星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第30話 星野アイのままで

 

 

施設の面談室に入る前、アイは扉の前で一度だけ立ち止まった。

 

何度も入った部屋だった。

 

小さな机。

向かい合う椅子。

窓から入る午後の光。

職員が、いつもと同じ声で呼んでくれる場所。

 

けれど今日は、扉の向こうにある空気が、いつもより重く感じた。

 

「アイちゃん」

 

職員が、廊下の先から声をかける。

 

アイは顔を上げた。

 

「はい」

 

「入れる?」

 

「……はい」

 

嘘ではなかった。

 

怖い。

 

でも、入れる。

 

そう思えた。

 

椅子に座ると、職員はすぐに話し始めなかった。

 

机の上には、いつもの予定表と、何枚かの紙が置かれている。

 

紙の端には、アイにはまだ全部読めない難しい言葉が並んでいた。

 

その一つ一つが、自分のことに関係している。

 

そう思うと、膝の上の手に力が入った。

 

職員は、アイの様子を見てから言った。

 

「今日は、少し大事な話をします」

 

アイの喉が、きゅっと狭くなる。

 

けれど、前のようにすぐ笑顔を作ろうとはしなかった。

 

「渋谷さんのことですか」

 

「うん」

 

「悪い話ですか」

 

職員は、静かに首を横に振った。

 

「違うよ」

 

その言葉に、アイは息を吸った。

 

悪い話ではない。

 

でも、いい話かどうかは、まだ分からない。

 

そういう話があることを、アイはもう知っている。

 

職員は、ゆっくり言った。

 

「渋谷さんのお父さんとお母さんが、アイちゃんを家族として迎えたいと考えています」

 

時間が、一度止まったように感じた。

 

家族として。

 

迎えたい。

 

言葉は聞こえた。

 

意味も、分かる気がした。

 

けれど、分かった瞬間に、頭の中が真っ白になった。

 

アイは職員を見つめたまま、声を出せなかった。

 

家族。

 

その言葉は、ずっと遠くにあった。

 

自分には近づけないものだと思っていた。

 

触れたら壊れるものだと思っていた。

 

欲しがったら、誰かを困らせるものだと思っていた。

 

それが今、目の前に置かれている。

 

職員は急かさなかった。

 

アイが言葉を探すまで、静かに待ってくれた。

 

「それは……」

 

ようやく出た声は、思っていたより小さかった。

 

「私が、渋谷さんの家の子になるってことですか」

 

「これから、その方向で話を進めていきたい、ということだよ」

 

「決まったんですか」

 

「まだ全部が終わったわけではないよ」

 

職員は、ひとつひとつ丁寧に置くように話した。

 

「手続きも、確認することもあります。すぐに今日から何かが全部変わるわけではありません」

 

アイは小さく頷いた。

 

すぐではない。

 

全部決まったわけではない。

 

それは何度も聞いた言葉だった。

 

でも、今日の言葉は違った。

 

形が、近い。

 

今までよりも、ずっと。

 

「でも」

 

アイは膝の上の手を見る。

 

「渋谷さんたちは、そう思ってくれてるんですか」

 

職員は頷いた。

 

「うん」

 

その一言だけで、胸の中がいっぱいになった。

 

嬉しい。

 

怖い。

 

分からない。

 

泣きたい。

 

逃げたい。

 

行きたい。

 

全部が一度に押し寄せて、アイは唇を結んだ。

 

自分が何を言えばいいのか、分からなかった。

 

しばらく黙っていたあと、アイの口から出たのは、思ってもいなかった言葉だった。

 

「名前は、変わりますか」

 

職員は、少しだけ目を細めた。

 

驚いたわけではない。

 

ちゃんと聞くための顔だった。

 

アイは、言葉を続けた。

 

「星野じゃなくなるんですか」

 

星野。

 

その二文字が、自分の中で揺れる。

 

母の名前につながるもの。

 

痛いもの。

 

苦しいもの。

 

置いていかれた記憶と、結びついているもの。

 

でも、それだけではない。

 

今まで自分が、ずっと名乗ってきた名前。

 

嘘をつく時も、笑う時も、泣きそうになる時も、施設で呼ばれる時も、凛に呼ばれる時も。

 

自分は、星野アイだった。

 

「変わった方がいいんですか」

 

アイは聞いた。

 

「渋谷さんの家の子になるなら、星野じゃない方がいいんですか」

 

職員は、すぐに答えを決めつけなかった。

 

「それも、これから一緒に考えることだよ」

 

「一緒に……」

 

「うん。アイちゃんがどう感じるかも、大事にする」

 

アイは、予定表を見た。

 

そこには、これまでの文字がいくつも残っている。

 

ここにいたいって言った。

 

預かってもらった。

 

帰るって言いかけた。

 

まだ家とは書けない。

 

でも、言葉が出そうになった。

 

その全部を書いた自分は、星野アイだった。

 

渋谷家に行きたいと思った自分も。

渋谷家に帰りたいと思いかけた自分も。

ここにいたいと言った自分も。

 

全部、星野アイだった。

 

それが変わるのだろうか。

 

変わらなければいけないのだろうか。

 

面談が終わっても、アイの中にはその問いが残ったままだった。

 

その日は、渋谷家へ行く日だった。

 

予定表には、いつものように書かれている。

 

土曜日。渋谷さんの家。

 

けれど今日は、いつものようには向かえなかった。

 

小さなバッグを持つ手に、力が入る。

 

道は変わらない。

 

花屋までの道。

 

何度も歩いた道。

 

それなのに、今日は一歩ごとに、言葉がついてくる。

 

家族として迎えたい。

 

星野じゃなくなるんですか。

 

渋谷さんの家の子。

 

アイは、店先の前で立ち止まった。

 

凛がいた。

 

鉢の間にしゃがんで、花の札を直している。

 

アイに気づくと、顔を上げた。

 

「来た」

 

いつもの言葉。

 

それだけで、少しだけ息ができた。

 

アイは、ゆっくり返した。

 

「来たよ」

 

「うん」

 

凛はいつも通りだった。

 

でも、目は少しだけ真剣だった。

 

きっと、何か知っている。

 

全部ではなくても、今日がいつもと違うことくらいは。

 

店の奥から、凛の母が出てきた。

 

「いらっしゃい、アイちゃん」

 

「……こんにちは」

 

父も奥から顔を出した。

 

「こんにちは」

 

いつもより、父の声が少しだけ静かだった。

 

アイは靴を脱いで、奥へ上がった。

 

いつもの湯呑みが出てきた。

 

棚の右側から、迷わずに。

 

白地に小さな青い模様の湯呑み。

 

アイはそれを見た瞬間、胸が痛くなった。

 

ここにいたいと言ったあとも。

家族として迎えたいと言われたあとも。

名前のことが怖くなったあとも。

 

湯呑みは、いつもの場所から出てきた。

 

母は、お茶を置いてから、アイの向かいに座った。

 

父も座る。

 

凛は、アイの隣に座った。

 

いつもの食卓。

 

でも、今日はみんなが同じ方向を向いている気がした。

 

母が、静かに言った。

 

「アイちゃん。今日は、ちゃんと話したいことがあります」

 

アイは湯呑みを包む手に力を込めた。

 

「はい」

 

母は、まっすぐアイを見る。

 

「私たちは、アイちゃんをこの家に迎えたいと思っています」

 

言葉は、さっき職員から聞いたものと同じだった。

 

でも、本人の口から聞くと、重さが違った。

 

父が続ける。

 

「すぐに全部が変わるわけじゃない。まだ進めなきゃいけないことはある」

 

母が頷く。

 

「でも、気持ちとしては、もう決めています」

 

アイは、何も言えなかった。

 

言葉を受け止めるだけで精一杯だった。

 

母は、少しだけ声を柔らかくした。

 

「アイちゃんが、ここにいたいと言ってくれたこと。ちゃんと預かりました」

 

父が言う。

 

「その言葉に、ちゃんと返事をしたい」

 

母の目が、ほんの少しだけ潤んでいるように見えた。

 

「私たちは、アイちゃんにここにいてほしいです」

 

息が止まった。

 

ここにいたい。

 

あの日、自分が言った言葉。

 

それに、返事が来た。

 

ここにいてほしい。

 

怖いくらい、欲しかった言葉だった。

 

でも、欲しかったと認めることすら怖かった言葉だった。

 

アイは湯呑みを見つめた。

 

視界が少し歪む。

 

泣きたくない。

 

でも、涙が出そうだった。

 

「私」

 

声が震えた。

 

母も父も、凛も、待っている。

 

「星野アイのままでいいですか」

 

部屋が、静かになった。

 

アイは、慌てて言葉を続けた。

 

「名前を変えたくないっていうより」

 

自分でも、うまく説明できない。

 

「変わったら、今までの私がなくなる気がして」

 

胸の奥が痛い。

 

「でも、星野のままだったら、渋谷さんの家の子になれないのかなって」

 

言ってしまったあと、怖くなった。

 

わがままだと思われるかもしれない。

 

迎えたいと言ってくれたのに、まだそんなことを気にするのかと思われるかもしれない。

 

渋谷家の子になるなら、変わらなければいけないと言われるかもしれない。

 

でも、母はすぐに首を横に振った。

 

「もちろん、星野アイのままでいいよ」

 

アイは顔を上げた。

 

「……いいんですか」

 

「うん」

 

母は、ゆっくり頷いた。

 

「名前が変わっても、変わらなくても、アイちゃんがアイちゃんであることは変わらない」

 

父も、静かに言った。

 

「この家に来るために、今までのアイちゃんを消さなくていい」

 

その言葉で、アイの目から涙が一粒こぼれた。

 

消さなくていい。

 

星野という名前も。

 

母のことが分からない気持ちも。

 

施設で過ごした時間も。

 

嘘で笑っていた自分も。

 

渋谷家に来たいと思った自分も。

 

全部、消さなくていい。

 

凛が隣で言った。

 

「アイはアイだから」

 

アイは、涙をこらえながら凛を見る。

 

「凛ちゃん、それだけ?」

 

凛は真面目な顔で頷いた。

 

「それが大事」

 

アイは泣きながら、少し笑ってしまった。

 

「……うん」

 

それが大事。

 

たぶん、本当にそうだった。

 

アイは、手の甲で涙を拭った。

 

でも、まだ聞きたいことがあった。

 

怖くても、今日は言わなければいけない気がした。

 

「お母さんのこと」

 

母は静かに待った。

 

「嫌いにならなくてもいいですか」

 

部屋の空気が、少しだけ深くなる。

 

母は、まっすぐ答えた。

 

「いいよ」

 

父も頷く。

 

「分からないままでもいい」

 

アイは唇を噛みそうになって、やめた。

 

凛が言う。

 

「嫌いと、ここにいるは別」

 

アイは凛を見た。

 

凛は、少しだけ考えてから言い足した。

 

「分ける」

 

その言葉に、アイは思わず小さく笑った。

 

涙がまだ残っているのに、笑えた。

 

「……また乱暴」

 

「でも、分ける」

 

「うん」

 

アイは頷いた。

 

「分ける」

 

まだ、全部は分からない。

 

母のことをどう思えばいいのかも。

星野という名前を、これからどう抱えていけばいいのかも。

渋谷家の子になるということが、どれだけ大きいことなのかも。

 

それでも、ひとつだけ分かった。

 

ここにいたいと思った自分を、消さなくていい。

 

母が、ゆっくり聞いた。

 

「アイちゃんは、どうしたい?」

 

その問いを、アイは何度も聞かれてきた。

 

最初は、答えるのが怖かった。

 

迷惑じゃなければ。

どちらでも。

お任せします。

 

そう言えば、楽だった。

 

けれど今は、もうその言葉には戻れなかった。

 

アイは、両手で湯呑みを包んだ。

 

温かい。

 

この家で、何度も受け取った温かさだった。

 

「ここにいたいです」

 

声は震えていた。

 

でも、今度は目を伏せなかった。

 

母を見て、父を見て、凛を見た。

 

「渋谷さんの家に、帰りたいです」

 

言えた。

 

言った瞬間、胸の奥にあった何かが崩れた。

 

怖さではなく。

 

ずっと固まっていたものが、ようやくほどけたような感覚だった。

 

母の目が揺れた。

 

父は、何か言おうとして、一度口を閉じた。

 

凛は、ただまっすぐアイを見ていた。

 

母が小さく聞いた。

 

「抱きしめてもいい?」

 

アイは一瞬迷った。

 

でも、その迷いは嫌なものではなかった。

 

「……はい」

 

母の腕が、そっとアイを包んだ。

 

強くない。

 

逃げられないほどではない。

 

けれど、確かにそこにいると分かる抱きしめ方だった。

 

アイは、少しだけ肩を震わせた。

 

泣いているのか、自分でも分からなかった。

 

ただ、息ができた。

 

父が、少し鼻をすすった。

 

凛がすぐに見る。

 

「お父さん、泣いてる?」

 

父は顔をそらす。

 

「泣いてない」

 

凛はじっと見る。

 

「嘘」

 

母が、アイを抱きしめたまま少し笑った。

 

父は困ったように目元を押さえた。

 

「父親になるには、まだ勉強がいるな」

 

母が柔らかく言う。

 

「もう少し落ち着いて」

 

凛は真顔で言った。

 

「まず、泣いてるって認めるところから」

 

父は完全に黙った。

 

アイは、母の腕の中で笑った。

 

涙と笑いが混ざって、声が少し変になった。

 

でも、誰も変だとは言わなかった。

 

その日も、アイは施設へ戻った。

 

まだ、全部が終わったわけではない。

 

手続きも、確認することも、これから進めることもある。

 

けれど、帰り道は前とは違っていた。

 

渋谷家を出る時、アイは一度だけ振り返った。

 

母が立っている。

父が少し後ろにいる。

凛が店先で手を振らずに、ただ見ている。

 

いつもの凛だった。

 

でも、その視線が嬉しかった。

 

施設に戻ると、職員が迎えた。

 

「おかえり」

 

アイは一拍置いた。

 

「戻りました」

 

まだ、その言葉を使う。

 

でも、今日はその奥に、別の言葉があった。

 

職員が聞く。

 

「今日はどうだった?」

 

アイは、バッグの持ち手を握った。

 

泣いたこと。

 

笑ったこと。

 

抱きしめてもらったこと。

 

父が泣いていないと言い張ったこと。

 

凛が、アイはアイだから、と言ったこと。

 

全部を一度に話すのは難しかった。

 

だから、一番大事なことから言った。

 

「渋谷さんの家に、帰りたいって言いました」

 

職員は静かに頷いた。

 

「言えたんだね」

 

「はい」

 

「これから、ちゃんと進めていこう」

 

アイは頷いた。

 

「はい」

 

その夜。

 

アイは予定表を開いた。

 

前の行が目に入る。

 

帰るって言いかけた。

まだ家とは書けない。

でも、言葉が出そうになった。

 

その下に、ゆっくり書く。

 

渋谷さんの家に、帰りたいって言った。

 

文字が少し滲んだ。

 

涙が落ちたわけではない。

 

でも、手が震えていた。

 

さらに一行、書き足す。

 

星野アイのままでいいって言ってもらった。

 

星野という名前は、まだ少し痛かった。

 

けれど、それは消さなければいけないものではなかった。

 

アイはその文字を、消さずに残した。

 

そのままの名前で、帰りたい場所ができた。

 

その日、予定表の中で初めて、渋谷さんの家という文字の横に、小さく「帰りたい」と書いた。

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