星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜 作:百合太郎
「これからのことって、アイのこと?」
凛は、テーブルの上に置かれた紙を見ながら聞いた。
母は、施設との連絡内容を書いたメモを重ねていた手を止める。
「うん」
「家族のこと?」
その言葉だけ、少しだけ空気の中で重くなった。
母はすぐには答えなかった。
凛も、急かさなかった。
少し前なら、凛はもっとまっすぐに言っていたかもしれない。
アイがうちに来ればいい。
アイがうちの子になればいい。
そうすれば、きっと解決する。
けれど今は、そう簡単には言えなかった。
アイが怖いと言った日を知っている。
帰りたくないと言った声を知っている。
食卓で、四人分のカップを見つめていた顔を知っている。
だから、凛は待った。
母は静かに言った。
「そこも、話すことになると思う」
凛は少しだけ目を伏せる。
「アイに言う?」
「まだ、全部は言わない」
「なんで?」
「言葉が大きすぎるから」
母は、メモの端を指でそっと押さえた。
「家族になれるかもしれない、って言葉は、きっと嬉しい。でも、もし途中で形にならなかったら、アイちゃんをすごく傷つける」
凛は黙った。
アイが傷つく顔は、もう何度も見た。
笑おうとして笑えなかった顔。
来なかった、と言った声。
聞かない、と一歩下がった時の笑顔。
そういうものを、また見たいとは思わなかった。
「じゃあ、形にしてから?」
「形に近づけながら、少しずつ」
「少しずつ」
「うん」
凛はその言葉を繰り返した。
最近、よく聞く言葉だった。
少しずつ。
怖くても。
揺れても。
戻ってきても。
また行っても。
その全部を急がずに重ねていく。
母は凛を見る。
「凛も、急ぎたくなると思う」
「うん」
「でも、アイちゃんの速さに合わせることも大事」
凛は小さく頷いた。
「分かってる」
少し間を置いて、言い直す。
「前よりは」
母は微笑んだ。
「うん。前よりは、分かってると思う」
火曜日。
アイはいつもの道を歩いて、花屋の前で凛に見つかった。
「来た」
凛が先に言う。
アイは眉を上げた。
「今日は私が先に言おうと思ったのに」
「遅かった」
「勝負なの?」
「たぶん」
「そこ曖昧なんだ」
アイは笑って、店先にランドセルを置いた。
いつもの湯呑み。
いつもの花。
いつもの凛の短い返事。
そういうものが、少しずつ積み上がっている。
凛の母が奥から顔を出した。
「アイちゃん、お茶でいい?」
「はい。今日はお茶だけで」
言ってから、アイは少しだけ自分の声を確かめた。
今日はお茶だけ。
以前なら、何も言えずに無理をしていたかもしれない。
あるいは、出されたものに手をつけられなくて、あとから謝ったかもしれない。
でも今は、先に言えた。
凛の母は、ただ頷いた。
「うん。お茶にしよう」
それだけだった。
だから、アイも少しだけ肩の力を抜けた。
店先で花の札を直している時、アイはふと思い出したように言った。
「最近、予定表に丸つけてるんだ」
凛が顔を上げる。
「丸?」
「うん。行けた日とか、怖かったけど行った日とか」
「怖かった日も?」
「うん」
アイは札をまっすぐに差し直す。
「凛ちゃんが、あとから足してもいいって言ったから」
「言った」
「だから、丸もつけた」
凛は少しだけ考えた。
「いいと思う」
「雑」
「でも、いい」
アイは笑った。
その笑い声は軽かった。
けれど、凛はその言葉を覚えていた。
怖かった日にも丸。
うまくできた日だけではなく。
笑えた日だけでもなく。
行けなかった日さえ、外で花を見られたなら丸。
それは、アイが自分で作った小さな印だった。
施設でも、同じような記録が少しずつ増えていた。
職員は、机の上に並んだ紙を確認していた。
火曜日、来園後に花屋へ。
金曜日、お茶のみ。
土曜日、夕食まで滞在。少量摂取。
別の火曜日、店内には入らず店先で過ごす。
怖さを言語化。
帰所時間を守る。
帰りたくない気持ちを伝える。
また行きたいと話す。
職員はペンを持ったまま、少しだけ目を伏せた。
安定とは、揺れないことではない。
揺れても、戻ってこられること。
怖いと伝えて、戻る。
食べられないと伝えて、また行く。
帰りたくないと言って、それでも帰る。
そして次の予定に丸をつける。
アイは、少しずつそれを覚え始めていた。
二度目の面談の日。
施設の面談室には、以前と同じように机と椅子が置かれていた。
けれど、空気は少しだけ違っていた。
最初の時より、渋谷家の父と母の表情に硬さは少ない。
それでも、軽い話をしに来たわけではなかった。
職員が資料を机に置く。
「ここ数週間の様子を共有させてください」
母が頷いた。
「お願いします」
職員は、手元の紙を見ながら話し始めた。
「アイさんは、渋谷さんのお宅で過ごすことを、少しずつ自分の言葉で受け取れるようになっています」
父と母は黙って聞いていた。
「怖い日もあります。食べられない日もあります。店先まで来て、中へ入れなかった日もありました」
母の指が、膝の上で少しだけ動く。
職員は続ける。
「けれど、そのことを隠さずに伝えられるようになってきています。怖いなら怖い。今日は食べられない。外で見たい。そう言えるようになっている」
父が静かに頷いた。
「それは、こちらでも感じています」
母も続けた。
「無理に食べさせることはしていません。お茶だけの日もあります。店先だけの日もあります」
少し間を置いて、母は言った。
「でも、そういう日にも、来てくれたことは大事にしたいと思っています」
職員は、その言葉を聞いてゆっくり頷いた。
父が口を開く。
「家の中でも、少しずつ自然になってきました」
そこで一度、言葉を切る。
「ただ、自然に見えるからこそ、こちらが気を抜いてはいけないとも思っています」
職員の目が、父の方を向いた。
「と、言いますと」
父は少し考えた。
「アイちゃんが笑っているから大丈夫、と決めつけたくないんです。食べたから平気、とも思いたくない。逆に、食べられなかったからだめ、でもないと思っています」
母は静かに父を見る。
父は続けた。
「普通に過ごせる時間が増えてきたからこそ、普通に見える努力をアイちゃんだけにさせたくないんです」
面談室に、少しだけ沈黙が落ちた。
職員は柔らかく頷いた。
「その視点は、とても大切だと思います」
職員は資料を一枚めくった。
「凛さんの様子はいかがですか」
母は顔を上げる。
「凛は、アイちゃんが来ることを喜んでいます」
父も頷いた。
「ただ、我慢していることがないかは、こちらも見ていく必要があると思っています」
職員は静かに言う。
「はい。凛さんが“良い子として受け入れ続ける”形になってしまうのも、避けたいところです」
母の表情が少し引き締まった。
「凛にも、嫌なことがあれば言っていいと伝えています」
「実際には、何か言っていますか」
母は少しだけ考えた。
「困っている、とは言いません。ただ、待つことを覚えようとしているように見えます」
父が小さく笑う。
「凛にとっても、簡単なことではないと思います」
母は頷く。
「だから、凛の気持ちも置き去りにはしません」
職員はペンで小さくメモを取った。
「ありがとうございます」
しばらく、紙をめくる音だけがした。
それから、母がゆっくりと顔を上げた。
「このまま、ただ定期的に遊びに来るだけでいいのか、考えるようになりました」
職員は黙って聞いている。
母は言葉を選びながら続けた。
「もちろん、今の関わりを大事にしていることに変わりはありません。でも、火曜日と金曜日、土曜日、夕飯までの時間。そういうものが積み重なる中で、私たちも考えずにはいられなくなりました」
父が母の隣で頷く。
母は深く息を吸った。
「私たちは、将来的にアイちゃんを家族として迎えることも、真剣に考えています」
その言葉が、面談室の中に落ちた。
軽い言葉ではなかった。
思いつきでも、勢いでもなかった。
何度も飲み込んで、何度も考えて、それでも残った言葉だった。
父が続ける。
「一時的に助けたい、ではなくて」
一度、そこで言葉を切る。
「一緒に暮らすことも含めて、責任を持って考えたいと思っています」
職員はすぐには返事をしなかった。
厳しい顔ではない。
けれど、優しさだけで頷く顔でもなかった。
「お気持ちは受け止めます」
職員は静かに言った。
「ただ、ここから先はさらに慎重に進める必要があります」
「はい」
母と父は同時に頷いた。
「アイさん本人の意思確認が必要です。実のお母様側の状況確認も必要になります。関係機関との調整もあります」
職員は一つずつ、丁寧に挙げていく。
「一緒に暮らす前に、段階的な滞在も必要です。凛さんを含めたご家庭全体の確認も必要です。そして、アイさんが途中で怖くなった時に、戻れる道を残しておくことも必要になります」
母はしっかりと聞いていた。
父も、茶化すことなく真剣に頷いている。
職員は少しだけ声を落とした。
「家族という言葉は、アイさんにとって大きすぎるかもしれません」
「はい」
母は静かに答えた。
「だから、まずは“もっと長く過ごす選択肢”として、本人に近づけていくのがよいと思います」
父が聞く。
「具体的には」
「定期的な土曜日滞在は継続してよいと思います。夕飯までの日も、本人の様子を見ながら増やしていく。必要であれば、半日ではなく、午前から夕方までを試すことも考えられます」
職員は、紙に視線を落とした。
「そのうえで、アイさんにはこう伝えたいと思います」
母が少しだけ身を乗り出す。
「渋谷さんのお家で過ごす時間を、もう少し増やすこともできるかもしれない」
父と母は黙って聞く。
「でも、嫌なら進めない。怖くなったら止まっていい。そういう形で」
母は深く頷いた。
「お願いします」
父も言う。
「こちらも、そのつもりで準備します」
職員は小さく頷き返した。
「これは、早く進めるための話ではありません」
「はい」
「アイさんが、自分で選べるようにするための話です」
母の目が少しだけ揺れた。
「はい」
その言葉を、母は大事に受け取った。
その夜。
凛は、リビングの椅子に座っていた。
父と母が帰ってきてから、ずっと聞きたかったことがある。
でも、言葉を選んでいた。
母が湯呑みを置く。
「施設の人と話してきたよ」
凛は顔を上げる。
「うん」
父が隣に座った。
「すぐに何かが決まったわけじゃない」
「うん」
母は、凛の目を見て言う。
「でも、アイちゃんが渋谷の家で過ごす時間を、少し増やせるかもしれない」
凛の目が少しだけ開いた。
「来られる日、増える?」
「増やせるかもしれない」
「かもしれない」
「うん。まだ決まりじゃない」
凛は少しだけ唇を結んだ。
でも、前ほど強く不満を出さなかった。
「アイに聞くんだよね」
母は頷く。
「うん。一番大事だから」
「じゃあ、待つ」
母は小さく微笑んだ。
「ありがとう」
凛は少しだけ首を横に振る。
「でも、何もしない待つじゃない」
母は凛を見る。
凛は真面目な顔で言った。
「来たら、普通にする」
父が少し笑う。
「それが一番難しいかもな」
凛は父を見る。
「普通に、でもちゃんと」
父は一瞬、驚いたような顔をした。
それから、少しだけ嬉しそうに笑った。
「そうだな」
母も静かに頷く。
「それが一番だね」
一方、施設では。
アイが夕食後、片づけを手伝おうとしていた時、職員に声をかけられた。
「アイちゃん、今度また少し話したいことがあります」
アイの手が止まる。
前なら、その言葉だけで胸が冷えた。
何か決まったのか。
何か悪いことをしたのか。
そう思って、笑顔を作っていた。
けれど、今は少し違った。
アイは職員を見る。
「渋谷さんのことですか?」
職員は頷いた。
「うん」
アイは小さく息を吸った。
怖さはある。
それでも、逃げ出したいだけではなかった。
「悪い話ですか?」
「違うよ」
職員はすぐに答えた。
そのやり取りに、アイは少しだけ既視感を覚えた。
でも、今度は次の言葉が自分から出た。
「じゃあ、いい話かどうかは、まだ分からない話?」
職員は少し驚いたように目を開き、それから微笑んだ。
「そうだね。アイちゃんが決めていい話」
決めていい。
その言葉は、まだ怖い。
でも、前よりは少しだけ聞ける。
アイは予定表の丸を思い出した。
怖かった日にも、丸はついた。
食べられなかった日にも、丸はついた。
外で見ただけの日にも、丸はついた。
怖くても、消えなかった。
だから、アイは小さく頷いた。
「聞きます」