星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第1話 嘘つきの転校生

 

 

それは、凛がまだ鬼ではなかった頃の話だ。

 

刀も知らず。

雷も知らず。

誰かを守るために、自分が人から少しだけはみ出す日が来ることも知らなかった頃。

 

渋谷凛は、ただの小学生だった。

 

朝の空気は、少しだけ冷たかった。

 

店先に並んだ花の葉に、細かな水滴が残っている。

朝日を受けて、それが小さく光った。

 

凛はホースの先を指でつまみ、水の勢いを弱めながら、鉢植えの根元に水をやっていた。

 

パンジー。

ビオラ。

ガーベラ。

名前を覚えた花もあれば、まだ覚えきれていない花もある。

 

けれど、どの花にどのくらい水をやればいいかは、なんとなく分かるようになっていた。

 

「凛、今日も早いね」

 

店の奥から母の声がした。

 

凛は振り返らずに答える。

 

「昨日、水やり忘れかけたから」

 

「ちゃんと覚えてたじゃない」

 

「忘れかけたのは本当だし」

 

母が小さく笑う気配がした。

 

「真面目だねぇ」

 

「普通でしょ」

 

凛はそう返して、最後の鉢に水をやった。

 

普通。

 

凛は、本当にそう思っていた。

 

朝起きて、店を少し手伝って、学校へ行く。

帰ってきたら、また少し店を手伝う。

宿題をして、ご飯を食べて、寝る。

 

特別なことなんて何もない。

 

父は花の仕入れで朝から出ていて、母は店の準備をしている。

凛はランドセルを背負い直すと、玄関先で靴を履いた。

 

「行ってきます」

 

「行ってらっしゃい。車に気をつけてね」

 

「うん」

 

短く返して、凛は家を出た。

 

通学路には、同じ学校の子たちが何人も歩いている。

 

楽しそうに話しながら歩く子。

走って先生に怒られそうな子。

眠そうにあくびをしている子。

 

凛はその横を、いつもの歩幅で歩いた。

 

友達がいないわけではない。

話しかけられれば答えるし、頼まれれば手伝う。

でも、自分から輪の中心に入って騒ぐのは、少し苦手だった。

 

別に嫌いではない。

 

ただ、必要以上に声を大きくする理由が分からないだけだ。

 

教室に入ると、いつものざわめきがあった。

 

机を動かす音。

ランドセルを開ける音。

誰かが昨日見たテレビの話をしている声。

別の誰かが筆箱を忘れたと騒ぐ声。

 

凛は自分の席に着き、ランドセルから教科書を出した。

 

すると、前の席の女子が振り向いた。

 

「凛ちゃん、昨日の宿題やった?」

 

「やったよ」

 

「最後の問題、難しくなかった?」

 

「ちょっと」

 

「えー、ちょっとなんだ」

 

凛はノートを机に入れながら、首を傾げる。

 

「難しかった?」

 

「難しかったよー。凛ちゃん、やっぱり大人っぽい」

 

「関係ないと思う」

 

そう返すと、相手は「そういうところだよ」と笑った。

 

凛には、少し意味が分からなかった。

 

チャイムが鳴る。

 

それと同時に、担任の先生が教室へ入ってきた。

 

いつもなら、そのまま朝の会が始まる。

けれど、その日の先生は、どこか少し嬉しそうだった。

 

「みなさん、今日は新しいお友達を紹介します」

 

教室が一瞬でざわついた。

 

「転校生?」

「男の子?」

「女の子?」

「どこから?」

 

先生が手を叩く。

 

「はいはい、静かに。入ってきてください」

 

教室の扉が開いた。

 

その子が入ってきた瞬間、教室の空気が少し変わった。

 

黒い髪。

大きな瞳。

ぱっと目を引く顔立ち。

 

小学生なのに、ただ立っているだけで人の視線を集める子だった。

 

彼女は教卓の横に立つと、少しだけ首を傾けて笑った。

 

「星野アイです。よろしくお願いします」

 

声は明るかった。

 

笑顔も、明るかった。

 

まるで最初から、みんなが自分を見ることを知っていたみたいな笑顔だった。

 

「かわいい……」

 

誰かが小さく呟いた。

 

それをきっかけに、教室の中が一気に騒がしくなる。

 

「目、きらきらしてる!」

「芸能人みたい!」

「どこから来たの?」

「アイちゃんって呼んでいい?」

 

アイは、その全部に笑っていた。

 

困ったように。

照れたように。

嬉しそうに。

 

でも、どの笑顔も綺麗だった。

 

綺麗すぎた。

 

凛は、その笑顔を見ながら、ほんの少しだけ眉を寄せた。

 

変な笑顔だと思った。

 

いや、変ではない。

 

むしろ完璧だった。

 

先生が安心する笑顔。

クラスメイトが話しかけたくなる笑顔。

かわいいと言われても嫌味にならない笑顔。

 

全部、ちょうどよかった。

 

だからこそ、凛にはそれが少しだけ不思議に見えた。

 

花屋の店先に、季節に合わせて飾られた花がある。

 

綺麗に並んでいて、色も整っていて、誰が見てもかわいいと思う。

でも、それは根を張ってそこに咲いている花ではない。

 

誰かがそこに置いたものだ。

 

アイの笑顔は、それに少し似ていた。

 

顔に貼りつけた花みたいだと、凛は思った。

 

「じゃあ、星野さんの席は……渋谷さんの斜め前ね」

 

先生に言われ、アイが歩いてくる。

 

近くで見ると、その瞳は本当に不思議だった。

光を受けると、星みたいな形が浮かんでいるように見える。

 

アイは席に着く前に、凛の方を見た。

 

目が合う。

 

「渋谷さん、だよね?」

 

「うん」

 

凛は頷く。

 

「凛でいいよ」

 

アイは一瞬だけ目を瞬かせた。

 

それから、すぐに笑った。

 

「じゃあ、凛ちゃん」

 

「うん」

 

「よろしくね」

 

「よろしく」

 

それだけだった。

 

アイは少しだけ首を傾げる。

 

たぶん、もっと何か返ってくると思っていたのだろう。

 

かわいいね、とか。

どこから来たの、とか。

仲良くしようね、とか。

 

凛はそういう言葉を言わなかった。

 

思いつかなかったわけではない。

ただ、今言う必要があるとは思わなかった。

 

アイは席に座ると、前を向いた。

 

凛はその横顔を見た。

 

笑顔は消えていた。

 

ほんの一瞬だけ、何もない顔がそこにあった。

 

けれど次の瞬間、隣の子に話しかけられて、アイはまた笑った。

 

「うん、アイでいいよ!」

 

その切り替わりが、凛には少しだけ気になった。

 

休み時間になると、アイの周りにはすぐ人が集まった。

 

「アイちゃん、前の学校どこ?」

「好きな食べ物なに?」

「休み時間なにして遊ぶ?」

「その髪、自分で結んでるの?」

「目、ほんとに星みたい!」

 

アイは一つ一つに、楽しそうに答えていく。

 

「前の学校? んー、普通のところだよ」

「好きな食べ物はね、なんでも好きかな」

「遊ぶの? みんなと遊べるならなんでも楽しいよ」

「髪はね、ちょっとだけ練習したの」

「星みたい? えへへ、初めて言われた」

 

嘘ではないのかもしれない。

 

でも、本当でもない気がした。

 

凛は自分の席で、教科書を閉じながらその様子を見ていた。

 

すごいな、と思った。

 

どの答えも、相手が喜びそうな形をしている。

誰も傷つけない。

誰も困らせない。

誰からも嫌われない。

 

なのに、その中に星野アイ自身がどこにもいない。

 

「凛ちゃん」

 

気づくと、アイがこちらを見ていた。

 

周りの子たちの間から、するりと抜けるようにして、アイが凛の席の近くへ来る。

 

「凛ちゃんって、あんまり喋らないタイプ?」

 

「必要なら喋る」

 

「ふふ、かっこいいね」

 

「別に」

 

「別に、なんだ」

 

アイは笑った。

 

凛は、その笑顔を見返す。

 

アイの笑顔は崩れない。

けれど、凛が黙って見ていると、ほんの少しだけ居心地悪そうにした。

 

「なに?」

 

アイが聞く。

 

「ううん」

 

「私の顔になんかついてる?」

 

「ついてない」

 

「じゃあ、なんで見てるの?」

 

凛は少し考えた。

 

「笑い方が不思議だから」

 

その瞬間、アイの笑顔が止まった。

 

ほんの一瞬。

 

本当に短い間だった。

 

けれど、凛には分かった。

 

アイは、今の言葉を嫌がった。

 

すぐに、アイはまた笑う。

 

「なにそれ。凛ちゃん、変なの」

 

「そう?」

 

「そうだよ」

 

アイは楽しそうに言う。

 

その声は、さっきより少しだけ高かった。

 

凛はそれ以上、何も言わなかった。

 

やがて昼になり、給食の時間になった。

 

配膳が終わると、教室にいつもの匂いが広がる。

 

牛乳。

スープ。

ご飯。

野菜の入ったおかず。

 

凛は静かに食べ始めた。

 

斜め前の席では、アイが周りの子と話しながら笑っている。

 

「アイちゃん、ご飯好き?」

 

誰かが聞いた。

 

白いご飯に箸を入れる直前、アイの手が一瞬だけ止まった。

 

ほんの一瞬。

誰かが話しかければ、すぐに消えてしまうくらい短い間。

 

けれど、凛には見えた。

 

アイはすぐに笑って、ご飯を口に運んだ。

 

「うん、好きだよ」

 

その声は明るかった。

でも、さっき止まった箸のことが、凛の中に残った。

 

周りの子が「えらいね」と笑う。

アイも「そんなことないよ」と笑う。

 

凛は、それを見ていた。

 

好きではないのだと思った。

 

でも、アイは好きだと言った。

 

なぜだろう。

 

嫌いなら嫌いでいいのに。

 

凛はそう思ったが、口には出さなかった。

 

まだ、言うほどのことではない気がした。

 

放課後。

 

凛は家に帰ると、ランドセルを置いて店先に出た。

 

母は奥で電話をしている。

父はまだ帰っていない。

 

店先の花は、朝より少し元気がなく見えた。

日差しが強かったからかもしれない。

 

凛は小さなジョウロを持ち、鉢植えに水をやる。

 

水が土に染み込む音は、嫌いではなかった。

 

静かで、落ち着く。

 

「……あ」

 

通りの方から声がした。

 

凛が顔を上げると、そこにアイが立っていた。

 

ただし、最初に見えたアイは、学校で見たアイとは少し違っていた。

 

笑っていなかった。

 

歩きながら、どこか遠くを見るような顔をしていた。

 

けれど凛と目が合った瞬間、アイの顔に笑顔が戻る。

 

「あ、凛ちゃん!」

 

早かった。

 

まるで、電気をつけたみたいだった。

 

「アイ」

 

「凛ちゃんち、お花屋さんなんだ。すごーい」

 

アイは店先に並んだ花を見て、目を輝かせた。

 

その反応は、学校で見せていたものより少しだけ自然に見えた。

 

「別に普通だよ」

 

「普通じゃないよ。かわいいし、いい匂いするし」

 

「花屋だからね」

 

「それはそうだけど」

 

アイは笑う。

 

それから、店先に並んだ花を一つずつ眺めた。

 

指で触れたりはしない。

ただ、少し距離を取って見ている。

 

その距離感も、凛には少し気になった。

 

興味はある。

でも近づきすぎない。

 

アイは、そういう見方をする子だった。

 

「これ、なに?」

 

アイが一つの鉢を指さした。

 

淡い青色の小さな花だった。

五枚の花びらが、星のように開いている。

 

「ブルースター」

 

「ブルースター……星みたい」

 

「うん」

 

凛は花の札を見た。

 

「花言葉は、たしか……幸福な愛」

 

アイの指が止まった。

 

顔は笑っている。

 

でも、目だけがほんの少し揺れた。

 

「へえ」

 

アイは軽く言った。

 

「すごい名前」

 

「そう?」

 

「うん。なんか、すごい」

 

愛。

 

その言葉に、アイは反応した。

 

凛には、それが分かった。

 

けれど、なぜ反応したのかは分からない。

 

聞こうかと思った。

 

でも、アイはもう別の花を見ていた。

 

「こっちは?」

 

「アスター」

 

「これも星っぽい」

 

「そうだね」

 

「凛ちゃん、花の名前いっぱい知ってるんだね」

 

「家が花屋だから」

 

「そっか」

 

アイは笑った。

 

「いいな」

 

その声が、少しだけ小さかった。

 

凛は顔を上げる。

 

「いい?」

 

「うん。なんか、帰ったらお花があるっていいなって」

 

アイはすぐに笑った。

 

「ほら、きれいだし」

 

凛はその言い方が少し気になった。

 

帰ったら。

 

その言葉の前に、何か別のものが隠れている気がした。

 

「アイの家、こっち?」

 

凛は聞いた。

 

アイは一瞬、黙った。

 

それから笑う。

 

「うん。ちょっと寄り道」

 

「ふうん」

 

凛はそれだけ返した。

 

アイは少しだけ拍子抜けした顔をした。

 

もっと聞かれると思ったのかもしれない。

それとも、聞かれたくなかったのかもしれない。

 

店の奥から、母が顔を出した。

 

「あら、凛のお友達?」

 

アイはすぐに姿勢を正した。

 

「こんにちは。星野アイです。今日、凛ちゃんのクラスに転校してきました」

 

きれいなお辞儀だった。

 

小学生にしては、少し出来すぎていた。

 

母は少し驚いたように目を丸くした後、優しく笑った。

 

「そうなの。凛をよろしくね」

 

「はい!」

 

アイは明るく答えた。

 

その笑顔は完璧だった。

 

母も笑っている。

けれど、凛には分かった。

 

母も少しだけ、何かに気づいた。

 

たぶん、凛と同じものではない。

でも、アイの笑顔が少しだけ固いことに、母も気づいたのだと思う。

 

「よかったら、少し見ていく?」

 

母が言った。

 

アイは一瞬、嬉しそうな顔をした。

 

でもすぐに首を横に振る。

 

「ありがとうございます。でも、そろそろ帰らないと」

 

「そう。気をつけて帰ってね」

 

「はい」

 

アイはにこっと笑って、凛の方を見た。

 

「じゃあね、凛ちゃん」

 

「うん」

 

アイは手を振って歩き出した。

 

凛はその背中を見る。

 

アイの足は、住宅街の方へ向かっていない。

 

凛の家から少し離れた、大きな通りの方。

その先に何があるのか、凛は詳しく知らない。

 

けれど、子どもが一人で帰るには、少し遠回りに見えた。

 

「アイ」

 

凛は呼び止めた。

 

アイが振り返る。

 

笑顔だった。

 

「ん?」

 

「帰る方向、ほんとにそっち?」

 

アイは一瞬だけ止まった。

 

風が吹いて、店先の花が小さく揺れる。

 

アイの髪も、少し揺れた。

 

「うん」

 

アイは笑う。

 

「大丈夫」

 

その言葉は、今日何度も聞いた笑顔と同じ形をしていた。

 

誰かを安心させるための形。

 

凛は、何かを言おうとした。

 

でも、言葉が見つからなかった。

 

だから、ただ頷いた。

 

「……そっか」

 

「うん。また明日ね」

 

アイはもう一度手を振り、歩いていった。

 

凛はその背中を見ていた。

 

角を曲がるまで。

姿が見えなくなるまで。

 

それでも、しばらくその場所に立っていた。

 

「凛?」

 

母が声をかける。

 

「どうしたの?」

 

凛は少し考えてから、首を横に振った。

 

「なんでもない」

 

そう言って、ジョウロを持ち直す。

 

けれど、目はまだアイが消えた角の方を向いていた。

 

どうしてか、目を離したら、そのままいなくなってしまいそうな気がした。

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