星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第28話 預かった言葉

 

 

朝になっても、文字は消えていなかった。

 

アイは机の前に座り、予定表を見つめていた。

 

土曜日。渋谷さんの家。

午前から夕方まで。

 

その下に、昨日書いた文字がある。

 

ここにいたいって言った。

 

大きな丸で囲んだ文字。

 

夜には、確かに書けた。

 

震える手で、でも消さずに書けた。

 

なのに、朝の光の中で見ると、その文字は昨日よりずっと大きく見えた。

 

言ってしまった。

 

本当に、言ってしまった。

 

帰りたくない、ではない。

 

また来たい、でもない。

 

ここにいたい。

 

それは、言葉にした瞬間、自分の中から外へ出てしまった気持ちだった。

 

もう、知らないふりはできない。

 

「言わなければよかった……のかな」

 

小さく呟いてから、アイは自分の声に驚いた。

 

言わなければ、怖くならなかったかもしれない。

 

言わなければ、誰も困らせなかったかもしれない。

 

渋谷家の人たちも、施設の人たちも、凛も、何も知らないままでいられたかもしれない。

 

でも。

 

消しゴムに手は伸びなかった。

 

怖い。

 

けれど、嘘ではない。

 

そのことだけは、昨日から変わっていなかった。

 

朝食の後、職員に声をかけられた。

 

「アイちゃん、昨日のこと、少し聞いてもいい?」

 

アイは少しだけ背筋を伸ばした。

 

「はい」

 

面談室に入る。

 

いつもの小さな机。

 

いつもの椅子。

 

窓から差し込む朝の光。

 

アイは椅子に座り、膝の上で手を重ねた。

 

職員は向かいに座る。

 

「渋谷さんのお家で、ここにいたいって言えたんだね」

 

その言葉を聞いた瞬間、胸が少しだけ跳ねた。

 

誰かの口から聞くと、また違って聞こえる。

 

自分が本当に言ったのだと、改めて思い知らされる。

 

「……はい」

 

「言ってみて、今はどう?」

 

アイはすぐには答えられなかった。

 

昨日は、言えたことに少しだけ息ができた。

 

けれど今日は、その言葉の大きさに押し返されている。

 

「怖いです」

 

職員は頷いた。

 

「うん」

 

アイは手元を見る。

 

でも、それだけではない。

 

怖いだけなら、消せばよかった。

 

なかったことにすればよかった。

 

でも、消せなかった。

 

「でも」

 

アイは小さく息を吸った。

 

「嘘ではないです」

 

職員は、少しだけ表情を柔らかくした。

 

「そっか」

 

アイは顔を上げる。

 

職員は手元の紙に、ゆっくり文字を書いた。

 

「じゃあ、そのまま記録しておくね」

 

「そのまま?」

 

「うん」

 

職員は、書きながら言った。

 

「怖い。でも嘘ではない」

 

アイは瞬きをした。

 

そんなふうに、残していいのだろうか。

 

怖いなら、だめ。

 

迷っているなら、まだ言わない方がいい。

 

そうではなくて。

 

怖いことも。

 

嘘ではないことも。

 

どちらも、同じ紙の上に置いていい。

 

職員はペンを置いた。

 

「アイちゃんの言葉だから、大事に扱うね」

 

アイは、喉の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。

 

「……はい」

 

言葉が、どこかへ落ちて消えるのではなく。

 

誰かの手に渡って、そこに残る。

 

それは、まだ怖い。

 

でも、少しだけ安心もした。

 

同じ頃、渋谷家でも、昨日の言葉は残っていた。

 

店の奥で、母は湯呑みを片づけながら黙っていた。

 

父は新聞を広げていたが、ほとんど読んでいない。

 

やがて、父が新聞を畳んだ。

 

「ここにいたい、か」

 

母は小さく頷く。

 

「うん」

 

「軽く返せる言葉じゃないな」

 

「うん」

 

父は少しだけ目を伏せた。

 

「預かるって言ったけど、あれでよかったのかな」

 

母は顔を上げた。

 

「よかったと思う」

 

「そうか」

 

父は、少しだけ息を吐いた。

 

安心したような。

 

でも、重さを受け取り直したような。

 

そんな息だった。

 

「でも、預かったなら、返事をする責任もあるな」

 

母は湯呑みを棚に戻す手を止めた。

 

「そうね」

 

父は店先の方を見る。

 

「すぐに答えを出すことはできない。でも、いつまでも預かったままにはできない」

 

「うん」

 

母の声は静かだった。

 

「だから、ちゃんと進めよう」

 

凛は、少し離れたところでその会話を聞いていた。

 

店先の花を見ているふりをしていたけれど、耳はずっと奥の方に向いていた。

 

母が凛に気づいて声をかける。

 

「凛」

 

凛は顔を上げた。

 

「うん」

 

「昨日のこと、凛はどう思った?」

 

凛は少しだけ考える。

 

アイがバッグを握っていたこと。

 

帰りたくないと言ったこと。

 

その後で、ここにいたいと言ったこと。

 

声が震えていたこと。

 

泣きそうだったこと。

 

それでも、言えたこと。

 

「アイ、言えた」

 

母は頷いた。

 

「うん」

 

「でも、怖そうだった」

 

父も静かに頷く。

 

「そうだな」

 

凛は花の葉に触れそうになって、やめた。

 

「だから、急がない」

 

母の目が少しだけ柔らかくなる。

 

凛は続けた。

 

「でも、止まらない」

 

その言葉に、父が小さく息を止めた。

 

母も、しばらく黙って凛を見ていた。

 

凛は不思議そうに二人を見る。

 

「変?」

 

母は首を横に振った。

 

「ううん」

 

父が少しだけ笑った。

 

「今のは、かなりちゃんとしてた」

 

凛は父を見る。

 

「いつもは?」

 

「いつもも、ちゃんとしてる」

 

「今、少し考えた」

 

「考えた」

 

母が笑った。

 

その笑いは、少しだけ空気を軽くした。

 

けれど、言葉の重さは消えなかった。

 

急がない。

 

でも、止まらない。

 

それは、この家の中で静かに決まったことのようだった。

 

その日の午前中、施設から渋谷家に電話が入った。

 

母が受話器を取る。

 

「はい、渋谷です」

 

電話の向こうで、職員の落ち着いた声が聞こえた。

 

「昨日のアイさんの言葉について、今朝、本人からも話を聞きました」

 

母は背筋を伸ばす。

 

「はい」

 

「本人は、怖いけれど嘘ではない、と話しています」

 

母は目を伏せた。

 

怖い。

 

でも嘘ではない。

 

アイらしい言葉だと思った。

 

まっすぐに欲しいと言い切るには、まだ怖い。

 

けれど、なかったことにはしない。

 

その震えたままの言葉が、今のアイの本当なのだと思った。

 

職員は続ける。

 

「この言葉を、今後の話し合いの中で大切に扱っていきたいと思います」

 

母は静かに答えた。

 

「お願いします」

 

「こちらでも、施設内で共有します。もちろん、本人に負担がかからない形で」

 

「はい」

 

「今後、関係機関との確認や、お母様側の状況確認も進めていくことになります」

 

母は受話器を握る手に、少しだけ力を込めた。

 

「分かりました」

 

電話の向こうの声は、慎重だった。

 

けれど、前へ進む声でもあった。

 

「すぐに結論を出す話ではありませんが、アイさんの意思として、きちんと記録します」

 

母は短く息を吸った。

 

「ありがとうございます」

 

電話を切ったあと、母はしばらく受話器を見ていた。

 

アイの言葉は、ただの子どものわがままとして流されなかった。

 

その場の感情として片づけられなかった。

 

紙に書かれ、記録され、大人たちの話し合いの中へ入っていく。

 

それは嬉しいことだった。

 

同時に、責任が形を持ち始めることでもあった。

 

そこから、少しずつ物事が動き始めた。

 

アイの言葉は、すぐに答えにはならなかった。

 

けれど、なかったことにもならなかった。

 

施設の中で、職員たちは記録を確認した。

 

渋谷家で過ごした日。

 

食べられた日。

 

食べられなかった日。

 

怖いと言えた日。

 

帰りたくないと言えた日。

 

ここにいたいと言えた日。

 

渋谷家では、母がメモを増やした。

 

父は仕事の合間に、母とこれからのことを話した。

 

凛にも、何度も確認した。

 

嫌なことはないか。

 

寂しい日はないか。

 

アイが来ることで、困ることはないか。

 

凛は毎回すぐには答えなかった。

 

少し考えてから、言った。

 

「今は、嫌じゃない」

 

「でも、嫌な日があったら言う」

 

「待つ」

 

「でも、止まらない」

 

そのたびに、母は頷いた。

 

大人たちの話も、少しずつ増えていった。

 

家庭の状況。

 

施設での様子。

 

実母側の確認。

 

関係機関との調整。

 

これから試す滞在の形。

 

一つ一つは、決して派手ではなかった。

 

紙の上に文字が増える。

 

電話の回数が増える。

 

面談の日程が決まる。

 

確認することが増える。

 

それだけだった。

 

でも、その一つ一つが、アイの言葉を壊さずに形にするためのものだった。

 

願いを遅らせるためではない。

 

軽く叶えるためでもない。

 

壊さずに、ちゃんと形にするため。

 

そのために、大人たちはゆっくり動き始めた。

 

翌日、学校でアイは凛の机の前に立った。

 

昨日の言葉のせいで、少しだけ顔を合わせづらかった。

 

凛はいつものように本を開いていた。

 

けれど、アイが近づくとすぐ顔を上げた。

 

「昨日」

 

アイは言いかけて、止まる。

 

凛は待った。

 

「言っちゃった」

 

凛は短く答える。

 

「うん」

 

「変じゃなかった?」

 

「変じゃない」

 

アイは少しだけ眉を寄せた。

 

「それは知ってる」

 

「じゃあ聞かなくていい」

 

「そういう問題じゃない」

 

アイは少し笑ってしまった。

 

笑えたことに、自分で少し驚く。

 

ここにいたい、と言った翌日でも。

 

凛の前で、少し笑えた。

 

「言ったら、戻れなくなる気がした」

 

アイは小さく言った。

 

凛が首を傾げる。

 

「戻ってきた」

 

「施設に?」

 

「うん」

 

凛はまっすぐに言う。

 

「それでも、言ったことは残ってる」

 

アイは黙った。

 

昨日、渋谷家から施設に戻った。

 

戻れた。

 

でも、言ったことは消えなかった。

 

施設でも話せた。

 

予定表にも書いた。

 

職員も記録してくれた。

 

言ったから終わりではなかった。

 

言ったから壊れるわけでもなかった。

 

「……うん」

 

アイは頷いた。

 

凛はそれ以上、何も言わなかった。

 

その沈黙が、今は少しありがたかった。

 

次の土曜日。

 

アイはまた渋谷家へ向かった。

 

「ここにいたい」と言ったあとで行く渋谷家は、少しだけ違って見えた。

 

店先の花。

 

入口。

 

棚に置かれた湯呑み。

 

奥の部屋。

 

全部同じなのに、少しだけ緊張する。

 

凛が店先で顔を上げた。

 

「来た」

 

アイは少しだけ息を吸う。

 

「来たよ」

 

「うん」

 

母が奥から出てくる。

 

「いらっしゃい、アイちゃん」

 

父も顔を出した。

 

「おはよう」

 

それだけだった。

 

大げさに迎えられることもない。

 

気まずそうにされることもない。

 

何もなかったみたいにされるわけでもない。

 

ただ、いつも通りに迎えられた。

 

それが、少しだけ泣きそうになるくらい嬉しかった。

 

奥へ入ると、母が聞いた。

 

「お茶にする?」

 

「……はい」

 

いつもの湯呑みが、棚から出てきた。

 

ここにいたいと言ったあとでも、湯呑みは同じ場所から出てきた。

 

それは、昨日の言葉がこの家を壊さなかった証拠のように見えた。

 

アイは湯呑みを受け取る。

 

「ありがとうございます」

 

母は微笑む。

 

「どういたしまして」

 

凛は隣に座り、自分の湯呑みを持つ。

 

父は奥で何かを探している。

 

母に聞く前に自分で探そうとして、結局すぐに聞いていた。

 

いつも通り。

 

でも、ちゃんと。

 

アイは湯呑みの温かさを両手で包んだ。

 

その日は、長く何かを話すことはなかった。

 

花を見た。

 

お茶を飲んだ。

 

凛の部屋で本を少し見た。

 

昼は軽く食べた。

 

食べられないものは残した。

 

誰も責めなかった。

 

夕方が近づく。

 

帰る時間になると、やはり胸の奥が少し重くなった。

 

母が時計を見る。

 

「そろそろ戻る時間だね」

 

アイは頷いた。

 

「はい」

 

立ち上がろうとして、少しだけ止まる。

 

母が静かに言った。

 

「この前の言葉、ちゃんと預かってるよ」

 

アイは顔を上げた。

 

母の目は、まっすぐだった。

 

「でも、今日すぐ答えを出さなくていい」

 

父も頷く。

 

「俺たちも、ちゃんと考えてる」

 

凛が短く言った。

 

「消えてない」

 

アイは、喉の奥が熱くなるのを感じた。

 

消えていない。

 

本当に。

 

「……はい」

 

それ以上は、うまく言えなかった。

 

けれど、十分だった。

 

施設へ戻る道で、アイは何度もその言葉を思い出した。

 

預かってる。

 

考えてる。

 

消えてない。

 

ここにいたい、という言葉は、まだ答えにはなっていない。

 

でも、誰かの手の中にある。

 

雑に置かれているのではなく。

 

重すぎるからと返されるのでもなく。

 

ちゃんと預かられている。

 

施設に戻ると、職員が迎えた。

 

「おかえり」

 

「戻りました」

 

今日は、その言葉が少しだけ自然に出た。

 

夜。

 

アイは予定表を開いた。

 

ここにいたいって言った。

 

丸で囲んだ文字。

 

その横に、新しく書く。

 

預かってもらった。

 

しばらく、その文字を眺める。

 

答えではない。

 

約束でもない。

 

けれど、消えていない印。

 

アイは鉛筆を持ち直し、その横に小さな丸をつけた。

 

ここにいたい、という言葉は、まだ答えにはなっていなかった。

 

けれど、誰かの手の中で、ちゃんと預かられていた。

 

消えなかった。

 

それだけで、その日は十分だった。

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