星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜 作:百合太郎
次の土曜日のことを聞いた時、アイは少しだけ息を止めた。
施設の小さな面談室。
机の上には予定表と、渋谷家との連絡内容が書かれた紙が置かれている。
職員は、いつものように急がずに話した。
「次の土曜日も、渋谷さんのお家に行けることになったよ」
アイは紙を見つめた。
土曜日。
渋谷さんの家。
前に自分で書いた文字と同じ言葉なのに、誰かの口から聞くと、また少し違って聞こえる。
嬉しい。
そう思った。
でも、そのすぐ後ろから、怖さも来た。
「……はい」
「行く?」
職員が聞く。
アイは、今度はあまり迷わなかった。
怖いのは消えていない。
けれど、行かないと言う方が、もっと嫌だった。
「行きます」
職員は頷いた。
「怖いのも、まだある?」
アイは少しだけ視線を落とす。
「あります」
「うん」
職員は、その答えを困った顔で受け取らなかった。
「それも一緒に持って行っていいよ」
アイは顔を上げる。
「一緒に?」
「怖いのを置いてから行こうとしなくていいってこと」
職員は紙を整えながら言った。
「怖いままでも、行きたいなら行っていいよ」
アイは黙った。
怖いままでもいい。
その言葉は、少し不思議だった。
怖いものは隠すものだと思っていた。
笑って、平気そうにして、ちゃんとした顔でしまっておくものだと思っていた。
でも、職員はまるで鞄に入れて持っていけばいいもののように言った。
アイは小さく頷く。
「はい」
翌日の学校で、アイは凛に声をかけた。
「次の土曜日も行くことになった」
凛は顔を上げる。
「うん」
アイは少しだけ眉を寄せた。
「反応薄くない?」
「嬉しい」
「薄い顔で言うね」
「顔は変わらない」
「知ってる」
そう返してから、アイは少しだけ笑った。
前みたいに、凛が何かを隠している感じはしない。
言わないことで守られている時の距離も、まだ少し残っている。
でも、あの薄い紙のような隔たりは、少しだけ柔らかくなっていた。
凛は短く聞いた。
「怖い?」
アイは一瞬だけ止まる。
でも、嘘はつかなかった。
「怖い」
「うん」
「でも、行く」
「うん」
凛はそれ以上、何も言わなかった。
怖いならやめればいいとも言わない。
怖くないよ、と簡単にも言わない。
ただ、怖いと行きたいが同じ場所にあることを、そのまま置いてくれる。
アイは机に手を置いた。
「凛ちゃんってさ」
「うん」
「怖いって言っても、全然困らないよね」
凛は少し考えた。
「怖いなら、怖いんでしょ」
「そういうところだよね」
「どこ?」
「……今はまだ秘密」
「そう」
凛は納得したのかしていないのか分からない顔で頷いた。
アイは少し笑った。
土曜日。
アイは前より少しだけ早く準備を終えていた。
小さなバッグの中に、ハンカチを入れる。
前に渋谷家に置いてきて、ちゃんと戻ってきたハンカチ。
それを入れるだけで、少しだけ心が落ち着いた。
施設の玄関で、職員が予定を確認する。
「今日は前と同じくらいの時間ね」
「はい」
「帰りたくなったら連絡。帰りたくなくなっても、まず相談」
アイは少し目を瞬かせた。
「帰りたくなくなっても?」
「うん。どっちも言っていいよ」
アイは小さく頷いた。
「はい」
渋谷家に着くと、父が店先で花の箱を運んでいた。
凛は横で札を直している。
母は奥から出てきた。
「いらっしゃい、アイちゃん」
「こんにちは」
前よりは、自然に言えた。
父が箱を置いて振り返る。
「今日は二回目だな」
アイは少しだけ固まる。
「数えてるんですか」
「記念すべき二回目」
母がすぐに言った。
「大げさにしない」
父は真面目な顔で頷く。
「普通に、でもちゃんと」
凛が札を持ったまま言った。
「ちょっと多い」
「今日は凛まで厳しいな」
「いつも」
「そうだった」
アイは少しだけ笑った。
大げさにしない。
そう言いながら少しだけ大げさになる父と、それを止める母。
横から短く刺す凛。
そのやり取りが、前より少しだけ分かるようになっていた。
母が聞く。
「先に花を見る? それともお茶にする?」
アイは店先の花を見た。
いつもなら、まず花を見ると言ったと思う。
花は安心する。
店先は、まだ少し外側だから。
でも今日は、アイは少しだけ考えてから言った。
「先に、お茶でもいいですか」
言ってから、自分でも少し驚いた。
奥へ入ることを、自分で選んだ。
母は何も大げさにしなかった。
「もちろん」
凛が少しだけアイを見る。
アイはその視線に気づいて、少し照れた。
「なに?」
「別に」
「今、見た」
「見た」
「認めるんだ」
「うん」
凛はそのまま奥へ向かう。
アイも靴を脱いで上がった。
奥の部屋は、前と同じだった。
テーブル。
湯呑み。
棚の上の小物。
壁のカレンダー。
凛の学校のプリント。
前と同じ。
なのに、前より少しだけ近い。
アイはいつもの湯呑みの前に座った。
母が小さなお菓子を出す。
父は奥で新聞を片づけながら言った。
「今日は普通のお菓子だぞ」
母が振り返る。
「普通じゃないお菓子って何?」
「高級すぎるやつとか」
「買ってないでしょう」
「そうだった」
凛がぼそっと言う。
「普通」
父は満足そうに頷いた。
「そう、普通」
アイは湯呑みを包みながら、その会話を聞いていた。
普通。
その言葉が、この家では少し温かく聞こえる。
お茶のあと、母が台所で何かを準備し始めた。
夕飯ではない。
けれど、父の分と凛の分のお菓子皿を出したり、お茶を淹れ直したりしている。
アイは立ち上がった。
「あの、何か手伝いますか」
母が振り向く。
「じゃあ、お箸出してくれる?」
「お箸、ですか」
「うん。そこの引き出しに入ってる」
アイは引き出しを開けた。
箸が並んでいる。
凛のものらしい箸。
父のもの。
母のもの。
そして、客用の箸。
アイは一瞬、手を止めた。
「私の分も、ですか」
母は不思議そうに、でも自然に答えた。
「いるでしょ。お菓子食べるだけでも」
軽い言葉だった。
何でもないことのように。
でも、アイには何でもなくなかった。
テーブルに箸を並べる。
父の分。
母の分。
凛の分。
自分の分。
そこに、自分の場所が一つできる。
ほんの細い箸が二本置かれただけなのに、アイはしばらくそこから目を離せなかった。
凛が横から言う。
「曲がってる」
アイは我に返る。
「え?」
「アイの箸、少し曲がってる」
「細かい」
「気になる」
「凛ちゃんらしい」
アイは箸をまっすぐに直した。
まっすぐになった箸を見て、少しだけ息を吐く。
そのあと、凛の部屋に入った。
前よりは、足が止まらなかった。
それでも、扉の前では少しだけ迷う。
凛が振り返る。
「入る?」
「うん」
アイは頷いた。
部屋は前とあまり変わっていない。
机の上の本。
窓辺の植物。
きちんと畳まれた布。
少しだけずれたノート。
アイは窓辺の植物を見る。
「前より、変じゃないかも」
凛は床に座りながら言った。
「変じゃないって言った」
「うん。少し信じてる」
凛の目が、ほんの少しだけ開いた。
アイはそれに気づいて、照れ隠しのように窓の外を見た。
しばらく、二人は部屋で静かに過ごした。
凛は本を一冊取り出す。
アイはその表紙を覗き込む。
花の図鑑だった。
「本当に花好きなんだね」
「うん」
「凛ちゃん、好きなものに対しても顔変わらないよね」
「変わる」
「ほんと?」
「たぶん」
「そこは自信ないんだ」
凛は少しだけ考えた。
「自分の顔、見えない」
「正論」
アイは小さく笑った。
笑ったあと、少しだけ黙る。
その沈黙は嫌ではなかった。
嫌ではないからこそ、次の言葉が少し怖かった。
「施設に戻るのが嫌っていうより」
凛が顔を上げる。
アイは膝の上で指を重ねた。
「ここを出るのが嫌なのかもしれない」
凛は少し考える。
「違うの?」
「違う気がする」
アイは窓辺の植物を見たまま言った。
「施設が嫌なわけじゃないの」
「うん」
「職員さんも、ちゃんとしてくれる」
「うん」
「戻ったら、おかえりって言ってくれる」
凛は黙って聞いていた。
アイは言葉を探す。
「でも、ここを出る時も、帰るみたいな気持ちになる」
言ってから、胸のあたりが少し苦しくなった。
言葉にすると、本当にそうなってしまう気がした。
でも、止めなかった。
「帰る場所が二つあるみたいで、怖い」
凛は、すぐには答えなかった。
いつものように即答しないことが、少しだけ意外だった。
凛は考えていた。
そして、ゆっくり口を開く。
「二つあっても――」
そこまで言って、止まった。
アイの指に力が入ったのを見たからだった。
アイは小さく首を振る。
「簡単に言わないで」
凛は黙る。
アイは慌てて言った。
「怒ってるわけじゃない」
「うん」
「でも、簡単じゃない」
「うん」
凛は少しだけ目を伏せた。
「ごめん」
アイは驚いて凛を見た。
凛が謝った。
珍しい。
「……別に、怒ってないって」
「でも、怖いんでしょ」
「うん」
「じゃあ、簡単じゃない」
アイは何も言えなくなった。
凛は短い。
不器用で、たまに突然刺す。
でも、間違えたと思ったら止まる。
今は、そのことが少しだけ嬉しかった。
凛は少し考えてから、言い直した。
「二つあるって、今決めなくていいと思う」
アイは首を傾げる。
「どういうこと?」
「今日は、ここに来た」
「うん」
「あとで、施設に戻る」
「うん」
「火曜日も来る」
「うん」
「それだけでもいいんじゃない」
アイは黙った。
帰る場所。
家。
そう名前をつけなくてもいい。
今すぐ、どちらかを選ばなくてもいい。
今日は来た。
あとで戻る。
火曜日も来る。
それだけ。
それだけなら、少しだけ息ができる気がした。
「凛ちゃんって、たまに逃げ道作るのうまいよね」
「逃げ道?」
「褒めてる」
「分かりづらい」
「お互い様」
凛は少しだけ不思議そうな顔をした。
アイは笑った。
夕方が近づく。
アイは時計を見た。
今日は、前より落ち着いていた。
帰る時間が近いことは、やっぱり少し嫌だった。
でも、もう何も分からないまま沈む感じではなかった。
アイは自分から言った。
「そろそろ、戻る時間ですよね」
母が少し驚いた顔をした。
それから、穏やかに頷く。
「うん」
アイはバッグを持つ。
「今日は、ちゃんと戻れます」
言ってから、少しだけ付け足した。
「嫌じゃないわけじゃないですけど」
母は笑わなかった。
困った顔もしなかった。
「うん。それでいいよ」
凛が聞く。
「火曜日、来る?」
アイは頷く。
「行く」
「うん」
その短いやり取りが、帰る支度の中に置かれる。
アイはそれを、そっと持って帰るような気持ちになった。
帰り道。
凛の母が隣を歩いている。
夕方の道は、前より少し暖かかった。
アイはしばらく黙っていた。
それから、小さく聞いた。
「帰る場所って、決めなきゃだめなんですか」
母は少し考えた。
「急いで決めなくていいと思うよ」
アイは横を見る。
「凛ちゃんも、似たようなこと言ってました」
「そっか」
母は少しだけ笑う。
アイは言ってから、少し照れた。
「親子ですね」
母が目を細める。
「そうかな」
「たぶん」
「凛みたいな言い方」
アイは小さく笑った。
施設に戻ると、職員が迎えてくれた。
「おかえり」
「戻りました」
職員はアイの顔を見る。
「今日はどうだった?」
アイは少し考えた。
前より、言葉を探すのが怖くなくなっている気がした。
「前より、少し普通でした」
職員は首を傾げる。
「普通?」
「はい」
アイはバッグの持ち手を握る。
「でも、帰る場所が二つあるみたいで、少し怖かったです」
職員は静かに聞いていた。
「言えたんだね」
アイは頷く。
「凛ちゃんに」
「そっか」
「でも、今すぐ決めなくていいって言われました」
職員は微笑んだ。
「うん。私もそう思う」
その言葉で、アイは少しだけ肩の力を抜いた。
部屋に戻ると、アイは予定表を広げた。
土曜日。渋谷さんの家。
怖い。でも行きたい。
その下に、新しい行を書く。
帰る場所が二つあるみたい。
まだ決めなくていい。
書いてから、しばらく眺める。
帰る場所、と書くにはまだ早かった。
家、と書くにはもっと怖かった。
だからアイは、その日はただ、火曜日に丸をつけた。
次に行く日がある。
今は、それだけでよかった。