星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第35話 嘘は愛になるのか

 

 

テーブルの上に、白い名刺が置かれていた。

 

苺プロダクション。

斉藤壱護。

 

黒い文字は、紙の上でやけに静かだった。

 

けれど、アイにはその名刺が、ただの紙には見えなかった。

 

駅前で声をかけてきた男の目。

自分の笑顔を見抜いたような声。

アイドルに興味はないか、という言葉。

 

そして。

 

嘘をつくのが、上手くなりそうだから怖い。

 

自分で言った言葉が、まだ胸の奥に残っている。

 

父は名刺を手に取った。

 

「まず、この会社がちゃんとしたところか確認する」

 

母も頷く。

 

「それは必要だね」

 

凛は湯呑みを持ったまま言った。

 

「知らない人だから」

 

アイは少しだけ眉を寄せる。

 

「凛ちゃん、それ何回言うの」

 

「必要なだけ」

 

「多くない?」

 

「知らない人は、何回でも知らない人」

 

「それはそうだけど」

 

父は名刺を裏返し、電話番号と住所を確認している。

 

いつものように軽く茶化さない。

 

その顔を見て、アイは少しだけ背筋を伸ばした。

 

これは、ちゃんと考えなければいけない話なのだ。

 

母がアイを見る。

 

「アイちゃんは、どうしたい?」

 

その問いは、何度も聞かれてきた。

 

渋谷家へ行く時も。

ここにいたいと言った時も。

星野アイのままでいたいと言った時も。

 

どうしたいのか。

 

そのたびに、アイは怖がりながら、自分の中を覗き込んできた。

 

でも今回の問いは、また違う場所にあった。

 

「分からない」

 

アイは正直に言った。

 

凛がすぐに返す。

 

「じゃあ、分からない」

 

「うん。でも……」

 

母が優しく聞く。

 

「でも?」

 

アイは名刺を見た。

 

「少し、気になる」

 

父が顔を上げる。

 

「アイドルが?」

 

「アイドルというより……」

 

アイは言葉を探した。

 

きらきらした衣装。

歌。

ダンス。

ステージ。

ファン。

可愛い笑顔。

好きだと言われること。

好きだと返すこと。

 

その全部が、まだ自分からは遠い。

 

けれど、一つだけ近いものがある。

 

「嘘を、ちゃんとした形で使えるのかどうか」

 

母の表情が、少しだけ変わった。

 

父も何も言わずに、アイを見ている。

 

アイは続けた。

 

「人前で笑うのは、たぶん得意です」

 

それはもう、否定できない。

 

小さい頃から、笑ってきた。

 

平気な顔をするために。

相手を安心させるために。

自分の本当を隠すために。

 

「相手がほしい言葉を言うのも、たぶんできます」

 

自分で言うと、少し嫌な感じがした。

 

でも、嘘ではない。

 

「好きって言われたら、好きって返せると思います」

 

その瞬間、部屋が少しだけ静かになった。

 

アイは湯呑みを見つめる。

 

「でも、それが全部嘘だったら、怖い」

 

凛が、静かに言った。

 

「全部じゃないかも」

 

アイは顔を上げる。

 

「え?」

 

「駅前の子」

 

凛の声はいつも通り淡々としていた。

 

「大丈夫って言ったのは、少し嘘かもしれない」

 

アイは言葉を失う。

 

あの子が本当に大丈夫かどうかなんて、分からなかった。

 

すぐ母親が見つかるかどうかも、確かではなかった。

 

それでもアイは、大丈夫と言った。

 

泣き止ませるために。

 

安心させるために。

 

「でも、泣き止んでほしかったのは本当」

 

凛はアイを見た。

 

「そこは嘘じゃない」

 

アイは何も言えなかった。

 

大丈夫という言葉は、嘘だったかもしれない。

 

笑顔も、選んだものだった。

 

でも、あの子に泣き止んでほしかった気持ちは、本当だった。

 

その境目を、アイは考えたことがなかった。

 

嘘なら全部偽物。

 

本当なら全部本物。

 

そう分けようとしていた。

 

でも、凛は違うと言う。

 

母も、静かに口を開いた。

 

「嘘にも、いろいろあると思う」

 

「いろいろ?」

 

「うん」

 

母は言葉を選びながら続けた。

 

「自分を守るための嘘もある。誰かを傷つける嘘もある。誰かを安心させるための嘘もある」

 

アイは黙って聞いていた。

 

母は少しだけ目を細める。

 

「それから、本当になりたい気持ちを、先に形にする嘘もあると思う」

 

「本当になりたい気持ち……」

 

「うん」

 

母は、アイの湯呑みの横に手を置いた。

 

「アイちゃんが怖いと思うなら、その怖さは大事にした方がいい」

 

アイは母を見る。

 

「でも、嘘だから全部だめ、と決めなくてもいいと思う」

 

父が名刺を置いた。

 

「ただ、仕事になるなら話は別だ」

 

その声は、いつもより低かった。

 

「大人が関わる。お金も動く。見られる範囲も広くなる。いい顔をしたくない相手にも、笑わなきゃいけないことが出てくるかもしれない」

 

アイは背筋を伸ばした。

 

父は真面目だった。

 

「だから、軽い気持ちでいいよとは言わない」

 

「はい」

 

「でも」

 

父は少しだけ表情を和らげた。

 

「気になるなら、話を聞きに行くところまではしていいと思う」

 

アイは名刺を見る。

 

話を聞きに行く。

 

決めるのではなく。

 

飛び込むのでもなく。

 

まず、見に行く。

 

凛が言った。

 

「行くなら、一緒に行く」

 

アイは少しだけ笑う。

 

「保護者みたい」

 

「知らない人だから」

 

「またそれ」

 

「あと、アイが笑いすぎたら止める」

 

アイの笑顔が少し止まった。

 

「笑いすぎって何?」

 

「作りすぎ」

 

凛は短く言った。

 

アイは、少し黙る。

 

作りすぎ。

 

たぶん、凛には分かる。

 

自分が本当より少し多く笑う時。

 

大丈夫じゃないのに、大丈夫に見せようとする時。

 

相手がほしいものを、先に渡そうとする時。

 

それを止めてくれる人が隣にいる。

 

怖いはずなのに、少し安心した。

 

「じゃあ、お願い」

 

凛は頷いた。

 

「うん」

 

数日後。

 

アイは、母と凛と一緒に苺プロダクションへ向かった。

 

父も行きたがったが、花屋を空けられなかった。

 

その代わり、出発前に何度も言った。

 

「何か変だと思ったら、すぐ帰ってくること」

 

母が頷く。

 

「分かってる」

 

凛も言う。

 

「変なら言う」

 

父は凛を見た。

 

「頼もしいな」

 

凛は短く答える。

 

「うん」

 

「そこは否定しないんだな」

 

「頼まれたから」

 

アイは笑った。

 

それでも、事務所へ向かう道では、手の中が少し冷たかった。

 

ビルの前に着く。

 

苺プロダクション。

 

名刺にあった文字と同じ名前が、入口にあった。

 

本物だ。

 

そう思うと、逆に緊張した。

 

受付を通り、案内された部屋で待つ。

 

しばらくして、扉が開いた。

 

斉藤壱護が入ってくる。

 

駅前で見た時と同じように、少し鋭い目をしていた。

 

「来たか」

 

凛が答える。

 

「来ました」

 

壱護は凛を見る。

 

「君が返事するんだな」

 

「付き添いなので」

 

アイは横で小さく言う。

 

「凛ちゃん、強い」

 

壱護は笑った。

 

「いい付き添いだ」

 

母が丁寧に頭を下げる。

 

「今日はお時間をいただき、ありがとうございます」

 

「こちらこそ。急に声をかけて驚かせたと思います」

 

壱護は母へ一度頭を下げ、それからアイを見る。

 

「それで。アイドルに興味は出た?」

 

アイは少しだけ息を吸った。

 

嘘で笑わない。

 

少なくとも、ここでは。

 

「分かりません」

 

壱護は口元を上げた。

 

「正直だな」

 

「嘘は得意かもしれないけど、ここではまだ嘘つきたくないので」

 

壱護の目が、面白がるように細くなった。

 

「それでいい」

 

アイは少し意外だった。

 

もっと、夢があるとか、やってみたいとか、そういう答えを求められるのかと思っていた。

 

でも、壱護はそれを否定しなかった。

 

壱護は椅子に座る。

 

「アイドルってのは、夢を見せる仕事だ」

 

母と凛も座る。

 

アイは壱護の言葉を待った。

 

「笑顔も、言葉も、全部が本音とは限らない。ファンに向かって言う“好き”が、毎回同じ重さなわけでもない」

 

アイの指先が、膝の上で少し動いた。

 

「じゃあ、やっぱり嘘なんですか」

 

「嘘だな」

 

壱護はあっさり言った。

 

アイは少し息を止める。

 

でも、壱護は続けた。

 

「ただし、嘘だから価値がないわけじゃない」

 

「価値……」

 

「人は、自分に向けられた光を信じたい時がある。自分を見て笑ってくれた。好きだと言ってくれた。今日も頑張ろうと思えた」

 

壱護は腕を組む。

 

「それを全部、本音じゃないから無意味だと言うのは、少し乱暴だ」

 

アイは凛をちらりと見た。

 

凛も、少しだけこちらを見る。

 

乱暴。

 

その言葉に、二人とも同じことを思い出したのかもしれない。

 

壱護は続けた。

 

「最初から本物の愛なんて持ってるやつの方が珍しい」

 

アイは顔を上げる。

 

「嘘から始まってもいい」

 

壱護の声は、軽くはなかった。

 

「本物にしたいと思えるならな」

 

アイは言葉を失った。

 

本物にしたい。

 

その気持ちは、嘘なのだろうか。

 

アイは、小さく聞いた。

 

「私は、愛してるって言えると思います」

 

母の表情が少しだけ硬くなる。

 

凛もアイを見る。

 

「でも、本当に愛してるか分からないのに言うのは、怖いです」

 

壱護は頷いた。

 

「怖いなら、向いてるかもしれない」

 

アイは目を開いた。

 

「どうして?」

 

「怖がってるってことは、言葉を軽く見てないってことだ」

 

壱護はまっすぐアイを見た。

 

「軽いやつは、そこまで悩まない」

 

アイは黙った。

 

言葉を軽く見ていない。

 

そんなふうに言われるとは思わなかった。

 

自分はただ、嘘つきになるのが怖いだけだと思っていた。

 

でも、怖いのは、言葉を大事にしたいからなのかもしれない。

 

壱護は椅子から立ち上がった。

 

「いきなり決めろとは言わない。まずはレッスンを見てみろ」

 

「見学ですか」

 

「ああ。歌もダンスも、すぐできるとは思ってない。できないことの方が多いだろう」

 

「厳しいですね」

 

「本当のことだ」

 

壱護は笑う。

 

「それでもやりたいと思うか、自分で見ればいい」

 

アイは少し考えた。

 

「見て、怖くなったら?」

 

「帰ればいい」

 

壱護は当然のように言った。

 

「逃げてもいい。帰る場所があるんだろ」

 

アイは息を飲んだ。

 

帰る場所。

 

あの日、壱護に聞かれた言葉。

 

あるんだろ、と。

 

今なら、言える。

 

「あります」

 

壱護は頷いた。

 

「なら、見てから帰ればいい」

 

案内されたレッスン室には、大きな鏡があった。

 

床には線が引かれていて、奥には音響機材がある。

 

数人の少女たちが、音楽に合わせて体を動かしていた。

 

上手い子もいた。

 

遅れる子もいた。

 

息が上がっている子もいた。

 

それでも、曲の最後にはみんな鏡に向かって笑う。

 

笑顔。

 

アイは、その笑顔をじっと見た。

 

作っている。

 

それは分かった。

 

疲れているのに、明るく見せている。

 

息が切れているのに、可愛く見せようとしている。

 

鏡の中の自分に向かって、何度も笑っている。

 

でも、それは嘘だけではなかった。

 

上手くなりたい。

 

見てもらいたい。

 

可愛くなりたい。

 

誰かを惹きつけたい。

 

その気持ちが、笑顔の奥にあった。

 

アイは、それを見て動けなくなった。

 

凛が隣で聞く。

 

「どう?」

 

アイは少しだけ唇を開く。

 

「……嘘だけじゃなかった」

 

「うん」

 

「みんな、なりたい顔をしてた」

 

凛は、レッスン室の鏡を見る。

 

「アイも?」

 

アイはすぐには答えなかった。

 

自分がなりたい顔。

 

それは何だろう。

 

愛してると言える顔。

 

嘘でも人を幸せにできる顔。

 

でも、いつかそれを本当にしたいと思える顔。

 

「まだ、分からない」

 

凛は頷いた。

 

「じゃあ、まだ」

 

「うん」

 

レッスン見学が終わったあと、壱護はアイに聞いた。

 

「どうする?」

 

アイはすぐには答えなかった。

 

母を見る。

 

母は、答えを急がせる顔をしていなかった。

 

凛を見る。

 

凛は、いつものように静かに立っていた。

 

帰る場所がある。

 

帰ってもいい。

 

やめてもいい。

 

怖いと言ってもいい。

 

だからこそ、もう少しだけ見てみたいと思った。

 

アイは壱護を見る。

 

「まだ、怖いです」

 

「だろうな」

 

「でも」

 

アイはレッスン室の方を見た。

 

「見てみたいです」

 

「何を?」

 

「嘘が、本当になるところ」

 

壱護の口元が、少しだけ上がった。

 

「つまり?」

 

アイは、ゆっくり言った。

 

「レッスン、受けてみます」

 

その言葉を聞いた瞬間、胸の中が少し震えた。

 

でも、不思議と嫌ではなかった。

 

壱護は頷く。

 

「分かった」

 

凛がすぐに言う。

 

「無理したら止めます」

 

壱護は笑った。

 

「いい監視役だな」

 

「付き添いです」

 

「そうだったな」

 

母はアイの肩に軽く手を置いた。

 

「アイちゃんが決めたなら、私たちも一緒に見ていくね」

 

アイは頷いた。

 

「はい」

 

渋谷家へ帰ると、父が待っていた。

 

店先に立って、そわそわしているのが分かる。

 

アイたちを見るなり、父はすぐに聞いた。

 

「どうだった?」

 

アイは少し笑った。

 

「怖かった」

 

父は頷く。

 

「そうか」

 

「でも、レッスンを受けてみたいです」

 

父は、少しだけ黙った。

 

それから、静かに頷いた。

 

「分かった」

 

アイは父を見る。

 

父は真面目な顔で言った。

 

「ただし、無理はするな」

 

凛がすぐに続ける。

 

「無理したら止める」

 

アイは凛を見る。

 

「凛ちゃん、もうそれ決定なんだ」

 

「うん」

 

母も言う。

 

「みんなで見ていこう」

 

みんなで。

 

その言葉が、アイの中に落ちた。

 

一人で嘘を抱えるのではない。

 

一人で笑い続けるのではない。

 

帰る場所から、ステージを見る。

 

それなら、少しだけ怖くない。

 

その夜。

 

アイは予定表を開いた。

 

横には、壱護の名刺がある。

 

白い紙。

 

苺プロダクション。

 

斉藤壱護。

 

アイは鉛筆を持ち、今日の欄に書いた。

 

苺プロダクションへ行った。

嘘だけじゃなかった。

レッスンを受けてみる。

 

書き終えてから、しばらくその文字を見つめた。

 

嘘はまだ怖かった。

 

けれど、嘘を本当にしたいと思う気持ちは、嘘ではなかった。

 

アイは名刺を、予定表の横にそっと置いた。

 

帰る場所から、初めてステージの方を見た。

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