星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜 作:百合太郎
第34話 嘘つきの笑顔
鏡の前で、アイは笑っていた。
口角を少し上げる。
目元を柔らかくする。
相手が安心するくらいに明るく。
でも、近づきすぎないくらいに軽く。
綺麗な笑顔だった。
誰が見ても、きっとそう思う。
けれど、後ろからそれを見ていた凛は、少しだけ眉を動かした。
「それ、学校用?」
アイは鏡越しに凛を見る。
「え?」
「笑顔」
アイは一瞬だけ止まった。
けれど、すぐに笑みを深くする。
「ひどいなぁ。普通の笑顔だよ?」
凛は首を傾げた。
「普通より整いすぎ」
「褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
アイは笑ったまま、髪を整える。
十二歳になったアイは、よく目立つようになっていた。
特別に派手な服を着ているわけではない。
声が大きいわけでもない。
誰より前に出ようとするわけでもない。
それでも、そこにいるだけで視線が集まる。
明るい瞳。
人懐っこい笑い方。
少し首を傾げる仕草。
相手が欲しい言葉を、自然に選べてしまうところ。
それは、才能にも見えた。
癖にも見えた。
凛には、その両方に見えていた。
「凛ちゃん、そんなに見ないでよ」
「見えるから」
「またそれ」
「事実」
アイはくるりと振り返った。
「今日、駅前行くんだから、変じゃないか見てただけ」
「変じゃない」
「ほんと?」
「うん」
凛は一拍置いて言った。
「でも、作ってる」
アイの笑顔が、ほんの少しだけ薄くなる。
「……鋭いなぁ」
「アイだから」
「理由になってるようで、なってない」
「なってる」
凛は淡々と言った。
その変わらなさに、アイは少しだけ肩の力を抜いた。
数年前。
渋谷家に来たばかりの頃、アイは笑うたびに少し怯えていた。
うまく笑えなかったらどうしよう。
笑いすぎたら嘘になるのではないか。
何も欲しがっていない顔をしなければ、居場所を失うのではないか。
そんなふうに、自分の表情一つに怯えていた。
今は違う。
渋谷家には、帰る場所がある。
朝に「おはよう」と言える。
帰ってきたら「ただいま」と言える。
食べられない日にも、湯呑みは片づけられない。
それでも、アイの笑顔から嘘が消えたわけではなかった。
むしろ、前より上手くなっている。
相手を安心させる嘘。
場を柔らかくする嘘。
嫌なものを見せないための嘘。
自分を少しだけ綺麗に見せる嘘。
アイは、それを知っていた。
そして、使えてしまった。
階下から母の声がする。
「二人とも、準備できた?」
「できたー」
アイは明るく返事をした。
凛は鞄を持つ。
「行く?」
「うん」
二人が下へ降りると、母は店先の花を並べていた。
父は奥で伝票を確認している。
「今日は駅前まで行くんだったね」
母が言う。
アイは頷いた。
「うん。ちょっと本屋とか見てくる」
父が顔を上げる。
「気をつけてな」
凛が短く返す。
「分かってる」
父は少しだけ目を細めた。
「凛は分かってると言う時ほど心配だ」
「お父さんより大丈夫」
「説得力があるような、ないような」
アイは笑った。
母はそんなアイを見て、少しだけ目を細める。
「アイちゃん」
「なに?」
「無理して笑わなくていいからね」
アイは、いつもの調子で首を傾げた。
「えー、してないよ?」
母はすぐには返さなかった。
ただ、柔らかく見ている。
アイは少しだけ笑みを崩す。
「……ほんとに。今日は楽しみだし」
凛が横から言う。
「少ししてる」
「凛ちゃん、味方して」
「してる」
「どこが?」
「分かるから」
アイは頬を膨らませるふりをした。
母は小さく笑う。
「楽しんでおいで」
「うん。行ってきます」
凛も言う。
「行ってきます」
母と父の声が重なる。
「いってらっしゃい」
二人は並んで家を出た。
駅前は、人が多かった。
休日の昼前。
本屋の前には学生がいて、雑貨屋の前には親子連れがいる。
クレープの甘い匂いがして、どこかの店から流れる音楽が通りに混じっていた。
アイと凛は並んで歩いた。
凛は静かに周りを見ている。
アイは少しだけ楽しそうに、店先を覗き込んでいる。
けれど、そのたびに通り過ぎる人の視線が、ふとアイへ向いた。
一度ではない。
二度、三度。
凛は気づいていた。
アイも、たぶん気づいている。
けれどアイは、気づいていないふりをするのがうまかった。
「何?」
アイが凛を見る。
凛は短く言う。
「見られてる」
アイは瞬きをして、それからにっこり笑った。
「凛ちゃんが綺麗だからじゃない?」
「アイも」
「じゃあ二人ともだね」
「ごまかした」
「ばれた?」
「ばれた」
アイは少しだけ肩をすくめた。
「視線って、こっちが気にすると余計気になるから」
「慣れてる?」
「んー」
アイは空を見上げる。
「慣れたくはないけど、分かるようにはなったかも」
その答えは、妙に正直だった。
凛は何も言わなかった。
本屋を見て、雑貨屋を見て、二人はクレープ屋の近くで足を止めた。
その時だった。
少し離れたところで、小さな子どもが泣いていた。
母親らしき姿は近くに見えない。
通りの端で、子どもは顔を真っ赤にして泣いている。
周囲の大人が気にしているが、どう声をかければいいか迷っているようだった。
アイは迷わず歩み寄った。
凛もその後ろを追う。
アイは子どもの前にしゃがむと、目線を合わせた。
「大丈夫」
声が、柔らかかった。
笑顔も、柔らかかった。
「お母さん、すぐ見つかるよ。だから、ここで一緒に待とう?」
子どもはしゃくりあげながら、アイを見る。
アイはさらに少しだけ笑った。
明るく。
安心するように。
嘘でも、本当に大丈夫だと思わせるように。
「ほら、泣いてる顔も可愛いけど、ちょっとだけお顔見せて?」
子どもの泣き声が、少し小さくなった。
アイはハンカチを出して、子どもの涙を拭う。
「えらいね。ちゃんと待てる子だ」
凛は、その横顔を見ていた。
優しい。
たぶん、本当に優しい。
でも、それだけではない。
アイは今、子どもが一番ほしい笑顔を選んでいる。
泣き止めるように。
安心できるように。
自分を信じてもらえるように。
少しして、近くの店から慌てた様子の女性が出てきた。
「すみません! うちの子です!」
アイはすっと立ち上がり、明るく微笑んだ。
「よかった。すぐ見つかりましたね」
女性は何度も頭を下げ、子どもの手を握って去っていった。
アイは手を振る。
子どもも、少しだけ振り返って手を振った。
アイは笑顔のまま見送った。
その笑顔が消える前に、凛が言った。
「今の、少し嘘?」
アイは凛を見る。
笑顔はまだ残っている。
「安心させるためなら、嘘も役に立つでしょ?」
凛は少し考えた。
「うん」
アイは少し意外そうに目を開く。
「凛ちゃん、否定しないんだ」
「悪い嘘じゃない」
「じゃあ、いい嘘?」
凛は首を傾げる。
「分からない。でも、泣き止んだ」
アイは目を細めた。
「そっか」
その声は、どこか遠かった。
二人が再び歩き出そうとした時、少し離れた場所から声がした。
「ちょっといいかな」
アイと凛は同時に振り向いた。
そこに立っていたのは、背の高い男だった。
年齢は父より少し若いくらいかもしれない。
派手すぎない服装。
けれど、普通の通行人とは少し違う空気がある。
男の視線は、アイに向いていた。
凛が一歩、アイの横に出る。
アイは反射的に笑った。
明るく、礼儀正しく、距離を取った笑顔。
「はい。何ですか?」
男はその笑顔を見て、ほんの少し目を細めた。
まるで、何かを確かめるように。
「君、アイドルに興味はない?」
アイの笑顔が、そこで止まった。
ほんの一瞬だけ。
凛の視線が鋭くなる。
「……アイドル、ですか?」
「ああ」
男はポケットから名刺入れを出した。
「俺は斉藤壱護。苺プロダクションって事務所をやってる」
凛がすぐに言った。
「名刺ありますか」
男――壱護は、少しだけ口元を上げた。
「しっかりしてるね」
「知らない人なので」
「正しい」
壱護は名刺を差し出した。
凛は受け取り、文字を確認する。
苺プロダクション。
斉藤壱護。
アイも横から名刺を見る。
紙の白さが、やけに目立った。
「君には向いてると思う」
壱護が言った。
アイは名刺から顔を上げる。
「ごめんなさい。私、アイドルとか、よく分からないので」
「よく分からないのに断る?」
「分からないから断るんです」
アイの声は柔らかかった。
でも、そこにははっきりした線があった。
壱護は、むしろ面白そうに見た。
「なるほど」
凛はまだ警戒を解いていない。
アイは笑顔を保っていた。
けれど、凛には分かった。
アイは少し緊張している。
怖がっている、というより、引いている。
突然、知らない大人から向いていると言われること。
アイドルという、よく分からない舞台に置かれそうになること。
それが、アイの中のどこかを刺激している。
壱護は続けた。
「さっきの子どもへの声のかけ方、見てたよ」
アイの目が少しだけ揺れた。
「見てたんですか」
「偶然な」
「悪趣味ですね」
凛がぼそっと言った。
壱護は一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。
「手厳しいな」
「知らない人なので」
「二回目だな、それ」
壱護は肩をすくめる。
それから、アイへ視線を戻した。
「君は、人が欲しい表情を選べる」
アイは何も言わなかった。
壱護は、言葉を選ぶように続ける。
「ただ可愛いだけじゃない。笑い方を知ってる。しかも、相手に合わせられる」
アイの指が、少しだけ動いた。
それは褒め言葉のはずだった。
けれど、アイの中では素直に受け取れなかった。
笑い方を知っている。
相手に合わせられる。
それは、アイがずっと使ってきたものだった。
身を守るために。
場を壊さないために。
誰かを安心させるために。
自分の本当を、少し隠すために。
「人前で笑うのは、得意かもしれません」
アイは静かに言った。
「でも、それが仕事になるのは、少し怖いです」
壱護の表情が変わった。
軽く声をかけて終わるつもりだった顔ではなくなる。
「怖い?」
「はい」
「どうして?」
アイは少し黙った。
駅前の音が、遠くなる。
凛が隣にいる。
そのことを確かめてから、アイは言った。
「嘘をつくのが、上手くなりそうだから」
壱護は黙った。
凛も、アイを見る。
アイは笑っていなかった。
「たぶん、笑えます」
アイは自分の手元を見る。
「可愛いことも言えます。好きって言われたら、好きって返せると思います」
声は静かだった。
「でも、それが全部嘘だったら、怖くないですか?」
壱護はしばらく何も言わなかった。
その目が、アイをただ子どもとして見ていないことは分かった。
才能を見る目。
危うさを見る目。
そして、その両方に興味を持った目。
やがて壱護は、短く笑った。
「君、面白いね」
アイは顔を上げる。
「褒めてます?」
「かなり」
凛が小さく言う。
「怪しい」
壱護はまた笑った。
「正直だな」
「警戒してるだけです」
「それも正しい」
壱護は名刺をもう一枚取り出し、今度はアイにも差し出した。
「今すぐ決めなくていい。家の人に話してみて」
アイは名刺を見つめる。
「興味があれば、事務所に来るといい」
「興味がなかったら?」
壱護は少しだけ口角を上げた。
「その時は、君は普通に帰ればいい」
帰ればいい。
その言葉に、アイは少しだけ動きを止めた。
壱護は、それに気づいたようだった。
「帰る場所はあるんだろ?」
アイは凛を見た。
凛は何も言わない。
ただ、隣に立っている。
アイは名刺を受け取った。
「……あります」
壱護は、その返事を聞いて少しだけ表情を変えた。
「なら、悪い話じゃない」
「どういう意味ですか」
「帰る場所があるなら、試してみても壊れにくいってことだ」
アイは何も返せなかった。
壱護はそれ以上押さなかった。
「じゃあ、気が向いたら連絡して」
そう言って、壱護は背を向けた。
去っていく後ろ姿を、アイと凛はしばらく見ていた。
人混みの中に消えてから、凛が言った。
「どうする?」
アイは名刺を見る。
「凛ちゃん、反対しないの?」
「まだ分からない」
「警戒してたじゃん」
「知らない人だから」
「じゃあ、アイドルは?」
凛は少し考えた。
「アイがやりたいなら、聞く」
アイは小さく笑った。
「やりたいか分からない」
「じゃあ、分からないって言う」
「相変わらずシンプル」
「大事」
アイは名刺の文字をもう一度見た。
苺プロダクション。
斉藤壱護。
白い紙に印刷された文字が、妙に眩しく見えた。
その日の帰り道、アイはいつもより少し静かだった。
凛は急かさない。
ただ隣を歩く。
渋谷家に着くと、母が店先から顔を上げた。
「おかえり」
アイは少しだけ遅れて、でも自然に返した。
「ただいま」
その言葉は、もう前ほど震えなかった。
奥へ入ると、アイは名刺をテーブルに置いた。
父が目を丸くする。
「芸能事務所?」
母の表情が少し真剣になる。
「どこで?」
凛が答えた。
「駅前。知らない人。でも名刺は本物っぽい」
父は名刺を手に取る。
「そこから確認だな」
母はアイを見る。
「アイちゃんは、どう思った?」
アイはすぐには答えられなかった。
怖かった。
怪しかった。
急だった。
でも、それだけではなかった。
壱護の目は、自分の笑顔を見ていた。
可愛い顔ではなく。
作った笑顔ではなく。
その奥にあるものまで。
見られた気がした。
「怖かった」
アイは正直に言った。
「でも、少しだけ気になりました」
母は頷く。
「何が気になったの?」
アイは名刺を見る。
「嘘をつくのが仕事になるなら」
声が少しだけ小さくなる。
「私は向いてるのかなって」
父と母が、少しだけ表情を変えた。
凛は黙って聞いている。
アイは続けた。
「でも、嘘をついたら、本当になることってあるんですか」
部屋の中が静かになった。
母はすぐに答えなかった。
父も、いつものように茶化さなかった。
凛も、考えている。
アイは名刺の白い紙を見つめた。
苺プロダクション。
斉藤壱護。
それはただの誘いではなかった。
アイにとって、もう一度“嘘”と向き合う入口だった。