星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第19話 また行きたい

 

 

月曜日の朝。

 

アイは、いつもより少し早く目が覚めた。

 

部屋の中はまだ静かで、廊下から聞こえる足音も少ない。

 

布団の中で少しだけ目を開けて、天井を見る。

 

土曜日のことが、まだ身体のどこかに残っていた。

 

渋谷家の奥の部屋。

 

いつもの湯呑み。

 

凛の部屋。

 

窓から入っていた夕方の光。

 

帰る時間が近づいた時の、あの重さ。

 

長かった。

 

嫌じゃなかった。

 

予定表に書いたその言葉を、アイは思い出す。

 

楽しかった、と書くこともできた。

 

でも、それだけでは少し違った。

 

楽しいだけなら、もっと簡単だった。

 

土曜日は、嬉しくて、怖くて、落ち着かなくて、それでも帰り道では少し息がしやすかった。

 

いろんなものが混ざっていた。

 

アイはゆっくり起き上がる。

 

机の上の予定表を見る。

 

火曜日。花屋。

金曜日。花屋。

土曜日。渋谷さんの家。

 

その横に、小さく書いた文字。

 

長かった。嫌じゃなかった。

 

変な感想だと思う。

 

でも、嘘ではなかった。

 

朝食のあと、職員に声をかけられた。

 

「アイちゃん、土曜日のこと、少し聞いてもいい?」

 

アイは手に持っていた箸を置いた。

 

少しだけ背中が固くなる。

 

けれど、怒られるわけではない。

 

それは、もう分かっている。

 

「はい」

 

職員は、アイの向かいに座った。

 

「土曜日、戻ってきた時に、長かった、嫌じゃなかったって言ってたね」

 

「はい」

 

「今はどう思ってる?」

 

アイはすぐには答えられなかった。

 

今。

 

土曜日から少し時間が経った今。

 

思い出すと、胸が少し落ち着かなくなる。

 

でも、嫌な感じではない。

 

ただ、帰る時の重さも一緒に戻ってくる。

 

「帰る時は、少し嫌でした」

 

言ってから、アイは職員の顔を見た。

 

こんなことを言ってもいいのか、まだ少し分からない。

 

職員は頷いた。

 

「うん」

 

それだけだった。

 

だから、続けられた。

 

「でも、火曜日があるって思ったら、少し楽でした」

 

職員は、少しだけ表情を和らげた。

 

「次があると思えたんだね」

 

アイは小さく頷く。

 

「はい」

 

「それは、大事なことだと思う」

 

アイは目を伏せた。

 

大事。

 

そう言われると、少しだけ照れくさかった。

 

学校では、凛がいつも通り席についていた。

 

アイは鞄を置いて、凛の机の前に立つ。

 

「土曜日、変じゃなかった?」

 

凛は顔を上げる。

 

「変じゃなかった」

 

「本当に?」

 

「うん」

 

アイが少し安心しかけた時、凛は続けた。

 

「部屋にいたのは、少し変だった」

 

アイは固まった。

 

「え」

 

凛は瞬きをする。

 

「でも、嫌な変じゃない」

 

「言い方」

 

「じゃあ、珍しかった」

 

「それならまだいい……のかな?」

 

アイは複雑な顔をした。

 

凛は少しだけ考える。

 

「アイが部屋にいた」

 

「うん」

 

「いつもは店先だから」

 

「そうだね」

 

「だから、珍しい」

 

「なるほど」

 

アイは肩の力を少し抜いた。

 

凛の言葉は、たまに心臓に悪い。

 

でも、余計な飾りがない分、嘘ではないと分かる。

 

「凛ちゃんは、どうだったの?」

 

アイが聞くと、凛は短く答えた。

 

「よかった」

 

「何が?」

 

「長かった」

 

「それ、私も言った」

 

「嫌じゃなかった」

 

「それも私が言った」

 

「同じ」

 

アイは少しだけ笑った。

 

「同じなんだ」

 

「うん」

 

凛も、土曜日を同じように覚えている。

 

長かった。

 

嫌じゃなかった。

 

その二つを、凛も持っている。

 

それが少しだけ嬉しかった。

 

放課後、渋谷家では父が店の奥で湯呑みを拭いていた。

 

「土曜日、普通にできたな」

 

母は帳面を閉じながら、少し笑う。

 

「うん。でも普通に見えるように、みんな少し気を遣ってたと思う」

 

「それはそうだな」

 

父は湯呑みを棚に戻す。

 

「普通って、案外難しいんだな」

 

「努力がいるね」

 

店先で花の水を替えていた凛が振り返る。

 

「普通だった」

 

父が凛を見る。

 

「それは褒め言葉?」

 

「うん」

 

「ならよかった」

 

父は安心したように笑った。

 

母は少しだけ真面目な顔になる。

 

「でも、次は本人と施設の様子を見ながらだね」

 

凛は頷く。

 

「また来る?」

 

「アイちゃんが望めばね」

 

「望んでると思う」

 

母は凛を見る。

 

「凛にはそう見えた?」

 

「うん」

 

凛は少し考えてから言った。

 

「でも、怖そうだった」

 

母は静かに頷いた。

 

「それも大事にしないとね」

 

「怖くても、来たいってある?」

 

「あると思うよ」

 

凛はブルースターの鉢を見た。

 

「そっか」

 

母は凛の横顔を見て、少しだけ目を細めた。

 

夕方、施設から渋谷家へ電話が入った。

 

母が受話器を取る。

 

「はい、渋谷です」

 

電話の向こうで、職員の声がする。

 

「土曜日のあと、アイさんは落ち着いています」

 

母は小さく息を吐いた。

 

「よかったです」

 

「本人は、帰る時は少しつらかったけれど、次があると思うと楽だったと話しています」

 

母は黙って頷いた。

 

電話の向こうには見えないと分かっていても、自然とそうしていた。

 

「今後も、本人の意思を確認しながら、月に数回程度から続けてみるのはどうでしょうか」

 

月に数回。

 

母はその言葉をゆっくり受け取った。

 

毎週と決めるには、まだ早い。

 

でも、一度きりで終わらせる必要もない。

 

「こちらは大丈夫です」

 

母は答えた。

 

「ただ、無理のない形で。本人が疲れた時には、すぐ戻れるようにしておきたいです」

 

「はい。こちらもその方針です」

 

電話を切ると、母はしばらく受話器に手を置いていた。

 

続いていく。

 

その重さと嬉しさが、同時にあった。

 

数日後。

 

施設の面談室で、職員はアイに聞いた。

 

「渋谷さんのお家、また土曜日に行ってみたい?」

 

アイはすぐには答えなかった。

 

行きたい。

 

その言葉は、もう喉元にあった。

 

でも、同じくらい怖かった。

 

また長くいたら、帰る時につらくなる。

 

また渋谷家の奥の部屋に座ったら、今度はもっと普通みたいに感じてしまうかもしれない。

 

凛の部屋に入ったこと。

 

いつもの湯呑み。

 

帰る時の道。

 

その全部を思い出すと、指先が少し冷える。

 

職員は急かさなかった。

 

「行きたいでも、まだ分からないでも、どっちでもいいよ」

 

アイは膝の上の手を見た。

 

本当は、どちらでもない。

 

行きたい。

 

でも、怖い。

 

その二つが同時にある。

 

どちらか片方にできない。

 

アイは小さく息を吸った。

 

「怖いです」

 

職員は頷く。

 

「うん」

 

「でも」

 

アイは顔を上げた。

 

「行きたいです」

 

職員は、静かにその言葉を受け止めた。

 

「そっか」

 

アイは少しだけ視線を落とす。

 

「変ですか」

 

「変じゃないよ」

 

職員はすぐに言った。

 

「嬉しいことでも、怖いことはあると思う」

 

アイは黙った。

 

そんなふうに言われると、少しだけ息がしやすくなる。

 

怖いと言っても、行きたいが消えない。

 

行きたいと言っても、怖いが消えない。

 

それでもいいのかもしれない。

 

職員が聞く。

 

「何が怖い?」

 

アイは少し考えた。

 

言葉にすると、余計に形になってしまう気がした。

 

でも、言わなければずっと胸の中で絡まったままだ。

 

「長くいると」

 

アイはゆっくり言った。

 

「帰る場所が二つあるみたいで」

 

職員は黙って聞いている。

 

「でも、本当は一つもないような気もして」

 

声が少しだけ小さくなった。

 

施設。

 

渋谷家。

 

どちらも、自分を追い出したりはしない。

 

でも、どちらにもまだ「ただいま」と言えない。

 

二つあるようで。

 

一つもないようで。

 

アイは、それが怖かった。

 

職員は否定しなかった。

 

「そう感じるんだね」

 

アイは頷く。

 

「はい」

 

「じゃあ、急がずに確かめていこう」

 

「確かめる……」

 

「うん。ここに戻ってくることも。渋谷さんのお家へ行くことも。どちらも、アイちゃんが少しずつ確かめていけばいい」

 

アイはその言葉を、すぐには飲み込めなかった。

 

でも、嫌ではなかった。

 

火曜日。

 

アイは花屋へ向かった。

 

いつもの道。

 

いつもの時間。

 

でも、今日は少しだけ足取りが軽い。

 

土曜日のことを話したい。

 

怖いと言ったこと。

 

でも、行きたいと言えたこと。

 

凛に言ったら、どんな顔をするだろう。

 

店先に凛がいた。

 

アイを見ると、凛が先に言った。

 

「来た」

 

アイは眉を上げる。

 

「今日は私の台詞」

 

「じゃあ言って」

 

アイは少し笑って、言い直した。

 

「来たよ」

 

凛は頷く。

 

「うん」

 

いつものやり取り。

 

それだけで少し落ち着いた。

 

店先の花を少し見たあと、アイは凛に言った。

 

「土曜日、また行きたいって言った」

 

凛の手が、花の札の前で止まる。

 

「うん」

 

「それだけ?」

 

凛はアイを見る。

 

「嬉しい」

 

アイは目を逸らした。

 

「……そっか」

 

頬が少し熱い。

 

けれど、嫌ではなかった。

 

凛は少しだけ首を傾げる。

 

「怖い?」

 

アイは、少し迷ってから答えた。

 

「怖い」

 

「でも来る?」

 

「行きたいから」

 

「うん」

 

凛はそれだけだった。

 

怖いならやめればいいとも言わない。

 

怖くないよとも言わない。

 

ただ、怖いなら怖いんだと受け止める。

 

アイは小さく笑った。

 

「凛ちゃん、怖いって言っても、嫌な顔しないね」

 

「怖いなら、怖いんでしょ」

 

「そういうところだよね」

 

「どこ?」

 

アイは花の方へ視線を戻した。

 

「助かるところ」

 

凛は少しだけ目を瞬かせた。

 

その反応が珍しくて、アイはまた少し笑った。

 

「今のは褒めたんだよ」

 

「分かりづらい」

 

「凛ちゃんに言われたくない」

 

「そう?」

 

「そう」

 

凛は少し考えてから頷いた。

 

「じゃあ、ありがとう」

 

アイは返事に困った。

 

少しだけ照れて、花の札をまっすぐに直す。

 

「どういたしまして」

 

声が、小さく揺れた。

 

その夜。

 

アイは予定表を広げた。

 

火曜日。花屋。

金曜日。花屋。

土曜日。渋谷さんの家。

 

前の土曜日の横には、

 

長かった。嫌じゃなかった。

 

と書いてある。

 

アイは少し迷って、新しい行を書き足した。

 

土曜日。渋谷さんの家。

 

鉛筆の先が止まる。

 

何を書けばいいのか、少しだけ考える。

 

楽しい。

 

それだけではない。

 

怖い。

 

それだけでもない。

 

アイは、ゆっくり書いた。

 

怖い。でも行きたい。

 

怖い、という文字を書いても、予定は消えなかった。

 

行きたい、という文字も、消えなかった。

 

アイはその二つを、同じ行に並べておいた。

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