星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜 作:百合太郎
アイの湯呑みの場所は、いつの間にか決まっていた。
棚の右側。
凛の湯呑みの隣ではない。
けれど、遠くもない場所。
最初にその湯呑みを見つけた時、アイは棚の前で立ち止まった。
自分のものではないはずなのに。
でも、自分が使うものとして置かれている。
手を伸ばしていいのか分からなくて、結局その日は、凛の母が出してくれるまで触れなかった。
それでも、何度か土曜日を重ねるうちに、凛の母は迷わずその湯呑みを取り出すようになった。
「お茶でいい?」
そう聞かれるたびに、アイは頷いた。
「はい」
答えは、いつも同じとは限らない。
飲める日もあった。
湯呑みを両手で包んだまま、ほとんど口をつけられない日もあった。
それでも、湯呑みの場所は変わらなかった。
飲めたから置かれているわけではない。
飲めなかったから片づけられるわけでもない。
そこにある。
ただそれだけのことが、何度もアイを驚かせた。
「アイちゃん用の湯呑み、洗った?」
ある日、凛の父が棚を見ながら言った。
凛の母は布巾を持ったまま頷く。
「洗ったよ」
凛が店先から顔を出した。
「お父さんが確認すると大げさ」
「普通に確認しただけだぞ」
「声が大げさ」
「声まで?」
父は少し困った顔をした。
アイは湯呑みを見て、小さく笑った。
その笑い声に、父が安心したような顔をする。
母は棚に湯呑みを戻した。
「ちゃんと、いつもの場所に戻しておくね」
いつもの場所。
その言葉に、アイは少しだけ目を伏せた。
湯呑みが置かれている場所だけではない。
自分が来てもいい場所が、この家の中に少しずつ決まっていく。
そんな気がした。
増えたのは湯呑みだけではなかった。
濡れた時用のハンカチ。
食べやすい小さなスプーン。
凛の部屋の、窓辺に近い場所に置かれた薄いクッション。
どれも、大げさに渡されたものではない。
いつの間にか、そこにあった。
ある土曜日、凛の部屋に入ったアイは、クッションを見て足を止めた。
「これ、私のですか?」
凛は本を持ったまま答える。
「そこに置いてある」
「答えになってない」
「アイが座るところだから」
アイはクッションを見る。
淡い色の、小さなクッション。
誰かの場所を決めるには、あまりにも簡単なものだった。
「……凛ちゃんは、そういうの簡単に置くよね」
「そういうの?」
「場所とか、逃げ道とか」
「難しく置くの?」
「それはそれで困る」
アイは小さく笑って、そのクッションに座った。
座ってしまえば、そこは思ったより落ち着いた。
窓辺の植物が近い。
凛の本が見える。
床に落ちる光の形が、前と少し違う。
その場所は、まだ自分のものとは言えなかった。
でも、座ってもいい場所ではあった。
それだけで、その日は十分だった。
時間も、少しずつ変わっていった。
午前から夕方までの日。
夕飯までの日。
日曜日に、少しだけ行く日。
学校帰りに、花屋の前で立ち止まるだけの日。
日曜日の渋谷家は、また違っていた。
学校帰りでもない。
土曜日の決まった流れでもない。
店先の花も、どこか静かに見えた。
施設の玄関で、職員が予定を確認する。
「今日は少しだけだったね」
「はい」
「途中で帰りたくなったら、連絡してね」
アイは頷いた。
「今日は、少しだけなら行けます」
少しだけ。
その言葉は、逃げるためだけのものではなくなっていた。
怖さを連れていくための、小さな持ち手みたいになっていた。
渋谷家では、少しだけの日でも、湯呑みは出てきた。
長くいられた日でも、短く帰った日でも、凛は聞いた。
「火曜日は?」
アイは答える。
「行く」
「うん」
それだけで、帰る足が軽くなる日があった。
けれど、何もかもが穏やかに進んだわけではない。
ある日、凛の母は施設の職員と長く電話をしていた。
アイのこと。
これからのこと。
滞在時間のこと。
食事のこと。
帰りたくないと言えた日のこと。
凛は、リビングの机に宿題を広げて待っていた。
算数の問題。
分からないところがある。
いつもなら母に聞く。
けれど、母は電話をしている。
父は店先で客の対応をしている。
凛は鉛筆を持ったまま、じっと問題を見た。
待つ。
最近、凛はそれを覚えようとしていた。
でも、待つことがいつも簡単なわけではなかった。
電話が終わったあと、母はすぐに凛の顔を見た。
「凛、待たせたね」
凛は頷いた。
「うん」
母は凛の隣に座る。
「嫌だった?」
凛はすぐには答えなかった。
アイが嫌なわけではない。
アイの話をしている母が嫌なわけでもない。
でも、待っている時間は少し嫌だった。
「少し」
母は静かに頷いた。
「言ってくれてありがとう」
凛は鉛筆を見つめる。
「でも、アイが嫌なわけじゃない」
「うん」
「待つのが、少し嫌だった」
「そっか」
母は凛の頭を撫でようとして、途中で止めた。
代わりに、机の上の宿題を見る。
「ここ?」
凛は頷く。
「うん」
「一緒に見ようか」
「うん」
凛は息を吐いた。
嫌だったと言っても、何かが壊れるわけではなかった。
母が怒るわけでもない。
アイの話が消えるわけでもない。
自分の気持ちも、そこに置いていい。
それを知ることも、凛にとっては必要だった。
後日、凛はそのことをアイに話した。
花屋の店先で、二人で札を直している時だった。
「この前、少し嫌だった」
アイの手が止まる。
「え」
凛は札を持ったまま言う。
「お母さんが、アイのことで長く電話してた」
アイの顔が固まった。
「私のせい?」
「違う」
凛はすぐに言った。
アイはそれでも視線を落とす。
「でも」
「お母さんを待つのが嫌だった」
「それは、私のことで電話してたからでしょ」
「うん」
凛は頷く。
「でも、アイが嫌なわけじゃない」
アイは黙った。
言葉の意味は分かる。
でも、すぐには受け取れなかった。
自分がいることで、誰かが待つ。
誰かの時間が変わる。
誰かが嫌な思いをする。
それは、自分が嫌われることと同じだと思っていた。
凛は札を置いて、少し黙った。
「嫌なことがあるのと、アイが嫌なのは違う」
アイは目を見開いた。
「そんなふうに分けられるの?」
凛は少し黙った。
「分ける」
「そんな簡単に?」
「簡単じゃないかも」
凛は札を見つめる。
「でも、分ける」
アイは凛を見た。
その横顔は、いつも通り静かだった。
でも、ただ簡単に言っているわけではないのだと分かった。
「凛ちゃん、たまにすごい乱暴に正しいこと言う」
「乱暴?」
「褒めてる」
「分かりづらい」
「お互い様」
アイは少し笑った。
けれど、胸に残ったものは軽くなかった。
凛も変わっている。
渋谷家も変わっている。
自分が行くことで、何もかもが良いことだけになるわけではない。
それでも、凛は嫌なことと自分を分けてくれた。
そのことが、救いだった。
大人たちの話し合いも続いていた。
職員の机には、アイの記録が増えた。
渋谷家のテーブルには、母のメモが増えた。
電話のあと、父が難しい顔で頷く日があった。
凛が、少し考えてから「嫌な日は言う」と答える日もあった。
施設での面談。
渋谷家での確認。
関係機関との調整。
実母側の状況確認。
凛の気持ちの確認。
アイの意思確認。
紙の上には、難しい言葉がいくつも並んだ。
アイには、まだ全部は分からない。
けれど、どの紙の中心にも、同じ問いがあった。
アイは、どうしたいのか。
アイは、どこで安心して息ができるのか。
何度も、そこへ戻っていく。
ある日、職員はアイに言った。
「お母さんのことについても、確認を進めています」
アイの肩が強ばった。
「……はい」
その話題は、まだ胸の中で形を変えながら残っている。
嫌いになったわけではない。
好きと言えるほど、簡単でもない。
期待していないふりをしていたのに、来なかったことは忘れられない。
でも、その人を否定しなければ前に進めないのかと思うと、それも苦しかった。
職員は、アイの反応を見て静かに言った。
「アイちゃんが何かを決めるために、お母さんを嫌いにならなきゃいけないわけじゃないよ」
アイは顔を上げる。
「嫌いじゃないと、だめなのかと思ってました」
「だめじゃないよ」
「好きかどうかも、嫌いかどうかも、まだ分からないです」
「それも、そのままでいいよ」
アイは目を伏せた。
そのまま。
分からないまま。
どちらか一つにしなくてもいい。
最近、そんな言葉が増えていた。
嫌なことと、嫌いなことは違う。
怖いことと、行きたくないことは違う。
欲しいと思うことと、奪うことは違う。
母のことが分からないままでも、渋谷家にいたいと思うことは消えない。
アイは、それを少しずつ覚えていった。
ある土曜日。
アイは夕方まで渋谷家で過ごした。
その日は、よく晴れていた。
店先の花に光が当たって、ブルースターの青がいつもより淡く見えた。
凛の部屋で本を読み、昼にスープを飲み、午後には母と一緒にカップを片づけた。
帰る時間になり、母が言った。
「そろそろ施設に戻ろうか」
アイはバッグを持った。
いつもの言葉を返そうとした。
「じゃあ、帰……」
そこで、止まった。
母の手も、凛の視線も、急かさなかった。
帰る。
今、自分はどこに帰ると言おうとしたのだろう。
施設へ戻る。
それは分かっている。
でも、口から出そうになった「帰る」は、どちらを向いていたのだろう。
渋谷家から出る時に、帰ると言いかけた。
それは、施設へ帰るという意味だったのか。
それとも。
アイは言葉を飲み込んだ。
母は気づいていた。
けれど、急かさなかった。
凛も隣でアイを見ている。
アイは目を伏せた。
「……戻ります」
母は頷く。
「うん」
凛が聞く。
「火曜日、来る?」
アイは頷いた。
「行く」
「うん」
その場では、それでよかった。
けれど、アイ自身は気づいてしまった。
渋谷家が、自分の中で少しずつ違う名前に近づいている。
まだ言えない。
まだ怖い。
それでも、「帰る」という言葉が、ほんの少し近くまで来ていた。
施設に戻ると、職員がいつものように迎えた。
「おかえり」
アイは少し間を置く。
「戻りました」
その返事も、前より自然になっている。
けれど、今日はその中に別の言葉が残っていた。
職員が聞く。
「今日はどうだった?」
アイはバッグを握ったまま考えた。
「帰るって、言いかけました」
職員は、ゆっくり瞬きをした。
「どこに?」
アイは首を横に振る。
「分からないです」
間を置いて、続ける。
「渋谷さんの家を出る時に、帰るって言いかけました」
職員は静かに聞いている。
アイの声は震えていた。
「怖かったです」
「うん」
「でも、嫌ではなかったです」
「そっか」
「まだ、家って言うのは怖いです」
「うん」
「でも、帰るって言葉が出そうになりました」
職員は、すぐに意味づけしなかった。
それが、ありがたかった。
ただ、静かに頷いてくれた。
「そのことも、覚えておこうか」
アイは頷く。
「はい」
その夜。
アイは予定表を開いた。
何度も書いて、何度も見て、何度も怖くなった紙。
その下に、新しく書く。
帰るって言いかけた。
まだ家とは書けない。
でも、言葉が出そうになった。
書いてから、しばらく鉛筆が止まった。
丸をつけるかどうか、迷う。
怖かった。
でも、嫌ではなかった。
まだ家とは書けない。
でも、言葉は出そうになった。
アイは、小さく丸をつけた。
家、と書くにはまだ怖かった。
けれど、帰るという言葉は、もう少し近くまで来ていた。
まだ名前のない場所が、少しずつ形を持ち始めていた。