星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第26話 欲しがるのが怖い

 

 

予定表を閉じられなかった。

 

アイは机の前に座ったまま、鉛筆の跡を見つめていた。

 

土曜日。渋谷さんの家。

午前から夕方まで。

 

その下に、小さく書いた文字。

 

帰らなくてもよくなるかもしれない、と思った。

怖かった。

でも、消さない。

 

消さない。

 

そう決めたはずなのに、目を離すことができなかった。

 

文字は、紙の上にあるだけだった。

 

ただの鉛筆の線。

 

なのに、そこだけが熱を持っているみたいに見えた。

 

帰らなくてもよくなる。

 

それは、言ってはいけないことのような気がした。

 

思ってはいけないことのような気がした。

 

もし、本当にそんな日が来たら。

 

施設に戻らず、渋谷さんの家にいる。

 

凛のいる家に。

 

四人分のカップが並ぶテーブルに。

 

自分の湯呑みが棚に置かれている場所に。

 

そこに、ずっと。

 

アイは息を止めた。

 

嬉しいと思ってしまった。

 

そう気づいた瞬間、怖くなった。

 

私が渋谷さんの家にいたいって思ったら。

 

お母さんを、いらないって言うことになるのかな。

 

胸の奥に、古い痛みが触れた。

 

迎えに来なかった人。

 

来ない方がいいと思ったのに、本当に来なかった人。

 

期待していないふりをしていたのに、来なかったと知った時、何かが崩れた。

 

それなのに今、自分は別の場所を欲しがっている。

 

別の家を。

 

別の食卓を。

 

別の「おかえり」を。

 

アイは鉛筆を握った。

 

消した方がいい。

 

こんなこと、書かない方がいい。

 

でも、消しゴムには手が伸びなかった。

 

消したら、昨日浮かんでしまった未来まで消してしまう気がした。

 

消したら、欲しいと思った自分をまた嘘で塗りつぶすことになる。

 

アイは予定表を開いたまま、机に額を近づけた。

 

眠らなきゃ。

 

そう思っても、なかなか眠れなかった。

 

翌朝。

 

食堂に座ったアイは、いつもより口数が少なかった。

 

箸を持つ手が止まる。

 

食べられないわけではない。

 

けれど、喉の奥が少し狭い。

 

職員がそっと近づいてくる。

 

「眠れなかった?」

 

アイは顔を上げた。

 

すぐに笑おうとして、やめた。

 

「少しだけ」

 

職員は隣に腰を下ろす。

 

「昨日の話?」

 

アイは小さく頷いた。

 

「考えすぎたかもしれません」

 

「考えすぎるくらい、大きい話だったんだと思うよ」

 

その言葉は優しかった。

 

でも、アイはすぐに全部を話せなかった。

 

帰らなくてもよくなるかもしれないと思ったこと。

 

それを、少し嬉しいと思ったこと。

 

欲しいと思った自分が、悪い子みたいに感じたこと。

 

言葉にしたら、もっと本当になってしまいそうだった。

 

「大丈夫?」

 

職員が聞く。

 

アイは少しだけ迷って、首を横に振った。

 

「大丈夫、ではないです」

 

言えた。

 

でも、その先まではまだ言えない。

 

職員は頷いた。

 

「うん。じゃあ、今日は大丈夫じゃない日として過ごそうか」

 

アイは少しだけ目を瞬かせた。

 

「大丈夫じゃない日」

 

「そう。そういう日もあるよ」

 

アイは箸を見た。

 

少しだけ、ご飯を口に運ぶ。

 

味はよく分からなかった。

 

でも、少しだけ食べた。

 

それでよかった。

 

学校に行くと、凛はすぐに気づいた。

 

アイが席に向かう前に、凛が顔を上げる。

 

「顔、変」

 

アイは眉を寄せた。

 

「もう、それ挨拶になってない?」

 

凛は少し考える。

 

「なってるかも」

 

「なってるんだ」

 

「うん」

 

いつものやり取り。

 

それなのに、今日はうまく笑いきれない。

 

凛は見ていた。

 

その目が、少しだけいつもより静かだった。

 

「話、怖かった?」

 

凛が聞く。

 

アイは一瞬だけ止まって、それから頷いた。

 

「うん」

 

「時間増えるの?」

 

「たぶん」

 

「嫌?」

 

「嫌じゃない」

 

「じゃあ?」

 

アイは答えられなかった。

 

嫌じゃない。

 

むしろ、嬉しい。

 

でも、嬉しいから怖い。

 

欲しいから怖い。

 

帰らなくてもよくなるかもしれないと思ったことは、凛にはまだ言えなかった。

 

言ったら、凛はどう思うだろう。

 

凛の家なのに。

 

凛の父と母なのに。

 

自分がそこにいたいなんて言ったら。

 

「ごめん」

 

アイは視線を落とした。

 

「今はまだ、分からない」

 

凛は少しだけ黙った。

 

そして、短く言った。

 

「うん」

 

追ってこなかった。

 

聞き出そうとしなかった。

 

アイはそのことに、少し救われた。

 

でも、救われた分だけ苦しくもなった。

 

凛は待ってくれている。

 

待たせている。

 

そのこともまた、少し怖かった。

 

数日後。

 

土曜日の前日。

 

施設の職員が予定を確認した。

 

「明日、予定通り行く?」

 

アイは予定表を見た。

 

土曜日。渋谷さんの家。

午前から夕方まで。

 

長い。

 

今までより、ずっと長い。

 

朝に近い時間から、夕方まで。

 

そこにいる。

 

「行きます」

 

声は出た。

 

けれど、自分でも少し硬いと分かった。

 

職員も気づいたようだった。

 

「途中で帰ってきてもいいからね」

 

「はい」

 

「夕方までいなきゃいけない日じゃないよ」

 

「はい」

 

アイは頷いた。

 

けれど、胸の中では別の言葉が浮かんでいた。

 

帰ってきてもいいと言われると。

 

帰りたくなくなる自分が、余計に怖くなる。

 

土曜日。

 

午前の空気は、いつもの土曜日と違っていた。

 

アイは小さなバッグを持って、施設の玄関に立った。

 

「行ってきます」

 

そう言う声が、少しだけ硬い。

 

職員はそれに気づいても、特別な顔はしなかった。

 

「行ってらっしゃい。困ったら連絡してね」

 

「はい」

 

外に出る。

 

朝の道を歩く。

 

学校帰りではない。

 

夕方でもない。

 

いつもの花屋へ向かう道なのに、時間が違うだけで、知らない場所へ向かっているみたいだった。

 

これから、午前の渋谷家に入る。

 

昼の渋谷家にいる。

 

夕方まで、そこにいる。

 

それはもう、寄り道ではなかった。

 

遊びに行く、という言葉でも少し足りない。

 

日常の中に入れてもらう。

 

そう考えた瞬間、足が重くなった。

 

花屋の前まで来た。

 

店先には凛がいた。

 

水差しを持って、鉢の間に立っている。

 

アイに気づくと、凛が顔を上げた。

 

「来た」

 

いつもの言葉。

 

いつもの顔。

 

けれど、今日は返せなかった。

 

アイは店の前で足を止めたまま、バッグの持ち手を握った。

 

凛はすぐに気づいた。

 

「怖い?」

 

アイは小さく頷いた。

 

「……うん」

 

凛は水差しを置いた。

 

近づきすぎず、店先の少し手前で止まる。

 

「外で見る?」

 

アイは首を横に振った。

 

「今日は、外で見たら帰りたくなるかも」

 

凛は少し考えた。

 

「じゃあ、入る?」

 

アイはまた首を振りそうになって、止まった。

 

「入ったら、もっと帰りたくなくなるかも」

 

どっちも怖い。

 

外にいても怖い。

 

中に入っても怖い。

 

帰ってしまうのも怖い。

 

ここにいるのも怖い。

 

凛はしばらく黙った。

 

そして、言った。

 

「じゃあ、ここにいる?」

 

アイは顔を上げる。

 

「ここ?」

 

「入る前」

 

アイは店の入口を見た。

 

外でもない。

 

中でもない。

 

入口。

 

凛らしい答えだった。

 

どちらかを選ばなくてもいい場所。

 

アイは少しだけ息を吐いた。

 

「……うん」

 

二人はしばらく、入口の横に立っていた。

 

店の中から花の匂いがする。

 

外からは、朝の道を通る自転車の音が聞こえる。

 

アイはその境目に立ったまま、少しずつ呼吸を整えた。

 

奥から凛の母が出てきた。

 

「おはよう、アイちゃん」

 

アイは少しだけ頭を下げる。

 

「……おはようございます」

 

母は、アイが入口に立っていることを見ても、何も急かさなかった。

 

「今日は、入口から始めようか」

 

アイは目を上げた。

 

「入口から?」

 

「うん。入る前に、少し立っててもいいよ」

 

「迷惑じゃ」

 

「入口に立つくらいで迷惑にはならないよ」

 

その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。

 

すると、奥から父の声がした。

 

「入口係だな」

 

母が振り返る。

 

「係を増やさない」

 

凛が真顔で言う。

 

「でも、入口係」

 

アイは思わず笑った。

 

小さな笑いだった。

 

でも、それだけで入口の空気が少し柔らかくなる。

 

父が顔を出した。

 

「ほら、係としては重要だぞ。入るかどうかを見極める係」

 

母が呆れたように言う。

 

「それは係じゃなくて、アイちゃんが決めること」

 

「そうだった」

 

父はすぐに引っ込んだ。

 

アイは少しだけ笑い続けた。

 

笑えたから、少しだけ足が動いた。

 

「入ります」

 

そう言えた。

 

母は頷く。

 

「うん。いらっしゃい」

 

靴を脱いで、奥へ入る。

 

午前の渋谷家は、前に来た時よりも生活の匂いが濃かった。

 

新聞がまだ少し広げられている。

 

台所から、何かを準備する音が聞こえる。

 

凛の部屋の方には、開いたままの本が見えた。

 

母のエプロンの紐が、少しだけ曲がっている。

 

父の湯呑みが、テーブルの端に残っている。

 

見てはいけないものを見ている気がした。

 

入ってはいけない時間に、入れてもらっている気がした。

 

でも、誰もそう言わない。

 

凛はいつものように、自分の席に座る。

 

母は台所で軽く片づけている。

 

父は奥で新聞を畳みながら、何かを探している。

 

アイだけが、どこに立てばいいのか分からなかった。

 

だから、動いた。

 

「何か手伝います」

 

母が振り向く。

 

「ありがとう。でも、まず座ろうか」

 

「いえ、できます」

 

アイはカップを見つけて並べようとした。

 

皿を持とうとした。

 

テーブルを拭こうとした。

 

母が移動する前に、先回りしようとした。

 

やればやるほど、体が落ち着かない。

 

何かしていないと、ここにいる理由がなくなりそうだった。

 

母は手を止めた。

 

「アイちゃん」

 

声は柔らかい。

 

でも、ちゃんと止める声だった。

 

「少し座ろうか」

 

アイの手が止まる。

 

「でも、何かしてないと」

 

「してないと?」

 

アイは口を閉じた。

 

言ってしまいそうになった。

 

でも、言葉はもうそこまで来ていた。

 

「……いる理由が、なくなりそうで」

 

言った瞬間、視線が落ちた。

 

恥ずかしかった。

 

情けなかった。

 

でも、母は驚かなかった。

 

困った顔もしなかった。

 

「そっか」

 

それだけ言った。

 

それから、椅子を一つ引く。

 

「じゃあ、今は座る理由を作ろう」

 

アイは顔を上げる。

 

「座る理由?」

 

「お茶を飲む。凛と話す。少し休む」

 

母は一つずつ言った。

 

「それも理由でいいよ」

 

アイは椅子を見た。

 

理由。

 

そんなものでいいのだろうか。

 

手伝うことでも、役に立つことでもなく。

 

ただ座って、お茶を飲んで、少し休むこと。

 

それでも理由になるのだろうか。

 

凛が隣から言った。

 

「座る係」

 

母がすぐに見る。

 

「係を増やさない」

 

父が奥から言う。

 

「でも、重要そうだ」

 

母がため息をつく。

 

アイは少しだけ笑ってしまった。

 

笑ったまま、椅子に座った。

 

午前は、思っていたより長かった。

 

長いのに、あっという間でもあった。

 

花を見た。

 

お茶を飲んだ。

 

凛が開いていた花の図鑑を少し覗いた。

 

父が探していた書類を、結局母に見つけてもらっていた。

 

昼に近づくと、台所からスープの匂いがした。

 

アイは少しだけ緊張したが、母はすぐに言った。

 

「今日は軽くでいいよ。食べられそうなら、少しだけ」

 

アイは頷いた。

 

「はい」

 

少しだけ。

 

その言葉があるだけで、食卓の形は少し怖くなくなる。

 

昼過ぎ。

 

凛の部屋に入る頃には、アイは少し疲れていた。

 

いつもの定位置に座る。

 

窓辺の植物の近く。

 

そこに座ることは、もうあまり迷わなくなっていた。

 

でも今日は、落ち着かなかった。

 

部屋の中は静かだった。

 

凛はアイの様子を見て、本を閉じる。

 

「今日は、いつもより怖い?」

 

アイは少しだけ笑おうとして、やめた。

 

「うん」

 

「時間が長いから?」

 

「それもある」

 

「他は?」

 

アイは黙った。

 

窓の外を見る。

 

午前から夕方まで。

 

その時間の長さよりも、もっと怖いものがある。

 

それは、自分の中にあった。

 

「欲しいって思ったから」

 

言葉にした瞬間、胸がきゅっと縮んだ。

 

凛は黙って聞いている。

 

アイは膝の上で指を重ねた。

 

「帰らなくてもよくなるかもしれないって思った」

 

言ってしまった。

 

一番、言うのが怖かった言葉。

 

「そうなったらいいなって、少し思った」

 

声が震えた。

 

「でも、それって悪いことみたいで」

 

凛は何も言わない。

 

アイは続けた。

 

止められなかった。

 

「お母さんがいるのに」

 

一つ。

 

「施設の人たちもいるのに」

 

二つ。

 

「凛ちゃんの家なのに」

 

三つ。

 

どれも、大事なものだった。

 

どれかを選んだら、どれかを捨てることになる気がした。

 

どれかを欲しがったら、誰かを傷つける気がした。

 

アイは、やっと凛を見た。

 

「私、欲しいって思ってもいいのかな」

 

凛は、すぐには答えなかった。

 

即答しなかった。

 

それが少し怖くて、でも少し安心した。

 

簡単な言葉で済まされなかったから。

 

凛はしばらく考えていた。

 

そして、ゆっくり口を開いた。

 

「分からないこともある」

 

アイは視線を落とした。

 

やっぱり。

 

そう思いかけた。

 

でも、凛は続けた。

 

「でも、アイが欲しいって思うのは、アイの気持ちでしょ」

 

アイは顔を上げる。

 

「うん」

 

「それを、なかったことにする方が嫌」

 

アイは何も言えなかった。

 

なかったことにする方が嫌。

 

その言葉は、予定表の文字みたいに静かに残った。

 

凛はさらに言った。

 

「お母さんのことも、施設のことも、私の家のことも、あとで大人が考える」

 

アイは凛を見る。

 

凛にしては、少し長い言葉だった。

 

凛は言葉を探しながら続ける。

 

「でも、アイがどうしたいかは、アイが言わないと分からない」

 

「私が……」

 

「うん」

 

凛は頷いた。

 

「欲しいって言っても、すぐ取らない」

 

アイは瞬きをした。

 

「え?」

 

「言うだけ」

 

凛は真顔だった。

 

「欲しいって言うのと、取るのは違う」

 

アイの中で、何かが少しだけほどけた。

 

欲しいと言う。

 

奪う。

 

同じだと思っていた。

 

自分が欲しいと言えば、誰かから何かを奪うのだと思っていた。

 

でも、凛は違うと言った。

 

言うだけ。

 

まず、言うだけ。

 

アイは視線を落とした。

 

「……凛ちゃんって、やっぱりすごいこと簡単に言う」

 

「難しく言えない」

 

「知ってる」

 

アイは小さく笑った。

 

笑ったら、目の奥が少し熱くなった。

 

その後、アイは凛の母にも少しだけ話した。

 

全部ではない。

 

まだ、全部は無理だった。

 

けれど、台所で母が湯呑みを洗っている横で、アイはぽつりと言った。

 

「今日、欲しがりすぎてる気がして怖かったです」

 

母は手を止めた。

 

アイの方を見る。

 

「欲しいと思ったことを、すぐ何かの答えにしなくていいよ」

 

アイは顔を上げた。

 

「答えにしなくていい?」

 

「うん」

 

母は濡れた手を布巾で拭いた。

 

「まず、そう思ったんだねって置いておけばいい」

 

「置いておく……」

 

「そう。急いで決めなくてもいい」

 

凛の言葉と、少し似ていた。

 

欲しいって言っても、すぐ取らない。

 

まず、そう思ったんだねって置いておく。

 

アイは小さく頷いた。

 

「……はい」

 

夕方。

 

今日は夕飯まではいなかった。

 

午前から夕方まで。

 

その約束だった。

 

母が時計を見る。

 

「今日はここまでにしようか」

 

アイは頷いた。

 

「はい」

 

バッグを持つ。

 

いつもより長くいた。

 

そのぶん、帰る時間はやっぱり重い。

 

けれど、今日は自分で言えた。

 

「帰りたくないです」

 

母は頷く。

 

「うん」

 

凛も黙って聞いている。

 

アイはバッグの持ち手を握る。

 

「でも、今日は帰ります」

 

母は静かに微笑んだ。

 

「うん。ありがとう」

 

ありがとう。

 

帰ることに、そんな言葉が返ってくるとは思っていなかった。

 

帰り道。

 

母が隣を歩いている。

 

夕方の空気は少し冷たくて、昼間よりも静かだった。

 

アイはしばらく黙って歩いた。

 

それから、小さく聞いた。

 

「欲しいって言うのと、奪うのは違いますか」

 

母は少しだけ考えた。

 

「違うと思うよ」

 

「でも、まだよく分かりません」

 

「分からないままでいいよ」

 

アイは母を見る。

 

母は前を向いたまま、穏やかに言った。

 

「分からないから、一緒に考えるんだと思う」

 

「一緒に」

 

「うん」

 

その言葉は、少しだけ温かかった。

 

全部自分で分からなくてもいい。

 

全部自分で決めなくてもいい。

 

でも、自分の気持ちを言うことはできる。

 

言ったあとで、一緒に考えることができる。

 

施設に戻ると、職員が玄関で迎えてくれた。

 

「おかえり」

 

アイは一拍置いて、答える。

 

「戻りました」

 

職員はアイの顔を見る。

 

「今日はどうだった?」

 

アイは少し考えた。

 

長かった。

 

怖かった。

 

でも、それだけではない。

 

「長かったです」

 

「うん」

 

「怖かったです」

 

「うん」

 

「でも、帰ってきました」

 

職員は静かに微笑んだ。

 

「そっか」

 

アイはバッグを持ち直す。

 

「欲しいって思ってもいいのか、まだ分かりません」

 

「うん」

 

「でも、思ったことは消さないでおきます」

 

職員は頷いた。

 

「それでいいと思うよ」

 

部屋に戻ると、アイは予定表を開いた。

 

土曜日。渋谷さんの家。

午前から夕方まで。

 

その横に、ゆっくり書く。

 

欲しいって思った。

怖かった。

でも、消さない。

 

書いてから、少しだけ迷った。

 

丸をつけるかどうか。

 

鉛筆の先が、紙の上で止まる。

 

欲しい、と書くにはまだ怖かった。

 

けれど、何も欲しくなかったふりをするのは、もっと苦しかった。

 

アイはその文字を、丸で囲まなかった。

 

代わりに、消さずに残した。

 

それが、その日の精一杯だった。

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