星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜 作:百合太郎
施設の面談室は、いつもと同じだった。
小さな机。
向かい合う椅子。
窓から入る午後の光。
机の端に置かれた予定表。
何も特別なものはない。
それなのに、アイは椅子に座っただけで、指先に少し力が入った。
「怖かったら、途中で止めてもいいよ」
向かいに座った職員が、最初にそう言った。
アイは顔を上げる。
「……はい」
「今日の話は、今すぐ何かを決める話じゃないの」
今すぐ何かを決める話じゃない。
その言葉を、アイはゆっくり頭の中で繰り返した。
すぐに決まらない。
すぐに変わらない。
それは安心できる言葉のはずだった。
でも同時に、これから何かが変わるかもしれない、という意味にも聞こえた。
「渋谷さんのお家のことで、少し話します」
職員は、いつものように急がずに言った。
アイは小さく頷く。
「はい」
「ここしばらく、火曜日と金曜日、それから土曜日に、渋谷さんのお家で過ごす日が増えてきたよね」
「はい」
「怖い日もあった。食べられない日もあった。でも、アイちゃんはそのことを言葉にできるようになってきている」
アイは予定表を見た。
丸がいくつも並んでいる。
食べられた日。
食べられなかった日。
外で見た日。
怖かった日。
行けた日。
消さなかった日。
どれも自分が書いたものだった。
「それでね」
職員は、少しだけ声を柔らかくした。
「渋谷さんのお家で過ごす時間を、もう少し増やせるかもしれない」
アイの指が止まった。
もう少し。
増やす。
その言葉だけで、胸の中に二つのものが同時に広がった。
嬉しい。
怖い。
「今は、火曜日と金曜日、土曜日が中心だよね」
「はい」
「そこから、少し長い時間を過ごす日を作ることもできるかもしれない。たとえば、午前から夕方までとか」
午前から夕方まで。
アイは、その時間の長さを想像した。
朝、施設を出る。
昼も渋谷家にいる。
花屋を見る。
奥の部屋でお茶を飲む。
凛の部屋に座る。
夕方になるまで、そこにいる。
それは、今までよりずっと長い。
嬉しいと思った。
その瞬間、怖くなった。
「夕飯までの日を増やすとか」
職員の言葉に、アイはわずかに息を止めた。
夕飯。
四人分のカップ。
スープ。
パン。
凛の父のセロリの話。
また食べに行きたい。
そう書いた文字が、頭の中で浮かんだ。
職員は続ける。
「でも、アイちゃんが嫌なら進めない」
アイは職員を見る。
「嫌なら……」
「うん。途中で怖くなったら、止まれる。やっぱり今まで通りがいい、でもいい」
「私が決めていいんですか」
思わず聞いていた。
職員は頷く。
「アイちゃんのことだからね」
アイちゃんのこと。
その言葉が、少し不思議だった。
自分のこと。
でも、自分で決めることに慣れていない。
決められて、合わせて、笑って、ちゃんとしていればよかった。
その方が楽だった。
誰かに迷惑をかけない。
誰かを困らせない。
誰かの期待からはみ出さない。
けれど今は、自分に聞かれている。
どうしたいか。
どこにいたいか。
どれくらい、そこにいたいか。
アイは膝の上の手を見つめた。
「それって」
声が、少し掠れた。
職員は急かさない。
「うん」
アイは、言っていいのか分からなかった。
言葉にしたら、戻れなくなりそうだった。
けれど、もう頭の中には浮かんでしまっている。
渋谷家で過ごす時間が増える。
午前から夕方までいる。
夕飯までいる。
もっと、もっと長く。
それは。
「いつか」
アイは唇を結び、それでも続けた。
「いつか、帰らなくてもよくなるってことですか」
面談室の空気が、少しだけ静かになった。
言ってしまった。
アイは自分の言葉に、自分で怖くなった。
帰らなくてもよくなる。
施設に戻らない。
渋谷家に残る。
そこにいる。
凛の家に。
凛の父と母がいる家に。
自分の湯呑みがある家に。
四人分のカップを並べた家に。
その未来が、ほんの少しだけ形を持ってしまった。
アイは職員の顔を見られなかった。
職員は、すぐには答えなかった。
その沈黙は、否定ではなかった。
でも、簡単な肯定でもなかった。
「今すぐ、そういう話ではないよ」
アイは目を伏せた。
そうだ。
分かっている。
そんなに簡単な話ではない。
分かっているのに、胸のどこかが小さく沈んだ。
けれど、職員はそこで終わらせなかった。
「でも」
アイは、ゆっくり顔を上げる。
「これからの暮らし方を考える中で、そういう可能性をまったく考えない話でもない」
「可能性……」
「うん」
職員は慎重に言葉を置いた。
「だからこそ、急がないで話しているの」
アイは何も言えなかった。
ありえないわけではない。
でも、決まっているわけでもない。
そこにあるのは、まだ形になっていない未来だった。
触れたら壊れそうで。
触れなかったら消えてしまいそうで。
アイは膝の上の手を握った。
「私が」
職員は静かに待っている。
「私がそれを欲しいって思ったら」
声が震えた。
「悪い子ですか」
職員の表情が、ほんの少しだけ変わった。
驚きではなく、痛みを受け取ったような顔だった。
アイは言葉を止められなかった。
「お母さんがいるのに」
喉の奥が固くなる。
「施設の人たちも、ちゃんとしてくれるのに」
指先に力が入る。
「凛ちゃんの家なのに」
凛の顔が浮かんだ。
まっすぐな目。
短い言葉。
変じゃない。
嫌なら言う。
アイが来ても、私の家じゃなくならない。
たぶん、増えるだけ。
それでも、怖い。
「私が、そこにいたいって思ったら」
アイは、やっと職員を見た。
「悪い子ですか」
職員は、すぐに首を横に振らなかった。
ただ否定して、アイの不安を消そうとはしなかった。
少しだけ間を置いて、職員は言った。
「悪い子じゃないよ」
その言葉は静かだった。
「でも、そう思うくらい大きい話なんだね」
アイは息を止めた。
悪くない。
でも、大きい。
その言い方が、少しだけ胸に入った。
軽くない。
でも、悪いことではない。
「お母さんのことを考える気持ちも、施設のことを考える気持ちも、凛ちゃんのことを考える気持ちも、全部あるんだと思う」
職員は続けた。
「それがあるから、怖いんだと思う」
アイは目を伏せる。
「はい」
「欲しいと思ったからって、誰かを捨てることにはならないよ」
その言葉に、アイの目が少し揺れた。
捨てる。
自分が、母に捨てられたと思った言葉。
今度は自分が、誰かを捨てるのかもしれないと思っていた。
でも、職員はそう言わなかった。
「ただ、そう感じてしまうくらい大きいなら、その怖さも一緒に話していこう」
アイは小さく頷いた。
「……はい」
その日の面談は、そこで終わりにはならなかった。
職員は、これからの流れをもう一度ゆっくり説明した。
すぐに何かが変わるわけではないこと。
渋谷家で過ごす時間を少しだけ増やすことから始めること。
嫌なら止まれること。
怖くなったら伝えていいこと。
決めるのは一度ではないこと。
何度も確認しながら進めること。
アイは全部を理解できたわけではなかった。
でも、一つだけ分かった。
今、自分の前に置かれているのは、命令ではない。
選択肢だった。
翌日。
学校で凛に会った時、アイは少しだけ迷った。
言えない。
全部は、とても言えない。
帰らなくてもよくなるってことですか。
そんなこと、凛に言えない。
言ったら、何かが変わってしまう気がした。
凛は机に座って、いつものように本を開いていた。
でも、アイが近づくとすぐ顔を上げた。
「アイ」
「なに?」
「昨日、話した?」
アイは少しだけ目を逸らす。
「少し」
凛は頷いた。
「うん」
「悪い話じゃなかった」
「うん」
「いい話かどうかは、まだ分からない」
「うん」
凛はそれ以上聞かない。
そのことに、アイは少しだけ救われた。
でも、言えるところまでは言いたかった。
「時間が、増えるかもしれないって」
凛の表情は、ほとんど変わらなかった。
けれど、ほんの少しだけ目が明るくなった気がした。
「うん」
「反応薄い」
「嬉しい」
「顔、変わってないけど」
「変わってる」
「どこが?」
凛は自分の胸のあたりを指さした。
「中」
アイは一瞬黙って、それから小さく笑った。
「凛ちゃんって、たまに変なこと言うよね」
「そう?」
「でも、今のはちょっと分かるかも」
凛は少しだけ首を傾げた。
アイはそれ以上言わなかった。
帰らなくてもよくなるかもしれない。
その言葉は、まだ心の奥にしまったままだった。
放課後。
二人は校庭の端を歩いていた。
花屋の日ではない。
帰る方向が、途中まで同じだった。
アイはずっと迷っていた言葉を、少しだけ出した。
「私がもっと行くようになったら」
凛が横を見る。
「うん」
「凛ちゃんは、嫌じゃない?」
凛はすぐに答えた。
「嫌じゃない」
「即答」
「嫌なら言う」
アイは少しだけ笑った。
「凛ちゃん、言うもんね」
「うん」
「でも」
アイは足元を見る。
「凛ちゃんのお家なのに」
凛は歩く速度を少しだけ緩めた。
「アイが来ても、私の家じゃなくならない」
アイは言葉を失った。
凛は、前を見たまま続ける。
「たぶん、増えるだけ」
「何が?」
「アイがいる時間」
その言葉は、あまりにも簡単だった。
でも、簡単だからこそ、胸の中にまっすぐ落ちた。
増えるだけ。
奪うのではなく。
なくなるのではなく。
凛の家が凛の家ではなくなるのではなく。
そこに、アイがいる時間が増えるだけ。
本当にそうなのだろうか。
まだ信じきれない。
でも、凛はそう思っている。
それだけは、信じられた。
「……そっか」
アイは小さく言った。
凛が横を見る。
「うん」
「凛ちゃん、やっぱりすごいこと簡単に言う」
「難しく言えない」
「それ、前も言ってた」
「うん」
アイは少し笑った。
その笑いは、少しだけ震えていた。
その夜。
渋谷家では、母が凛と向き合っていた。
テーブルの上には、お茶が二つ。
父は少し離れたところで新聞を読んでいるように見えて、たぶん聞いている。
母が言った。
「アイちゃんが来る時間が増えたら、凛の生活も変わるよ」
凛は頷く。
「うん」
「嬉しいだけじゃない日もあるかもしれない」
「うん」
「お母さんやお父さんが、アイちゃんのことで時間を使う日も増えると思う」
「うん」
「凛が、寂しくなる日もあるかもしれない」
そこで、凛は少し黙った。
母は待った。
凛は湯呑みを見つめる。
アイが来る時間が増える。
それは嬉しい。
けれど、母が言うことも分かる。
家の中の時間は、少し変わる。
自分だけが知っていたものを、アイも知るようになる。
凛の部屋。
食卓。
母の声。
父の変な冗談。
それを嫌だと思う日が、絶対にないとは言えない。
凛は少し考えた。
「嫌な日があったら、言う」
母は頷く。
「うん」
「でも、アイが来るのは嫌じゃない」
「そっか」
「アイが来ると、家が少し違う」
母は静かに聞いた。
「どう違う?」
凛は少しだけ目を伏せる。
「少し、増える」
父が新聞の向こうで、ほんの少しだけ動いた。
母は微笑む。
「増える」
「うん」
凛は頷いた。
「アイがいる時間が増える」
母は、その言葉を大事そうに受け取った。
「そうだね」
父が新聞を畳んだ。
「凛」
「なに?」
「嫌な日があったら、父にも言っていいぞ」
凛は父を見る。
「うん」
父は少しだけ真面目な顔をした。
「父も、セロリが嫌なことをちゃんと言った」
母がすぐに言う。
「それとは少し違う」
凛は真面目に頷いた。
「でも、言う家」
父は目を細めた。
「そう。言う家」
凛は少しだけ笑った。
その数日後。
施設の面談室で、職員はもう一度アイに聞いた。
「時間を増やす話、今はどう思ってる?」
アイは膝の上の手を見た。
怖い。
その答えは変わらない。
でも、それだけではなかった。
「怖いです」
「うん」
「でも、嫌じゃないです」
「うん」
職員は急かさずに聞いている。
アイはゆっくり言葉を探した。
「まだ、帰らなくてもいいとか、そういうことは考えると怖いです」
「うん」
「でも」
指先が少し震える。
けれど、今度は隠さなかった。
「少し長くいるのは……試してみたいです」
職員は静かに頷いた。
「分かった」
アイは顔を上げる。
「本当に、途中で帰りたくなってもいいんですか」
「いいよ」
「夕飯までいられなくても」
「いいよ」
「午前から行って、やっぱり怖くなっても」
「その時は、その時に考えよう」
職員は、予定表に新しい枠を書いた。
「じゃあ、次は午前から夕方まで、渋谷さんのお家で過ごしてみる?」
アイはその文字を見た。
午前から夕方まで。
長い。
今までより、ずっと長い。
「夕飯までは、その日の様子で決めよう。途中で帰りたくなったら帰る。疲れたら休む」
アイはゆっくり頷いた。
「はい」
少し間を置いて、自分の声で言う。
「行ってみたいです」
職員は微笑んだ。
「うん」
その日の夜。
アイは予定表を広げた。
火曜日。花屋。
金曜日。花屋。
土曜日。渋谷さんの家。
その下に、新しい行を書く。
土曜日。渋谷さんの家。
午前から夕方まで。
鉛筆の先が止まる。
その下に、小さく書いた。
帰らなくてもよくなるかもしれない、と思った。
書いた瞬間、怖くなった。
早すぎる。
大きすぎる。
こんなことを書いてはいけない気がする。
アイは消しゴムに手を伸ばしかけた。
でも、止まった。
浮かんでしまった気持ちを、なかったことにはできなかった。
アイは、その下にもう一行だけ書いた。
怖かった。
でも、消さない。
その文字は、まだ早すぎる気がした。
けれど、そこには初めて、未来の形のようなものがあった。
アイは予定表を閉じずに、しばらくその行を見つめていた。