星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第25話 もしもの話

 

 

施設の面談室は、いつもと同じだった。

 

小さな机。

 

向かい合う椅子。

 

窓から入る午後の光。

 

机の端に置かれた予定表。

 

何も特別なものはない。

 

それなのに、アイは椅子に座っただけで、指先に少し力が入った。

 

「怖かったら、途中で止めてもいいよ」

 

向かいに座った職員が、最初にそう言った。

 

アイは顔を上げる。

 

「……はい」

 

「今日の話は、今すぐ何かを決める話じゃないの」

 

今すぐ何かを決める話じゃない。

 

その言葉を、アイはゆっくり頭の中で繰り返した。

 

すぐに決まらない。

 

すぐに変わらない。

 

それは安心できる言葉のはずだった。

 

でも同時に、これから何かが変わるかもしれない、という意味にも聞こえた。

 

「渋谷さんのお家のことで、少し話します」

 

職員は、いつものように急がずに言った。

 

アイは小さく頷く。

 

「はい」

 

「ここしばらく、火曜日と金曜日、それから土曜日に、渋谷さんのお家で過ごす日が増えてきたよね」

 

「はい」

 

「怖い日もあった。食べられない日もあった。でも、アイちゃんはそのことを言葉にできるようになってきている」

 

アイは予定表を見た。

 

丸がいくつも並んでいる。

 

食べられた日。

 

食べられなかった日。

 

外で見た日。

 

怖かった日。

 

行けた日。

 

消さなかった日。

 

どれも自分が書いたものだった。

 

「それでね」

 

職員は、少しだけ声を柔らかくした。

 

「渋谷さんのお家で過ごす時間を、もう少し増やせるかもしれない」

 

アイの指が止まった。

 

もう少し。

 

増やす。

 

その言葉だけで、胸の中に二つのものが同時に広がった。

 

嬉しい。

 

怖い。

 

「今は、火曜日と金曜日、土曜日が中心だよね」

 

「はい」

 

「そこから、少し長い時間を過ごす日を作ることもできるかもしれない。たとえば、午前から夕方までとか」

 

午前から夕方まで。

 

アイは、その時間の長さを想像した。

 

朝、施設を出る。

 

昼も渋谷家にいる。

 

花屋を見る。

 

奥の部屋でお茶を飲む。

 

凛の部屋に座る。

 

夕方になるまで、そこにいる。

 

それは、今までよりずっと長い。

 

嬉しいと思った。

 

その瞬間、怖くなった。

 

「夕飯までの日を増やすとか」

 

職員の言葉に、アイはわずかに息を止めた。

 

夕飯。

 

四人分のカップ。

 

スープ。

 

パン。

 

凛の父のセロリの話。

 

また食べに行きたい。

 

そう書いた文字が、頭の中で浮かんだ。

 

職員は続ける。

 

「でも、アイちゃんが嫌なら進めない」

 

アイは職員を見る。

 

「嫌なら……」

 

「うん。途中で怖くなったら、止まれる。やっぱり今まで通りがいい、でもいい」

 

「私が決めていいんですか」

 

思わず聞いていた。

 

職員は頷く。

 

「アイちゃんのことだからね」

 

アイちゃんのこと。

 

その言葉が、少し不思議だった。

 

自分のこと。

 

でも、自分で決めることに慣れていない。

 

決められて、合わせて、笑って、ちゃんとしていればよかった。

 

その方が楽だった。

 

誰かに迷惑をかけない。

 

誰かを困らせない。

 

誰かの期待からはみ出さない。

 

けれど今は、自分に聞かれている。

 

どうしたいか。

 

どこにいたいか。

 

どれくらい、そこにいたいか。

 

アイは膝の上の手を見つめた。

 

「それって」

 

声が、少し掠れた。

 

職員は急かさない。

 

「うん」

 

アイは、言っていいのか分からなかった。

 

言葉にしたら、戻れなくなりそうだった。

 

けれど、もう頭の中には浮かんでしまっている。

 

渋谷家で過ごす時間が増える。

 

午前から夕方までいる。

 

夕飯までいる。

 

もっと、もっと長く。

 

それは。

 

「いつか」

 

アイは唇を結び、それでも続けた。

 

「いつか、帰らなくてもよくなるってことですか」

 

面談室の空気が、少しだけ静かになった。

 

言ってしまった。

 

アイは自分の言葉に、自分で怖くなった。

 

帰らなくてもよくなる。

 

施設に戻らない。

 

渋谷家に残る。

 

そこにいる。

 

凛の家に。

 

凛の父と母がいる家に。

 

自分の湯呑みがある家に。

 

四人分のカップを並べた家に。

 

その未来が、ほんの少しだけ形を持ってしまった。

 

アイは職員の顔を見られなかった。

 

職員は、すぐには答えなかった。

 

その沈黙は、否定ではなかった。

 

でも、簡単な肯定でもなかった。

 

「今すぐ、そういう話ではないよ」

 

アイは目を伏せた。

 

そうだ。

 

分かっている。

 

そんなに簡単な話ではない。

 

分かっているのに、胸のどこかが小さく沈んだ。

 

けれど、職員はそこで終わらせなかった。

 

「でも」

 

アイは、ゆっくり顔を上げる。

 

「これからの暮らし方を考える中で、そういう可能性をまったく考えない話でもない」

 

「可能性……」

 

「うん」

 

職員は慎重に言葉を置いた。

 

「だからこそ、急がないで話しているの」

 

アイは何も言えなかった。

 

ありえないわけではない。

 

でも、決まっているわけでもない。

 

そこにあるのは、まだ形になっていない未来だった。

 

触れたら壊れそうで。

 

触れなかったら消えてしまいそうで。

 

アイは膝の上の手を握った。

 

「私が」

 

職員は静かに待っている。

 

「私がそれを欲しいって思ったら」

 

声が震えた。

 

「悪い子ですか」

 

職員の表情が、ほんの少しだけ変わった。

 

驚きではなく、痛みを受け取ったような顔だった。

 

アイは言葉を止められなかった。

 

「お母さんがいるのに」

 

喉の奥が固くなる。

 

「施設の人たちも、ちゃんとしてくれるのに」

 

指先に力が入る。

 

「凛ちゃんの家なのに」

 

凛の顔が浮かんだ。

 

まっすぐな目。

 

短い言葉。

 

変じゃない。

 

嫌なら言う。

 

アイが来ても、私の家じゃなくならない。

 

たぶん、増えるだけ。

 

それでも、怖い。

 

「私が、そこにいたいって思ったら」

 

アイは、やっと職員を見た。

 

「悪い子ですか」

 

職員は、すぐに首を横に振らなかった。

 

ただ否定して、アイの不安を消そうとはしなかった。

 

少しだけ間を置いて、職員は言った。

 

「悪い子じゃないよ」

 

その言葉は静かだった。

 

「でも、そう思うくらい大きい話なんだね」

 

アイは息を止めた。

 

悪くない。

 

でも、大きい。

 

その言い方が、少しだけ胸に入った。

 

軽くない。

 

でも、悪いことではない。

 

「お母さんのことを考える気持ちも、施設のことを考える気持ちも、凛ちゃんのことを考える気持ちも、全部あるんだと思う」

 

職員は続けた。

 

「それがあるから、怖いんだと思う」

 

アイは目を伏せる。

 

「はい」

 

「欲しいと思ったからって、誰かを捨てることにはならないよ」

 

その言葉に、アイの目が少し揺れた。

 

捨てる。

 

自分が、母に捨てられたと思った言葉。

 

今度は自分が、誰かを捨てるのかもしれないと思っていた。

 

でも、職員はそう言わなかった。

 

「ただ、そう感じてしまうくらい大きいなら、その怖さも一緒に話していこう」

 

アイは小さく頷いた。

 

「……はい」

 

その日の面談は、そこで終わりにはならなかった。

 

職員は、これからの流れをもう一度ゆっくり説明した。

 

すぐに何かが変わるわけではないこと。

 

渋谷家で過ごす時間を少しだけ増やすことから始めること。

 

嫌なら止まれること。

 

怖くなったら伝えていいこと。

 

決めるのは一度ではないこと。

 

何度も確認しながら進めること。

 

アイは全部を理解できたわけではなかった。

 

でも、一つだけ分かった。

 

今、自分の前に置かれているのは、命令ではない。

 

選択肢だった。

 

翌日。

 

学校で凛に会った時、アイは少しだけ迷った。

 

言えない。

 

全部は、とても言えない。

 

帰らなくてもよくなるってことですか。

 

そんなこと、凛に言えない。

 

言ったら、何かが変わってしまう気がした。

 

凛は机に座って、いつものように本を開いていた。

 

でも、アイが近づくとすぐ顔を上げた。

 

「アイ」

 

「なに?」

 

「昨日、話した?」

 

アイは少しだけ目を逸らす。

 

「少し」

 

凛は頷いた。

 

「うん」

 

「悪い話じゃなかった」

 

「うん」

 

「いい話かどうかは、まだ分からない」

 

「うん」

 

凛はそれ以上聞かない。

 

そのことに、アイは少しだけ救われた。

 

でも、言えるところまでは言いたかった。

 

「時間が、増えるかもしれないって」

 

凛の表情は、ほとんど変わらなかった。

 

けれど、ほんの少しだけ目が明るくなった気がした。

 

「うん」

 

「反応薄い」

 

「嬉しい」

 

「顔、変わってないけど」

 

「変わってる」

 

「どこが?」

 

凛は自分の胸のあたりを指さした。

 

「中」

 

アイは一瞬黙って、それから小さく笑った。

 

「凛ちゃんって、たまに変なこと言うよね」

 

「そう?」

 

「でも、今のはちょっと分かるかも」

 

凛は少しだけ首を傾げた。

 

アイはそれ以上言わなかった。

 

帰らなくてもよくなるかもしれない。

 

その言葉は、まだ心の奥にしまったままだった。

 

放課後。

 

二人は校庭の端を歩いていた。

 

花屋の日ではない。

 

帰る方向が、途中まで同じだった。

 

アイはずっと迷っていた言葉を、少しだけ出した。

 

「私がもっと行くようになったら」

 

凛が横を見る。

 

「うん」

 

「凛ちゃんは、嫌じゃない?」

 

凛はすぐに答えた。

 

「嫌じゃない」

 

「即答」

 

「嫌なら言う」

 

アイは少しだけ笑った。

 

「凛ちゃん、言うもんね」

 

「うん」

 

「でも」

 

アイは足元を見る。

 

「凛ちゃんのお家なのに」

 

凛は歩く速度を少しだけ緩めた。

 

「アイが来ても、私の家じゃなくならない」

 

アイは言葉を失った。

 

凛は、前を見たまま続ける。

 

「たぶん、増えるだけ」

 

「何が?」

 

「アイがいる時間」

 

その言葉は、あまりにも簡単だった。

 

でも、簡単だからこそ、胸の中にまっすぐ落ちた。

 

増えるだけ。

 

奪うのではなく。

 

なくなるのではなく。

 

凛の家が凛の家ではなくなるのではなく。

 

そこに、アイがいる時間が増えるだけ。

 

本当にそうなのだろうか。

 

まだ信じきれない。

 

でも、凛はそう思っている。

 

それだけは、信じられた。

 

「……そっか」

 

アイは小さく言った。

 

凛が横を見る。

 

「うん」

 

「凛ちゃん、やっぱりすごいこと簡単に言う」

 

「難しく言えない」

 

「それ、前も言ってた」

 

「うん」

 

アイは少し笑った。

 

その笑いは、少しだけ震えていた。

 

その夜。

 

渋谷家では、母が凛と向き合っていた。

 

テーブルの上には、お茶が二つ。

 

父は少し離れたところで新聞を読んでいるように見えて、たぶん聞いている。

 

母が言った。

 

「アイちゃんが来る時間が増えたら、凛の生活も変わるよ」

 

凛は頷く。

 

「うん」

 

「嬉しいだけじゃない日もあるかもしれない」

 

「うん」

 

「お母さんやお父さんが、アイちゃんのことで時間を使う日も増えると思う」

 

「うん」

 

「凛が、寂しくなる日もあるかもしれない」

 

そこで、凛は少し黙った。

 

母は待った。

 

凛は湯呑みを見つめる。

 

アイが来る時間が増える。

 

それは嬉しい。

 

けれど、母が言うことも分かる。

 

家の中の時間は、少し変わる。

 

自分だけが知っていたものを、アイも知るようになる。

 

凛の部屋。

 

食卓。

 

母の声。

 

父の変な冗談。

 

それを嫌だと思う日が、絶対にないとは言えない。

 

凛は少し考えた。

 

「嫌な日があったら、言う」

 

母は頷く。

 

「うん」

 

「でも、アイが来るのは嫌じゃない」

 

「そっか」

 

「アイが来ると、家が少し違う」

 

母は静かに聞いた。

 

「どう違う?」

 

凛は少しだけ目を伏せる。

 

「少し、増える」

 

父が新聞の向こうで、ほんの少しだけ動いた。

 

母は微笑む。

 

「増える」

 

「うん」

 

凛は頷いた。

 

「アイがいる時間が増える」

 

母は、その言葉を大事そうに受け取った。

 

「そうだね」

 

父が新聞を畳んだ。

 

「凛」

 

「なに?」

 

「嫌な日があったら、父にも言っていいぞ」

 

凛は父を見る。

 

「うん」

 

父は少しだけ真面目な顔をした。

 

「父も、セロリが嫌なことをちゃんと言った」

 

母がすぐに言う。

 

「それとは少し違う」

 

凛は真面目に頷いた。

 

「でも、言う家」

 

父は目を細めた。

 

「そう。言う家」

 

凛は少しだけ笑った。

 

その数日後。

 

施設の面談室で、職員はもう一度アイに聞いた。

 

「時間を増やす話、今はどう思ってる?」

 

アイは膝の上の手を見た。

 

怖い。

 

その答えは変わらない。

 

でも、それだけではなかった。

 

「怖いです」

 

「うん」

 

「でも、嫌じゃないです」

 

「うん」

 

職員は急かさずに聞いている。

 

アイはゆっくり言葉を探した。

 

「まだ、帰らなくてもいいとか、そういうことは考えると怖いです」

 

「うん」

 

「でも」

 

指先が少し震える。

 

けれど、今度は隠さなかった。

 

「少し長くいるのは……試してみたいです」

 

職員は静かに頷いた。

 

「分かった」

 

アイは顔を上げる。

 

「本当に、途中で帰りたくなってもいいんですか」

 

「いいよ」

 

「夕飯までいられなくても」

 

「いいよ」

 

「午前から行って、やっぱり怖くなっても」

 

「その時は、その時に考えよう」

 

職員は、予定表に新しい枠を書いた。

 

「じゃあ、次は午前から夕方まで、渋谷さんのお家で過ごしてみる?」

 

アイはその文字を見た。

 

午前から夕方まで。

 

長い。

 

今までより、ずっと長い。

 

「夕飯までは、その日の様子で決めよう。途中で帰りたくなったら帰る。疲れたら休む」

 

アイはゆっくり頷いた。

 

「はい」

 

少し間を置いて、自分の声で言う。

 

「行ってみたいです」

 

職員は微笑んだ。

 

「うん」

 

その日の夜。

 

アイは予定表を広げた。

 

火曜日。花屋。

金曜日。花屋。

土曜日。渋谷さんの家。

 

その下に、新しい行を書く。

 

土曜日。渋谷さんの家。

午前から夕方まで。

 

鉛筆の先が止まる。

 

その下に、小さく書いた。

 

帰らなくてもよくなるかもしれない、と思った。

 

書いた瞬間、怖くなった。

 

早すぎる。

 

大きすぎる。

 

こんなことを書いてはいけない気がする。

 

アイは消しゴムに手を伸ばしかけた。

 

でも、止まった。

 

浮かんでしまった気持ちを、なかったことにはできなかった。

 

アイは、その下にもう一行だけ書いた。

 

怖かった。

でも、消さない。

 

その文字は、まだ早すぎる気がした。

 

けれど、そこには初めて、未来の形のようなものがあった。

 

アイは予定表を閉じずに、しばらくその行を見つめていた。

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