星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第2話 笑顔の置き場所

 

星野アイは、すぐに人気者になった。

 

それは、驚くほど早かった。

 

転校してきた翌朝。

アイが教室の扉を開けた瞬間、何人もの声が飛んだ。

 

「アイちゃん、おはよう!」

 

「おはよー!」

 

アイはぱっと顔を上げて笑った。

 

「おはよう!」

 

明るい声だった。

 

昨日転校してきたばかりとは思えないほど、自然にそこにいた。

まるで、ずっと前からこの教室にいたみたいに。

 

凛は自分の席で教科書を机に入れながら、その様子を見ていた。

 

アイは、クラスの子の名前をもういくつか覚えていた。

 

昨日、消しゴムを貸してくれた子。

給食の時に隣だった子。

休み時間に一番たくさん話しかけてきた子。

 

それぞれに、少しずつ違う笑顔を向けている。

 

元気な子には元気に。

恥ずかしがりな子には少し優しく。

先生が近くにいる時は、きちんとした子の顔で。

 

それが、とても上手だった。

 

上手すぎるくらいに。

 

「凛ちゃん、おはよう」

 

アイがこちらに気づいて、笑顔のまま近づいてきた。

 

「おはよう」

 

凛は短く返す。

 

「今日も早いね」

 

「普通だよ」

 

「凛ちゃんの普通って、なんかちゃんとしてるよね」

 

「そう?」

 

「うん。ちゃんとしてる」

 

アイはそう言って、くすっと笑った。

 

昨日よりも、笑い方が自然だった。

 

いや。

 

自然に見えるようになっていた。

 

凛はそう思った。

 

星野アイは、すごい。

 

たぶん、みんなが欲しい顔をすぐに見つけられる。

それを迷わず差し出せる。

 

けれど、そのたびに。

 

アイ自身の顔が、どこか別の場所に置いていかれる気がした。

 

「なに?」

 

アイが首を傾げる。

 

凛は少しだけ目を瞬かせた。

 

「ううん」

 

「また見てた」

 

「見てた?」

 

「うん。凛ちゃん、たまにじーっと見るよね」

 

「そうかも」

 

「そうかも、なんだ」

 

アイは笑った。

 

その笑顔は、やっぱり綺麗だった。

 

朝の会が始まるまでの短い時間、アイの周りには自然と人が集まった。

 

「アイちゃん、今日の昼休み遊ぼうよ」

 

「いいよ!」

 

「縄跳びできる?」

 

「たぶんできるよ」

 

「たぶん?」

 

「できなかったら教えて?」

 

「いいよ!」

 

そんな会話が、次々に続く。

 

凛はそれを聞きながら、鉛筆を削った。

 

アイは断らない。

誘われたら笑う。

頼まれたら頷く。

褒められたら照れて、からかわれたら困ったように笑う。

 

誰も嫌な気持ちにならない。

 

それはすごいことのはずだった。

 

なのに、凛には少しだけ息苦しく見えた。

 

一時間目。

二時間目。

 

アイは授業中も目立っていた。

 

大きく騒ぐわけではない。

けれど、先生に当てられると、少し考えてから答える。

分からない時は、分からないと笑って言う。

隣の子に教えてもらえば、嬉しそうにお礼を言う。

 

先生も安心したようだった。

 

転校生が馴染めている。

きっと、そう思っている。

 

休み時間には、アイが忘れ物をした子に自分の色鉛筆を貸していた。

 

「ありがとう、アイちゃん!」

 

「いいよ。私、使わない色だったし」

 

「でも助かった!」

 

「えへへ、よかった」

 

そのやり取りを見て、先生が言う。

 

「星野さん、優しいのね」

 

アイはすぐに背筋を伸ばした。

 

「そんなことないです。困ってたから」

 

「助かるわ」

 

「全然大丈夫です」

 

大丈夫。

 

凛は、その言葉を覚えた。

 

アイはよく、それを使う。

 

大丈夫。

平気。

楽しい。

なんでもいいよ。

 

どれも、便利な言葉だと思った。

 

昼休み。

 

校庭には、子どもたちの声が広がっていた。

 

空は少し曇っている。

でも雨が降るほどではなさそうだった。

 

アイは女子たちに誘われて、鬼ごっこに参加していた。

 

「アイちゃん、逃げて!」

 

「待って待って、速い!」

 

笑いながら走るアイは、教室にいる時よりも少し子どもらしく見えた。

 

髪が揺れて、息が上がって、頬が少し赤くなる。

 

凛は校庭の端で、別の子たちと話しながらそれを見ていた。

 

アイは足が特別速いわけではない。

 

でも、うまい。

 

鬼になれば、追いつけそうで追いつけない速さで走る。

捕まれば、大げさに悔しがってみせる。

転びそうな子がいれば、自然に速度を落とす。

 

遊びの中でも、アイは周りを見ていた。

 

「きゃっ」

 

小さな声がした。

 

アイが足をもつれさせて、校庭の砂の上に膝をついた。

 

周りの子がすぐに集まる。

 

「アイちゃん、大丈夫?」

 

「痛くない?」

 

「保健室行く?」

 

アイは顔を上げて笑った。

 

「大丈夫、大丈夫。全然痛くないよ」

 

膝に少し砂がついていた。

その下に、赤く擦れた跡がある。

 

凛は近づいた。

 

アイはまだ笑っている。

 

「ほんとに平気だよ」

 

「血、出てる」

 

凛が言うと、アイは一瞬だけ膝を見た。

 

それから、困ったように笑う。

 

「ちょっとだけだよ」

 

「痛いなら、痛いって言えばいいのに」

 

「痛くないってば」

 

「手、震えてる」

 

アイの指が、膝の横で止まった。

 

周りの子たちは、少しきょとんとしている。

 

アイはすぐに笑顔を戻した。

 

「凛ちゃん、細かいね」

 

「細かくない」

 

「大丈夫だよ。ほんとに」

 

また、大丈夫。

 

凛はしばらくアイの膝を見ていた。

 

保健室に行った方がいい。

そう言おうと思った。

 

でも、アイの笑顔が少しだけ硬かった。

 

これ以上言ったら、たぶんアイはもっと笑う。

もっと大丈夫だと言う。

 

それが、なぜか分かった。

 

「……砂だけ落とした方がいい」

 

凛はそう言った。

 

アイは瞬きをする。

 

「うん」

 

凛が水道の方を指さすと、アイは少しだけ遅れて立ち上がった。

 

「ありがとう」

 

声は明るかった。

 

でも、目は笑っていなかった。

 

給食の時間。

 

その日の献立には、白いご飯があった。

 

湯気の立つご飯。

何の変哲もない、給食のご飯。

 

凛は自分の席で箸を持ちながら、斜め前のアイを見た。

 

アイの箸が、ご飯の前で一瞬だけ止まる。

 

やっぱり。

 

昨日も同じだった。

 

白いご飯に箸を入れる直前、アイの手はほんの少しだけ止まった。

 

周りの子たちは気づかない。

 

アイはすぐに笑って、ご飯を口に運ぼうとする。

 

「アイちゃん、ご飯好き?」

 

誰かが何気なく聞いた。

 

アイは笑った。

 

「うん。好きだよ」

 

その答えは、昨日と同じくらい明るかった。

 

凛は少しだけ眉を寄せる。

 

「それ、好きじゃないでしょ」

 

アイの箸が止まった。

 

周りの子が「え?」と凛を見る。

 

アイはゆっくり凛の方を向く。

 

「好きだよ」

 

「昨日も止まってた」

 

「よく見てるね」

 

「見えたから」

 

アイは笑った。

 

でも、その笑顔は少しだけ違った。

 

明るいのに、奥が固い。

 

「凛ちゃんって、なんか怖い」

 

凛は少し驚いた。

 

「怖い?」

 

「ううん。なんでもない」

 

アイはすぐに首を振った。

 

「ほんとに好きだよ。ちょっと熱かっただけ」

 

「まだ食べてない」

 

「……凛ちゃん、細かい」

 

「二回目」

 

「え?」

 

「今日、二回目」

 

凛がそう言うと、アイは一瞬ぽかんとして、それから小さく笑った。

 

今度の笑い方は、少しだけ本物に近かった。

 

でも、すぐにまた綺麗な笑顔に戻る。

 

「嫌なら、残せばいいと思う」

 

凛は言った。

 

アイは箸を持ったまま、少し黙った。

 

「嫌いってわけじゃないよ」

 

「じゃあ、怖い?」

 

その言葉に、アイの目がわずかに揺れた。

 

凛は、自分でもなぜそう聞いたのか分からなかった。

 

ただ、嫌いというより、怖がっているように見えた。

 

アイはすぐに笑う。

 

「ご飯が怖いって、変でしょ」

 

「変じゃないと思う」

 

「変だよ」

 

「そう?」

 

「そうだよ。普通は、ご飯なんて怖くないでしょ」

 

普通。

 

その言葉が、凛の中に少しだけ引っかかった。

 

普通なら、怖くない。

 

でも、アイは怖そうに見える。

 

なら、それはアイにとっての普通ではないのかもしれない。

 

凛は少し考えた。

 

「普通は、そうかも」

 

アイは箸を握り直した。

 

「だから大丈夫」

 

また、大丈夫。

 

アイは白いご飯を口に運んだ。

 

笑顔のまま。

 

凛は、それを見ていた。

 

アイは苦手だと思った。

 

凛のことを。

 

クラスの子たちは簡単だった。

 

笑えば笑ってくれる。

楽しそうにすれば、安心する。

困らせなければ、優しくしてくれる。

 

先生もそう。

 

いい子にしていれば、褒めてくれる。

大丈夫と言えば、それ以上聞かない。

 

でも、凛は違う。

 

笑っても、その笑顔を見ている。

大丈夫と言っても、信じていない。

平気だと言っても、なぜかその奥を見ようとする。

 

怖い。

 

そう思った。

 

けれど、凛は不思議だった。

 

嘘に気づいているみたいなのに、嘘つきだとは言わない。

 

みんなの前で暴いたりもしない。

「本当は嫌なんでしょ」と勝ち誇ったように言うこともない。

 

ただ、見ている。

 

それが怖かった。

 

それなのに。

 

少しだけ、息がしやすかった。

 

放課後になる頃には、空はすっかり暗くなっていた。

 

帰りの会が終わり、子どもたちがランドセルを背負って教室を出る。

 

玄関まで来たところで、雨の音が聞こえた。

 

「あ、雨!」

 

「傘持ってきてない!」

 

「お母さん迎えに来るかな」

 

下駄箱の前が、一気に騒がしくなる。

 

外では、細い雨が地面を濡らしていた。

最初は小雨だったが、少しずつ強くなっている。

 

凛はランドセルの横に差していた傘を取った。

 

朝、母が持っていけと言った傘だ。

 

いらないと思ったけれど、持ってきてよかった。

 

少し離れた場所で、アイが外を見ていた。

 

傘は持っていない。

 

それでも、笑っていた。

 

「私、走って帰るから大丈夫」

 

クラスの女子が心配そうに言う。

 

「濡れるよ?」

 

「すぐそこだから平気」

 

すぐそこ。

 

凛はその言葉に目を向けた。

 

昨日、アイが歩いていった方向は、すぐそこではなかった。

 

少なくとも、この雨の中を走って帰って平気な距離には見えなかった。

 

凛は傘を開いた。

 

そして、アイの前に立つ。

 

「入れば」

 

アイが振り向く。

 

「え?」

 

「途中まで」

 

凛は傘を少し傾けた。

 

アイは目を瞬かせたあと、笑った。

 

「いいよ。凛ちゃん濡れちゃうし」

 

「二人用じゃないけど、少しなら入れる」

 

「でも」

 

「走って帰るよりはいいでしょ」

 

アイは困ったように笑った。

 

笑っているのに、目が少し逃げている。

 

凛と二人きりになるのが嫌なのかもしれない。

親切にされるのが嫌なのかもしれない。

 

それとも、その両方かもしれない。

 

雨は強くなった。

 

玄関の屋根から、雫が続けて落ちる。

 

アイは少しだけ空を見て、肩をすくめた。

 

「じゃあ、ちょっとだけ」

 

「うん」

 

二人は一本の傘に入って、校門を出た。

 

雨音が近かった。

 

傘に当たる音。

車が水たまりを踏む音。

遠くで鳴る誰かの笑い声。

 

アイは傘の端に寄りすぎていて、肩が少し濡れていた。

 

凛は黙って傘をアイの方へ傾ける。

 

「凛ちゃん、そっち濡れるよ」

 

「少しなら平気」

 

「平気って」

 

アイは一瞬、変な顔をした。

 

自分がよく使う言葉を、凛が使ったからかもしれない。

 

「凛ちゃんって、ちゃんと傘持ってきて偉いね」

 

「お母さんが持っていけって言ったから」

 

「いいお母さんだね」

 

「普通だよ」

 

アイは少し黙った。

 

雨の音だけが、二人の間に落ちる。

 

「普通、か」

 

「うん」

 

「凛ちゃんの普通って、なんかちゃんとしてるね」

 

「さっきも言ってた」

 

「言ったっけ?」

 

「言った」

 

「よく覚えてるね」

 

「今日のことだし」

 

アイはくすっと笑った。

 

でも、その笑いは少し薄かった。

 

「今日さ」

 

アイが言う。

 

「私、もうけっこうクラスに馴染んだと思わない?」

 

「うん」

 

「すごいでしょ」

 

「すごい」

 

凛は素直に頷いた。

 

アイは少し得意げに笑う。

 

「でしょ?」

 

「疲れそうだけど」

 

その瞬間、アイの笑顔が止まった。

 

雨音が、少し大きく聞こえた。

 

「疲れないよ」

 

アイはすぐに笑顔を戻した。

 

「私、人と話すの好きだし」

 

「そう」

 

「うん。楽しいよ」

 

「ずっと?」

 

「え?」

 

「ずっと楽しいのかなって」

 

アイは黙った。

 

凛はアイの横顔を見る。

 

学校ではあんなにすぐ返事をするのに、今は返事が遅かった。

 

アイはやがて、困ったように笑った。

 

「凛ちゃんって、ほんと変なこと聞くね」

 

「変?」

 

「うん。普通、そんなこと聞かないよ」

 

「普通は聞かないんだ」

 

「聞かないよ」

 

凛は少し考える。

 

「じゃあ、聞かれたくない?」

 

アイは答えなかった。

 

傘の下で、二人の歩く音だけが続いた。

 

やがてアイは、いつもの声で言う。

 

「私、なんでも平気だから」

 

凛はその言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。

 

平気。

 

また、平気。

 

「平気って、便利だね」

 

アイの足が、ほんの少し遅くなった。

 

「……どういう意味?」

 

「それ言うと、みんなそれ以上聞かないから」

 

アイは何も言わなかった。

 

凛も、それ以上は言わなかった。

 

言ったら、アイがどこかへ行ってしまいそうな気がした。

 

道が分かれるところまで来た。

 

凛の家へ向かう道とは、反対方向。

 

アイはそこで、傘の外を見た。

 

「じゃあ、私こっちだから」

 

「本当に、そっち?」

 

凛が聞く。

 

アイは笑う。

 

「うん。昨日も言ったでしょ」

 

「雨、強いよ」

 

「大丈夫」

 

「傘、持っていく?」

 

アイの目が丸くなった。

 

「え?」

 

「明日返してくれればいい」

 

「でも、凛ちゃんが困るでしょ」

 

「家、近いから」

 

「でも」

 

「アイは遠いでしょ」

 

アイの笑顔が固まった。

 

ほんの一瞬。

 

けれど、今度ははっきり分かった。

 

凛が気づいていることに、アイも気づいた。

 

アイはすぐに笑った。

 

いつもの、綺麗な笑顔。

 

「遠くないよ」

 

「そう」

 

「ほんとだよ」

 

凛は傘をアイの方へ少し傾けた。

 

「帰れる場所があるならね」

 

アイの笑顔が消えた。

 

一瞬だった。

 

でも、その一瞬だけ、星野アイの顔から何もなくなった。

 

明るさも。

可愛さも。

いい子らしさも。

 

全部、消えた。

 

そこにいたのは、ただの小さな女の子だった。

 

雨の中で、行き先を聞かれて困っている子。

 

すぐに、アイは笑顔を戻した。

 

「……変なの」

 

声が少しだけ硬い。

 

「あるに決まってるじゃん」

 

凛は何も言わなかった。

 

アイは傘の下から出る。

 

「じゃあ、また明日」

 

「傘」

 

「いい。走るから」

 

「濡れる」

 

「大丈夫」

 

また、大丈夫。

 

アイはランドセルを揺らして走り出した。

 

雨の中、小さな背中が遠ざかっていく。

 

凛は追わなかった。

 

追えば、アイはもっと逃げる。

 

そんな気がした。

 

ただ、傘を差したまま、アイの背中を見ていた。

 

雨で視界がにじむ。

アイの姿が角の向こうに消える。

 

それでも、凛はしばらく動けなかった。

 

ご飯を怖がる理由も。

帰る場所を曖昧にする理由も。

大丈夫と笑う理由も。

 

凛には、まだ何も分からない。

 

ただ、アイの笑顔が何かを隠していることだけは、分かった。

 

「……大丈夫じゃないくせに」

 

小さく呟いた声は、雨の音に消えた。

 

その日、凛は初めて思った。

 

星野アイの笑顔には、置き場所がある。

 

それはきっと、誰にも見られたくないものを隠すための場所だった。

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