星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第31話 帰るまでの途中

 

 

予定表の書き方が、少し変わった。

 

火曜日。花屋。

金曜日。渋谷さんの家。

土曜日。渋谷さんの家。

日曜日。渋谷さんの家。

 

以前なら、その文字を見るだけで胸がざわついた。

 

渋谷さんの家。

 

近すぎる言葉だった。

 

触れたら壊れそうで、書いたあとに消したくなる日もあった。

 

けれど今は、違う。

 

手続きはまだ終わっていない。

 

施設に戻る日もある。

 

大人たちの話し合いも続いている。

 

それでも、アイはその予定を見るたびに、少しずつ思うようになっていた。

 

行く日ではなく。

 

帰る日が、増えている。

 

それからの日々は、静かに進んだ。

 

劇的な何かが毎日起きるわけではない。

 

書類が増えた。

 

電話が増えた。

 

面談の日が増えた。

 

職員の机には、アイの記録が重ねられていった。

 

渋谷家のテーブルには、母のメモが置かれるようになった。

 

父が腕を組んで、難しい顔で話を聞いている日もあった。

 

凛が、少し考えてから「嫌な日は言う」と答える日もあった。

 

大人たちは何度も確認した。

 

アイはどうしたいのか。

 

凛は無理をしていないか。

 

渋谷家は、これから先も続けていけるのか。

 

実母のことを、どう受け止めるのか。

 

難しい言葉はたくさんあった。

 

アイには、まだ全部は分からない。

 

けれど、その中心に置かれているものだけは分かった。

 

アイが、安心して帰れる場所。

 

その場所を、壊さずに作るための時間だった。

 

朝から渋谷家にいる日が増えた。

 

午前中の家には、午後とは違う空気がある。

 

父の新聞。

 

母のエプロン。

 

凛の少し眠そうな顔。

 

店先に並ぶ前の花。

 

まだ整いきっていないテーブル。

 

最初は、そこに入るたびに背筋が伸びた。

 

入ってはいけない時間に入れてもらっている気がした。

 

でも、何度か朝を重ねるうちに、その感覚も変わっていった。

 

ある朝、渋谷家に着くと、父が店先を掃いていた。

 

「おはよう、アイちゃん」

 

「おはようございます」

 

凛が横から顔を出す。

 

「まだ固い」

 

アイは少しだけ眉を寄せた。

 

「朝だから」

 

「理由になってない」

 

「朝はみんな少し固いでしょ」

 

凛は考えた。

 

「お父さんは朝から変」

 

父が箒を持ったまま振り返る。

 

「聞こえてるぞ」

 

「聞こえるように言った」

 

「朝から厳しいな」

 

アイは小さく笑った。

 

その笑い方も、前より自然になっていた。

 

母が奥から出てくる。

 

「アイちゃん、先にお茶にする?」

 

アイは頷きかけて、少し考えた。

 

「先に、カップ出してもいいですか」

 

母は微笑んだ。

 

「もちろん」

 

アイは棚に向かった。

 

湯呑みの場所は分かる。

 

カップの場所も分かる。

 

小さなスプーンが入っている引き出しも、もう迷わない。

 

指先が自然に棚へ伸びた。

 

そのことに、自分で少し驚いた。

 

誰かの家の中で、物の場所を覚えている。

 

それは、思っていたより深いところに触れる感覚だった。

 

母が隣で言った。

 

「ありがとう」

 

アイはカップをテーブルに置く。

 

「ここの棚ですよね」

 

「うん」

 

「覚えちゃいました」

 

言ってから、少し恥ずかしくなる。

 

覚えている。

 

それは、自分が何度もここに来た証拠だった。

 

母は大げさにはしなかった。

 

ただ、柔らかく頷いた。

 

「助かるよ」

 

それだけだった。

 

だから、アイも逃げなくて済んだ。

 

凛の部屋でも、変化はあった。

 

窓辺の近くに置かれた薄いクッション。

 

最初は、そこへ座るたびに緊張した。

 

けれど、いつの間にか、アイは何も言われなくてもその場所に座るようになっていた。

 

ある日、いつものように腰を下ろしたあと、凛が本から顔を上げた。

 

「そこ、もう迷わないね」

 

アイは、自分が座っている場所を見た。

 

「……うん」

 

「嫌?」

 

「嫌じゃない」

 

その返事は、もう前ほど時間がかからなかった。

 

凛は頷く。

 

「じゃあ、そこ」

 

アイはクッションの端を指でなぞる。

 

「もう決まってるみたい」

 

「決まってる」

 

「誰が決めたの?」

 

凛は少し考えた。

 

「アイが座った」

 

「それだけ?」

 

「何回も」

 

アイは言葉を失って、それから小さく笑った。

 

そうかもしれない。

 

誰かが大きな声で決めたわけではない。

 

何度も来て。

 

何度も迷って。

 

何度も座って。

 

また立って。

 

また戻ってきて。

 

そうしているうちに、場所は少しずつできていくのかもしれない。

 

「じゃあ、ここでいい」

 

アイが言うと、凛は短く頷いた。

 

「うん」

 

その日は、二人で宿題をした。

 

凛が算数のノートを開き、アイの隣に座る。

 

「ここ、分かる?」

 

アイは目を瞬かせた。

 

「私に聞くの?」

 

「お母さん忙しい」

 

「私も分からないかもよ」

 

「じゃあ、一緒に分からない」

 

その言い方がおかしくて、アイは笑った。

 

「それ、解決してないよ」

 

「一人で分からないよりいい」

 

アイはノートを覗き込む。

 

数字が並んでいる。

 

少し考える。

 

けれど、すぐには分からない。

 

「……これ、たぶん私も怪しい」

 

凛は頷く。

 

「うん」

 

「うんじゃないでしょ」

 

「一緒に分からない」

 

アイは鉛筆を持った。

 

前なら、役に立たなければいけないと思ったかもしれない。

 

正しく答えなければ、ここにいる理由が薄くなるような気がしたかもしれない。

 

でも今は、凛と同じ机で、同じ問題を見ていた。

 

分からないまま。

 

それでも、隣にいる。

 

結局、二人でしばらく考えてから、母に聞いた。

 

母はノートを見て笑った。

 

「二人で同じところで止まってたの?」

 

凛が頷く。

 

「うん」

 

アイが言う。

 

「仲良く分かりませんでした」

 

母は笑った。

 

その笑い声が、台所の音に混じった。

 

それだけのことが、ずっと残った。

 

帰る時間になっても、アイの中の言葉は以前とは違っていた。

 

母が言う。

 

「そろそろ施設に戻ろうか」

 

アイはバッグを持つ。

 

いつものように頷く。

 

「はい。じゃあ、また帰ってきます」

 

言ってから、固まった。

 

凛が顔を上げる。

 

「言った」

 

アイの頬が熱くなる。

 

「……聞こえた?」

 

「聞こえた」

 

「今のは、その」

 

言い訳を探そうとして、でも見つからなかった。

 

帰ってきます。

 

確かに、自分でそう言った。

 

施設へ戻るのに。

 

渋谷家を出る時に。

 

また帰ってきます、と。

 

父は何か言いかけて、母に視線で止められた。

 

母は笑わなかった。

 

茶化さなかった。

 

ただ、静かに言った。

 

「うん。待ってるね」

 

その返事で、アイはようやく息を吐いた。

 

取り消さなくてよかった。

 

言い直さなくてよかった。

 

間違いだったことにしなくてよかった。

 

凛が短く言う。

 

「火曜日も?」

 

アイは少しだけ視線を逸らして、それから頷いた。

 

「……帰ってくる」

 

凛は頷いた。

 

「うん」

 

施設に戻ると、職員が声をかけた。

 

「最近、アイちゃん、渋谷さんのお家の話をする時の顔が少し変わったね」

 

アイは少しだけ身構える。

 

「変ですか」

 

職員は首を横に振った。

 

「ううん。戻る場所の話をしている顔に近い」

 

戻る場所。

 

その言葉は、前ならすぐには受け取れなかった。

 

けれど今は、胸の中で跳ねるだけで、逃げ出したくはならなかった。

 

「今日」

 

アイは少し迷ってから言った。

 

「また帰ってきます、って言いました」

 

職員は静かに聞いている。

 

「渋谷さんのお家を出る時に」

 

「うん」

 

「言ったあと、少し恥ずかしかったです」

 

「そっか」

 

「でも、嫌ではなかったです」

 

職員は微笑んだ。

 

「それも、覚えておこうか」

 

アイは頷いた。

 

「はい」

 

渋谷家でも、準備は少しずつ形を持っていた。

 

ある夕方、母が施設からの電話を受けた。

 

アイはその場にはいなかった。

 

凛は店先で花の水を替えていた。

 

父は奥で伝票を確認している。

 

母は電話の向こうの言葉を、ひとつずつ丁寧に聞いていた。

 

「はい」

 

「分かりました」

 

「こちらも、そのつもりで準備しています」

 

電話を切ったあと、母はしばらく受話器に手を置いていた。

 

父が顔を上げる。

 

「進みそうか」

 

母は頷いた。

 

「うん。次の段階に進めそうだって」

 

父は短く息を吐いた。

 

「そうか」

 

それだけ言って、少し黙った。

 

母は椅子に座る。

 

「まだ、すぐ全部が終わるわけじゃないけど」

 

「分かってる」

 

父は伝票を閉じた。

 

「でも、いよいよ、ちゃんと返事を形にするんだな」

 

母は頷く。

 

「そうね」

 

凛が店先から顔を出した。

 

「アイ、来る?」

 

母は凛を見る。

 

「まだ日を決める話が残ってる。でも、近づいてる」

 

凛は少し考えた。

 

「じゃあ、部屋片づける」

 

母が少し笑う。

 

「自分の部屋を?」

 

「うん」

 

「アイちゃんが来るから?」

 

凛は首を横に振った。

 

「私が困るから」

 

父が目を細めた。

 

「いい理由だな」

 

凛は真顔で頷く。

 

「うん」

 

母も笑った。

 

凛はもう、アイのためだけに何かをする良い子ではなくなっていた。

 

自分の部屋で、自分が困らないようにする。

 

その中に、アイが来る未来も入っている。

 

それが、自然だった。

 

凛は部屋へ戻り、床に置いていた本を重ねた。

 

窓辺のクッションを少し直す。

 

アイが座る場所。

 

でも、それだけではない。

 

凛の部屋の一部。

 

二つを無理に分けなくてもいいのだと、凛も覚え始めていた。

 

日々は、すぐには変わらなかった。

 

アイはまだ施設に戻る。

 

渋谷家へ行く日もあれば、行かない日もある。

 

怖くなる日もある。

 

でも、言葉はもう前より近かった。

 

渋谷さんの家。

 

帰りたい場所。

 

また帰ってくる場所。

 

ある夜、アイは予定表を開いた。

 

以前より、欄は増えている。

 

火曜日。花屋。

金曜日。渋谷さんの家。

土曜日。渋谷さんの家。

日曜日。少しだけ。

 

花屋と渋谷さんの家が、同じ紙の上に並んでいる。

 

昔は、それだけで怖かった。

 

今も、少しだけ胸は揺れる。

 

でも、その揺れはもう、戻りたいという合図ではなかった。

 

前に書いた行を見る。

 

渋谷さんの家に、帰りたいって言った。

星野アイのままでいいって言ってもらった。

 

その下に、新しく書く。

 

また帰ってきますって言った。

 

文字を見て、顔が少し熱くなる。

 

でも、消さなかった。

 

さらに一行、書き足す。

 

また帰る日。

 

手続きはまだ終わっていない。

 

明日からすべてが変わるわけでもない。

 

それでも、アイはもう知っていた。

 

そこは、ただ行く場所ではない。

 

帰ってきてもいい場所だ。

 

アイは「また帰る日」という文字を、小さく丸で囲んだ。

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