星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜 作:百合太郎
翌朝。
アイは、予定表の前で鉛筆を持ったまま止まっていた。
土曜日。渋谷さんの家。
夕飯。少し食べた。
また食べに行きたい。
その下には、小さく丸で囲んだ文字がある。
四人分のカップ。
昨日の夜は、たしかにそう思った。
また食べに行きたい。
あのテーブルに座って、スープを少し飲んで、パンを小さくちぎって、凛の父がセロリの話で困っていて、凛が真顔でそれをばらして、凛の母が笑っていた。
怖かった。
けれど、嫌ではなかった。
だから、書いた。
書けた。
でも、朝になってその文字を見ると、急に指先が冷たくなった。
言いすぎたかもしれない。
欲しがりすぎたかもしれない。
また食べに行きたいなんて、重かったかもしれない。
一度座らせてもらっただけなのに。
少し食べられただけなのに。
それを、次もほしいと言ってしまった。
アイは鉛筆の先を紙に近づけた。
消すなら、今だと思った。
まだ誰にも見せていない。
自分しか知らない。
消してしまえば、なかったことにできる。
でも。
鉛筆は動かなかった。
消したら、昨日嬉しかった自分まで消える気がした。
四人分のカップを並べた時、怖かった。
でも、片づける時、少しだけ寂しかった。
それは本当だった。
アイは鉛筆を置いた。
消せなかった。
朝食の時間になっても、その文字は頭から離れなかった。
施設の食卓は、いつも通りだった。
いつもの席。
いつもの食器。
いつもの朝の音。
誰かが眠そうにあくびをして、別の子が職員に声をかけられている。
何も変わっていない。
それなのに、アイの箸は少しだけ進まなかった。
昨日の食卓を思い出してしまう。
渋谷家のスープ。
パンをちぎった指。
四つ並んだカップ。
ここにも食卓はある。
でも、同じではない。
違う。
違うことが、嬉しかったのか怖かったのか、自分でも分からない。
職員がそっと近づいた。
「アイちゃん、無理しなくていいよ」
アイは顔を上げた。
その言葉は、昨日も聞いた気がした。
渋谷家で。
食卓で。
「すみません」
反射的に謝ると、職員は首を横に振った。
「謝ることじゃないよ」
アイは箸を持ったまま、少しだけ目を伏せた。
同じ言葉。
違う場所。
施設でも、そう言ってもらえる。
渋谷家だけではない。
ここにも、自分を見てくれる人はいる。
それなのに、どうしてまだこんなに揺れるのだろう。
「少しだけ食べられそう?」
職員が聞く。
アイは頷いた。
「……はい。少しだけ」
ご飯を少しだけ口に運ぶ。
昨日ほど楽ではない。
けれど、全部無理になるわけでもなかった。
少しだけ。
その言葉は、最近のアイにとって、大きな逃げ道になっていた。
学校では、いつも通りに笑おうとした。
教室に入って、友達に挨拶をする。
先生に呼ばれれば返事をする。
授業の準備も、いつも通り。
けれど、凛の前に立つと、いつも通りの顔が少しだけずれた。
凛はすぐに見た。
「顔、変」
アイは眉を寄せる。
「凛ちゃんに言われたくない」
「いつものより変」
「細かいなぁ」
凛は首を傾げた。
「細かい?」
「うん。普通はそこまで見ない」
「見える」
「それが細かいってこと」
凛は少し考えた。
「そうかも」
アイは小さく笑った。
でも、土曜日の話は出せなかった。
また食べに行きたい。
昨日は言えたのに、今日は言えない。
言葉は、朝の予定表の上に置きっぱなしになっているみたいだった。
その日の授業で、先生が週末の話をした。
「みんな、週末は何をしましたか?」
何気ない問いだった。
誰も悪くない。
クラスメイトたちは、すぐに手を挙げる。
「家族で買い物行った!」
「お父さんがカレー作った」
「お母さんと公園行った」
「家で映画見た」
家族。
買い物。
お父さんのカレー。
家で見た映画。
何気ない言葉が、教室の中にぽんぽんと弾んでいく。
アイは笑って聞いていた。
ちゃんと、普通の顔で。
「星野さんは?」
先生に声をかけられて、アイは一瞬だけ止まった。
すぐに笑う。
「私は、知り合いのお家で少し過ごしました」
嘘ではない。
でも、全部でもない。
先生は優しく頷いた。
「そう。いい時間だったのね」
「はい」
返事はできた。
けれど、席に座ったあと、手のひらが少し湿っていることに気づいた。
知り合いのお家。
そう言えば、何も間違っていない。
渋谷さんの家。
そう書くと、少し近すぎる。
家族。
そう言うには、遠すぎる。
四人分のカップ。
その中に自分の分があった。
でも、自分は四人目だったのだろうか。
それとも、お客さんだったのだろうか。
分からない。
分からないことが、少し怖かった。
放課後。
アイはいつもより早く帰り支度をしていた。
花屋の日ではない。
だから、帰るだけ。
そう思って教室を出ようとした時、凛に呼ばれた。
「アイ」
アイは振り返る。
「なに?」
凛は少しだけ黙った。
それから、まっすぐ聞いた。
「土曜日のこと、言わないの?」
アイは固まった。
凛は言ったあとで、少しだけ目を伏せた。
言いすぎたかもしれないと思ったのかもしれない。
アイは鞄の持ち手を握った。
「言っていいのか、分からなくなった」
「何を?」
「また食べに行きたいって言ったこと」
凛は黙って聞いている。
アイは視線を床に落とした。
「昨日は、本当にそう思ったの」
声は思ったより小さかった。
「でも、朝になったら怖くなった」
「うん」
「欲しがりすぎたかもって」
「うん」
「ああいうこと言ったら、困らせるかもって」
凛はすぐには返さなかった。
その沈黙が、少しだけ怖い。
でも、凛は逃げているわけではなかった。
考えている。
ちゃんと聞いて、考えている。
凛はゆっくり口を開いた。
「困ったら、お母さんたちが言うと思う」
アイは顔を上げる。
「そうかな」
「うん。言う」
「凛ちゃんの家、優しいから言わないかも」
凛は少しだけ考えた。
「お父さんは、セロリ嫌いって言う」
アイは目を瞬かせた。
「そこ?」
「言う家」
アイは、思わず笑ってしまった。
変な言い方だった。
でも、凛らしい。
優しいから何も言わない家ではない。
嫌いなものは嫌いと言う。
見ている時は見ていると言う。
変じゃない時は変じゃないと言う。
そういう家。
アイは少しだけ肩の力を抜いた。
「それ、安心していいところなのかな」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「でも、言う」
凛ははっきり言った。
その短さが、今は少しありがたかった。
アイは鞄を持ち直す。
「でも、怖くなったの」
「うん」
「嬉しかったのに」
「うん」
「嬉しかったことまで、間違いだったみたいになる」
凛はアイを見た。
その目は、いつものように静かだった。
「嬉しかったなら、嬉しかったでいいと思う」
アイは何も言えなかった。
凛は続ける。
「あとから怖くなっても」
「怖くなっても?」
「うん」
「消したくなっても?」
「消さなくていい」
アイの指が、鞄の持ち手に沈む。
消さなくていい。
朝、予定表の文字を消せなかった。
消したくなったのに、消せなかった。
それは、間違いではなかったのかもしれない。
凛は少し考えて、言い足した。
「怖いって、あとから足してもいいと思う」
アイは凛を見つめた。
「足す?」
「うん」
「嬉しかった、の横に?」
「うん」
凛は本当に、それでいいと思っている顔をしていた。
アイは少しだけ息を吐く。
「凛ちゃんって、たまに変な救い方するよね」
「救ってる?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
アイは少し笑った。
「今のは、たぶんでいいの」
凛は分かったような、分かっていないような顔で頷いた。
翌日の火曜日。
アイは予定通り花屋へ向かった。
店先には凛がいて、奥には凛の母の姿が見えた。
いつもの道。
いつもの花。
けれど、今日は少しだけ言わなければいけないことがあった。
アイは店先で立ち止まる。
「来たよ」
凛が顔を上げる。
「うん」
凛の母が奥から出てくる。
「いらっしゃい、アイちゃん」
アイは小さく頭を下げた。
それから、少しだけ迷って言った。
「あの」
母は急かさずに待った。
「この前、また食べに来たいって言ったの、重くなかったですか」
母は驚いた顔をしなかった。
困った顔もしなかった。
ただ、少しだけ柔らかく笑った。
「嬉しかったよ」
アイは唇を結ぶ。
「でも、あとから怖くなりました」
「うん」
「そういうのも、言っていいですか」
母は頷いた。
「もちろん」
その返事は、とても普通だった。
だから余計に、アイの目の奥が少し熱くなった。
店の奥から父の声がした。
「また食べに来たいは、かなり良い感想だと思うけどな」
母が振り返る。
「大げさにしない」
父が顔を出す。
「普通に褒めた」
凛が短く言った。
「少し大げさ」
父は少しだけ肩を落とす。
「凛まで」
アイは笑った。
怖くなったことを言っても、空気は壊れなかった。
嬉しかったことも、消えなかった。
その日の花屋では、いつも通りに札を直した。
凛が水をやる。
アイが落ちた葉を拾う。
母が店の奥で電話をしている。
その声が、少しだけ聞こえた。
「はい。本人が不安を言葉にできているので、こちらでも無理をしないようにします」
施設の職員との電話だと、アイには分かった。
自分のことだ。
でも、前ほど怖くなかった。
勝手に決められている話ではない。
自分が言ったことも、ちゃんとそこに入っている。
怖いと言ったことも。
また食べに行きたいと言ったことも。
どちらも。
凛の母は電話を切ったあと、いつも通り店先に戻ってきた。
「アイちゃん、今日はお茶だけにする?」
アイは少し考えてから頷いた。
「はい。今日はお茶だけで」
「うん」
それでよかった。
食べたい日もある。
食べたくない日もある。
どちらでも、ここにいていい。
そう思えたら、少しだけ息がしやすかった。
その夜。
アイは予定表の前に座った。
土曜日。渋谷さんの家。
夕飯。少し食べた。
また食べに行きたい。
四人分のカップ。
朝は消そうとした文字。
けれど、今は鉛筆を持って、その横に書き足した。
あとから怖くなった。
でも、消さない。
書いてから、しばらく眺める。
嬉しかったことは、あとから怖くなっても、嘘にはならない。
アイはまだ、それを全部信じられたわけではなかった。
けれど、消さないことならできた。
だからその夜、予定表の中で「また食べに行きたい」という文字は、少し震えたまま残っていた。