴を履きながら言う。
「ちゃんと話せるようになったら、凛にも話すよ」
「うん」
「留守番、頼んだ」
「うん」
凛は小さく頷いた。
父と母が店を出る。
扉が閉まる音がして、店内が少し静かになった。
凛はブルースターの鉢を見る。
言えないことが増えるのは、少し息苦しい。
でも、言わないことで守れるものがあるなら、言わない。
凛はそう決めた。
施設の面談室は、静かだった。
渋谷の父と母は、職員に案内されて椅子に座った。
机の上には、白い紙とペン。
湯気の立つお茶。
窓の外には、夕方の光が薄く差している。
職員は丁寧に頭を下げた。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
母も頭を下げる。
「こちらこそ、お忙しいところありがとうございます」
最初は、最近のアイの様子についての確認だった。
火曜日と金曜日の訪問。
帰所時間。
連絡の取り方。
花屋で過ごしている時の様子。
職員は一つ一つ、慎重に聞いた。
「アイさんが渋谷さんのお宅で安心して過ごせていることは、こちらでも感じています」
母は静かに頷いた。
「ありがとうございます」
「ただ、これ以上関わりを深めるなら、アイさん本人の気持ちを一番に考える必要があります」
「はい」
母はすぐに返事をした。
「私たちも、それは一番気をつけたいと思っています」
職員の視線が、父と母の間をゆっくり動く。
「今日のご相談は、今後の関わり方について、ということでよろしいですか」
母は少しだけ手元を見た。
それから、顔を上げる。
「はい」
声は落ち着いていた。
けれど、軽くはなかった。
「アイちゃんが安心して来られる場所を、続けていきたいと思っています」
職員は表情を変えずに聞いた。
「続ける、というのは?」
母は言葉を選んだ。
「一時的に慰める場所ではなくて、来てもいい場所として続けたい、という意味です」
父が続ける。
「こちらの都合で近づいて、こちらの都合で離れるようなことはしたくないんです」
職員は静かに頷いた。
その目は優しい。
けれど、簡単に安心している目ではなかった。
「お気持ちは分かりました。ただ、継続的に関わるとなると、確認しなければならないことが増えます」
「はい」
父が答える。
「ご家族の負担。凛さんの気持ち。アイさん本人の意思。実のお母様の状況。施設としての方針。関係機関との連携」
職員は一つずつ挙げた。
そのどれもが現実だった。
優しい気持ちだけでは越えられないもの。
けれど、見ないふりをしたままでは守れないもの。
母は頷く。
「分かっています」
職員は少し間を置いた。
「アイさんは、期待して傷つくことにとても敏感です」
母の指が、膝の上で少しだけ動いた。
「はい」
「ですから、形になる前に大きな言葉を渡すのは避けたいと思っています」
父が静かに言った。
「こちらも同じ考えです」
母も頷く。
「まだ何も決まっていないうちに、アイちゃんに期待だけを持たせることはしたくありません」
職員は、少しだけ表情を緩めた。
「その点を共有できるのは、とても大事です」
沈黙が落ちた。
湯呑みの湯気が、ゆっくり細くなる。
母は一度だけ父を見た。
父は、小さく頷いた。
母は職員に向き直る。
「将来的に」
そこで、一度言葉を切った。
言葉にするだけで、空気が変わるのが分かった。
「養子縁組の可能性まで考えることは……あまりに早すぎるでしょうか」
職員はすぐには答えなかった。
面談室の空気が、静かに重くなる。
その言葉は、ただの善意では済まない。
家族になるということ。
書類だけではない。
生活と、時間と、責任を引き受けるということ。
職員はゆっくり口を開いた。
「早いかどうかだけではなく、とても慎重に扱うべき話です」
父と母は黙って聞いた。
「ですが、その可能性を考えること自体を否定する段階ではないと思います」
母の肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
けれど職員は続ける。
「まずは、アイさんが渋谷さんのお宅を安心して戻れる場所として受け取れるかどうか」
「はい」
「そして、渋谷さんご家族が継続して関われるか」
「はい」
「そこを、時間をかけて確認していく必要があります」
父が答えた。
「分かりました」
職員は手元の紙に視線を落とす。
「今の火曜日と金曜日の訪問は、続けてもよいと思います。連絡と帰所時間が守られていますので」
母は頷いた。
「ありがとうございます」
「その上で、アイさん本人が望み、こちらでも状況を確認できれば、休日に少し長めに過ごす日を作ることも検討できます」
休日。
長めに。
母はその言葉を、すぐには返せなかった。
父も黙っている。
それは、小さな一歩ではない。
けれど、いきなり家族になるという話でもない。
アイの足元を崩さずに、少しずつ確かめるための一歩だった。
「もちろん、本人が嫌がるなら進めません」
職員が言う。
「はい」
母は深く頷いた。
「アイちゃんの気持ちを、一番にしたいです」
施設の廊下で、アイは足を止めていた。
手には洗濯物の入った小さなカゴを持っている。
職員に頼まれて、タオルを運んでいる途中だった。
廊下の向こうから、声がした。
「渋谷さん、こちらへどうぞ」
渋谷さん。
アイの手が止まる。
凛の家の人。
どうして。
面談室の扉が閉まる音がした。
その先は聞こえない。
けれど、十分だった。
自分のことだ。
そう分かってしまった。
花屋に行きすぎたのだろうか。
帰りたくないと言ったから。
十分だけ延ばしてもらったから。
ハンカチを置いたから。
少し楽だと思ったことまで、間違いだったのだろうか。
カゴの中のタオルが、少しだけ傾く。
アイは慌てて持ち直した。
聞きたい。
でも、聞きたくない。
いい話なら、教えてほしい。
悪い話なら、知らないままでいたい。
アイは立ち尽くしたまま、閉じた扉を見た。
翌日。
教室で、アイは凛の机の前に立った。
「昨日、凛ちゃんのお母さんたち、施設に来てた?」
凛は顔を上げた。
その一言で、すぐに分かった。
アイは知っている。
凛は少しだけ黙った。
「……来てた」
アイの指が、スカートの端を軽くつまむ。
「何の話?」
凛は答えられなかった。
言っていいこと。
言ってはいけないこと。
まだ形のないこと。
頭の中で、母の声が何度も繰り返される。
まだ言わない。
凛はゆっくり言った。
「まだ言えない」
アイの笑顔が、少しだけ固まった。
「私のこと?」
凛は嘘をつけなかった。
「うん」
アイは笑った。
「そっか」
声は軽い。
でも、目は軽くなかった。
「悪い話?」
「違う」
凛はすぐに言った。
そこだけは、迷わなかった。
アイは少しだけ息を吸う。
「じゃあ、いい話?」
凛は言葉を失った。
いい話。
そう言えば、アイは期待するかもしれない。
でも、まだ何も決まっていない。
形のないものを渡して、壊れてしまったら。
凛は、アイの痛い顔をもう見たくなかった。
だから、正直に言った。
「まだ、分からない」
アイは目を伏せた。
「そう」
そのあと、アイはいつものように笑った。
「ごめん、変なこと聞いたね」
「変じゃない」
「でも、言えないんでしょ?」
凛は黙った。
アイは一歩下がって、笑った。
「じゃあ、聞かない」
よくない。
そう思った。
凛にも分かった。
けれど、今は何も言えなかった。
その日の放課後は、花屋に行く日ではなかった。
アイは帰り支度を早く終えた。
「じゃあね、凛ちゃん」
「うん」
凛は返した。
アイは笑って教室を出ていく。
いつもより少しだけ早い足取りだった。
凛は追いかけなかった。
追いかけたら、言ってしまいそうだった。
悪い話じゃない。
もっと一緒にいられるかもしれない。
お母さんたちが考えている。
そう言えば、アイは少し安心するかもしれない。
でも、まだ言ってはいけない。
凛は机の上に置いた手を、少しだけ握った。
言わないことが、こんなに難しいとは思わなかった。
その夜。
渋谷家のリビングで、父と母は凛に話した。
「施設の人と話してきたよ」
母が言う。
凛は椅子に座って、背筋を伸ばしていた。
「うん」
父が続ける。
「すぐに何かが変わるわけじゃない」
「うん」
「でも、火曜日と金曜日は続けていい」
母が言った。
「それから、アイちゃんの気持ちが整えば、休日に少し長く過ごす日を作れるかもしれない」
凛の目が少しだけ開く。
「本当?」
「まだ、かもしれない」
母はすぐに付け加えた。
「でも、話はできた」
凛は頷いた。
「アイには?」
母は少しだけ表情を引き締めた。
「施設の人から、ちゃんと順番に話してもらう」
「私からは?」
「まだ言わない」
凛は唇を結ぶ。
母は続けた。
「アイちゃん、何か気づいてた?」
凛は頷いた。
「施設に来てたこと、知ってた」
父が小さく息を吐く。
「そうか」
「私のこと?って聞かれた」
「凛は何て言ったの?」
「うんって言った」
凛は少しだけ視線を落とす。
「悪い話?って聞かれたから、違うって言った」
母は静かに頷く。
「それは言っていいと思う」
「いい話?って聞かれた」
「うん」
「まだ分からないって言った」
母は少しだけ目を伏せた。
「よく言えたね」
凛は首を横に振った。
「言えなかっただけ」
「それでも、アイちゃんを急がせなかった」
凛は何も言わなかった。
急がせなかった。
そうなのかもしれない。
でも、アイは怖そうだった。
見えないものが近づいてくるのを、怖がっていた。
それを守ると言っていいのか、まだ分からなかった。
母は凛の手に、そっと自分の手を重ねた。
「これから、ちゃんとアイちゃんにも説明してもらう。怖いままにしないように」
凛は頷いた。
「うん」
その夜、凛は布団に入ってからも、なかなか眠れなかった。
未来は、少しだけ動いた。
でもその形は、まだアイには見えていない。
見えないまま近づいてくるものを、アイが怖がることを、凛は初めて知った。