星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第36話 初めてのレッスン

 

 

鏡の前で、アイは笑っていた。

 

前より、少しだけ意識して。

 

目元を柔らかくする。

口角を上げる。

明るく、でも浮かれすぎず。

初めての場所でも、ちゃんとして見えるように。

 

背後から、凛の声がした。

 

「それ、レッスン用?」

 

アイは鏡越しに凛を見る。

 

「そんなに種類あるみたいに言わないでよ」

 

「あるでしょ」

 

「……あるかも」

 

認めてから、アイは小さく笑った。

 

学校用。

知らない人用。

大丈夫そうに見せる用。

楽しそうに見せる用。

本当に楽しい時の笑顔。

 

いつの間にか、自分の中にはいくつもの笑顔ができていた。

 

その全部が嘘ではない。

 

でも、全部が本当とも言い切れない。

 

母が台所から声をかける。

 

「今日は初めてのレッスンだね」

 

「うん」

 

アイは鏡から離れ、鞄を手に取った。

 

父が店先から顔を出す。

 

「無理するなよ」

 

「大丈夫。見学みたいなものだし」

 

凛がすぐに言う。

 

「レッスン」

 

アイは振り向く。

 

「そこ訂正する?」

 

「大事」

 

「凛ちゃん、最近ほんと厳しい」

 

「必要なだけ」

 

父が苦笑した。

 

「凛が付き添いなら安心だな」

 

アイは頬を膨らませるふりをした。

 

「私、そんなに心配?」

 

母は笑わずに、まっすぐアイを見る。

 

「できなくてもいいから、疲れたらちゃんと言ってね」

 

アイは一瞬だけ言葉に詰まった。

 

できなくてもいい。

 

疲れたら言う。

 

その言葉は、簡単そうで、アイにはまだ少し難しい。

 

「……はい」

 

答えると、母は頷いた。

 

「今日は最初の確認までは一緒にいるね。そのあとは待合で待ってるから」

 

「見てないの?」

 

アイが聞くと、母は少しだけ微笑んだ。

 

「ずっと見られていると、やりにくいかもしれないでしょう?」

 

「それは……ちょっとあるかも」

 

「凛ちゃんは?」

 

凛が短く答える。

 

「見る」

 

アイは凛を見る。

 

「凛ちゃんは見るんだ」

 

「付き添いだから」

 

「そこは変わらないんだね」

 

「変わらない」

 

アイは笑った。

 

少しだけ安心した。

 

母がずっと見ているのは、たぶん緊張する。

 

でも、凛が見ていてくれるのは少し違う。

 

大丈夫じゃない時に、大丈夫じゃないと言ってくれる人がいる。

 

それは、怖いことでもあり、助かることでもあった。

 

「いってらっしゃい」

 

父が言う。

 

「いってらっしゃい」

 

母も続ける。

 

アイと凛は並んで玄関に立った。

 

「行ってきます」

 

声が重なった。

 

苺プロダクションへ向かう道で、アイはいつもより少し明るく話していた。

 

「まあ、ちょっと踊って、ちょっと歌って、ちょっと笑えばいいんでしょ?」

 

凛が横を見る。

 

「軽い」

 

「重く考えると怖くなるから」

 

「じゃあ、軽くしてる?」

 

アイは一瞬だけ止まった。

 

そして、小さく笑う。

 

「……ばれた?」

 

「ばれた」

 

「凛ちゃん、そういうところ本当に容赦ないよね」

 

「嘘ついてない」

 

「うん。知ってる」

 

アイは前を向いた。

 

苺プロダクションのビルが近づいてくる。

 

前に来た時よりも、扉が少し大きく見えた。

 

怖い。

 

でも、帰れる場所はある。

 

だから、入れる。

 

受付を通り、案内されたレッスン室の前で、壱護が待っていた。

 

「来たな」

 

アイは背筋を伸ばす。

 

「来ました」

 

凛も隣で言う。

 

「見ます」

 

壱護は凛を見る。

 

「君は毎回そういう感じか」

 

「付き添いなので」

 

「頼もしいな」

 

「はい」

 

「そこは否定しないんだな」

 

壱護が笑うと、レッスン室の奥から女性トレーナーが出てきた。

 

髪を一つにまとめ、動きやすそうな服装をしている。

 

「あなたが星野アイちゃんね」

 

「はい。よろしくお願いします」

 

アイは反射的に笑った。

 

明るく、きちんと、印象よく。

 

トレーナーはその笑顔を見て、少しだけ目を細めた。

 

「うん。笑顔はもう完成してるね」

 

壱護が腕を組む。

 

「だろ?」

 

でも、トレーナーはすぐに続けた。

 

「ただ、笑顔で全部はごまかせないよ」

 

アイの笑顔が、ほんの少し止まる。

 

トレーナーは優しくも厳しい顔で言った。

 

「今日は基礎だけ。できなくてもいいから、まず自分の体を知るところからね」

 

「……はい」

 

母はトレーナーと壱護に挨拶をしてから、アイの方を見た。

 

「待合にいるね。何かあったら、すぐ呼んで」

 

「うん」

 

母が部屋を出る。

 

扉が閉まった瞬間、レッスン室の空気が少し変わった。

 

大きな鏡。

 

床の線。

 

音響機材。

 

知らない場所。

 

知らない大人。

 

そして、見学席に座る凛。

 

アイは鏡の中の自分を見た。

 

笑顔だけではなく、肩の力。

足の向き。

背中の曲がり方。

呼吸の浅さまで、全部見える。

 

最初はストレッチだった。

 

それだけで、アイは少し驚いた。

 

思っていたより、体が硬い。

 

思っていたより、足を伸ばすと痛い。

 

隣でトレーナーが言う。

 

「無理に伸ばさない。痛いところで止めて」

 

「はい」

 

アイは笑顔で答える。

 

でも、少しだけ眉が動いた。

 

凛は見学用の椅子から、それをじっと見ていた。

 

次はリズム取り。

 

手拍子に合わせて、足を動かす。

 

一、二、三、四。

 

一、二、三、四。

 

簡単そうに見えた。

 

でも、やってみると違った。

 

音を聞く。

 

足を出す。

 

腕をつける。

 

次の動きに備える。

 

笑顔を保つ。

 

その全部を同時にやろうとした瞬間、足が遅れた。

 

「あっ」

 

アイの足が少しもつれる。

 

転ぶほどではなかったが、動きが止まった。

 

トレーナーが手を叩く。

 

「大丈夫。もう一回」

 

「はい」

 

アイは笑った。

 

笑って、もう一度動く。

 

でも、またテンポがずれる。

 

足が思ったより忙しい。

 

頭の中では分かっているのに、体がついてこない。

 

「思ってたより、足が忙しい……」

 

アイが息を吐くと、凛が見学席から言った。

 

「足は忙しい」

 

アイは鏡越しに凛を見る。

 

「凛ちゃん、見てるだけだと楽でしょ」

 

「見てるだけでも分かる。大変そう」

 

「そこは否定して」

 

「しない」

 

「厳しい」

 

凛は頷いた。

 

「うん」

 

アイは少しだけ笑った。

 

でも、笑った奥で、悔しさが小さく生まれていた。

 

もっとできると思っていた。

 

少なくとも、笑えば何とかなると思っていた。

 

けれど、足は笑顔に騙されてくれない。

 

次に、トレーナーは短い振りを教えた。

 

手を上げる。

右へ一歩。

左へ戻る。

軽く回る。

正面を見る。

 

「じゃあ、同じ動きで、今度は客席に向けて笑ってみて」

 

その瞬間、アイの空気が変わった。

 

足はまだ少し不安定だった。

 

手の角度も完璧ではない。

 

けれど、顔が上がった。

 

目線が鏡の中のどこか遠くへ向く。

 

ただ鏡を見るのではない。

 

その先にいる誰かを見ているような目だった。

 

首の角度。

 

目元の柔らかさ。

 

笑顔の温度。

 

一瞬だけ、レッスン室の空気が変わった。

 

トレーナーが黙る。

 

壱護も、壁にもたれたまま目を細めた。

 

凛も、ほんの少しだけ目を開いた。

 

「……今の、すごい」

 

凛がぽつりと言った。

 

アイは息を切らしながら、笑顔のまま振り返る。

 

「褒めた?」

 

「褒めた」

 

「珍しい」

 

「事実」

 

アイは笑った。

 

けれど、トレーナーはすぐに手を叩いた。

 

「表情はすごい」

 

「ありがとうございます」

 

「でも、足が追いついてない」

 

アイは肩を落とした。

 

「ですよね」

 

「表情で客席をつかめるのは才能。でも、体が遅れると、その才能が途中で落ちる」

 

言葉は厳しい。

 

でも、アイを否定しているわけではなかった。

 

アイは鏡の中の自分を見た。

 

笑顔は作れる。

 

でも、その笑顔を運ぶ足がまだない。

 

それが、はっきり見えた。

 

次は歌だった。

 

短いフレーズを、トレーナーのピアノに合わせて歌う。

 

アイは声を出した。

 

最初の一音は、思ったより綺麗に出た。

 

トレーナーも小さく頷く。

 

「声は良いね」

 

アイは少しだけ安心しかける。

 

けれど、次のフレーズで声が揺れた。

 

息が足りない。

 

笑顔を保ったまま歌おうとすると、喉に力が入る。

 

歌の途中で、少しだけ声が細くなった。

 

トレーナーが止める。

 

「声は良い。でも、息が先に逃げてる」

 

「息?」

 

「うん。笑顔を作るのが早い分、呼吸を隠そうとしてる」

 

アイは固まった。

 

呼吸を隠す。

 

その言葉は、予想外の場所から刺さった。

 

大丈夫そうに見せる時。

 

平気なふりをする時。

 

泣きそうな時ほど、先に笑う。

 

アイは、ずっとそうしてきた。

 

笑えば、呼吸の乱れを見られない。

 

笑えば、怖さを隠せる。

 

でも歌では、隠せない。

 

息がそのまま声になる。

 

壱護が壁際で言った。

 

「歌は正直だな」

 

アイは少しだけむっとする。

 

「嫌な言い方ですね」

 

「褒めてる」

 

凛がすぐに言った。

 

「たぶん違う」

 

壱護は笑う。

 

「手厳しいな」

 

「必要なだけ」

 

トレーナーも少し笑った。

 

その空気に助けられて、アイはもう一度息を吸った。

 

今度は、少しだけゆっくり。

 

笑顔を急がずに。

 

息から先に。

 

声を出す。

 

さっきよりは、少しだけ楽だった。

 

でも、まだ足りない。

 

何度か繰り返すうちに、アイの額に汗がにじんだ。

 

体は思っていたより疲れている。

 

足も重い。

 

喉も乾く。

 

けれど、周りには大人がいる。

 

凛も見ている。

 

壱護もいる。

 

ここで止まりたくない。

 

アイは笑った。

 

「大丈夫です。まだできます」

 

その瞬間、凛が言った。

 

「大丈夫じゃない」

 

アイは凛を見る。

 

「大丈夫だよ?」

 

「笑い方、違う」

 

アイの笑顔が止まった。

 

凛はまっすぐに言う。

 

「作りすぎ」

 

約束していた言葉だった。

 

笑いすぎたら止める。

 

作りすぎたら止める。

 

アイは唇を結んだ。

 

悔しい。

 

恥ずかしい。

 

でも、凛は間違っていない。

 

「……まだ、やれると思った」

 

「やれると、無理するは別」

 

凛の言葉に、トレーナーも頷いた。

 

「今日はここまでにしよう」

 

「でも」

 

壱護が腕を組んだまま言う。

 

「最初から全部できるやつはいない」

 

アイは黙った。

 

壱護の言い方はぶっきらぼうだった。

 

でも、突き放す感じではなかった。

 

トレーナーも言う。

 

「今日知るべきことは十分知れたよ。表情は強い。リズムと体力、呼吸はこれから」

 

「これから……」

 

「そう。これから」

 

アイは鏡の中の自分を見た。

 

汗をかいている。

 

髪が少し乱れている。

 

笑顔も、最初ほど綺麗ではない。

 

でも、それが今日の自分だった。

 

レッスン室を出ると、母が待合から立ち上がった。

 

アイの顔を見る。

 

「お疲れさま」

 

その声だけで、アイは少しだけ力が抜けた。

 

「疲れた?」

 

アイは素直に頷いた。

 

「疲れた」

 

凛が横で言う。

 

「正直」

 

「今日はもう嘘つく元気もない」

 

凛は少しだけ目を細めた。

 

「いいと思う」

 

母はアイの汗と、少し重たそうな足取りを見て、すぐに察したようだった。

 

「少し休んでから帰ろうか」

 

「うん」

 

アイが椅子に座って水を飲んでいる間、凛は短く今日の様子を母に話した。

 

「足、遅れた」

 

「うん」

 

「表情はすごかった」

 

「そう」

 

「歌は息が逃げたって言われてた」

 

母は頷きながら聞いていた。

 

凛は少し黙ってから続ける。

 

「あと、大丈夫じゃないのに大丈夫って言った」

 

母の表情が、少しだけ変わった。

 

「そっか」

 

それ以上は、凛は言わなかった。

 

でも母には十分だった。

 

少しして、壱護が近づいてきた。

 

母は立ち上がる。

 

「今日、ありがとうございました」

 

壱護は軽く頷く。

 

「初回としては上出来だ」

 

母は静かに聞いた。

 

「壱護さんから見て、どうでしたか」

 

壱護はアイの方を一度見た。

 

「素材は本物だ」

 

母はすぐに頷かなかった。

 

「ただ、無理をしやすいです」

 

「だろうな」

 

「凛ちゃんから聞きました。大丈夫じゃないのに、大丈夫と言ったと」

 

壱護は少しだけ目を伏せる。

 

「見てた」

 

母の声は穏やかだった。

 

けれど、はっきりしていた。

 

「そこを見落とすなら、続けさせられません」

 

壱護は母を見る。

 

母は視線を逸らさない。

 

「この子は、笑ってしまうんです。怖い時も、苦しい時も、相手が望むなら」

 

壱護は黙って聞いていた。

 

「それを才能として扱うなら、同時に危うさとしても見てください」

 

少しの沈黙。

 

壱護は短く息を吐いた。

 

「分かってる。壊してまで売る気はない」

 

母はすぐには頷かなかった。

 

「本当ですか」

 

壱護は苦笑した。

 

「厳しいな」

 

凛が横から言う。

 

「怪しい」

 

壱護は凛を見る。

 

「君、ずっと怪しんでるな」

 

「必要なだけ」

 

「親子みたいなことを言うな」

 

凛は首を傾げた。

 

「家族なので」

 

その一言に、壱護は少しだけ目を細めた。

 

母は何も言わなかった。

 

ただ、静かに凛を見ていた。

 

帰り道、アイはいつもより口数が少なかった。

 

駅前の音も、行きより遠く聞こえる。

 

足が少し重い。

 

喉も少し疲れている。

 

凛が隣を歩きながら聞いた。

 

「悔しい?」

 

アイはすぐには答えなかった。

 

少し考えてから、頷く。

 

「うん」

 

「できなかったから?」

 

「それもある」

 

「他は?」

 

アイは、自分の手を見る。

 

「笑えば何とかなるって、少し思ってた」

 

凛は黙って聞いている。

 

「でも、足は動かないし、息は続かないし、歌うと嘘がばれるみたいだった」

 

「嘘、ばれた?」

 

アイは苦く笑った。

 

「たぶん、自分に」

 

笑えば何とかなる。

 

それはアイがずっと使ってきた方法だった。

 

笑えば、相手は安心する。

 

笑えば、場が丸くなる。

 

笑えば、自分の怖さも少し隠せる。

 

でも、レッスン室の鏡は、それだけでは許してくれなかった。

 

足が遅れれば遅れる。

 

息が乱れれば声が揺れる。

 

疲れれば笑顔が崩れる。

 

嘘を本当にしたいなら、体も、息も、声も、全部必要なのだ。

 

母が少し前を歩きながら言った。

 

「それなら、今日行ってよかったね」

 

アイは顔を上げる。

 

「できなかったのに?」

 

母は振り返る。

 

「できないところが分かったから」

 

アイは黙った。

 

母は続けた。

 

「嘘を本当にしたいなら、できないところも見ないといけないと思う」

 

その言葉は、静かに胸に落ちた。

 

できないところ。

 

隠したいところ。

 

笑顔で覆いたいところ。

 

そこを見ないまま、本物にはできない。

 

アイは小さく頷いた。

 

「……うん」

 

渋谷家に帰ると、父が店先で待っていた。

 

いつもより明らかにそわそわしている。

 

アイを見るなり、すぐに聞いた。

 

「どうだった?」

 

アイは少しだけ笑った。

 

「疲れました」

 

父は目を丸くして、それから笑う。

 

「正直だな」

 

「笑えば何とかなると思ってたら、足が何ともなりませんでした」

 

父は少し吹き出した。

 

「足は正直だな」

 

凛がすぐに言う。

 

「お父さん、それ壱護さんと同じ」

 

父の顔が少し引きつる。

 

「それは嫌だな」

 

母が笑う。

 

「似てきた?」

 

「断じて違う」

 

アイは笑った。

 

疲れているのに、笑えた。

 

作りすぎない笑顔だった。

 

その夜。

 

アイは予定表を開いた。

 

隣には、苺プロダクションの名刺が置いてある。

 

白い紙。

 

黒い文字。

 

その横に、今日のことを書く。

 

初めてのレッスン。

笑顔は褒められた。

足は追いつかなかった。

息も逃げた。

途中で止められた。

 

書いてから、少しだけ眉を下げる。

 

ひどい記録だ。

 

でも、嘘ではない。

 

アイは最後に、もう一行書き足した。

 

嘘を本当にするには、練習がいる。

 

その文字を見つめる。

 

笑顔だけなら、たぶん作れる。

 

けれど、ステージで笑い続けるには、足も、息も、声も、全部必要だった。

 

嘘を本当にする道は、思っていたよりずっと地味で、ずっと苦しかった。

 

それでも。

 

アイは名刺を、予定表の横にそっと置いた。

 

もう一度、行ってみたい。

 

その気持ちは、嘘ではなかった。

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