星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜 作:百合太郎
土曜日の朝。
アイは、予定表の前でしばらく動けなかった。
火曜日。花屋。
金曜日。花屋。
その下に、昨日書いた文字がある。
土曜日。渋谷さんの家。
花屋ではない。
渋谷さんの家。
たったそれだけの違いなのに、紙の上の文字が少しだけ重く見えた。
今日は学校帰りではない。
寄り道でもない。
ハンカチを取りに行く日でもない。
最初から、行くと決めて行く日。
アイは鉛筆を指先で転がした。
消そうとは思わなかった。
でも、何度も見てしまう。
「アイちゃん」
職員に声をかけられて、アイは顔を上げた。
「今日は午後からだったね」
「はい」
「緊張してる?」
いつもなら、すぐに笑えた。
大丈夫です。
平気です。
楽しみです。
そう言えば、きっと相手は安心する。
けれど、今日は少しだけ違う言葉を選んだ。
「少しだけ」
職員は穏やかに頷いた。
「うん。途中で帰りたくなったら、連絡していいからね」
「はい」
「楽しく過ごさなきゃ、って思わなくていいよ」
アイは少し驚いた。
楽しく過ごす。
それもまた、ちゃんとしなければいけないことの一つみたいに思っていたから。
「……はい」
今度の返事は、少しだけ小さかった。
同じ頃、渋谷家では父が台所の棚を開けていた。
「お菓子、これで足りるかな」
母が振り向く。
「大げさにしないって言ったよね」
「普通に、でもちゃんと」
「ちゃんとが少し多い」
「多いか?」
「多い」
凛が店先から顔を出した。
「お父さん、変」
父は棚の扉を閉めて、胸を押さえた。
「凛に言われると効くな」
「本当のことだから」
「二回刺さった」
母が小さく笑った。
凛はそれ以上言わず、自分の部屋へ戻った。
机の上の本を少し横へ寄せる。
窓辺の小さな鉢植えの向きを直す。
床に置いていた紙袋を隅へ動かす。
片づけすぎても変かもしれない。
でも、散らかっているのも落ち着かない。
凛は少し考えて、結局、いつもより少しだけ整えることにした。
母が部屋の前に立つ。
「凛」
「うん」
「凛の部屋に入るかどうかは、アイちゃんが決めることだからね」
「分かってる」
「見せたいからって、無理に誘わない」
凛は少しだけ黙った。
「見る?って聞くのは?」
「それはいいと思う。断られても、普通にしてね」
「うん」
凛は頷いた。
普通に。
でも、ちゃんと。
父の言葉を、凛も少しだけ考えていた。
午後。
アイは小さなバッグを持って施設を出た。
ランドセルではないだけで、ずいぶん違って感じる。
施設の職員が途中まで送ってくれた。
「時間になったら、渋谷さんのお母さんが送ってくれるからね」
「はい」
「困ったら言っていいから」
「はい」
渋谷家が近づくにつれて、アイの足は少しだけ遅くなった。
店先には花が並んでいる。
いつもの場所。
でも今日は、そこを通って奥へ入る。
アイは店の前で立ち止まった。
凛が気づいて顔を上げる。
「来た」
アイは瞬きをした。
「それ、私の台詞じゃない?」
「今日は私が言った」
「取られた」
「返す?」
「返されても困る」
凛は少しだけ首を傾げた。
そのやり取りに、アイの肩から少しだけ力が抜けた。
店の奥から母が出てくる。
「いらっしゃい、アイちゃん」
父も顔を出した。
「今日は土曜日だから、少し長めだな」
アイは両手でバッグの持ち手を握る。
「はい。よろしくお願いします」
父は軽く頷いた。
「こちらこそ」
それだけだった。
大げさに歓迎されるわけでもない。
何か特別なことを言われるわけでもない。
その普通さに、アイは少しだけ救われた。
凛が店先の鉢を指さす。
「最初、花見る?」
アイは頷いた。
「うん」
「いつも通り」
「それがいいかも」
凛はブルースターの鉢を少し見やすい位置に動かした。
アイはその前にしゃがむ。
花は変わらず、そこにあった。
火曜日でも。
金曜日でも。
土曜日でも。
そのことが、少しだけ心を落ち着かせた。
しばらく店先で過ごしたあと、凛の母が声をかけた。
「お茶にしようか。奥、入れる?」
奥。
その一言で、アイの背筋が少し伸びた。
店先ではない場所。
花を見る場所ではなく、生活の中へ入る場所。
アイは一度だけ凛を見た。
凛は何も急かさない。
「無理なら、店でもいい」
凛が言った。
アイは小さく息を吸う。
「入る」
声にすると、少しだけ怖さが形になった。
でも、足は動いた。
靴を脱いで上がる。
床の感触が、施設とも学校とも違う。
奥の部屋には、時計の音があった。
テーブル。
椅子。
棚に置かれた湯呑み。
壁にかかったカレンダー。
隅に置かれた凛の学校のプリント。
母のエプロン。
父の新聞。
生活の気配がある。
ここは、花屋の奥ではなく、家だった。
アイは一瞬、立つ場所を迷った。
「こっち」
凛が椅子を指さす。
アイはそこに座る。
凛の母がいつもの湯呑みを置いた。
「甘いの、大丈夫?」
小さなお菓子の皿も置かれる。
「はい」
凛がアイを見る。
「アイ、苦いのより甘い方がいい?」
「何その質問」
「知らないから」
アイは少し考えた。
「普通に甘い方が好きかも」
「普通に」
「そこ拾わないで」
「うん」
凛は頷いて、自分の分のお菓子を取った。
アイは湯呑みを両手で包む。
いつもの湯呑み。
でも、今日は置かれている場所が違う。
店先ではなく、家のテーブルの上。
私がここにいるの、変じゃないのかな。
そう思った。
けれど、誰も変だと言わない。
母は普通にお茶を注ぐ。
父は奥で新聞を畳んでいる。
凛は隣で、何を食べるか真面目に悩んでいる。
その全部が普通すぎて、かえってアイは落ち着かなかった。
お茶のあと、凛が立ち上がった。
「部屋、見る?」
アイは固まった。
「凛ちゃんの?」
「うん」
「いいの?」
「見るだけなら」
アイは思わず笑った。
「見るだけって、私の台詞じゃん」
「使った」
「勝手に?」
「うん」
凛の母が横から言った。
「無理に入らなくていいよ」
アイは少しだけ考えた。
断ることもできる。
ここで止まってもいい。
でも。
「……見たい」
言ったあと、アイは自分の声を確かめた。
見たい。
また、欲しい方の言葉を選んだ。
凛の部屋は、思っていたより静かだった。
机の上には本が数冊。
花の図鑑。
学校のノート。
窓辺には小さな植物。
派手なものは少ない。
でも、凛が大事にしているものが分かる部屋だった。
アイは入り口近くで立ち止まる。
「凛ちゃんの部屋って、凛ちゃんっぽい」
凛が振り向く。
「どういう意味?」
「きれいだけど、ちょっと近寄りがたい」
「ひどい」
「褒めてる」
「分かりづらい」
「凛ちゃんもよくやるでしょ」
凛は少し考えた。
「そうかも」
「認めるんだ」
アイは小さく笑った。
凛は床に座り、アイにも座るよう視線で示した。
アイは少し迷ってから、部屋の端に腰を下ろす。
窓から入る光が、床の上に四角く落ちている。
しばらく二人は何も言わなかった。
アイは部屋を見回す。
凛の本。
凛の机。
凛の場所。
そこに自分がいる。
どうしても、そのことが不思議だった。
「ねえ」
「うん」
「ここに私がいるの、変じゃない?」
凛はすぐに答えた。
「変じゃない」
「即答」
「変だったら言う」
「それはそれで怖い」
「でも、変じゃない」
アイは視線を落とした。
凛は嘘をつかない。
だから、その言葉は少しだけ信じられた。
少しだけ。
夕方が近づくと、部屋の色が変わった。
窓の外が橙色に染まり始める。
いつもより長くいた。
そのぶん、帰る時間が近づくのが分かりやすかった。
アイは時計を見た。
凛も気づいた。
奥から母の声がする。
「そろそろ、施設に連絡する時間だね」
アイは頷いた。
頷いたけれど、立ち上がる動きが少し遅れた。
今日は長かった。
だから、帰ることも前より重かった。
でも、前とは違う。
アイは小さく息を吸った。
「帰りたくないって言ったら、困りますか」
言ってから、指先が冷えた。
また言ってしまった。
けれど凛の母は、困った顔をしなかった。
「困らないよ」
アイは顔を上げる。
母は続けた。
「でも、今日は帰る日」
その言葉は、まっすぐだった。
優しいだけではない。
約束の線を、ちゃんと引く言葉だった。
「それで、また来る日を作る日」
アイはその言葉を、ゆっくり飲み込んだ。
帰る日。
そして、また来る日を作る日。
終わりではない。
凛が隣で言う。
「また来る?」
アイはバッグを持つ手に力を入れた。
少しだけ迷って、頷く。
「……うん。また来る」
「土曜日も?」
「それは、まだ分からない」
「火曜日は?」
アイは少しだけ笑った。
「火曜日は、行く」
凛は頷く。
「うん」
それだけだった。
でも、それで足りた。
施設へ戻る道。
凛の母が隣を歩いていた。
今日は凛も途中までついてきている。
三人の足音が、夕方の道に小さく重なる。
アイはしばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「長くいると、帰るのがもっと嫌になりますね」
凛の母は少しだけアイを見る。
「そうかもしれないね」
「否定しないんですね」
「嘘はつきたくないから」
アイは視線を前に戻した。
「でも」
言ってから、少し迷う。
「また来る日があると、少しだけましです」
凛が隣で頷いた。
「うん」
母も穏やかに言った。
「うん」
施設の玄関で、職員が待っていた。
「おかえり」
アイは一拍置いてから答える。
「戻りました」
職員はアイの顔を見た。
「今日はどうだった?」
アイは少し考えた。
楽しかったです。
それは間違いではない。
でも、それだけでもない。
「長かったです」
職員が少しだけ目を瞬かせる。
アイは続けた。
「でも、嫌じゃなかったです」
その言葉は、自分でも少し不思議だった。
長かった。
嫌じゃなかった。
楽しいよりも、今の気持ちに近かった。
職員は静かに微笑む。
「そっか」
アイはバッグを持ち直した。
「火曜日、また行きます」
今度は、自然に言えた。
その夜。
アイが帰った後の渋谷家では、父が湯呑みを片づけながら聞いた。
「どうだった?」
母は少し考える。
「普通にできたと思う」
凛が言った。
「普通だった」
父は凛を見る。
「それは褒め言葉?」
「うん」
「ならよかった」
母は小さく笑ったあと、少しだけ真面目な顔になった。
「次は、本人と施設の様子を見ながらだね」
凛は頷いた。
「土曜日、また来られる?」
「すぐには分からない」
母は言った。
「でも、今日が嫌じゃなかったなら、一歩進んだと思う」
「うん」
凛は短く返した。
それから、店先の方を見る。
ブルースターは、夕方の光の中で静かに揺れていた。
施設の部屋で、アイは予定表を広げていた。
土曜日。渋谷さんの家。
その横に、鉛筆で小さく書く。
長かった。嫌じゃなかった。
書いてから、少しだけ首を傾げる。
変な感想だと思った。
でも、嘘ではなかった。
火曜日。花屋。
その文字を見る。
アイは鉛筆を持ち直し、火曜日の横に小さな丸をつけた。
長くいると、帰るのが苦しくなる。
でも、次があると、少しだけ息ができる。
アイは火曜日の文字に触れたまま、しばらくその丸を見つめていた。