星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第23話 少しずつ、当たり前に

 

 

火曜日の欄に、丸がついた。

 

金曜日の欄にも、丸がついた。

 

その下にある土曜日の欄には、少し迷った跡のある丸がついた。

 

予定表の紙は、少しずつ賑やかになっていった。

 

最初は、書くだけで指先が震えた。

 

火曜日。花屋。

金曜日。花屋。

土曜日。渋谷さんの家。

 

どの文字も、少し近すぎて、少し怖かった。

 

けれど、何度も書くうちに、鉛筆の線は少しだけ濃くなった。

 

火曜日には、花屋の前で一度だけ深呼吸をした。

 

金曜日には、花の札を直す手が少し早くなった。

 

土曜日には、四人分のカップを並べる手が、前より少しだけ震えなくなった。

 

全部が平気になったわけではない。

 

でも、全部が怖いだけでもなくなった。

 

火曜日。

 

アイはいつもの道を歩いて、花屋の前で立ち止まった。

 

店先には、凛がいた。

 

鉢の向きを直している。

 

アイの足音に気づくと、凛が顔を上げた。

 

「来た」

 

アイは眉を上げる。

 

「今日は私の台詞」

 

「じゃあ言って」

 

アイは少しだけ笑った。

 

「来たよ」

 

「うん」

 

そのやり取りも、もう何度目か分からない。

 

けれど、飽きるほどではなかった。

 

むしろ、それを言えることが少し安心だった。

 

アイはランドセルを店先の端に置き、花の札を手に取った。

 

最初の頃は、ガーベラとアスターをよく間違えた。

 

凛に指摘されて、言い訳をして、また間違えた。

 

けれど今日は違った。

 

アイは迷わず、札を正しい鉢の前に差した。

 

凛がじっと見る。

 

「今日は合ってる」

 

アイは胸を張る。

 

「成長したでしょ」

 

「少し」

 

「そこは素直に褒めて」

 

凛は少し考えた。

 

「かなり」

 

「急に雑」

 

「違った?」

 

「違わないけど、雑」

 

凛は首を傾げた。

 

アイは笑って、次の札を持つ。

 

その笑い声を聞いて、店の奥から凛の母が顔を出した。

 

「今日も助かるね」

 

アイは少しだけ姿勢を正す。

 

「これくらいなら」

 

凛がすぐに言う。

 

「座るのも手伝い」

 

「それ、まだ言うんだ」

 

「大事だから」

 

「凛ちゃんのお父さんみたい」

 

凛は少しだけ目を瞬かせた。

 

「似てる?」

 

「たまに」

 

「そっか」

 

凛は真面目に受け取った。

 

アイは少しだけ笑いながら、落ちた葉を拾った。

 

金曜日。

 

その日は、朝から少し食欲がなかった。

 

理由は、よく分からない。

 

嫌なことがあったわけではない。

 

施設の朝食も、職員の声も、学校での授業も、いつも通りだった。

 

ただ、身体の中のどこかが少し重かった。

 

花屋に行く時間になっても、それは残っていた。

 

店に着くと、凛の母がお茶を出してくれた。

 

小さなお菓子も添えられている。

 

いつもの湯呑み。

 

いつもの席。

 

アイは湯呑みを両手で包んだ。

 

温かい。

 

けれど、お菓子には手が伸びなかった。

 

凛の母はそれを見て、何も言わずに少しだけ待った。

 

それから、いつもの調子で聞いた。

 

「今日はお茶だけにする?」

 

アイは一瞬、謝ろうとした。

 

でも、その言葉は喉の手前で止まった。

 

謝ることじゃない。

 

何度か言われた言葉を、思い出した。

 

「……はい。今日は、お茶だけで」

 

「うん」

 

それだけだった。

 

食べないのか、と聞かれなかった。

 

どうしたの、と詰められなかった。

 

せっかく出したのに、と言われなかった。

 

お菓子の皿は、そこに置かれたままだった。

 

湯呑みも、いつも通りそこにあった。

 

食べない日にも、湯呑みは出てきた。

 

食べない日にも、席は片づけられなかった。

 

アイはそのことに、少しだけ驚いた。

 

何かができた日だけ、ここにいていいわけではないのだと、少しずつ知っていく。

 

凛が隣で、自分のお菓子を見ていた。

 

「食べない?」

 

アイは少し身構えた。

 

「うん。今日はちょっと」

 

「そっか」

 

凛はそれだけ言って、自分の分を食べた。

 

それもまた、普通だった。

 

普通すぎて、少し救われた。

 

別の土曜日。

 

その日は、スープを半分飲めた。

 

野菜の匂いはまだ少し緊張する。

 

食卓に座ると、身体のどこかが勝手に強ばる。

 

それでも、湯気の立つスープを少しずつ口に運ぶと、思っていたより温かかった。

 

半分。

 

たった半分。

 

でも、アイには十分だった。

 

父がそれを見て、少しだけ嬉しそうにした。

 

「お、今日はスープ係が仕事したな」

 

母がすぐに言う。

 

「係にしない」

 

凛が真顔で続けた。

 

「食べる係」

 

父が指を鳴らす。

 

「そう、それ」

 

アイはスプーンを持ったまま顔を上げる。

 

「係が増えていくんですけど」

 

「出世だな」

 

「出世なんですか」

 

凛が首を横に振る。

 

「たぶん違う」

 

「凛ちゃん、そこは味方して」

 

「してる」

 

「今のしてた?」

 

「してた」

 

父が笑う。

 

母も小さく笑った。

 

アイはスプーンを見下ろして、それからもう一口飲んだ。

 

大げさに褒められなかった。

 

全部食べなさいとも言われなかった。

 

半分飲めたことを、誰も事件みたいに扱わなかった。

 

それが、ありがたかった。

 

凛の部屋にも、少しずつ慣れていった。

 

最初は入口に立っていた。

 

次は、部屋の端に座った。

 

その次は、窓辺の植物の隣に自然に腰を下ろした。

 

凛は本を開いていて、アイはその横で花の図鑑を覗き込む。

 

会話がない時間もあった。

 

それが、気まずくない日も増えた。

 

ある日、アイは自分の座っている場所を見て、小さく言った。

 

「ここ、定位置みたいになってる」

 

凛は本から顔を上げる。

 

「嫌?」

 

アイは少し考えた。

 

「嫌じゃない」

 

「じゃあ、そこ」

 

「そんな簡単に決まるの?」

 

「座ってるから」

 

「凛ちゃん理論だ」

 

「違う?」

 

アイは部屋の端を見た。

 

自分の膝。

窓辺の小さな植物。

凛の本。

床に落ちた光。

 

ここに座っている。

 

ただそれだけ。

 

でも、何度も座るうちに、そこは少しだけ自分の形を覚えていく気がした。

 

「……違わないかも」

 

アイがそう言うと、凛は短く頷いた。

 

「うん」

 

順調な日ばかりではなかった。

 

ある火曜日。

 

アイは花屋の前まで来て、足が止まった。

 

店先には、いつもの花が並んでいる。

 

ブルースターもあった。

 

凛もいた。

 

いつもと同じ。

 

それなのに、今日は中へ入るのが怖かった。

 

理由は分からない。

 

分からないまま、足だけが止まった。

 

凛が店先から気づく。

 

「アイ」

 

アイは笑おうとして、うまくいかなかった。

 

凛は近づきすぎない場所で止まる。

 

「入らないの?」

 

アイは小さく頷いた。

 

「今日は、少し怖い」

 

言えた。

 

それだけで、少しだけ息が震えた。

 

凛はすぐに答えなかった。

 

少し考えてから言う。

 

「外で見る?」

 

アイは顔を上げる。

 

「……うん」

 

その日は、店の中へは入らなかった。

 

店先で花を見た。

 

凛が隣に立って、花の名前を短く教えた。

 

アイはそれを聞いて、時々頷いた。

 

お茶も飲まなかった。

 

奥へも行かなかった。

 

それでも、帰る時に凛が言った。

 

「来た」

 

アイは少しだけ驚く。

 

「入ってないよ」

 

「でも来た」

 

凛の声はいつも通りだった。

 

アイは店先の花を見た。

 

来た。

 

確かに、来た。

 

入れない日にも、来たことは消えなかった。

 

その夜、予定表の火曜日の横に、アイは小さく書いた。

 

怖かった。外で見た。

 

少し迷って、その横に丸をつけた。

 

施設でも、話すことは少しずつ増えた。

 

職員が面談室で聞く。

 

「最近、渋谷さんのお家はどう?」

 

アイはすぐには答えなかった。

 

楽しいです。

 

それだけでは足りない。

 

怖いです。

 

それだけでもない。

 

アイは少し考えてから言った。

 

「行ける日と、怖い日があります」

 

職員は頷く。

 

「うん」

 

「でも、怖い日でも、行きたい日はあります」

 

「そっか」

 

「前より、言えるようになった気がします」

 

職員の表情が柔らかくなった。

 

「それは、大きいね」

 

アイは少しだけ目を伏せた。

 

大きい。

 

自分では、まだよく分からない。

 

でも、前なら言えなかったことを、今は少し言える。

 

怖い。

行きたい。

今日は食べられない。

また食べたい。

外で見たい。

部屋に入りたい。

帰るのが嫌。

でも、戻る。

 

どれも、言ったら終わってしまう言葉だと思っていた。

 

でも、言っても終わらないことがある。

 

それを、少しずつ覚えている途中だった。

 

渋谷家でも、アイのものが少しずつ増えていった。

 

湯呑みは、もう誰も迷わなかった。

 

母が棚から自然に出す。

 

父が洗い終わった湯呑みを見て言う。

 

「アイちゃん用の湯呑み、洗った?」

 

母が頷く。

 

「洗ったよ」

 

凛が父を見る。

 

「お父さんが確認すると大げさ」

 

父は真面目な顔をする。

 

「普通に確認した」

 

母が笑う。

 

「普通に、でもちゃんと?」

 

「そう」

 

父は堂々と頷いた。

 

凛は少しだけ考える。

 

「なら、まあ」

 

父は安心したように息を吐いた。

 

「凛の審査が厳しい」

 

「普通」

 

「普通が一番難しいな」

 

母は棚に湯呑みを戻しながら、小さく笑った。

 

湯呑みの場所は、いつの間にか決まっていた。

 

棚の右側。

 

凛の湯呑みの隣ではない。

 

でも、遠くもない。

 

そこに置かれている。

 

それだけのことが、少しずつ当たり前になっていった。

 

大人たちの話も、少しずつ増えていた。

 

火曜日と金曜日の訪問が続く間に、電話の回数が増えた。

 

帰る時間のこと。

 

食事のこと。

 

疲れた時のこと。

 

凛の気持ちのこと。

 

アイが怖くなった時のこと。

 

施設の職員は記録をつけた。

 

渋谷母は、聞いたことをメモに残した。

 

渋谷父は、難しい顔をして頷きながら、時々母に言葉を確認した。

 

全部がすぐ決まるわけではなかった。

 

どれも、急いで答えを出していい話ではなかった。

 

けれど、話し合うたびに、紙の上の予定は少しずつ線を持ち始めた。

 

点だったものが、ゆっくり繋がっていく。

 

そんな日々だった。

 

ある夜。

 

凛は店の奥で、母がメモを整理しているのを見ていた。

 

テーブルの上には、施設との連絡内容を書いた紙がいくつか並んでいる。

 

凛はしばらく黙っていたが、やがて聞いた。

 

「アイ、前より普通?」

 

母は手を止める。

 

「少しずつね」

 

「少しずつ」

 

「うん」

 

凛は椅子に座ったまま、足元を見た。

 

「普通って、時間かかるんだね」

 

母は頷いた。

 

「うん。特に、怖かったことが多い子にはね」

 

凛はしばらく黙る。

 

それから言った。

 

「じゃあ、待つ」

 

母は凛を見る。

 

「うん」

 

凛は顔を上げる。

 

「でも、待つだけ?」

 

母は少しだけ目を細めた。

 

凛の声は、ただ焦っているだけではなかった。

 

待つことを覚えたうえで、それでも何かできないかを探している声だった。

 

母はメモを一枚重ねた。

 

「待つだけじゃないよ」

 

「うん」

 

「今度、施設の人ともう一度ちゃんと話す」

 

凛は少しだけ背筋を伸ばした。

 

「何を?」

 

母は、少し間を置いて答えた。

 

「これからのこと」

 

凛はその言葉を、黙って受け取った。

 

これから。

 

まだ形のない言葉。

 

でも、もうただ遠くにあるだけの言葉ではなかった。

 

その夜。

 

アイは予定表を広げていた。

 

火曜日。花屋。丸。

金曜日。花屋。丸。

土曜日。渋谷さんの家。丸。

 

その下には、いろいろな言葉が増えていた。

 

食べられなかった。丸。

少し怖かった。丸。

外で見た。丸。

スープ半分。丸。

凛の部屋。丸。

行けた。丸。

 

丸は、楽しかった日にだけつけるものではなくなった。

 

うまく笑えた日だけでもない。

 

食べられた日だけでもない。

 

怖かった日にも、アイは小さな丸をつけた。

 

そこに行ったから。

 

そこから帰ってきたから。

 

言えたから。

 

消さなかったから。

 

アイは鉛筆を置き、予定表を見つめる。

 

食べられた日だけが、進んだ日ではなかった。

 

笑えた日だけが、大丈夫だった日でもなかった。

 

怖かった日にも、丸はついた。

 

それでも行った。

 

それでも帰ってきた。

 

その繰り返しが、少しずつ予定を日常に変えていった。

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