星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜 作:百合太郎
目を開けた時、最初に見えた天井が違った。
白い天井。
でも、施設の部屋のものではない。
一瞬、アイは自分がどこにいるのか分からなかった。
布団の感触も違う。
窓から入る光の角度も違う。
廊下から聞こえる足音も、食堂へ向かう子どもたちの声もない。
代わりに、どこか近くで食器の触れる音がした。
台所の音。
店先の方から、戸を開ける音がした。
父の声が、少し低く聞こえる。
母の返事。
それから、短い凛の声。
アイは布団の中で、しばらく動かなかった。
ここは、渋谷家だ。
昨日、自分はここへ来た。
帰ってきました、と言った。
ここで休む日、と予定表に書いた。
その文字を思い出した瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
施設に戻らなかった夜。
渋谷家で目を覚ました朝。
嬉しいはずなのに、身体はまだ少し戸惑っている。
それでも、怖くて動けないわけではなかった。
アイは布団の端を握る。
そこへ、控えめに戸が開いた。
凛が顔をのぞかせる。
「起きてる?」
アイは少しだけ瞬きをした。
「起きてる……と思う」
凛は首を傾げた。
「思う?」
「まだ少し分からない」
「朝だから」
アイは思わず小さく笑った。
「昨日の私の言い訳取られた」
「使った」
「勝手に?」
「うん」
凛はいつもの顔でそう言った。
その変わらなさに、アイは少しだけ安心する。
凛は部屋に一歩入った。
「おはよう」
その言葉は、昨日までとは少し違って聞こえた。
学校で会った時の、おはようではない。
施設から来たアイを迎える時の、おはようでもない。
同じ家の中で、朝に交わす言葉。
アイはゆっくり体を起こした。
「おはよう、凛ちゃん」
凛は短く頷く。
「うん」
たったそれだけだった。
でも、アイにはそれが、とても大きなことに思えた。
身支度をして部屋を出ると、廊下の空気が少しひんやりしていた。
施設の朝より静かで、それでいて家の中には小さな音がいくつもある。
台所で母が何かを温めている音。
父が店先で戸を開ける音。
凛が先を歩く足音。
アイはその後ろをついていった。
食卓には、もう湯呑みが置かれていた。
白地に小さな青い模様の湯呑み。
アイの湯呑み。
棚から取り出されるところを見ていない。
母に「お茶にする?」と聞かれてから出てきたものでもない。
最初から、そこにあった。
朝の席に。
アイは足を止めた。
母が振り向く。
「おはよう、アイちゃん」
父も店先から顔を出した。
「おはよう」
アイは少し遅れて頭を下げた。
「おはようございます」
凛が隣で言う。
「まだ固い」
アイはすぐに返した。
「朝だから」
父が頷く。
「朝は固くてもいい」
母が少し笑う。
「お父さんは柔らかすぎるけどね」
凛が真顔で言った。
「変なだけ」
父は胸を押さえる。
「朝から三人に刺されてる」
アイは笑ってしまった。
笑いながら、椅子に座る。
目の前に、自分の湯呑みがある。
訪問のために出されたものではなかった。
朝の席に、最初から置かれていた。
それだけで、胸が少し詰まる。
母が食卓にパンとスープ、果物を並べた。
「食べられる分でいいよ」
その言葉も、もう何度も聞いた。
でも今日は、少しだけ違う返事をしたかった。
アイは湯呑みに手を添えながら言った。
「少し食べます」
母は頷く。
「うん」
父が口を開きかけた。
「食べる係――」
母がすぐに見る。
「今日は係なし」
凛が続ける。
「朝だから」
父は目を瞬かせた。
「朝、便利だな」
アイは小さく笑いながら、パンを少しちぎった。
スープを飲む。
温かい。
昨日と同じ家。
でも、昨日とは違う朝。
アイは少しずつ食べた。
全部ではない。
でも、少し。
それでよかった。
食事のあと、学校の準備をする。
鞄を持つ。
筆箱を入れる。
ハンカチを確認する。
その一つ一つが、妙に不思議だった。
施設から学校へ行くのではない。
渋谷家から学校へ行く。
凛は隣で、いつものように淡々と準備している。
それなのに、アイの方は何度も鞄の中を見直してしまった。
凛が言う。
「入ってる」
アイは顔を上げる。
「何が?」
「たぶん、全部」
「たぶんって不安なんだけど」
「でも、さっきから三回見てる」
「見てたの?」
「見える」
アイは少し笑って、鞄を閉じた。
母が玄関まで来る。
父も店先から顔を出す。
「いってらっしゃい」
母の声。
「いってらっしゃい」
父の声。
アイの足が止まった。
昨日、施設で聞いた言葉。
いってらっしゃい。
今日は、渋谷家から聞こえる。
出ていくのに、戻ってくることが前提になっている言葉。
アイは少しだけ唇を結んだ。
それから、顔を上げる。
「行ってきます」
凛も隣で言った。
「行ってきます」
二人で外へ出る。
朝の光が、店先の花に当たっていた。
まだ開ききっていない花。
水を含んだ葉。
昨日まで何度も見た景色。
でも今日は、自分がそこから出ていく。
帰ってくる場所から、出ていく。
通学路を、凛と並んで歩いた。
いつもと同じ道のはずなのに、足元が少し違って感じる。
アイはしばらく黙っていた。
凛が横を見る。
「変?」
アイは頷く。
「うん」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ、変でいい」
アイは少しだけ笑った。
「凛ちゃん、それ多いね」
「便利」
「便利なんだ」
「うん」
凛は前を向いたまま歩く。
アイはその横顔を見た。
昨日までと同じ凛。
でも、今朝は同じ家から出てきた凛。
そのことが、胸の中で静かに広がっていく。
「同じ家から来たんだね」
ぽつりと、アイは言った。
凛は短く答える。
「うん」
「変な感じ」
「明日も」
アイは足を止めそうになった。
明日も。
今日だけではない。
特別な朝だからではない。
明日も、たぶん、同じ家から出る。
その言葉が、驚くほど嬉しかった。
「……うん」
アイは小さく返した。
学校は、いつも通りだった。
教室に入れば、机がある。
先生が来る。
友達の声がする。
黒板には日付が書かれている。
誰かが昨日見たテレビの話をしている。
何も変わっていないように見えた。
星野アイ。
名前も変わっていない。
呼ばれ方も変わっていない。
誰かに何かを聞かれるわけでもない。
けれど、アイの中では、確かに何かが変わっていた。
帰る場所が変わった。
いや、増えたのかもしれない。
前は、帰るという言葉が遠かった。
今は、まだ少し怖いけれど、手の届く場所にある。
凛は隣の席で、いつも通り本を開いていた。
その普通さに、アイは何度も助けられた。
休み時間、凛がふと聞く。
「眠い?」
アイは少し驚く。
「分かる?」
「顔」
「また顔?」
「うん」
アイは机に頬杖をついた。
「ちょっとだけ。緊張したのかも」
「朝?」
「うん」
「明日は少し慣れる」
「凛ちゃん、未来を簡単に言うね」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
凛は頷く。
「でも、少し」
アイは笑った。
少し慣れる。
全部ではなく。
完璧でもなく。
少し。
今のアイには、そのくらいがちょうどよかった。
放課後。
帰り支度をする時間になった。
教室の中がざわつく。
友達が「また明日」と言い合う。
先生が忘れ物に気をつけるよう声をかける。
凛が鞄を持って、アイを見る。
「帰る?」
アイは一瞬だけ止まった。
その言葉を、前なら飲み込んでいた。
言い直していた。
戻る、と言っていた。
でも今日は、違った。
アイは凛を見る。
「うん」
そして、ゆっくり言った。
「帰る」
凛は頷いた。
「うん」
それだけだった。
たったそれだけ。
でも、アイの胸の中では、大きな音がした。
学校から、渋谷家へ帰る。
その言葉を、言い直さなかった。
取り消さなかった。
凛も、大げさにはしなかった。
ただ、隣を歩いた。
それがよかった。
帰り道、アイは少しだけ空を見上げた。
夕方にはまだ早い空。
昨日までと同じはずなのに、少しだけ色が違って見える。
凛が隣で言う。
「見すぎると転ぶ」
アイは慌てて前を見る。
「転ばないよ」
「前に転びそうだった」
「それは言わなくていい」
「事実」
「凛ちゃん、事実をすぐ出すよね」
「便利」
アイは笑った。
笑いながら歩いた。
その先に、花屋が見えてくる。
店先には、父がいた。
母も奥から出てきた。
凛は足を止めずに店の前へ向かう。
父が顔を上げた。
「おかえり」
母も言う。
「おかえり、アイちゃん。凛」
凛はいつも通り返した。
「ただいま」
アイは少し遅れた。
喉の奥が震える。
でも、もう逃げなかった。
「……ただいま」
言えた。
小さな声だった。
けれど、確かに言えた。
父の顔が、少しだけ崩れた。
凛がすぐに見る。
「お父さん、また泣く?」
父は顔をそらした。
「泣いてない」
母が少し笑う。
「まだ泣いてない、かな」
「まだって何だ」
父が困った顔をする。
アイは笑った。
ただいまと言った後に、笑えた。
それが、ひどく嬉しかった。
奥へ入ると、いつもの湯呑みがあった。
棚の右側。
朝に使って、洗われて、また戻された湯呑み。
アイはそれを見て、少しだけ息を吐いた。
ここに戻ってきた。
そう思った。
夜。
アイは、自分の荷物を置いた小さな場所の前に座っていた。
引き出しから予定表を取り出す。
何度も書いてきた紙。
何度も丸をつけた紙。
その一番下に、今日のことを書く前に、アイは少し迷った。
そして、まず自分の名前を書いた。
星野アイ。
その文字を、じっと見つめる。
星野という名前は、まだ時々痛む。
母のことを思い出す。
来なかった日を思い出す。
分からないままの気持ちが、胸の奥に残っている。
けれど、その名前を消さなくていいと言われた。
その痛みごと、ここに置いていいと言われた。
背後で、母の声がした。
「名前、書いてたの?」
アイは振り向く。
「はい」
母は近づきすぎず、少し離れたところに座った。
予定表をのぞき込むわけではない。
ただ、アイの手元に名前があることだけを見る。
「星野アイだね」
アイは頷いた。
「はい」
母は微笑んだ。
「うん。アイちゃんだ」
その言葉に、アイの胸が少しだけ温かくなった。
凛も横から顔を出す。
「アイはアイだから」
アイは凛を見る。
「またそれ?」
凛は頷く。
「大事」
アイは少しだけ笑って、それから予定表に視線を戻した。
「うん。大事」
今度は、ちゃんと受け取れた。
アイは名前の下に、今日の行を書いた。
渋谷家から学校へ行った。
渋谷家に帰った。
ただいまって言った。
少し迷って、最後にもう一行。
星野アイのまま、ここにいる。
文字を書き終えたあと、しばらくその行を見つめた。
星野という名前は、まだ時々痛む。
けれど、その痛みごと、ここに置いていいと言われた。
アイは予定表の最後に、ゆっくり丸をつけた。
手続きは、紙の上ではまだ続いていることもあった。
大人たちは、これからも確認することがあると言っていた。
けれど、アイの中ではもう、帰る場所の名前が決まっていた。
星野アイのまま、ここにいる。
その文字は、もう消さなくていいものだった。