星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第22話 嬉しかった日のあと

 

 

翌朝。

 

アイは、予定表の前で鉛筆を持ったまま止まっていた。

 

土曜日。渋谷さんの家。

夕飯。少し食べた。

また食べに行きたい。

 

その下には、小さく丸で囲んだ文字がある。

 

四人分のカップ。

 

昨日の夜は、たしかにそう思った。

 

また食べに行きたい。

 

あのテーブルに座って、スープを少し飲んで、パンを小さくちぎって、凛の父がセロリの話で困っていて、凛が真顔でそれをばらして、凛の母が笑っていた。

 

怖かった。

 

けれど、嫌ではなかった。

 

だから、書いた。

 

書けた。

 

でも、朝になってその文字を見ると、急に指先が冷たくなった。

 

言いすぎたかもしれない。

 

欲しがりすぎたかもしれない。

 

また食べに行きたいなんて、重かったかもしれない。

 

一度座らせてもらっただけなのに。

 

少し食べられただけなのに。

 

それを、次もほしいと言ってしまった。

 

アイは鉛筆の先を紙に近づけた。

 

消すなら、今だと思った。

 

まだ誰にも見せていない。

自分しか知らない。

消してしまえば、なかったことにできる。

 

でも。

 

鉛筆は動かなかった。

 

消したら、昨日嬉しかった自分まで消える気がした。

 

四人分のカップを並べた時、怖かった。

 

でも、片づける時、少しだけ寂しかった。

 

それは本当だった。

 

アイは鉛筆を置いた。

 

消せなかった。

 

朝食の時間になっても、その文字は頭から離れなかった。

 

施設の食卓は、いつも通りだった。

 

いつもの席。

いつもの食器。

いつもの朝の音。

 

誰かが眠そうにあくびをして、別の子が職員に声をかけられている。

 

何も変わっていない。

 

それなのに、アイの箸は少しだけ進まなかった。

 

昨日の食卓を思い出してしまう。

 

渋谷家のスープ。

パンをちぎった指。

四つ並んだカップ。

 

ここにも食卓はある。

 

でも、同じではない。

 

違う。

 

違うことが、嬉しかったのか怖かったのか、自分でも分からない。

 

職員がそっと近づいた。

 

「アイちゃん、無理しなくていいよ」

 

アイは顔を上げた。

 

その言葉は、昨日も聞いた気がした。

 

渋谷家で。

 

食卓で。

 

「すみません」

 

反射的に謝ると、職員は首を横に振った。

 

「謝ることじゃないよ」

 

アイは箸を持ったまま、少しだけ目を伏せた。

 

同じ言葉。

 

違う場所。

 

施設でも、そう言ってもらえる。

 

渋谷家だけではない。

 

ここにも、自分を見てくれる人はいる。

 

それなのに、どうしてまだこんなに揺れるのだろう。

 

「少しだけ食べられそう?」

 

職員が聞く。

 

アイは頷いた。

 

「……はい。少しだけ」

 

ご飯を少しだけ口に運ぶ。

 

昨日ほど楽ではない。

 

けれど、全部無理になるわけでもなかった。

 

少しだけ。

 

その言葉は、最近のアイにとって、大きな逃げ道になっていた。

 

学校では、いつも通りに笑おうとした。

 

教室に入って、友達に挨拶をする。

 

先生に呼ばれれば返事をする。

 

授業の準備も、いつも通り。

 

けれど、凛の前に立つと、いつも通りの顔が少しだけずれた。

 

凛はすぐに見た。

 

「顔、変」

 

アイは眉を寄せる。

 

「凛ちゃんに言われたくない」

 

「いつものより変」

 

「細かいなぁ」

 

凛は首を傾げた。

 

「細かい?」

 

「うん。普通はそこまで見ない」

 

「見える」

 

「それが細かいってこと」

 

凛は少し考えた。

 

「そうかも」

 

アイは小さく笑った。

 

でも、土曜日の話は出せなかった。

 

また食べに行きたい。

 

昨日は言えたのに、今日は言えない。

 

言葉は、朝の予定表の上に置きっぱなしになっているみたいだった。

 

その日の授業で、先生が週末の話をした。

 

「みんな、週末は何をしましたか?」

 

何気ない問いだった。

 

誰も悪くない。

 

クラスメイトたちは、すぐに手を挙げる。

 

「家族で買い物行った!」

 

「お父さんがカレー作った」

 

「お母さんと公園行った」

 

「家で映画見た」

 

家族。

 

買い物。

 

お父さんのカレー。

 

家で見た映画。

 

何気ない言葉が、教室の中にぽんぽんと弾んでいく。

 

アイは笑って聞いていた。

 

ちゃんと、普通の顔で。

 

「星野さんは?」

 

先生に声をかけられて、アイは一瞬だけ止まった。

 

すぐに笑う。

 

「私は、知り合いのお家で少し過ごしました」

 

嘘ではない。

 

でも、全部でもない。

 

先生は優しく頷いた。

 

「そう。いい時間だったのね」

 

「はい」

 

返事はできた。

 

けれど、席に座ったあと、手のひらが少し湿っていることに気づいた。

 

知り合いのお家。

 

そう言えば、何も間違っていない。

 

渋谷さんの家。

 

そう書くと、少し近すぎる。

 

家族。

 

そう言うには、遠すぎる。

 

四人分のカップ。

 

その中に自分の分があった。

 

でも、自分は四人目だったのだろうか。

 

それとも、お客さんだったのだろうか。

 

分からない。

 

分からないことが、少し怖かった。

 

放課後。

 

アイはいつもより早く帰り支度をしていた。

 

花屋の日ではない。

 

だから、帰るだけ。

 

そう思って教室を出ようとした時、凛に呼ばれた。

 

「アイ」

 

アイは振り返る。

 

「なに?」

 

凛は少しだけ黙った。

 

それから、まっすぐ聞いた。

 

「土曜日のこと、言わないの?」

 

アイは固まった。

 

凛は言ったあとで、少しだけ目を伏せた。

 

言いすぎたかもしれないと思ったのかもしれない。

 

アイは鞄の持ち手を握った。

 

「言っていいのか、分からなくなった」

 

「何を?」

 

「また食べに行きたいって言ったこと」

 

凛は黙って聞いている。

 

アイは視線を床に落とした。

 

「昨日は、本当にそう思ったの」

 

声は思ったより小さかった。

 

「でも、朝になったら怖くなった」

 

「うん」

 

「欲しがりすぎたかもって」

 

「うん」

 

「ああいうこと言ったら、困らせるかもって」

 

凛はすぐには返さなかった。

 

その沈黙が、少しだけ怖い。

 

でも、凛は逃げているわけではなかった。

 

考えている。

 

ちゃんと聞いて、考えている。

 

凛はゆっくり口を開いた。

 

「困ったら、お母さんたちが言うと思う」

 

アイは顔を上げる。

 

「そうかな」

 

「うん。言う」

 

「凛ちゃんの家、優しいから言わないかも」

 

凛は少しだけ考えた。

 

「お父さんは、セロリ嫌いって言う」

 

アイは目を瞬かせた。

 

「そこ?」

 

「言う家」

 

アイは、思わず笑ってしまった。

 

変な言い方だった。

 

でも、凛らしい。

 

優しいから何も言わない家ではない。

 

嫌いなものは嫌いと言う。

見ている時は見ていると言う。

変じゃない時は変じゃないと言う。

 

そういう家。

 

アイは少しだけ肩の力を抜いた。

 

「それ、安心していいところなのかな」

 

「たぶん」

 

「たぶんなんだ」

 

「でも、言う」

 

凛ははっきり言った。

 

その短さが、今は少しありがたかった。

 

アイは鞄を持ち直す。

 

「でも、怖くなったの」

 

「うん」

 

「嬉しかったのに」

 

「うん」

 

「嬉しかったことまで、間違いだったみたいになる」

 

凛はアイを見た。

 

その目は、いつものように静かだった。

 

「嬉しかったなら、嬉しかったでいいと思う」

 

アイは何も言えなかった。

 

凛は続ける。

 

「あとから怖くなっても」

 

「怖くなっても?」

 

「うん」

 

「消したくなっても?」

 

「消さなくていい」

 

アイの指が、鞄の持ち手に沈む。

 

消さなくていい。

 

朝、予定表の文字を消せなかった。

 

消したくなったのに、消せなかった。

 

それは、間違いではなかったのかもしれない。

 

凛は少し考えて、言い足した。

 

「怖いって、あとから足してもいいと思う」

 

アイは凛を見つめた。

 

「足す?」

 

「うん」

 

「嬉しかった、の横に?」

 

「うん」

 

凛は本当に、それでいいと思っている顔をしていた。

 

アイは少しだけ息を吐く。

 

「凛ちゃんって、たまに変な救い方するよね」

 

「救ってる?」

 

「たぶん」

 

「たぶんなんだ」

 

アイは少し笑った。

 

「今のは、たぶんでいいの」

 

凛は分かったような、分かっていないような顔で頷いた。

 

翌日の火曜日。

 

アイは予定通り花屋へ向かった。

 

店先には凛がいて、奥には凛の母の姿が見えた。

 

いつもの道。

 

いつもの花。

 

けれど、今日は少しだけ言わなければいけないことがあった。

 

アイは店先で立ち止まる。

 

「来たよ」

 

凛が顔を上げる。

 

「うん」

 

凛の母が奥から出てくる。

 

「いらっしゃい、アイちゃん」

 

アイは小さく頭を下げた。

 

それから、少しだけ迷って言った。

 

「あの」

 

母は急かさずに待った。

 

「この前、また食べに来たいって言ったの、重くなかったですか」

 

母は驚いた顔をしなかった。

 

困った顔もしなかった。

 

ただ、少しだけ柔らかく笑った。

 

「嬉しかったよ」

 

アイは唇を結ぶ。

 

「でも、あとから怖くなりました」

 

「うん」

 

「そういうのも、言っていいですか」

 

母は頷いた。

 

「もちろん」

 

その返事は、とても普通だった。

 

だから余計に、アイの目の奥が少し熱くなった。

 

店の奥から父の声がした。

 

「また食べに来たいは、かなり良い感想だと思うけどな」

 

母が振り返る。

 

「大げさにしない」

 

父が顔を出す。

 

「普通に褒めた」

 

凛が短く言った。

 

「少し大げさ」

 

父は少しだけ肩を落とす。

 

「凛まで」

 

アイは笑った。

 

怖くなったことを言っても、空気は壊れなかった。

 

嬉しかったことも、消えなかった。

 

その日の花屋では、いつも通りに札を直した。

 

凛が水をやる。

 

アイが落ちた葉を拾う。

 

母が店の奥で電話をしている。

 

その声が、少しだけ聞こえた。

 

「はい。本人が不安を言葉にできているので、こちらでも無理をしないようにします」

 

施設の職員との電話だと、アイには分かった。

 

自分のことだ。

 

でも、前ほど怖くなかった。

 

勝手に決められている話ではない。

 

自分が言ったことも、ちゃんとそこに入っている。

 

怖いと言ったことも。

 

また食べに行きたいと言ったことも。

 

どちらも。

 

凛の母は電話を切ったあと、いつも通り店先に戻ってきた。

 

「アイちゃん、今日はお茶だけにする?」

 

アイは少し考えてから頷いた。

 

「はい。今日はお茶だけで」

 

「うん」

 

それでよかった。

 

食べたい日もある。

 

食べたくない日もある。

 

どちらでも、ここにいていい。

 

そう思えたら、少しだけ息がしやすかった。

 

その夜。

 

アイは予定表の前に座った。

 

土曜日。渋谷さんの家。

夕飯。少し食べた。

また食べに行きたい。

四人分のカップ。

 

朝は消そうとした文字。

 

けれど、今は鉛筆を持って、その横に書き足した。

 

あとから怖くなった。

でも、消さない。

 

書いてから、しばらく眺める。

 

嬉しかったことは、あとから怖くなっても、嘘にはならない。

 

アイはまだ、それを全部信じられたわけではなかった。

 

けれど、消さないことならできた。

 

だからその夜、予定表の中で「また食べに行きたい」という文字は、少し震えたまま残っていた。

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