星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第21話 四人目の席

 

 

「次の土曜日、少しだけ時間を延ばしてみる話が出ています」

 

施設の面談室で、職員がそう言った時、アイは膝の上の手を止めた。

 

土曜日。

 

渋谷さんの家。

 

また行ける。

 

その言葉だけなら、嬉しかった。

 

けれど、職員の言葉には続きがあった。

 

「前より、ですか?」

 

「うん。夕方までじゃなくて、夕飯の前後まで」

 

夕飯。

 

その言葉が、少しだけ重く落ちた。

 

アイは、すぐに返事ができなかった。

 

白いご飯。

 

箸を持つ手。

 

食卓の音。

 

食べなければいけない空気。

 

何かを言われたわけではない。

 

けれど、身体のどこかが先に覚えている。

 

職員は、アイの表情を見て声を和らげた。

 

「無理に食べなきゃいけないわけじゃないよ」

 

アイは顔を上げる。

 

「……はい」

 

「渋谷さんのお家にも、食べられるものを確認しながらにしてもらうから」

 

「はい」

 

「食べられる分だけでいいし、食べられなかったら、それも伝えていい」

 

アイは小さく頷いた。

 

食べられなかったら。

 

その言葉を先に置いてもらえるだけで、少しだけ息ができた。

 

けれど、怖さが消えたわけではなかった。

 

食卓。

 

一緒に食べる。

 

それは、店先で花を見ることより、ずっと内側に入る感じがした。

 

同じ頃、渋谷家では、母が施設からの電話を切ったところだった。

 

店の奥で、父と凛が顔を上げる。

 

「今度は、夕飯まで過ごしてみるかもしれないって」

 

父が少し目を開いた。

 

「おお」

 

「大げさにしない」

 

母がすぐに言う。

 

父は両手を少し上げた。

 

「まだ何も言ってない」

 

凛がじっと父を見る。

 

「顔が言ってる」

 

「顔か」

 

父は自分の頬に手を当てた。

 

母は少しだけ笑ってから、すぐに真面目な顔になった。

 

「ただ、食べることが、アイちゃんにとって少し重いかもしれない」

 

凛は母を見る。

 

「重い?」

 

「うん。食卓とか、ご飯とか。そういうものが、簡単じゃないこともあるから」

 

凛は少し考えた。

 

「じゃあ、食べなくてもいい夕飯にする?」

 

母は頷いた。

 

「そう。食べても食べなくてもいい夕飯にする」

 

父が腕を組む。

 

「食べても食べなくてもいい夕飯」

 

「変?」

 

凛が聞く。

 

父は首を横に振った。

 

「いや。いいと思う」

 

母はメモを取る。

 

「白いご飯を中心にしないで、スープとパンと、少しつまめるものにしようかな。小さなオムレツとか、果物とか」

 

凛が言う。

 

「アイ、甘いの普通に好きって言ってた」

 

「じゃあ果物も少し用意しようか」

 

父が頷く。

 

「俺が張り切ると怒られるから、普通にする」

 

母は微笑んだ。

 

「普通に、でもちゃんと」

 

父が指を立てる。

 

「それ、俺の台詞」

 

凛が花の札を直しながら言った。

 

「家の方針」

 

父は少しだけ嬉しそうにした。

 

「なら採用で」

 

学校で、アイは凛にその話をした。

 

昼休み。

 

教室の隅で、凛が本を閉じる。

 

アイは少しだけ声を落とした。

 

「次、夕飯までいるかも」

 

凛は顔を上げる。

 

「うん」

 

アイは眉を寄せた。

 

「また反応薄い」

 

「嬉しい」

 

「その顔で?」

 

「顔はこれ」

 

「知ってる」

 

アイは少し笑った。

 

けれど、その笑いはすぐに薄くなる。

 

「食べられなかったら、どうしよう」

 

凛は少しだけ首を傾げた。

 

「食べなきゃいい」

 

「簡単に言う」

 

「お腹空いたら食べる」

 

「……それも簡単」

 

「難しい?」

 

アイは少し黙った。

 

難しい。

 

そう言うのは、少し恥ずかしかった。

 

でも、嘘ではない。

 

「ちょっと」

 

凛は少し考えた。

 

「じゃあ、ちょっとだけ食べる」

 

アイは思わず凛を見た。

 

「雑じゃない?」

 

「ちょっと難しいなら、ちょっと食べる」

 

「そういう計算なの?」

 

「違う?」

 

アイは笑ってしまった。

 

「違う気がする」

 

でも、少しだけ楽になった。

 

食べるか、食べないか。

 

ちゃんとするか、できないか。

 

そういう大きな線ではなくて、ちょっとだけ。

 

凛の雑な言い方は、時々、逃げ道になる。

 

土曜日。

 

アイは小さなバッグを持って、渋谷家へ向かった。

 

三度目の土曜日。

 

前より少しだけ慣れている。

 

けれど、今日は夕飯がある。

 

そのことを思い出すたびに、足の裏が少し落ち着かなくなった。

 

店先に着くと、凛が花の入った箱を移動していた。

 

母は奥から顔を出す。

 

「いらっしゃい、アイちゃん」

 

「こんにちは」

 

父も店の奥から出てきた。

 

「今日は三回目だな」

 

アイは少しだけ目を細める。

 

「数えてるんですか」

 

「心の中で数えてる」

 

凛が言う。

 

「声に出てる」

 

「出てたか」

 

「出てた」

 

母が父を見る。

 

「大げさにしない」

 

父は真面目な顔で頷いた。

 

「心の中で大げさにする」

 

「それなら、まあ」

 

アイは少し笑った。

 

笑える。

 

そう思って、少しだけ安心した。

 

最初は、いつものように店先の花を見た。

 

ブルースターは変わらずそこにあった。

 

それから、母に声をかけられる。

 

「お茶にしようか」

 

アイは頷いた。

 

「はい」

 

前より、奥へ入る足取りは自然だった。

 

靴を脱いで上がる。

 

テーブルの上には、いつもの湯呑みが置かれている。

 

その横には、小さな皿。

 

今日はお菓子ではなく、夕飯前の果物が少しだけ乗っていた。

 

「無理に食べなくていいからね」

 

母が言う。

 

アイは頷く。

 

「はい」

 

凛が隣に座った。

 

「それ、甘い」

 

「食べたの?」

 

「うん」

 

「味見?」

 

「つまみ食い」

 

母が振り返る。

 

「凛」

 

凛は真顔で言った。

 

「確認」

 

「言い方を変えても、つまみ食いはつまみ食い」

 

父が奥から言う。

 

「確認は大事だな」

 

母がすぐに返す。

 

「あなたも食べたの?」

 

父は黙った。

 

アイは思わず笑った。

 

その笑いで、少しだけ肩の力が抜けた。

 

夕方が近づくと、母が台所に立った。

 

スープの湯気が、部屋の中に少しずつ広がる。

 

アイは立ち上がった。

 

「あの、何か手伝いますか」

 

母は振り向く。

 

「じゃあ、無理しない範囲で、スープのカップを並べてもらえる?」

 

「はい」

 

棚からカップを出す。

 

母に場所を教えてもらいながら、アイはテーブルへ運んだ。

 

一つ目。

 

父の分。

 

二つ目。

 

母の分。

 

三つ目。

 

凛の分。

 

そして、四つ目。

 

アイの手が止まった。

 

自分の分。

 

前に箸を並べた時も、不思議な気持ちになった。

 

でも、今日は違う。

 

これは夕飯の席だった。

 

四人分のカップ。

 

そこに、自分の場所がある。

 

凛が横から言う。

 

「曲がってる」

 

アイははっとする。

 

「見ないでよ」

 

「見える」

 

「細かい」

 

「気になる」

 

アイはカップを少しだけ直した。

 

まっすぐに並ぶ。

 

四つ。

 

それを見ていると、嬉しいのか怖いのか分からなくなった。

 

食卓が整う。

 

野菜のスープ。

 

小さなオムレツ。

 

柔らかいパン。

 

切った果物。

 

白いご飯はなかった。

 

それだけで、アイは少しだけ呼吸がしやすかった。

 

母が椅子を引く。

 

「食べられるものだけでいいよ」

 

アイは反射的に言った。

 

「すみません」

 

母はすぐに首を横に振る。

 

「謝ることじゃないよ」

 

父が言う。

 

「俺も苦手なものはある」

 

凛がすぐに続けた。

 

「お父さん、セロリ嫌い」

 

父が目を見開く。

 

「今ばらすのか」

 

「事実」

 

「食卓で父の弱点を公開するんじゃない」

 

母が笑いをこらえる。

 

「でも本当でしょ」

 

父は少しだけ肩を落とした。

 

「本当です」

 

アイは笑った。

 

その笑いは、食卓の上にふわりと落ちた。

 

少しだけ、怖さが緩む。

 

椅子に座る。

 

でも、すぐに落ち着かなくなる。

 

水を注ごうとした。

皿の位置を直そうとした。

母の方を見て、何か手伝うことを探した。

 

母が静かに言う。

 

「アイちゃん、今日は座ってていいよ」

 

アイの手が止まる。

 

「でも、何かした方が」

 

「しなくてもいいよ」

 

その言葉に、アイはすぐ返せなかった。

 

何もしない。

 

食べるだけ。

 

そこにいるだけ。

 

それが、一番難しい。

 

「何もしないで食べてもいいんですか」

 

声にしてから、胸のあたりが少しだけ固くなった。

 

母は、当たり前のように頷いた。

 

「もちろん」

 

父もすぐに言う。

 

「食べる係も大事だぞ」

 

凛が父を見る。

 

「それ、前にも似たこと言ってた」

 

「大事なことは何回も言う」

 

「お父さんも、たまに逃げ道作る」

 

父は少し驚いた顔をした。

 

「それは褒め言葉か?」

 

凛は少し考える。

 

「たぶん」

 

アイは笑った。

 

母も笑う。

 

食卓の空気が、少しだけ柔らかくなった。

 

「いただきます」

 

母の声に続いて、父と凛も言う。

 

アイは少し遅れて、両手を合わせた。

 

「いただきます」

 

スープを少しだけ飲む。

 

温かい。

 

野菜の匂いがする。

 

パンを小さくちぎる。

 

オムレツをほんの一口。

 

誰も急かさない。

 

誰も量を見ない。

 

母は自分の分を食べている。

父はセロリの話をまだ少し引きずっている。

凛はたまにアイを見る。

 

アイは視線に気づいた。

 

「見てる?」

 

凛は素直に頷く。

 

「見てる」

 

「見ないで」

 

「分かった」

 

凛は本当に目を逸らした。

 

その素直さが少しおかしくて、アイは小さく笑う。

 

「そこはすぐ聞くんだ」

 

「見ないでって言ったから」

 

「うん。言った」

 

アイはもう一口、スープを飲んだ。

 

全部は食べられなかった。

 

でも、少し食べた。

 

それだけだった。

 

それだけなのに、食卓を離れる頃には、少しだけ疲れていた。

 

でも、嫌な疲れではなかった。

 

食後。

 

アイは湯呑みを両手で包んでいた。

 

母が聞く。

 

「どうだった?」

 

アイは少し考えた。

 

楽しかった。

 

怖かった。

 

落ち着かなかった。

 

でも、全部を一度に言うのは難しい。

 

「思ったより、大丈夫でした」

 

母は頷く。

 

「そっか」

 

アイは続ける。

 

「でも、少し怖かったです」

 

「うん」

 

「食べられなかったら、迷惑かなって」

 

父がすぐに言った。

 

「残ったら俺が食べる」

 

母が父を見る。

 

「そういう話だけじゃないでしょ」

 

父は真面目に頷く。

 

「でも、それも本当」

 

凛が言う。

 

「お父さん、頼もしい」

 

父は少しだけ顔を明るくした。

 

「珍しく褒められた」

 

「珍しいから」

 

「そこは言わなくていい」

 

アイはまた笑った。

 

笑ってから、小さく言った。

 

「一緒に食べるの、変じゃなかったです」

 

凛がすぐに返す。

 

「変じゃない」

 

アイは凛を見る。

 

「知ってた」

 

凛は少しだけ目を瞬かせた。

 

アイは湯呑みの中を見つめる。

 

本当は、まだ全部を信じきれたわけではない。

 

でも、凛がそう言うことは、もう少し信じられる。

 

帰る時間になった。

 

今日は夕飯の後だから、いつもより少し遅い。

 

アイはバッグを持つ。

 

寂しい。

 

でも、前より少しだけ落ち着いていた。

 

「そろそろ、戻る時間ですよね」

 

母が頷く。

 

「うん」

 

「今日は、ちゃんと戻ります」

 

自分で言えた。

 

それから、少しだけ迷う。

 

言っていいのか。

 

言ってしまったら、また欲しがっていることになる。

 

でも、言ってくれたら一緒に考えられる。

 

その言葉を思い出す。

 

アイは顔を上げた。

 

「また、食べに来てもいいですか」

 

母はすぐに頷いた。

 

「もちろん」

 

父も笑う。

 

「次はセロリ抜きで」

 

凛が真顔で言った。

 

「最初から入ってない」

 

「そうだった」

 

アイは笑った。

 

帰り道。

 

渋谷母が隣を歩いている。

 

夜の空気は少し冷たい。

 

アイはバッグの持ち手を握りながら言った。

 

「今日は、ご飯じゃなかったから、少し楽でした」

 

「うん」

 

母は静かに頷いた。

 

「いつか、食べられるようになりますかね」

 

母はすぐには答えなかった。

 

急いで励まさない。

 

大丈夫と決めつけない。

 

少し歩いてから、母は言った。

 

「食べられるようになってもいいし、ならなくてもいいと思うよ」

 

アイは顔を上げる。

 

「ならなくても?」

 

「うん。無理に同じじゃなくても、一緒に座ることはできるから」

 

一緒に座る。

 

食べられるかどうかとは別に。

 

その言葉は、今日の食卓の温度に似ていた。

 

アイは小さく頷いた。

 

「……はい」

 

施設に戻ると、職員が玄関で待っていた。

 

「おかえり」

 

「戻りました」

 

職員はアイの顔を見る。

 

「今日はどうだった?」

 

アイは少しだけ考えてから言った。

 

「食べました」

 

職員は微笑む。

 

「そっか」

 

「少しだけですけど」

 

「少しでいいよ」

 

アイは頷く。

 

それから、少しだけ声を小さくした。

 

「また食べに行きたいって言いました」

 

職員の表情が、少し柔らかくなる。

 

「言えたんだね」

 

「はい」

 

言えた。

 

そのことが、まだ少し信じられなかった。

 

部屋に戻ると、アイは予定表を広げた。

 

土曜日。渋谷さんの家。

 

その横に、鉛筆で書く。

 

夕飯。少し食べた。

また食べに行きたい。

 

少し迷って、もう一行書き足した。

 

四人分のカップ。

 

四人分のカップを並べた時、自分の場所がそこにあるみたいで怖かった。

 

でも、片づける時、少しだけ寂しかった。

 

アイはその二つを、同じ行に書く代わりに、小さく丸で囲んだ。

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