星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜 作:百合太郎
朝の渋谷家には、少し変わった光景が混ざるようになっていた。
店先へ出る前の狭いスペースで、アイがストレッチをしている。
足を伸ばして、背中を倒す。
深く息を吸う。
吐く。
まだ身体は硬い。
けれど、最初の頃のように、伸ばすたびに顔が引きつるほどではなくなっていた。
父が湯呑みを持ったまま、それを見ていた。
「朝から偉いな」
アイは床に座ったまま顔を上げる。
「朝にほぐしておかないと、足が一日中ストライキするので」
凛が横を通りながら言った。
「昨日よりまし」
「凛ちゃん、足の状態まで見てるの?」
「歩き方」
「観察対象が増えてる……」
父が真面目な顔で頷いた。
「レッスン後の歩き方は、確かに分かりやすい」
「お父さんまで」
母が台所から声をかける。
「無理しない範囲でね」
「はーい」
アイは返事をして、もう一度ゆっくり息を吐いた。
以前なら、こんな姿を家で見せること自体が少し恥ずかしかった。
何かを頑張っているところ。
うまくできないところ。
身体が硬いところ。
そういうものは、できるだけ見せない方がいいと思っていた。
でも、今は違う。
父は少し大げさに応援する。
母は無理をしないか見ている。
凛は、変なところまで正確に見ている。
それが少し恥ずかしくて、少し安心だった。
「今日はレッスン?」
父が聞く。
アイは立ち上がり、足を軽く揺らした。
「うん。今日は基礎と、たぶん振りの続き」
凛が鞄を持ちながら言う。
「足、遅れないといいね」
「朝から現実が強い」
「大事」
「うん。大事」
アイは笑った。
その笑いは、前より軽かった。
作っていないわけではない。
でも、作りすぎてもいない。
鏡の前で完成させた笑顔ではなく、朝の家の中で自然に出てくる笑顔だった。
苺プロダクションのレッスン室にも、少しずつ慣れてきた。
大きな鏡。
床の線。
音響機材。
見学席の椅子。
トレーナーの手拍子。
壱護が壁際で腕を組んでいる姿。
最初は全部が自分を見ているように感じた。
今は、まだ緊張はするけれど、そこに立てる。
笑わない練習も、最初より怖くなくなった。
トレーナーが手を叩く。
「じゃあ、リズムから」
アイは頷く。
「はい」
一、二、三、四。
足を出す。
戻す。
腕を上げる。
正面を見る。
前より、足が遅れない。
完璧ではない。
少しだけ肩に力が入るし、手の角度もずれる。
けれど、最初の頃のように、笑顔だけが先に走って身体が置いていかれることは減っていた。
トレーナーが頷く。
「前より足が遅れなくなってきたね」
アイは息を整えながら、少し得意げに言った。
「足と少し和解しました」
凛が見学席から言う。
「仮」
「厳しい」
「まだ本契約じゃない」
「契約制なの?」
壱護が壁際で笑った。
「足の契約か。アイドルも大変だな」
「大人が乗らないでください」
アイがそう返すと、トレーナーも少し笑った。
けれど、すぐに鏡越しのアイを見る。
「でも、表情は相変わらず強い」
壱護が腕を組み直す。
「ああ。そこは最初から抜けてる」
トレーナーは頷いた。
「だからこそ、体が追いつくと化けます」
化ける。
その言葉に、アイは少しだけ目を伏せた。
褒められているのは分かる。
でも、その言葉は少し怖い。
自分が何かに変わる。
何かになってしまう。
昔なら、それが一番怖かった。
今でも、怖くないわけではない。
でも、今はもう少し違う。
変わるとしても、戻る場所がある。
星野アイのまま、帰る場所がある。
だから、怖いだけではなかった。
レッスン後。
アイは水を飲みながら、隣のレッスン室を少し覗いた。
そこでは、別の候補生たちが練習していた。
年上の子もいる。
同じくらいの子もいる。
ダンスのキレがいい子。
歌声がまっすぐ伸びる子。
鏡の前で何度もポーズを確認する子。
声を出して場を明るくする子。
一人は、何度も同じステップでつまずいていた。
それでも、曲が止まるたびに笑って言った。
「もう一回お願いします」
別の一人は、歌い終えたあと悔しそうに唇を噛んでいた。
そのまま顔を上げて、またマイクを握る。
みんな、完璧ではなかった。
けれど、鏡の前から逃げていなかった。
アイは、その様子を見て小さく呟いた。
「みんな、すごいですね」
隣に立った壱護が言う。
「それぞれ武器がある」
「武器」
「アイドルは可愛いだけじゃ続かない。歌、ダンス、表情、キャラ、空気。何かしら人を引っ張るものがいる」
アイは候補生たちを見る。
「私は?」
壱護はすぐに答えた。
「目だな」
アイは壱護を見る。
「目?」
「ああ」
壱護は、まっすぐアイの顔を見た。
「見るやつを、こっち側に引っ張る目をしてる」
アイは少しだけ居心地悪そうに視線を逸らした。
褒め言葉なのだろう。
でも、まっすぐ言われると落ち着かない。
「それ、怖くないですか」
「使い方次第だ」
「便利な言葉ですね」
「本当のことだ」
壱護は肩をすくめた。
それから、候補生たちの方へ視線を戻す。
「グループを作ろうと思ってる」
アイは瞬きをした。
「グループ?」
「ああ。アイドルグループだ」
凛がいつの間にか近くに来ていた。
「アイ一人じゃない?」
壱護は頷く。
「最初から一人で立たせるつもりはない」
その言葉に、アイの肩から少しだけ力が抜けた。
「一人じゃないなら……少し安心です」
「だろうな」
壱護は、アイの反応を見ていたように言った。
アイは少しむっとする。
「何でも分かった顔しないでください」
「分かるところしか分かってない」
「それも便利な言い方」
凛が静かに聞く。
「名前は?」
壱護は少し口角を上げた。
「B小町」
アイは、その名前を小さく繰り返した。
「B小町……」
まだ自分のものではない名前だった。
けれど、知らない言葉なのに、どこか舞台の照明みたいに響いた。
明るくて。
少し変で。
一度聞くと、耳に残る。
凛がぽつりと言う。
「変な名前」
アイは思わず笑った。
「今、ちょっとそれ思った」
壱護は苦笑する。
「直球だな」
凛は少し考える。
「でも、覚えやすい」
「褒めてるのか?」
「たぶん」
「たぶんって言われると不安になるね」
アイが笑うと、壱護は肩をすくめた。
「覚えられない名前よりはいい」
「それはそうかも」
B小町。
その名前は、まだアイには遠かった。
けれど、完全に知らないものではなくなった。
自分だけではない。
他の誰かと一緒に立つ場所。
そう考えると、少しだけ息がしやすかった。
けれど、壱護の次の言葉で、その安心は少し形を変えた。
「ただ、グループには中心がいる」
アイの表情が止まる。
壱護は候補生たちの方を顎で示した。
「グループってのは、全員が同じ光り方をするわけじゃない」
アイは黙って聞く。
「最初に目を奪うやつがいる。そいつが客を引っ張って、残りの光を見せる」
アイは小さく息を吸った。
「それが、センター?」
「そうだ」
凛の視線が、少し鋭くなる。
壱護はアイを見た。
「俺は、君にはその力があると思ってる」
アイは笑おうとした。
けれど、少し遅れた。
その遅れに、凛は気づいた。
壱護も、おそらく気づいた。
アイは候補生たちが練習している部屋を見た。
真ん中。
一番前。
一番見られる場所。
一番、笑顔を求められる場所。
「真ん中って、いちばん見られる場所ですよね」
壱護は頷く。
「そうだな」
「じゃあ……いちばん、ごまかせない場所ですよね」
壱護は少し黙った。
その沈黙は、否定ではなかった。
考えている沈黙だった。
やがて、壱護は言った。
「ごまかすだけならな」
アイは顔を上げる。
「え?」
「本物にしたいなら、いちばん近い場所でもある」
その言葉は強かった。
強すぎて、すぐには受け取れなかった。
アイは眉を寄せる。
「どういう意味ですか」
「客が君を見る。君が笑う。その笑顔を信じるやつがいる。信じられた笑顔は、ただの嘘のままではいられなくなる」
壱護は言葉を切る。
「もちろん、きれいごとだけじゃない。センターは重い。見られるし、比べられるし、期待される」
凛が静かに言った。
「いちばん無理しやすい場所でもある」
壱護は凛を見る。
そして、あっさり頷いた。
「それもそうだ」
凛は少しだけ目を細めた。
否定されると思っていたのかもしれない。
壱護は続ける。
「だから、すぐ立てとは言わない。ただ、そういう場所があるって話だ」
アイは何も言わなかった。
真ん中。
いちばんごまかせない場所。
いちばん本物に近い場所。
いちばん無理しやすい場所。
その全部が、同じ場所にある。
それが怖かった。
帰り道。
アイはいつもより少し静かだった。
凛は隣を歩いている。
駅前の雑踏が遠くに聞こえる。
しばらくして、凛が聞いた。
「センター、嫌?」
アイは少し笑った。
「まだ決まってないよ」
「でも、そう見てた」
「壱護さんが?」
「うん」
「凛ちゃん、社長の視線まで見るの?」
凛は前を向いたまま言った。
「アイを見る人の視線は見る」
アイは何も言えなくなった。
その言葉は、少しだけ重くて、でも温かかった。
凛は続ける。
「真ん中に立つと、アイは笑いすぎると思う」
「決めつけるなぁ」
「前科がある」
「前科って」
「大丈夫じゃないのに、大丈夫って言った」
アイは返せなかった。
その通りだった。
レッスン初日。
疲れているのに、大丈夫だと笑った。
自分でも気づかないうちに、いつもの癖が出た。
もしセンターになったら。
もっと見られる。
もっと期待される。
もっと笑う。
そうなった時、自分はどこまで本当に笑えるのだろう。
どこから無理になるのだろう。
「でも」
アイはぽつりと言った。
「一人じゃないのは、少し安心した」
凛は頷く。
「うん」
「グループなら、みんなで立てるのかなって」
「真ん中でも?」
アイは黙った。
真ん中でも。
その言葉だけで、胸の奥が少し冷える。
「そこは……怖い」
凛はすぐに言った。
「じゃあ、怖いって言う」
「誰に?」
「壱護さん」
アイは少し困ったように笑った。
「言えるかな」
「練習」
「それもレッスン?」
「うん」
アイは小さく笑った。
最近、何でもレッスンになる。
足を動かすこと。
息を吸うこと。
疲れたと言うこと。
笑わないで立つこと。
怖いと言うこと。
でも、たぶん本当にそうなのだ。
ステージに立つためには、歌やダンスだけでは足りない。
自分の怖さを隠さず持つことも、練習なのかもしれない。
渋谷家に帰ると、父と母が店先にいた。
「おかえり」
母が言う。
アイと凛は並んで返した。
「ただいま」
その言葉は、もう自然に出るようになっていた。
奥へ入って、お茶を飲みながら、アイはB小町の話をした。
父が腕を組む。
「グループか」
母は静かに聞く。
「センターという話も出たの?」
アイは湯呑みを握り直した。
「まだ、はっきりではないです。でも、たぶん……」
凛が言った。
「見てた」
父はすぐに頷いた。
「凛が言うなら、かなりそうなんだろうな」
アイは父を見る。
「凛ちゃんの観察力、信頼されすぎじゃない?」
父は真面目な顔で言った。
「実績がある」
凛は頷く。
「ある」
「凛ちゃんも否定しないんだ」
「事実」
母が少し笑った。
それから、アイを見る。
「アイちゃんは、どう思った?」
アイは少し考えた。
一人じゃない安心。
真ん中に立つ怖さ。
壱護の言葉。
凛の警戒。
全部が混ざっている。
「一人じゃないのは、安心しました」
母は頷く。
「うん」
「でも、真ん中って言われたら……」
アイは湯呑みを握り直した。
「そこだけ、急に遠くなりました」
父が静かに聞く。
「遠い?」
「はい」
アイは視線を落とす。
「見てみたいのに、近づくと怖いです」
母は、すぐに答えを出さなかった。
ただ、受け止めるように頷いた。
「うん」
アイは少しだけ息を吸った。
「怖いです。でも、逃げたいだけじゃない」
それを口にした瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
怖いと認めても、消えない。
逃げたいだけではないと認めても、嘘にはならない。
父が、ゆっくり言った。
「真ん中に立つなら、真ん中で倒れない準備がいるな」
アイは顔を上げる。
「倒れる前提ですか?」
「倒れないために」
父は真面目だった。
母も続ける。
「休むことも、断ることも、怖いと言うことも必要だね」
凛がいつものように言う。
「笑いすぎたら止める」
アイは少し笑った。
「やっぱりそれは継続なんだ」
「うん」
「頼りにしてる」
凛は少しだけ目を瞬かせた。
それから、短く頷いた。
「うん」
次のレッスンの日。
アイは壱護の前に立った。
凛はいつものように少し横にいる。
トレーナーはレッスンの準備をしている。
壱護が言う。
「今日は基礎の続きだ」
「その前に」
アイは声を出した。
自分でも少し驚くくらい、はっきりした声だった。
壱護がアイを見る。
「何だ」
アイは一度、息を吸った。
「センターの話、怖いです」
壱護は少し眉を上げる。
「まだ正式には言ってないぞ」
「でも、そういう目でした」
壱護は一瞬黙った。
それから、ふっと笑う。
「君も見るようになったな」
「凛ちゃんが見てたので」
凛が隣で頷く。
「見てた」
壱護は二人を見て、少し呆れたように笑った。
「二人がかりか」
「見張るって決めたので」
凛が言う。
壱護は凛を見た。
「誰が?」
「私が」
「強いな、渋谷家」
アイは少し笑った。
それから、唇を結ぶ。
「怖いです。でも、逃げたいだけじゃないです」
壱護の表情が、少しだけ真面目になる。
「なら、まだ逃げなくていい」
「まだ?」
「怖くなくなってから立つんじゃ遅い」
壱護はアイをまっすぐ見た。
「怖いまま、立てる体を作る」
その言葉は、今のアイには少しだけ分かった。
怖さを消してから進むのではない。
怖いままでも、立てるようにする。
そのための足。
そのための息。
そのための声。
そして、笑顔。
アイは頷いた。
「はい」
凛が横で言う。
「無理したら止める」
壱護は苦笑する。
「それはもう社訓みたいだな」
凛は迷わず言った。
「家の決まりです」
「やっぱり強いな、渋谷家」
トレーナーが手を叩いた。
「じゃあ、今日は怖いまま立つための基礎からね」
アイは鏡の前に立った。
真ん中ではない。
まだ端に近い位置。
それでも、少しだけ背筋を伸ばした。
夜。
アイは予定表を開いた。
今日の欄に、ゆっくり書く。
B小町という名前を聞いた。
グループらしい。
一人じゃないのは少し安心した。
でも、真ん中は怖い。
少し迷って、最後に書く。
怖いまま、立てる体を作る。
その文字を見つめる。
真ん中に立つことは、いちばん綺麗に笑うことではないのかもしれない。
いちばん見られる場所で、怖いまま立っていること。
その上で、笑うこと。
アイは「B小町」という文字を、もう一度見つめた。
その名前は、まだ少しだけ遠かった。
けれど、もう知らない名前ではなかった。
逃げるほど遠くはない。
いつか、その真ん中に立つかもしれない名前だった。