星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第17話 行きたいです

 

 

翌朝。

 

教室に入ると、凛はもう席についていた。

 

本を開いている。

 

けれど、ページは少しも進んでいなかった。

 

アイはその様子を見て、少しだけ足を止めた。

 

何かある。

 

そう思った。

 

でも、昨日、自分で言った。

 

聞かない。

 

そう言ったのは、自分だった。

 

だからアイは、いつものように笑った。

 

「おはよう、凛ちゃん」

 

凛が顔を上げる。

 

「おはよう」

 

「今日も顔、変だよ」

 

「変じゃない」

 

「昨日も聞いた」

 

「今日も変じゃない」

 

「頑固」

 

「うん」

 

凛は短く頷いた。

 

それが少しおかしくて、アイは小さく笑った。

 

でも、笑いきれなかった。

 

凛は何かを知っている。

 

それは分かる。

 

けれど、凛は言わない。

 

言えないのだろう。

 

なら、自分から聞かない。

 

そう決めたはずなのに、胸のあたりが落ち着かない。

 

知らないままの方がいいことはある。

 

でも、知らないまま自分のことが決まっていくのは、怖い。

 

アイは席に着き、教科書を机にしまった。

 

いつも通りの朝。

 

けれど、凛との間に薄い紙が一枚挟まったような気がした。

 

見えるのに、触れない。

 

近いのに、届かない。

 

そんな距離だった。

 

放課後。

 

施設へ戻ると、職員に声をかけられた。

 

「アイちゃん、少し話せる?」

 

アイは返事をする前に、指先が少し冷えるのを感じた。

 

来た。

 

そう思った。

 

渋谷家のこと。

 

面談室にいた渋谷さんたちのこと。

 

凛が言えなかったこと。

 

アイは笑顔を作ろうとした。

 

「はい」

 

職員は、すぐに言った。

 

「怒る話じゃないよ」

 

アイは瞬きをした。

 

笑顔を作るより先に言われたから、少しだけ顔が間に合わなかった。

 

職員は穏やかに続ける。

 

「渋谷さんのお家のことで、少し話してもいい?」

 

アイは喉を鳴らす。

 

「……はい」

 

面談室に入る。

 

小さな机と椅子。

 

窓の外には夕方の光が差している。

 

アイは椅子に座り、膝の上で手を重ねた。

 

職員は向かいに座る。

 

「昨日、渋谷さんのお父さんとお母さんが来てくれました」

 

「はい」

 

声は出た。

 

少しだけ硬かった。

 

職員は急がなかった。

 

「アイちゃんが火曜日と金曜日に花屋さんへ行っていることを、これからも無理のない形で続けられないか、相談しに来てくれたの」

 

アイは、目を上げた。

 

「……続ける?」

 

「うん」

 

「やめる話じゃ、ないんですか」

 

「違うよ」

 

職員ははっきり言った。

 

「アイちゃんが迷惑をかけたから来たわけでもない」

 

その言葉に、アイの指が止まった。

 

迷惑。

 

その言葉を、先に拾われた気がした。

 

アイは視線を落とす。

 

「でも、私……帰りたくないって」

 

「言ったね」

 

「十分、延ばしてもらって」

 

「うん」

 

「ハンカチも置いて」

 

「それも聞いてる」

 

アイは膝の上の手を握った。

 

「そういうの、迷惑じゃないんですか」

 

言ってから、少しだけ違う気がした。

 

迷惑。

 

その言葉を使えば、自分が悪いことにできる。

 

でも、本当はもっと怖いことがある。

 

アイは言い直すように、小さく続けた。

 

「私が行きたいって言ったら……困りませんか」

 

職員は少しだけ考えた。

 

「困るかどうかを、アイちゃん一人で決めなくていいよ」

 

アイは何も言えなかった。

 

職員は続ける。

 

「渋谷さんたちは、困ったから相談に来たんじゃない。これからも関わるなら、ちゃんと決めておいた方がいいことがあるから来てくれたの」

 

「決める……」

 

「うん」

 

職員は、ひとつずつゆっくり言った。

 

「帰る時間や連絡のこと。アイちゃんがしんどくなった時のこと。渋谷さんのお家に無理が出ないようにすること」

 

それは、怒られる話ではなかった。

 

禁止される話でもなかった。

 

けれど、優しいだけの話でもない。

 

大人がちゃんと考えなければならない話。

 

その中に、自分もいる。

 

アイはそれが少し怖かった。

 

でも、前のように逃げたいだけではなかった。

 

職員は手元の紙を見ながら、ゆっくり言った。

 

「火曜日と金曜日は、今まで通り続けていいと思っています」

 

アイは、小さく息を吸った。

 

続けていい。

 

その言葉が、静かに広がる。

 

職員は、アイの顔を見てから続けた。

 

「それから、アイちゃんが望むなら、休日に少し長く渋谷さんのお家で過ごす日を作れるかもしれません」

 

「休日……?」

 

「うん。たとえば土曜日の午後。いつもより少し早い時間から、夕方まで」

 

土曜日。

 

花屋へ行く日ではない。

 

学校の帰り道でもない。

 

寄り道ではなく、予定として行く日。

 

アイは、うまく返事ができなかった。

 

職員は言葉を重ねる。

 

「でも、これはアイちゃんが嫌なら進めません」

 

アイは顔を上げる。

 

「私が、嫌なら?」

 

「うん。大人が勝手に決める話ではないから」

 

アイは黙った。

 

選べる。

 

そう言われている。

 

それなのに、怖かった。

 

選ぶということは、自分が欲しがるということだ。

 

欲しいと言えば、なくなった時に痛い。

 

行きたいと言えば、帰る時にもっと苦しくなるかもしれない。

 

長くいたら、渋谷家が本当に居場所みたいになってしまうかもしれない。

 

そうなったあとで、もし行けなくなったら。

 

アイは膝の上の手を見た。

 

「私が行きたいって言ったら、渋谷さんたちは断りづらくなりませんか」

 

職員は静かに首を横に振る。

 

「だから、大人同士で先に話をしたの」

 

アイは職員を見る。

 

職員は穏やかだった。

 

けれど、言葉は曖昧ではなかった。

 

「できることと、できないことを確認して、その上でアイちゃんの気持ちを聞く。そういう順番にしたかったの」

 

「私の……」

 

「うん」

 

職員は、少しだけ身を乗り出した。

 

「アイちゃんは、どうしたい?」

 

その問いは、優しかった。

 

でも、逃げ場がなかった。

 

お任せします。

 

そう言えば楽だった。

 

どちらでも大丈夫です。

 

そう言えば、いつもの自分に戻れた。

 

けれど、凛の声が残っていた。

 

来なくても怒らない。

 

気にしないのは無理。

 

それから、渋谷母の声。

 

言ってくれたら一緒に考えられるよ。

 

アイは膝の上の手を、ゆっくりほどいた。

 

指先が少し震えていた。

 

「……行きたいです」

 

声は小さかった。

 

けれど、消えなかった。

 

職員は急かさない。

 

アイは、もう一度息を吸う。

 

「火曜日と金曜日だけじゃなくて」

 

言葉にすると、怖くなる。

 

でも、止めなかった。

 

「少し長く、行ってみたいです」

 

言えた。

 

言ってしまった。

 

アイはすぐに職員の顔を見られなかった。

 

怒られるとは思っていない。

 

でも、困られるかもしれないと思った。

 

欲しがっている子だと思われるかもしれない。

 

けれど職員は、静かに頷いた。

 

「分かった」

 

それだけだった。

 

大げさに喜ぶわけでもない。

 

驚きすぎるわけでもない。

 

ただ、受け取ってくれた。

 

「じゃあ、すぐ決定じゃなくて、まずは一度だけ試してみよう」

 

アイは顔を上げる。

 

「一度だけ?」

 

「うん。土曜日の午後に、いつもより少し長く過ごしてみる。途中で帰りたくなったら帰っていい。もう嫌だと思ったら、続けなくていい」

 

一度だけ。

 

その言葉に、アイは少しだけ息がしやすくなった。

 

ずっと、ではない。

 

決定、でもない。

 

試してみる。

 

そのくらいなら、怖くても手を伸ばせる気がした。

 

「……はい」

 

「土曜日の午後で、渋谷さんたちにも確認してみるね」

 

「はい」

 

「アイちゃん」

 

「はい」

 

「行きたいって言ってくれて、ありがとう」

 

アイは目を伏せた。

 

ありがとう。

 

希望を言って、そんな言葉が返ってくるとは思っていなかった。

 

翌日。

 

教室で、アイは凛に話しかけるか迷っていた。

 

昨日は、聞かないと言った。

 

凛は言えなかった。

 

でも今は、自分が少し知っている。

 

伝えたい。

 

でも、どんな顔で言えばいいのか分からない。

 

凛は席で本を開いていた。

 

読んでいるように見える。

 

けれど、ページはしばらく動いていなかった。

 

アイは近づいた。

 

「凛ちゃん」

 

凛が顔を上げる。

 

「なに?」

 

「昨日の話、少し聞いた」

 

凛の手が止まる。

 

「うん」

 

アイは、凛の目を見すぎないようにした。

 

「悪い話じゃなかった」

 

「うん」

 

「でも、いい話かどうかは……まだ分からないかも」

 

凛はアイを見る。

 

アイは少しだけ笑った。

 

「でも、私が決めていいって言われた」

 

「何を?」

 

「土曜日、少し長く行くかどうか」

 

凛は、息を止めたように見えた。

 

ほんの少しだけ。

 

けれど、アイには分かった。

 

凛は嬉しかったのだと思う。

 

「行くの?」

 

凛が聞く。

 

アイは視線を逸らした。

 

「……行きたいって、言った」

 

言葉の最後が少し小さくなった。

 

凛は少しだけ目を見開いた。

 

でも、すぐにいつもの顔に戻る。

 

「そっか」

 

アイは凛を見る。

 

「またそれ?」

 

凛は少し考えた。

 

「違うのも言える」

 

「なに?」

 

「よかった」

 

短い言葉だった。

 

でも、ちゃんと届いた。

 

アイは目を伏せた。

 

「……うん」

 

それだけ返すのが精一杯だった。

 

少し沈黙が落ちる。

 

それから、アイは小さく言った。

 

「でも、怖いよ」

 

凛は頷く。

 

「うん」

 

「長くいたら、帰る時もっと嫌になるかもしれない」

 

「なるかも」

 

アイは思わず顔を上げた。

 

「そこは否定してよ」

 

「分からないから」

 

「そういうところだよね」

 

アイは少しだけ笑った。

 

笑ったけれど、その奥にはまだ不安があった。

 

凛は本を閉じた。

 

「でも」

 

アイは凛を見る。

 

「帰る時嫌になっても、また来る日を作ればいいと思う」

 

アイは言葉を失った。

 

また来る日。

 

火曜日と金曜日。

 

そして、土曜日。

 

終わりではなく、次につなげる日。

 

帰りたくない気持ちは、だめなものではないのかもしれない。

 

帰るしかなくても、次があれば、少し違うのかもしれない。

 

「……凛ちゃんって」

 

「うん」

 

「たまに、すごいこと簡単に言うよね」

 

「難しく言えない」

 

「……それはそれで凛ちゃんっぽい」

 

凛は少しだけ首を傾げた。

 

アイは、少し笑った。

 

今度は、昨日より少しだけ自然に。

 

その日の夜。

 

渋谷家に、施設から電話が入った。

 

母は店の奥で受話器を取った。

 

「はい、渋谷です」

 

電話の向こうの職員の声を聞きながら、母の表情が少しだけ変わる。

 

「アイさん本人が、休日に少し長く過ごしてみたいと言っています」

 

母は一度、目を閉じた。

 

嬉しさより先に、そこまで言えたアイの怖さが浮かんだ。

 

「分かりました」

 

母は静かに答える。

 

「無理のない形で、まずは一度ですね」

 

職員が言う。

 

「はい。土曜日の午後から夕方までを考えています。途中で帰りたくなった場合は、すぐ戻れるようにしておきたいです」

 

「もちろんです。こちらでも、そのようにします」

 

「よろしくお願いします」

 

「こちらこそ」

 

電話を切ったあと、母はしばらく受話器を見ていた。

 

そこへ凛が顔を出す。

 

「お母さん?」

 

母は振り向く。

 

「土曜日、来られるかもしれない」

 

凛の目が少しだけ大きくなる。

 

「アイ?」

 

「うん。アイちゃん本人が、行きたいって言ってくれたんだって」

 

凛は何も言わなかった。

 

けれど、口元が少しだけ緩んだ。

 

父が奥から顔を出す。

 

「じゃあ、土曜日は店の奥を少し片付けるか」

 

母がすぐに言う。

 

「大げさにしすぎないでね」

 

父は頷く。

 

「普通に、でもちゃんと」

 

凛はその言葉を聞いた。

 

普通に。

 

でも、ちゃんと。

 

それは、たぶん今のアイに一番必要な形だった。

 

施設の部屋で、アイは机の前に座っていた。

 

予定表を広げる。

 

火曜日。花屋。

金曜日。花屋。

 

その下の空白を見つめる。

 

土曜日。

 

鉛筆を持つ。

 

最初は、花屋と書こうとした。

 

でも、手が止まった。

 

土曜日は、学校帰りに店先へ寄る日ではない。

 

いつもより長く過ごす。

 

店先だけではなく、奥の部屋でお茶を飲むかもしれない。

 

凛と話すかもしれない。

 

凛の父や母がいるかもしれない。

 

それは、花屋なのだろうか。

 

それとも。

 

アイは少し迷って、ゆっくり書いた。

 

土曜日。渋谷さんの家。

 

書いた瞬間、怖くなった。

 

花屋より近い言葉だった。

 

でも、嘘ではなかった。

 

火曜日と金曜日は、花屋。

 

土曜日は、渋谷さんの家。

 

たった数文字の違いなのに、紙の上の空気まで変わった気がした。

 

怖かった。

 

けれどアイは、その文字を消さなかった。

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