星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

25 / 56
第24話 大人たちの二度目の席

 

 

「これからのことって、アイのこと?」

 

凛は、テーブルの上に置かれた紙を見ながら聞いた。

 

母は、施設との連絡内容を書いたメモを重ねていた手を止める。

 

「うん」

 

「家族のこと?」

 

その言葉だけ、少しだけ空気の中で重くなった。

 

母はすぐには答えなかった。

 

凛も、急かさなかった。

 

少し前なら、凛はもっとまっすぐに言っていたかもしれない。

 

アイがうちに来ればいい。

 

アイがうちの子になればいい。

 

そうすれば、きっと解決する。

 

けれど今は、そう簡単には言えなかった。

 

アイが怖いと言った日を知っている。

 

帰りたくないと言った声を知っている。

 

食卓で、四人分のカップを見つめていた顔を知っている。

 

だから、凛は待った。

 

母は静かに言った。

 

「そこも、話すことになると思う」

 

凛は少しだけ目を伏せる。

 

「アイに言う?」

 

「まだ、全部は言わない」

 

「なんで?」

 

「言葉が大きすぎるから」

 

母は、メモの端を指でそっと押さえた。

 

「家族になれるかもしれない、って言葉は、きっと嬉しい。でも、もし途中で形にならなかったら、アイちゃんをすごく傷つける」

 

凛は黙った。

 

アイが傷つく顔は、もう何度も見た。

 

笑おうとして笑えなかった顔。

 

来なかった、と言った声。

 

聞かない、と一歩下がった時の笑顔。

 

そういうものを、また見たいとは思わなかった。

 

「じゃあ、形にしてから?」

 

「形に近づけながら、少しずつ」

 

「少しずつ」

 

「うん」

 

凛はその言葉を繰り返した。

 

最近、よく聞く言葉だった。

 

少しずつ。

 

怖くても。

 

揺れても。

 

戻ってきても。

 

また行っても。

 

その全部を急がずに重ねていく。

 

母は凛を見る。

 

「凛も、急ぎたくなると思う」

 

「うん」

 

「でも、アイちゃんの速さに合わせることも大事」

 

凛は小さく頷いた。

 

「分かってる」

 

少し間を置いて、言い直す。

 

「前よりは」

 

母は微笑んだ。

 

「うん。前よりは、分かってると思う」

 

火曜日。

 

アイはいつもの道を歩いて、花屋の前で凛に見つかった。

 

「来た」

 

凛が先に言う。

 

アイは眉を上げた。

 

「今日は私が先に言おうと思ったのに」

 

「遅かった」

 

「勝負なの?」

 

「たぶん」

 

「そこ曖昧なんだ」

 

アイは笑って、店先にランドセルを置いた。

 

いつもの湯呑み。

 

いつもの花。

 

いつもの凛の短い返事。

 

そういうものが、少しずつ積み上がっている。

 

凛の母が奥から顔を出した。

 

「アイちゃん、お茶でいい?」

 

「はい。今日はお茶だけで」

 

言ってから、アイは少しだけ自分の声を確かめた。

 

今日はお茶だけ。

 

以前なら、何も言えずに無理をしていたかもしれない。

 

あるいは、出されたものに手をつけられなくて、あとから謝ったかもしれない。

 

でも今は、先に言えた。

 

凛の母は、ただ頷いた。

 

「うん。お茶にしよう」

 

それだけだった。

 

だから、アイも少しだけ肩の力を抜けた。

 

店先で花の札を直している時、アイはふと思い出したように言った。

 

「最近、予定表に丸つけてるんだ」

 

凛が顔を上げる。

 

「丸?」

 

「うん。行けた日とか、怖かったけど行った日とか」

 

「怖かった日も?」

 

「うん」

 

アイは札をまっすぐに差し直す。

 

「凛ちゃんが、あとから足してもいいって言ったから」

 

「言った」

 

「だから、丸もつけた」

 

凛は少しだけ考えた。

 

「いいと思う」

 

「雑」

 

「でも、いい」

 

アイは笑った。

 

その笑い声は軽かった。

 

けれど、凛はその言葉を覚えていた。

 

怖かった日にも丸。

 

うまくできた日だけではなく。

 

笑えた日だけでもなく。

 

行けなかった日さえ、外で花を見られたなら丸。

 

それは、アイが自分で作った小さな印だった。

 

施設でも、同じような記録が少しずつ増えていた。

 

職員は、机の上に並んだ紙を確認していた。

 

火曜日、来園後に花屋へ。

 

金曜日、お茶のみ。

 

土曜日、夕食まで滞在。少量摂取。

 

別の火曜日、店内には入らず店先で過ごす。

 

怖さを言語化。

 

帰所時間を守る。

 

帰りたくない気持ちを伝える。

 

また行きたいと話す。

 

職員はペンを持ったまま、少しだけ目を伏せた。

 

安定とは、揺れないことではない。

 

揺れても、戻ってこられること。

 

怖いと伝えて、戻る。

 

食べられないと伝えて、また行く。

 

帰りたくないと言って、それでも帰る。

 

そして次の予定に丸をつける。

 

アイは、少しずつそれを覚え始めていた。

 

二度目の面談の日。

 

施設の面談室には、以前と同じように机と椅子が置かれていた。

 

けれど、空気は少しだけ違っていた。

 

最初の時より、渋谷家の父と母の表情に硬さは少ない。

 

それでも、軽い話をしに来たわけではなかった。

 

職員が資料を机に置く。

 

「ここ数週間の様子を共有させてください」

 

母が頷いた。

 

「お願いします」

 

職員は、手元の紙を見ながら話し始めた。

 

「アイさんは、渋谷さんのお宅で過ごすことを、少しずつ自分の言葉で受け取れるようになっています」

 

父と母は黙って聞いていた。

 

「怖い日もあります。食べられない日もあります。店先まで来て、中へ入れなかった日もありました」

 

母の指が、膝の上で少しだけ動く。

 

職員は続ける。

 

「けれど、そのことを隠さずに伝えられるようになってきています。怖いなら怖い。今日は食べられない。外で見たい。そう言えるようになっている」

 

父が静かに頷いた。

 

「それは、こちらでも感じています」

 

母も続けた。

 

「無理に食べさせることはしていません。お茶だけの日もあります。店先だけの日もあります」

 

少し間を置いて、母は言った。

 

「でも、そういう日にも、来てくれたことは大事にしたいと思っています」

 

職員は、その言葉を聞いてゆっくり頷いた。

 

父が口を開く。

 

「家の中でも、少しずつ自然になってきました」

 

そこで一度、言葉を切る。

 

「ただ、自然に見えるからこそ、こちらが気を抜いてはいけないとも思っています」

 

職員の目が、父の方を向いた。

 

「と、言いますと」

 

父は少し考えた。

 

「アイちゃんが笑っているから大丈夫、と決めつけたくないんです。食べたから平気、とも思いたくない。逆に、食べられなかったからだめ、でもないと思っています」

 

母は静かに父を見る。

 

父は続けた。

 

「普通に過ごせる時間が増えてきたからこそ、普通に見える努力をアイちゃんだけにさせたくないんです」

 

面談室に、少しだけ沈黙が落ちた。

 

職員は柔らかく頷いた。

 

「その視点は、とても大切だと思います」

 

職員は資料を一枚めくった。

 

「凛さんの様子はいかがですか」

 

母は顔を上げる。

 

「凛は、アイちゃんが来ることを喜んでいます」

 

父も頷いた。

 

「ただ、我慢していることがないかは、こちらも見ていく必要があると思っています」

 

職員は静かに言う。

 

「はい。凛さんが“良い子として受け入れ続ける”形になってしまうのも、避けたいところです」

 

母の表情が少し引き締まった。

 

「凛にも、嫌なことがあれば言っていいと伝えています」

 

「実際には、何か言っていますか」

 

母は少しだけ考えた。

 

「困っている、とは言いません。ただ、待つことを覚えようとしているように見えます」

 

父が小さく笑う。

 

「凛にとっても、簡単なことではないと思います」

 

母は頷く。

 

「だから、凛の気持ちも置き去りにはしません」

 

職員はペンで小さくメモを取った。

 

「ありがとうございます」

 

しばらく、紙をめくる音だけがした。

 

それから、母がゆっくりと顔を上げた。

 

「このまま、ただ定期的に遊びに来るだけでいいのか、考えるようになりました」

 

職員は黙って聞いている。

 

母は言葉を選びながら続けた。

 

「もちろん、今の関わりを大事にしていることに変わりはありません。でも、火曜日と金曜日、土曜日、夕飯までの時間。そういうものが積み重なる中で、私たちも考えずにはいられなくなりました」

 

父が母の隣で頷く。

 

母は深く息を吸った。

 

「私たちは、将来的にアイちゃんを家族として迎えることも、真剣に考えています」

 

その言葉が、面談室の中に落ちた。

 

軽い言葉ではなかった。

 

思いつきでも、勢いでもなかった。

 

何度も飲み込んで、何度も考えて、それでも残った言葉だった。

 

父が続ける。

 

「一時的に助けたい、ではなくて」

 

一度、そこで言葉を切る。

 

「一緒に暮らすことも含めて、責任を持って考えたいと思っています」

 

職員はすぐには返事をしなかった。

 

厳しい顔ではない。

 

けれど、優しさだけで頷く顔でもなかった。

 

「お気持ちは受け止めます」

 

職員は静かに言った。

 

「ただ、ここから先はさらに慎重に進める必要があります」

 

「はい」

 

母と父は同時に頷いた。

 

「アイさん本人の意思確認が必要です。実のお母様側の状況確認も必要になります。関係機関との調整もあります」

 

職員は一つずつ、丁寧に挙げていく。

 

「一緒に暮らす前に、段階的な滞在も必要です。凛さんを含めたご家庭全体の確認も必要です。そして、アイさんが途中で怖くなった時に、戻れる道を残しておくことも必要になります」

 

母はしっかりと聞いていた。

 

父も、茶化すことなく真剣に頷いている。

 

職員は少しだけ声を落とした。

 

「家族という言葉は、アイさんにとって大きすぎるかもしれません」

 

「はい」

 

母は静かに答えた。

 

「だから、まずは“もっと長く過ごす選択肢”として、本人に近づけていくのがよいと思います」

 

父が聞く。

 

「具体的には」

 

「定期的な土曜日滞在は継続してよいと思います。夕飯までの日も、本人の様子を見ながら増やしていく。必要であれば、半日ではなく、午前から夕方までを試すことも考えられます」

 

職員は、紙に視線を落とした。

 

「そのうえで、アイさんにはこう伝えたいと思います」

 

母が少しだけ身を乗り出す。

 

「渋谷さんのお家で過ごす時間を、もう少し増やすこともできるかもしれない」

 

父と母は黙って聞く。

 

「でも、嫌なら進めない。怖くなったら止まっていい。そういう形で」

 

母は深く頷いた。

 

「お願いします」

 

父も言う。

 

「こちらも、そのつもりで準備します」

 

職員は小さく頷き返した。

 

「これは、早く進めるための話ではありません」

 

「はい」

 

「アイさんが、自分で選べるようにするための話です」

 

母の目が少しだけ揺れた。

 

「はい」

 

その言葉を、母は大事に受け取った。

 

その夜。

 

凛は、リビングの椅子に座っていた。

 

父と母が帰ってきてから、ずっと聞きたかったことがある。

 

でも、言葉を選んでいた。

 

母が湯呑みを置く。

 

「施設の人と話してきたよ」

 

凛は顔を上げる。

 

「うん」

 

父が隣に座った。

 

「すぐに何かが決まったわけじゃない」

 

「うん」

 

母は、凛の目を見て言う。

 

「でも、アイちゃんが渋谷の家で過ごす時間を、少し増やせるかもしれない」

 

凛の目が少しだけ開いた。

 

「来られる日、増える?」

 

「増やせるかもしれない」

 

「かもしれない」

 

「うん。まだ決まりじゃない」

 

凛は少しだけ唇を結んだ。

 

でも、前ほど強く不満を出さなかった。

 

「アイに聞くんだよね」

 

母は頷く。

 

「うん。一番大事だから」

 

「じゃあ、待つ」

 

母は小さく微笑んだ。

 

「ありがとう」

 

凛は少しだけ首を横に振る。

 

「でも、何もしない待つじゃない」

 

母は凛を見る。

 

凛は真面目な顔で言った。

 

「来たら、普通にする」

 

父が少し笑う。

 

「それが一番難しいかもな」

 

凛は父を見る。

 

「普通に、でもちゃんと」

 

父は一瞬、驚いたような顔をした。

 

それから、少しだけ嬉しそうに笑った。

 

「そうだな」

 

母も静かに頷く。

 

「それが一番だね」

 

一方、施設では。

 

アイが夕食後、片づけを手伝おうとしていた時、職員に声をかけられた。

 

「アイちゃん、今度また少し話したいことがあります」

 

アイの手が止まる。

 

前なら、その言葉だけで胸が冷えた。

 

何か決まったのか。

 

何か悪いことをしたのか。

 

そう思って、笑顔を作っていた。

 

けれど、今は少し違った。

 

アイは職員を見る。

 

「渋谷さんのことですか?」

 

職員は頷いた。

 

「うん」

 

アイは小さく息を吸った。

 

怖さはある。

 

それでも、逃げ出したいだけではなかった。

 

「悪い話ですか?」

 

「違うよ」

 

職員はすぐに答えた。

 

そのやり取りに、アイは少しだけ既視感を覚えた。

 

でも、今度は次の言葉が自分から出た。

 

「じゃあ、いい話かどうかは、まだ分からない話?」

 

職員は少し驚いたように目を開き、それから微笑んだ。

 

「そうだね。アイちゃんが決めていい話」

 

決めていい。

 

その言葉は、まだ怖い。

 

でも、前よりは少しだけ聞ける。

 

アイは予定表の丸を思い出した。

 

怖かった日にも、丸はついた。

 

食べられなかった日にも、丸はついた。

 

外で見ただけの日にも、丸はついた。

 

怖くても、消えなかった。

 

だから、アイは小さく頷いた。

 

「聞きます」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。