星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜 作:百合太郎
それから、もう少しだけ時間がかかった。
書類が増えた。
面談が増えた。
確認することも増えた。
アイには、まだ全部は分からなかった。
けれど、大人たちが何度も同じ場所に戻っていることは分かっていた。
アイは、どうしたいのか。
アイは、どこで安心して息ができるのか。
その問いだけは、何度も聞かれた。
そして、何度も答えた。
怖いです。
でも、帰りたいです。
星野アイのままで、渋谷さんの家に帰りたいです。
その言葉は、最初より少しだけ震えなくなった。
何度も口にするうちに、少しずつ自分のものになっていった。
何度目かの面談の日。
職員は、いつもの面談室でアイの前に座った。
机の上には、数枚の紙が置かれている。
アイは、その紙を見ただけで背中が伸びた。
「アイちゃん」
「はい」
職員は、少しだけ表情を和らげた。
「渋谷さんのお家へ移る日が決まりました」
アイは、すぐには返事ができなかった。
聞こえた。
意味も分かった。
けれど、頭が追いつかなかった。
渋谷さんのお家へ移る日。
行く日ではなく。
泊まりに行く日でもなく。
移る日。
アイは膝の上で手を握った。
「本当に……ですか」
「うん」
職員は頷いた。
「もちろん、これからも確認することはあるし、すべてが急に終わるわけではないよ。でも、渋谷さんのお家で暮らすための日が決まりました」
暮らす。
その言葉が、胸の中で静かに広がった。
嬉しい。
怖い。
信じられない。
でも、嘘ではない。
「今日から、じゃないですよね」
「うん。何日か準備してからね」
アイは小さく息を吐いた。
すぐではない。
それが少しだけありがたかった。
嬉しいことでも、急に来ると怖い。
その怖さを、もう自分で分かるようになっていた。
職員は続けた。
「アイちゃんが言ってくれたことを、みんなで大事に話してきました」
アイは顔を上げる。
「ここにいたいって言ったこと、ですか」
「うん」
職員は頷いた。
「帰りたいって言ったことも。星野アイのままでいたいって言ったことも。お母さんのことがまだ分からないって言ったことも。全部、ちゃんと話の中に入っています」
全部。
その言葉に、アイは少しだけ唇を結んだ。
どれか一つを選ぶために、どれかを捨てるわけではない。
怖いままでも。
分からないままでも。
帰りたいと思っても。
全部、自分の言葉として置いていい。
「……はい」
アイは頷いた。
嬉しいのに、胸が少し痛かった。
それを職員は見逃さなかった。
「寂しい?」
アイは目を伏せた。
すぐには答えられなかった。
寂しい。
その言葉は、少し意外だった。
ずっと、渋谷家に帰りたいと思っていた。
ここにいたいと願っていた。
なのに、施設を出ることを想像すると、胸の奥が静かに重くなる。
廊下の音。
食堂のにぎやかさ。
面談室の椅子。
職員の「おかえり」。
予定表を書いた机。
自分が過ごしてきた場所。
そこを出る。
アイは小さく言った。
「ここを出るのに、寂しいって思ってもいいんですか」
職員は、すぐに頷いた。
「もちろん」
「渋谷さんの家に行きたいのに?」
「行きたい場所があることと、今までいた場所が寂しいことは、両方あっていいよ」
アイは少しだけ目を見開いた。
そして、ふっと息を漏らした。
「凛ちゃんが言いそうです」
職員は少し笑った。
「そうかもね」
アイも、ほんの少しだけ笑った。
寂しい。
でも行きたい。
その二つを、分けてもいい。
一緒に持っていてもいい。
そのことを、アイは少しずつ覚えてきた。
移る日までの数日間、アイは荷物をまとめた。
荷物は、多くなかった。
服。
本。
ハンカチ。
小さな小物。
何度も使った筆箱。
そして、予定表。
アイは机の上に広げた予定表を、しばらく見つめた。
火曜日。花屋。
金曜日。渋谷さんの家。
土曜日。渋谷さんの家。
ここにいたいって言った。
預かってもらった。
渋谷さんの家に、帰りたいって言った。
星野アイのままでいいって言ってもらった。
また帰ってきますって言った。
紙の上には、これまでの自分がいた。
怖がっている自分。
欲しがるのが怖かった自分。
帰ると言いかけて止まった自分。
それでも、消さなかった自分。
アイは予定表を折らなかった。
くしゃくしゃにもしたくなかった。
できるだけ丁寧に、鞄の中へ入れた。
それは、渋谷家へ持っていくものだった。
出発の日。
施設の玄関には、職員が立っていた。
いつもと同じ玄関。
けれど、今日は靴を履く意味が違った。
出かけるためではない。
移るため。
アイは靴紐を結び、立ち上がった。
職員が言う。
「準備できた?」
「はい」
声は少し震えた。
でも、ちゃんと出た。
職員はアイの鞄を見て、少しだけ目を細めた。
「予定表、持った?」
アイは頷く。
「持ちました」
「そっか」
職員は少しだけ笑った。
それから、ゆっくり言った。
「いってらっしゃい」
アイは一瞬、止まった。
行ってらっしゃい。
いつもなら、どこかへ出かける時に聞く言葉。
でも今日は、ここから離れる日。
それでも、職員は「さようなら」とは言わなかった。
いってらっしゃい。
戻ってくる場所が完全になくなるわけではない。
ここにいた時間も消えない。
そう言われている気がした。
アイは喉の奥に力を込めた。
「行ってきます」
言えた。
職員は頷いた。
「うん。困った時は、また話せるからね」
「はい」
「ここにいた時間も、なくならないよ」
アイの目が少し熱くなった。
「はい」
施設を出ると、渋谷母と凛が待っていた。
母はいつものように穏やかで、凛はいつものように表情があまり変わらない。
でも、凛の立ち方が少しだけ落ち着かないことに、アイは気づいた。
「荷物、持つ?」
凛が聞いた。
アイは鞄を握る。
「大丈夫」
「じゃあ、隣歩く」
「それは聞かないんだ」
「聞かない」
アイは少し笑った。
凛は当たり前のように隣に並んだ。
母はその少し前を歩く。
道は、何度も歩いた道だった。
施設から渋谷家までの道。
花屋へ向かう道。
怖かった日もある。
足が止まった日もある。
でも今日は、その道が少し違って見えた。
行く道ではない。
帰る道。
そう思った瞬間、胸が熱くなった。
アイは隣の凛を見た。
凛は前を向いたまま言う。
「なに?」
「何も言ってないよ」
「見た」
「よく分かるね」
「隣だから」
アイは少し笑った。
隣。
その距離が、今日はいつもより心強かった。
花屋が見えてきた。
店先には、父が立っていた。
少しだけ落ち着かないように見える。
でも、アイと目が合うと、背筋を伸ばした。
母が店先で足を止める。
凛も隣で止まる。
アイは、鞄を握ったまま花屋の前に立った。
何度も来た場所。
何度も帰りたくないと思った場所。
何度も「また来る」と言った場所。
父が、ゆっくり口を開いた。
「おかえり、アイちゃん」
その言葉に、アイの中の時間が止まった。
おかえり。
ずっと欲しかった言葉。
でも、欲しいと認めるのが怖かった言葉。
それが今、自分に向けられている。
アイはすぐに返せなかった。
ただいま。
そう言いたい。
でも、喉の奥で震える。
まだ少し怖い。
でも、逃げたくない。
アイは一度、息を吸った。
そして、ゆっくり言った。
「……帰ってきました」
父の顔が、少しだけ崩れた。
母は静かに微笑んだ。
「うん。おかえり」
凛が横で言った。
「来た」
アイは思わず凛を見る。
「今日もそれ?」
凛は少しだけ考える。
「今日は、帰ってきた」
その言葉で、アイは泣きそうになった。
来た。
帰ってきた。
その違いを、凛もちゃんと分かっている。
アイは小さく頷いた。
「うん」
奥へ上がると、母が荷物を置く場所を案内してくれた。
いきなり大きな部屋が与えられるわけではない。
まずは、棚の一角。
服をしまう場所。
小物を置く場所。
予定表を入れておける小さな引き出し。
「まずは、ここに置こうか」
母が言った。
アイは鞄を下ろす。
中から服を出し、本を出し、ハンカチを出す。
そして、予定表を取り出した。
一瞬だけ迷って、小さな引き出しに入れる。
そこに入れた瞬間、胸が少し震えた。
自分の言葉が、この家の中に置かれる。
凛が隣で見ていた。
「そこ、アイの場所」
アイは少しだけ困ったように笑う。
「また簡単に言う」
「でも、そう」
「……うん」
今度は、否定しなかった。
そこは、アイの場所だった。
まだ小さな場所。
棚の一角。
引き出し一つ。
でも、確かにそこにある場所。
夕飯は、いつもより少し静かだった。
母は気を遣いすぎないようにしているのが分かった。
父は何か話したそうで、でも余計なことを言わないようにしている。
凛はいつも通りに見えて、少しだけアイの様子を見ていた。
テーブルには、スープとパンと、少しの果物。
食べられる分だけ。
その言葉はもう、言われなくても分かっている。
アイは椅子に座り、自分のカップを見た。
四つ並んだカップ。
そこに、自分の分がある。
今日からは、訪問のためのカップではない。
ここで過ごすためのカップ。
父が、少しだけ場を軽くするように言った。
「今日は何係だ?」
母がすぐに見る。
「係は増やさない」
凛が真顔で言う。
「今日は帰ってきた係」
アイは目を瞬かせた。
「何それ」
凛は静かに答える。
「大事」
父が深く頷いた。
「それは大事だな」
母も少し笑った。
アイは、カップを両手で包んだ。
温かい。
「帰ってきた係って、何をすればいいの?」
凛は少し考える。
「ここにいる」
アイは言葉を失った。
父が静かに笑う。
「一番大事だな」
母も頷いた。
「うん」
アイは視線を落とした。
ここにいる。
何かをしなくても。
役に立たなくても。
ちゃんと食べられなくても。
ここにいることが、今日の役目。
それでいいと言われている気がした。
「……じゃあ、今日はそれで」
アイがそう言うと、凛は短く頷いた。
「うん」
夕飯の後。
いつもなら、そろそろ帰る時間だった。
時計の針が、何度も見た時間に近づく。
アイの身体は、勝手に反応した。
バッグはどこだろう。
靴を履く時間だろうか。
職員に連絡するのだろうか。
そんな考えが、癖のように浮かんだ。
母が気づいた。
「アイちゃん」
アイは顔を上げる。
母は優しく言った。
「今日は、ここにいていい日だよ」
アイは息を止めた。
ここにいていい日。
凛が隣で言う。
「帰らない日」
アイは小さく頷いた。
「……うん」
父も言った。
「不安なら、いつでも言っていい」
母が続ける。
「でも、今日はここで休もう」
ここで休む。
帰らない、ではなく。
戻らない、でもなく。
ここで休む。
その言い方が、少しだけ息をしやすくしてくれた。
「はい」
アイは頷いた。
その夜。
アイは新しく用意された場所に座り、予定表を開いた。
いつもより、手が震えていた。
でも、逃げたい震えではなかった。
今日の行を書く。
渋谷さんの家へ移った日。
帰ってきましたって言った。
少し迷って、もう一行。
今日は、施設に戻らない日。
その文字は、少し怖かった。
施設に戻らない。
今まで何度も戻ってきた場所に、今日は戻らない。
嬉しいのに、寂しい。
寂しいのに、帰ってきたと思う。
アイは鉛筆を持ち直した。
その下に、もう一行書く。
ここで休む日。
そう書くと、少しだけ息がしやすくなった。
施設に戻らない、という文字はまだ怖い。
けれど、ここで休む日、と書けば、今日の自分に合っている気がした。
アイは予定表を閉じる前に、もう一度だけ今日の行を見る。
渋谷さんの家へ移った日。
帰ってきましたって言った。
ここで休む日。
その文字の横に、アイはゆっくり丸をつけた。