星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第27話 ここにいたい

 

 

朝。

 

アイは予定表の前で、鉛筆を持ったまま止まっていた。

 

火曜日。花屋。

金曜日。花屋。

土曜日。渋谷さんの家。

 

その下に、前に書いた文字がある。

 

欲しいって思った。

怖かった。

でも、消さない。

 

そこには、まだ丸がついていなかった。

 

他の日には、いくつも丸がある。

 

花屋に行けた日。

怖かったけれど、入口まで行けた日。

食べられなかった日。

外で花だけ見た日。

スープを少し飲めた日。

 

それなのに、この行だけは丸で囲めなかった。

 

欲しい。

 

その文字は、まだ少し熱を持っているみたいだった。

 

アイは鉛筆の先を近づける。

 

丸をつけるだけ。

 

ただ、それだけ。

 

けれど、手は動かなかった。

 

まだ無理。

 

そう思った。

 

でも、消さない。

 

それだけは、昨日から変わっていなかった。

 

「アイちゃん」

 

職員の声がして、アイは顔を上げた。

 

「今日は渋谷さんのお家だね」

 

「はい」

 

「午前から夕方まで。途中で帰ってきてもいいし、予定通りでもいい」

 

「はい」

 

職員は、少しだけ表情を和らげた。

 

「今日は、何かを決めなきゃいけない日じゃないよ」

 

アイは瞬きをした。

 

その言葉が、自分の中にあった重たいものに触れた気がした。

 

「……でも、考えてしまいます」

 

「考えてもいいよ」

 

職員は静かに言った。

 

「決めなくてもいい」

 

考えてもいい。

 

決めなくてもいい。

 

その二つが並んでいることが、少し不思議だった。

 

アイは予定表を閉じる。

 

でも、文字は頭の中に残っていた。

 

欲しいって思った。

 

怖かった。

 

でも、消さない。

 

午前の道を歩く。

 

小さなバッグの中には、ハンカチが入っている。

 

前に渋谷家に置いてきたもの。

 

ちゃんと戻ってきたもの。

 

それを持っていると、少しだけ足元が確かになる。

 

花屋の前には、凛がいた。

 

店先で鉢の向きを直している。

 

アイを見ると、顔を上げた。

 

「来た」

 

アイは少しだけ首を横に振る。

 

「今日は言わせて」

 

凛は頷いた。

 

「うん」

 

アイは息を吸う。

 

「来たよ」

 

「うん」

 

それだけだった。

 

けれど、それだけで少し落ち着いた。

 

前のように入口で止まることはなかった。

 

でも、平気というわけでもない。

 

店の奥から、凛の母が顔を出す。

 

「いらっしゃい、アイちゃん」

 

「おはようございます」

 

「お茶、少ししてからにしようか」

 

「はい」

 

父も奥から顔を出した。

 

「おはよう。今日は午前からだな」

 

アイは少し緊張しながら頷く。

 

「はい。よろしくお願いします」

 

父は軽く手を上げた。

 

「こちらこそ。普通に、でもちゃんと」

 

母がすぐに言う。

 

「自分で言わない」

 

凛も短く続けた。

 

「少し多い」

 

父は胸を押さえる。

 

「朝から厳しい」

 

アイは小さく笑った。

 

見慣れたやり取り。

 

何度も聞いた言葉。

 

その中に自分がいることが、まだ少しだけ怖い。

 

でも、前より逃げたい感じは弱かった。

 

奥へ入る。

 

午前の渋谷家は、前より少しだけ知っている場所になっていた。

 

新聞が畳まれている場所。

 

父の湯呑みが置かれる位置。

 

母のエプロン。

 

凛の部屋から少しはみ出した本。

 

窓から入る光。

 

見てはいけないものではなかった。

 

でも、見慣れてしまうのが怖かった。

 

慣れてしまったら。

 

ここにいることが普通になってしまったら。

 

帰る時、もっと苦しくなるかもしれない。

 

それでも、アイは靴をそろえて上がった。

 

凛の母は、何も聞かずにいつもの湯呑みを出した。

 

白地に小さな青い模様の湯呑み。

 

アイはそれを見て、少しだけ指を止める。

 

「それ、もう迷わないんですね」

 

母は微笑む。

 

「迷わないよ」

 

その言葉は、あまりにも普通だった。

 

だからこそ、胸の中に静かに沈んだ。

 

迷わない。

 

自分の湯呑みが、迷わず出てくる。

 

アイは両手で湯呑みを包んだ。

 

「……ありがとうございます」

 

「どういたしまして」

 

凛は隣で自分の湯呑みを持っている。

 

何も特別なことは起きない。

 

お茶を飲む。

 

母が台所で何かを片づける。

 

父が奥で探し物をして、すぐに母に場所を聞く。

 

凛が本を一冊持ってくる。

 

普通の午前。

 

その中にいる。

 

それが、少し嬉しくて、少し怖かった。

 

昼前になると、アイはカップを並べた。

 

父の分。

 

母の分。

 

凛の分。

 

そして、自分の分。

 

四つ。

 

前は、四つ目で手が止まった。

 

今日は、止まりはしたけれど、震えは少なかった。

 

凛が横から見る。

 

「今日はまっすぐ」

 

アイはカップから手を離す。

 

「成長したでしょ」

 

「かなり」

 

アイは凛を見る。

 

「そこは前より上手い」

 

「上手い?」

 

「褒め方」

 

凛は少し考えた。

 

「じゃあ、成長した」

 

「もう一回言われると恥ずかしい」

 

「難しい」

 

アイは笑った。

 

四つのカップは、まっすぐ並んでいた。

 

その光景を見ると、やっぱり少し胸が揺れた。

 

でも、今日はそれを消そうとは思わなかった。

 

昼食は軽かった。

 

スープ。

 

パン。

 

果物。

 

小さなオムレツ。

 

母が言う。

 

「食べられる分だけでいいよ」

 

アイは少しだけ考えた。

 

食べられるかどうか。

 

怖いかどうか。

 

無理をしていないかどうか。

 

自分の中を確かめてから、言った。

 

「今日は、少し食べます」

 

母は頷く。

 

「うん」

 

父が明るく言う。

 

「スープ係、出勤だな」

 

母がすぐに返す。

 

「係にしない」

 

凛が続ける。

 

「今日は座る係もいる」

 

アイは思わず笑う。

 

「係が増えすぎです」

 

父は真面目な顔で頷いた。

 

「役職が多い家だな」

 

「家じゃなくて係の話です」

 

「そうだった」

 

凛がスープを飲みながら言う。

 

「お父さん、少し変」

 

父は目を細めた。

 

「少しで済んだ」

 

母が笑う。

 

アイも笑った。

 

スープを少し飲む。

 

温かい。

 

パンを小さくちぎる。

 

オムレツを少し食べる。

 

全部は食べられない。

 

でも、今日は少し食べると自分で言えた。

 

そして、その通りにできた。

 

それだけで、十分だった。

 

午後。

 

凛の部屋に入る。

 

アイはもう、入口で止まらなかった。

 

窓辺の植物の近く。

 

いつもの場所に座る。

 

凛も床に座って、本を開く。

 

しばらく、何も言わなかった。

 

静かな時間だった。

 

その沈黙が、怖くない日もある。

 

アイは窓の外を見た。

 

光が少しずつ傾いていく。

 

午前からここにいる。

 

昼を過ぎても、ここにいる。

 

夕方まで、まだ少し時間がある。

 

いつもより長い。

 

だから、言葉も少し奥から浮かんできた。

 

「欲しいって思ったこと、まだ怖い」

 

凛は本から顔を上げた。

 

「うん」

 

「でも、消さなかった」

 

「うん」

 

「丸は、つけられなかった」

 

「まだ?」

 

「まだ」

 

凛は少し考えた。

 

「じゃあ、まだでいい」

 

アイは凛を見る。

 

「それでいいの?」

 

「うん」

 

「丸、つけなくても?」

 

「消してないから」

 

凛は静かに言った。

 

「まだ、そこ」

 

アイは視線を落とす。

 

まだ。

 

その言葉が、少し優しかった。

 

進めないわけではない。

 

戻ったわけでもない。

 

ただ、まだそこにいる。

 

それでいい。

 

アイは膝の上で手を重ねた。

 

「凛ちゃんって、待つの上手くなったね」

 

凛は少しだけ首を傾げた。

 

「そう?」

 

「うん」

 

「待つの、まだ難しい」

 

「でも、待ってくれてる」

 

凛は少しだけ目を伏せた。

 

「アイが急ぐと、怖いから」

 

アイは何も言えなかった。

 

凛は見ている。

 

自分が急ぐと怖くなることを。

 

欲しいと思うだけで震えることを。

 

それでも、ここに来ることを。

 

アイは小さく息を吐いた。

 

「ありがとう」

 

凛は少しだけ目を瞬かせる。

 

「うん」

 

夕方が近づく。

 

時計の針が進む音が、いつもより大きく聞こえた。

 

午前からいた。

 

昼もいた。

 

凛の部屋にもいた。

 

お茶を飲んだ。

 

カップを並べた。

 

少し食べた。

 

笑った。

 

怖いと言った。

 

それでも、帰る時間は来る。

 

母が奥から声をかけた。

 

「そろそろ施設に連絡する時間だね」

 

アイは頷こうとした。

 

けれど、頷けなかった。

 

バッグは近くにある。

 

帰る準備は、できるはずだった。

 

でも、手が動かなかった。

 

凛がこちらを見る。

 

母も気づく。

 

父は何か言いかけて、母に視線で止められた。

 

部屋の中が、静かになる。

 

アイはバッグの持ち手を握った。

 

「帰りたくないです」

 

声は、小さかった。

 

でも、前にも言えた言葉だった。

 

母は頷く。

 

「うん」

 

それだけで終わるはずだった。

 

帰りたくない。

 

でも、今日は帰る。

 

いつものように、そう言えばいい。

 

そう思った。

 

けれど、今日は違った。

 

帰りたくないだけではなかった。

 

アイは唇を結ぶ。

 

喉の奥が熱い。

 

怖い。

 

でも、ここで止めたら、また消してしまう気がした。

 

欲しいと思ったことを。

 

怖かったけれど消さなかった気持ちを。

 

「帰りたくないだけじゃなくて」

 

言葉が詰まる。

 

凛は何も言わない。

 

母も待っている。

 

父も黙っている。

 

誰も急かさない。

 

だから、アイは言えた。

 

「ここに、いたいです」

 

その声は震えていた。

 

けれど、消えなかった。

 

言ってしまった。

 

アイはすぐに顔を上げられなかった。

 

胸が痛い。

 

怖い。

 

でも、どこかで息ができた。

 

母は、すぐに「いいよ」とは言わなかった。

 

その代わり、ゆっくりアイの前にしゃがんだ。

 

「言ってくれてありがとう」

 

アイの目が熱くなる。

 

怒られなかった。

 

困った顔もされなかった。

 

軽く流されもしなかった。

 

ありがとう、と言われた。

 

父も静かに言った。

 

「その言葉は、ちゃんと預かるよ」

 

預かる。

 

すぐに答えにはしない。

 

でも、なくさない。

 

アイは唇を噛みそうになって、やめた。

 

凛が短く言う。

 

「言えた」

 

アイは凛を見る。

 

凛はまっすぐにアイを見ていた。

 

「消さなかった」

 

その言葉で、涙が出そうになった。

 

予定表の文字。

 

丸をつけられなかった行。

 

消さずに残した気持ち。

 

それが今、声になった。

 

アイは何度か瞬きをした。

 

泣きたくなかった。

 

でも、泣きそうだった。

 

母が言う。

 

「今日は、施設に戻る日」

 

アイは小さく頷いた。

 

「……はい」

 

「でも、今言ってくれたことは、戻ったら消えるものじゃない」

 

アイは顔を上げる。

 

母の声は穏やかだった。

 

「施設の人にも、一緒に話そう」

 

父も頷く。

 

「俺たちも、ちゃんと話す」

 

凛が聞く。

 

「火曜日も来る?」

 

アイは泣きそうな顔のまま、少しだけ笑った。

 

「……行く」

 

凛は頷いた。

 

「うん」

 

今日、帰る。

 

それでも、ここにいたいと言ったことは消えない。

 

その二つが、同じ場所にあっていい。

 

まだうまく分からないけれど、そう思えた。

 

帰り道。

 

母が隣を歩いている。

 

凛も途中まで一緒に来てくれた。

 

夕方の道は静かで、空は薄い橙色をしていた。

 

アイはしばらく何も言えなかった。

 

言葉を出したあとの身体は、少し疲れていた。

 

けれど、空っぽではなかった。

 

「言ったら、なくなると思ってました」

 

ぽつりと、言葉が落ちた。

 

母が横を見る。

 

「うん」

 

「でも、なくならなかった」

 

母は頷く。

 

「なくならないよ」

 

凛が隣で言った。

 

「言ったから、ある」

 

アイは凛を見る。

 

「凛ちゃんらしい」

 

「そう?」

 

「うん」

 

少しだけ笑えた。

 

施設に着くと、職員が玄関で待っていた。

 

「おかえり」

 

アイは一拍置いた。

 

いつものように、少しだけ言葉を探す。

 

「戻りました」

 

職員はアイの顔を見る。

 

「今日はどうだった?」

 

アイは黙った。

 

長かった。

 

怖かった。

 

でも、消さなかった。

 

それだけでは足りない。

 

今日言った言葉を、ここにも持って帰らなければいけない気がした。

 

アイはバッグの持ち手を握る。

 

「ここにいたいって、言いました」

 

職員はすぐに何かを決めるような反応はしなかった。

 

驚きすぎることも、困ることもなかった。

 

静かに、受け止めた。

 

「言えたんだね」

 

アイは頷く。

 

「はい」

 

「その話、あとで一緒に聞かせて」

 

「はい」

 

言葉は、渋谷家に置いてきたわけではなかった。

 

施設にも、持って帰れた。

 

それが少しだけ不思議だった。

 

夜。

 

アイは予定表を開いた。

 

前の行を見る。

 

欲しいって思った。

怖かった。

でも、消さない。

 

そこには、まだ丸がない。

 

アイは鉛筆を持った。

 

少し手が震えた。

 

その下に、新しく書く。

 

ここにいたいって言った。

 

文字が少し歪んだ。

 

でも、書けた。

 

アイはしばらくその二つの行を見つめていた。

 

欲しいと書いた日には、丸をつけられなかった。

 

けれど、ここにいたいと言えた日には、震えながら丸をつけた。

 

前の行と、今日の行。

 

二つをまとめて、大きく丸で囲む。

 

それは答えではなかった。

 

明日から全部が変わる印でもなかった。

 

でも、もう消さなくていい気持ちだった。

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