星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第37話 笑顔の筋肉痛

 

朝。

 

アイは布団の中で目を開けた。

 

天井を見て、昨日のことを思い出す。

 

大きな鏡。

 

床の線。

 

手拍子。

 

足が遅れて、息が逃げて、笑顔だけでは追いつかなかったレッスン室。

 

そして、最後に予定表へ書いた言葉。

 

嘘を本当にするには、練習がいる。

 

アイは小さく息を吸った。

 

起きようとした。

 

「……あれ?」

 

身体が、動かなかった。

 

正確には、動く。

 

動くのだけれど、布団から起き上がろうとした瞬間、太ももとお腹と肩が一斉に抗議してきた。

 

「っ……」

 

アイは、ゆっくり布団に戻った。

 

足が痛い。

 

お腹も痛い。

 

なぜか腕も痛い。

 

昨日、そんなに腕を使っただろうか。

 

いや、使った気がする。

 

手を上げて、戻して、回って、笑って、息を吸って。

 

全部、思っていたより身体を使っていた。

 

アイはそっと頬に手を当てた。

 

笑う筋肉まで疲れている気がする。

 

「嘘でしょ……」

 

小さく呟いたところで、戸が控えめに開いた。

 

凛が顔をのぞかせる。

 

「起きてる?」

 

アイは天井を見たまま答えた。

 

「起きてるけど、起き上がれない」

 

凛は少しだけアイを見て、淡々と言った。

 

「筋肉痛」

 

「そんな冷静に診断しないで」

 

「昨日、足が忙しかったから」

 

「足だけじゃなかったみたい……」

 

アイは腕を少し動かして、すぐにやめた。

 

凛が部屋に入ってくる。

 

「大丈夫?」

 

「大丈夫って言いたいけど、昨日言ったら止められたから、今は大丈夫じゃない寄り」

 

「正直」

 

「成長したでしょ」

 

「うん」

 

凛は短く頷いた。

 

褒められた。

 

たぶん。

 

アイは、布団の上で少しだけ笑った。

 

笑っただけで腹筋が痛んだ。

 

「……笑うのも痛い」

 

凛は少し考えた。

 

「顔も筋肉痛?」

 

「やめて。アイドル候補に言う言葉じゃない」

 

「候補だから」

 

「候補でも傷つくよ?」

 

凛は首を傾げた。

 

「事実でも?」

 

「事実の方が刺さることもあるの」

 

アイはゆっくり身体を起こした。

 

起き上がるだけで、昨日のレッスン室が全身から蘇る。

 

キラキラしたステージは、まだ遠い。

 

今あるのは、起き上がるだけで痛い身体だった。

 

食卓へ向かうまでの廊下も、やけに長かった。

 

アイはいつもより慎重に歩いた。

 

右足を出す。

 

左足を出す。

 

階段の前で止まる。

 

「……階段って、こんなに強敵だったっけ」

 

後ろにいた凛が言う。

 

「昨日までは普通」

 

「今日から敵」

 

「手すり使う?」

 

「使う……」

 

アイは手すりを握り、一段ずつ降りた。

 

食卓では、母が朝食の準備をしていた。

 

父も店先へ出る前に、湯呑みを持って座っている。

 

父がアイを見て、目を丸くした。

 

「どうした、歩き方が古武術みたいだぞ」

 

アイは椅子にゆっくり腰を下ろす。

 

「人生初の本格レッスンに負けました」

 

母がすぐに言う。

 

「無理しないで座って」

 

「もう座りました。座るのも戦いでした」

 

凛が隣で観察する。

 

「座るのも痛そう」

 

「実況しないで」

 

父が少し笑った。

 

「笑顔は?」

 

アイは反射的ににっこり笑おうとした。

 

「できます」

 

だが、表情の端が少し引きつった。

 

腹筋が痛い。

 

頬も変な感じがする。

 

凛が即座に言う。

 

「顔も筋肉痛」

 

「だからやめてってば」

 

母が笑いをこらえながら、スープを置いた。

 

「今日は学校でも無理しないこと」

 

「はい」

 

凛が続ける。

 

「階段はゆっくり」

 

「介護されてる気分」

 

父が真面目な顔で頷く。

 

「初レッスン翌日の洗礼だな」

 

「お父さん、経験あるの?」

 

「ない」

 

「ないんだ」

 

「でも響きがそれっぽい」

 

凛が短く言う。

 

「適当」

 

父は湯呑みを持ったまま黙った。

 

アイは笑った。

 

痛い。

 

でも、笑えた。

 

学校でも、筋肉痛は隠しきれなかった。

 

椅子に座る時、いつもより動きが遅くなる。

 

立つ時にも、少しだけ間が空く。

 

友達が不思議そうに声をかけてきた。

 

「アイ、どうしたの?」

 

アイはいつもの笑顔を作ろうとして、少しだけ緩めた。

 

作りすぎると、凛に見つかる。

 

「ちょっと運動しただけだよ」

 

凛が横から言う。

 

「レッスンで筋肉痛」

 

アイは凛を見る。

 

「凛ちゃん、情報開示が早い」

 

「嘘ではない」

 

友達が目を輝かせた。

 

「レッスン? 何の?」

 

アイは一瞬、言葉を探した。

 

アイドル。

 

そう言うには、まだ早い気がした。

 

自分でも、まだその言葉をうまく持てていない。

 

「ちょっと、体を動かす練習」

 

凛が横で頷く。

 

「嘘ではない」

 

「凛ちゃん判定が厳しい」

 

友達は「へぇ」と笑った。

 

「アイって運動できそうなのに」

 

「私もそう思ってた」

 

アイは肩をすくめる。

 

「現実は足が忙しかった」

 

「足が忙しい?」

 

凛が言う。

 

「昨日から言ってる」

 

「言わなくていいよ」

 

アイは笑って、また少し腹筋に響いた。

 

休み時間、凛はアイの歩く速度に合わせていた。

 

廊下でも、階段でも、いつもより少しだけゆっくり。

 

アイはそれに気づいて、隣を見る。

 

「凛ちゃん、歩くの遅くしてる?」

 

「してる」

 

「隠さないんだ」

 

「隠す必要ない」

 

「優しいね」

 

凛は少しだけ黙った。

 

「筋肉痛だから」

 

「理由が現実的」

 

「うん」

 

アイは笑った。

 

その笑いは、作ったものではなかった。

 

放課後。

 

二人は並んで帰った。

 

足は朝より少しだけ動く。

 

でも、階段を降りるたびに身体が昨日を思い出す。

 

アイは少し黙っていた。

 

凛が横を見る。

 

「やめたい?」

 

アイはすぐに首を横に振った。

 

「ううん」

 

「痛いのに?」

 

「痛いけど、悔しい」

 

凛は少しだけ目を細めた。

 

「悔しいなら、行く?」

 

「行く」

 

その答えは、自分でも驚くくらい早かった。

 

凛が黙っている。

 

アイは空を見上げた。

 

「笑えばなんとかなるって思ってたの、ちょっと悔しい」

 

昨日の鏡の中の自分を思い出す。

 

表情だけは、たぶん褒められた。

 

でも、足は遅れた。

 

息は逃げた。

 

歌えば、自分でごまかしていたものが声に出た。

 

「ちゃんと踊れるようになってから笑ったら、どんな感じなんだろうって思った」

 

凛は短く答える。

 

「見たい」

 

アイは凛を見る。

 

「凛ちゃんが?」

 

「うん」

 

「じゃあ、見せられるようにしなきゃね」

 

「無理はだめ」

 

「分かってる」

 

凛の目が細くなる。

 

「本当に?」

 

「……分かろうとしてる」

 

「ならいい」

 

アイは苦笑した。

 

凛の基準は厳しい。

 

でも、その厳しさに救われることを、アイはもう知っていた。

 

渋谷家に帰ると、アイは父と母に言った。

 

「次も行きたいです」

 

父は店先の花を整えていた手を止めた。

 

「筋肉痛なのに?」

 

「筋肉痛だから」

 

父は少し考えた。

 

「分かるような、分からないような」

 

母は台所から顔を出す。

 

「行くなら、休むことも練習に入れてね」

 

「休むことも?」

 

「うん。疲れている時に無理をしないことも、続けるためには必要だから」

 

凛が続ける。

 

「無理したら止める」

 

アイは少し笑う。

 

「もう合言葉になってる」

 

「大事」

 

「うん。大事」

 

今度は、ちゃんと受け取れた。

 

数日後。

 

二回目のレッスンの日が来た。

 

筋肉痛はまだ少し残っていたが、初日ほどではない。

 

苺プロダクションに着くと、壱護がいつものように立っていた。

 

「逃げずに来たか」

 

アイは少し胸を張る。

 

「筋肉痛でも来ました」

 

壱護は口元を上げる。

 

「それは偉いのか、無謀なのか」

 

凛が横から言う。

 

「両方」

 

壱護は笑った。

 

「付き添いの評価が一番正確だな」

 

「必要なだけ」

 

「またそれか」

 

トレーナーは、今日もレッスン室で待っていた。

 

「今日は地味なことをします」

 

アイは少し身構える。

 

「地味なこと?」

 

「ストレッチ、体幹、リズム取り、呼吸、姿勢、発声」

 

「全部地味そう……」

 

「そう。アイドルはキラキラするために、地味なことをするの」

 

アイは思わず呟いた。

 

「現実が強い……」

 

トレーナーは笑った。

 

「現実を味方にできる子が、ステージで強いの」

 

レッスンが始まった。

 

まずはストレッチ。

 

前回より、少しだけ痛みの場所が分かる。

 

どこを伸ばすとどこが痛いのか。

 

どこで止めればいいのか。

 

アイは笑顔を作らず、自分の身体の感覚を探った。

 

次は体幹。

 

ただ姿勢を保つだけ。

 

それだけなのに、数十秒で身体が震え始める。

 

「これ、動いてないのにきついです」

 

トレーナーが言う。

 

「動く前に、止まれる身体を作るの」

 

「止まるのもレッスン……」

 

凛が見学席で言う。

 

「止まるの苦手そう」

 

アイは顔を上げる。

 

「凛ちゃん、そういうのも見えるの?」

 

「少し」

 

「怖いなぁ」

 

でも、否定はできなかった。

 

アイは、止まるのが苦手だった。

 

何かしていないと不安になる。

 

笑っていないと落ち着かない。

 

役に立っていないと、そこにいていい理由が薄くなる。

 

けれど、トレーナーは言う。

 

「止まっていても、ステージに立っている時は見られてる。そこで崩れないことも大事」

 

アイは息を吸った。

 

止まっていても、見られている。

 

笑っていない時も、見られている。

 

それは怖かった。

 

けれど、必要なことだった。

 

次に、トレーナーが言った。

 

「今日は最初の何回か、笑わなくていい」

 

アイは目を瞬かせた。

 

「笑わなくていい?」

 

「うん。体の動きだけ見るから」

 

「でも、アイドルって笑うんじゃ」

 

「最後にはね。でも、最初から笑顔を乗せると、体のズレを顔で隠しちゃう」

 

アイは言葉を失った。

 

顔で隠す。

 

まただ。

 

笑顔は便利すぎる。

 

不安も、疲れも、ズレも、少しだけ見えにくくできてしまう。

 

「今日は、笑顔を外してやってみよう」

 

アイは鏡を見た。

 

笑わない自分。

 

それだけで、少し心細い。

 

武器を置いて、前に出るような感じがする。

 

凛が見学席から言った。

 

「見てる」

 

アイは凛を見る。

 

「笑ってなくても?」

 

「うん」

 

その言葉で、少しだけ足元が戻った。

 

笑っていなくても、見てくれる人がいる。

 

アイは頷いた。

 

「やってみます」

 

音に合わせて、足を出す。

 

右へ。

 

左へ。

 

戻る。

 

腕を上げる。

 

正面を見る。

 

笑わない。

 

ただ、動きを追う。

 

最初は不安だった。

 

表情を作らないと、どこを見ればいいか分からない。

 

でも、二回、三回と繰り返すうちに、足の位置が少しだけ分かるようになった。

 

前回より、音が聞こえる。

 

腕を上げるタイミングも、少し合う。

 

トレーナーが頷く。

 

「今の、前よりいい」

 

凛も言った。

 

「今の、前より合ってた」

 

アイは思わず振り返る。

 

「笑ってないのに?」

 

凛は短く答えた。

 

「笑ってないからかも」

 

その言葉は、アイの中に静かに落ちた。

 

笑えば完成すると思っていた。

 

でも、笑う前に必要なものがある。

 

足。

 

息。

 

姿勢。

 

止まる力。

 

笑顔を乗せる前の、自分の身体。

 

アイはもう一度鏡を見た。

 

笑っていない自分が、そこにいた。

 

不完全で、少し不安そうで、それでも前回より足が合っている自分。

 

「……そっか」

 

アイは小さく呟いた。

 

その後も、レッスンは地味だった。

 

呼吸を整える。

 

同じリズムを何度も繰り返す。

 

発声の前に姿勢を直す。

 

派手な振り付けも、可愛いポーズもほとんどない。

 

それでも、アイは前回より集中していた。

 

笑顔を作る代わりに、足の裏を感じる。

 

息の流れを聞く。

 

鏡の中の肩の高さを見る。

 

それは、思っていたよりずっと難しくて、少しだけ面白かった。

 

レッスン後、壱護はトレーナーと少し離れたところで話していた。

 

「やっぱり、目を引くな」

 

トレーナーはタオルを肩にかけたまま頷く。

 

「表情だけなら即戦力。でも、体はまだまだです」

 

「そこは鍛える」

 

「無理に急がせると壊れますよ」

 

壱護は腕を組む。

 

「分かってる」

 

トレーナーはレッスン室の隅で水を飲むアイを見る。

 

「ただ、笑顔を外しても目が残るのは強いですね」

 

壱護は少し黙った。

 

アイは、凛に何か言われて、少しだけむっとした顔をしている。

 

その顔も、妙に目を引いた。

 

可愛い笑顔だけではない。

 

黙っていても、何かを見たくなる。

 

「……あの子を中心にしたら、面白いグループになる」

 

壱護は小さく呟いた。

 

トレーナーが横を見る。

 

「もうそこまで考えてるんですか」

 

「考えるだけならタダだ」

 

「名前まで?」

 

壱護は口元を上げた。

 

「B小町、か……」

 

その言葉は、アイの耳には届かなかった。

 

凛だけが、ほんの少し壱護の方を見た。

 

何かを聞いたような顔だったが、すぐにアイへ視線を戻した。

 

帰り道。

 

アイは疲れていた。

 

でも、前回のように沈んではいなかった。

 

足は痛い。

 

身体も重い。

 

それでも、少しだけ何かを掴んだ感覚があった。

 

「今日はちょっとだけ、足が分かった気がする」

 

凛が横を見る。

 

「足が?」

 

「うん。足って、勝手に動かないんだね」

 

凛は真顔で言った。

 

「普通」

 

アイは笑った。

 

「普通が難しい」

 

「知ってる」

 

「知ってるんだ」

 

「アイ、普通にするの苦手だから」

 

「そこまで言う?」

 

「言う」

 

アイは肩をすくめた。

 

でも、嫌ではなかった。

 

「凛ちゃん、今日も作りすぎチェックする?」

 

「する」

 

「じゃあ、私もちゃんと疲れたって言う練習する」

 

凛は頷いた。

 

「それもレッスン」

 

アイは少し驚いた。

 

それから、笑った。

 

「そっか。それもレッスンか」

 

無理をしないこと。

 

疲れたと言うこと。

 

笑わなくても立っていること。

 

全部、レッスン。

 

そう思うと、少しだけ息が楽になった。

 

夜。

 

アイは予定表を開いた。

 

足はまだ痛い。

 

でも、今日はその痛みが少しだけ誇らしかった。

 

鉛筆を持ち、今日の欄に書く。

 

レッスン二回目。

筋肉痛でも行った。

笑わない練習をした。

笑わない方が、足が合った。

 

少し考えて、最後に書き足す。

 

笑顔を本物にするには、笑わない時間もいる。

 

その文字を見て、アイは頬に触れた。

 

笑顔は、アイの得意な嘘だった。

 

けれど、その笑顔をステージの上で本物にするためには、笑っていない時間の方がずっと長かった。

 

ストレッチ。

 

呼吸。

 

姿勢。

 

足の裏。

 

地味で、痛くて、目立たない時間。

 

それでも、そこにしか乗せられない笑顔があるのかもしれない。

 

アイは痛む足をさすりながら、予定表の横に小さく丸をつけた。

 

可愛い笑顔の裏側は、思っていたよりずっと地味で、少しだけ痛かった。

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