星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第3話 雨のあとに残るもの

 

 

第3話

 

雨のあとに残るもの

 

雨は、朝には上がっていた。

 

けれど、校庭にはまだ水たまりが残っている。

 

ところどころに空の色を映した小さな水面があって、子どもたちがそこを避けたり、わざと踏んだりしながら校門をくぐっていく。

 

凛はいつものように教室へ向かった。

 

昨日の雨の匂いが、まだ少し残っている気がした。

 

湿った土の匂い。

濡れたアスファルトの匂い。

傘を閉じたあとの、少し冷たい空気。

 

教室の扉を開けると、すでに中は賑やかだった。

 

「アイちゃん、昨日大丈夫だった?」

 

「濡れなかった?」

 

「走って帰ったの?」

 

その中心に、アイがいた。

 

アイはいつものように笑っていた。

 

「大丈夫だったよ。ちょっと濡れたけど、平気」

 

「風邪ひかなかった?」

 

「ひいてないひいてない。私、元気だから」

 

明るい声。

 

いつもの笑顔。

 

昨日、雨の中で一瞬だけ消えた顔なんて、最初からなかったみたいに。

 

凛は自分の席へ向かう。

 

アイがこちらに気づいた。

 

「おはよう、凛ちゃん」

 

「おはよう」

 

凛が返すと、アイはにこっと笑った。

 

笑顔はある。

声も明るい。

 

でも、昨日までより少しだけ遠かった。

 

凛にはそれが分かった。

 

アイは凛を避けている。

 

あからさまではない。

 

そんな分かりやすいことはしない。

アイは、そういうことが上手い。

 

凛と目が合えば笑う。

挨拶もする。

話しかけられれば返す。

 

でも、それ以上は近づいてこない。

 

凛が何かを言う前に、別の子の方へ顔を向ける。

 

「ねえアイちゃん、今日の昼休みも遊ぼ!」

 

「うん、いいよ!」

 

アイはすぐにそちらへ笑った。

 

凛はランドセルを下ろしながら、その横顔を見た。

 

昨日、言いすぎたのかもしれない。

 

帰れる場所があるならね。

 

あの言葉を、アイは嫌がった。

 

それは分かった。

 

でも、嫌がったからといって、なかったことにはできなかった。

 

凛は席に座り、机の中に教科書を入れる。

 

指先に、少しだけ力が入った。

 

朝の会が始まり、授業が始まった。

 

アイは相変わらず、うまくやっていた。

 

先生に当てられれば、少し考える顔をしてから答える。

間違えても、照れたように笑う。

隣の子が困っていれば、さりげなく教科書を見せる。

 

先生は何度か、嬉しそうに頷いていた。

 

転校してきたばかりの子が、こんなに早く馴染んでいる。

きっと安心しているのだと思う。

 

休み時間になると、アイはすぐに誰かに囲まれた。

 

「アイちゃん、昨日の続きしよう」

 

「いいよ」

 

「こっち来て!」

 

「待って待って」

 

笑い声。

 

軽い足音。

 

明るい返事。

 

凛はそれを見ながら、机の上の消しゴムを指で転がした。

 

アイは、さらに上手くなっている。

 

昨日よりも自然に。

昨日よりも明るく。

昨日よりも、誰からも好かれる形で。

 

けれど、その分だけ。

 

アイ自身が、どこかへ遠くなっていく気がした。

 

「凛ちゃん」

 

声がした。

 

凛が顔を上げると、前の席の子が振り向いていた。

 

「今日、図書室行く?」

 

「うん。返す本あるから」

 

「じゃあ一緒に行こ」

 

「いいよ」

 

凛は頷いた。

 

その時、少し離れた場所でアイと目が合った。

 

アイは笑った。

 

でもすぐ、別の子に呼ばれてそちらを向いた。

 

凛は何も言わなかった。

 

給食の時間。

 

その日の献立には、また白いご飯があった。

 

白くて、柔らかそうで、湯気が少し立っているご飯。

 

凛は箸を持ちながら、斜め前の席を見る。

 

アイは、今日は早かった。

 

配膳が終わるとすぐに箸を持ち、何でもない顔でご飯を口に運んだ。

 

まるで、見られる前に済ませようとしているみたいだった。

 

凛は何も言わなかった。

 

昨日みたいに、好きじゃないでしょ、とも。

怖い、とも。

 

言わなかった。

 

ただ、見えた。

 

アイの箸を握る指に、少しだけ力が入っていること。

 

ご飯を飲み込んだあと、すぐに笑って周りの会話に入ったこと。

 

その笑顔が、いつもより少しだけ早く作られたこと。

 

「アイちゃん、今日も一緒に帰れる?」

 

隣の子が聞いた。

 

アイはにこっと笑う。

 

「うん。でも途中までかも」

 

「そっか。じゃあ校門まで一緒に行こ」

 

「いいよ」

 

途中まで。

 

凛は、その言葉を聞いていた。

 

給食のあとも、アイは凛と二人になる時間を作らなかった。

 

昼休みも、掃除の時間も、帰りの会の前も。

 

誰かと一緒にいる。

誰かと喋っている。

誰かに笑っている。

 

それは、とても自然だった。

 

でも、凛には分かる。

 

アイは、凛と二人きりになるのを避けている。

 

アイは凛のことが苦手だった。

 

嫌い、ではない。

 

たぶん、嫌いとは少し違う。

 

凛ちゃんは怖い。

 

昨日、自分でそう言った。

 

本当にそう思った。

 

笑っても、見てくる。

大丈夫と言っても、信じていない。

平気だと言っても、その奥に何かあるみたいな顔をする。

 

そんな子は苦手だ。

 

だって、どうすればいいか分からない。

 

みんなみたいに笑えば喜ぶわけじゃない。

先生みたいにいい子にしていれば安心するわけでもない。

 

凛ちゃんは、嘘に気づいているみたいなのに、嘘つきだとは言わない。

 

責めない。

暴かない。

からかわない。

 

ただ、そこにいる。

 

それが怖かった。

 

優しいのかもしれない。

 

でも、優しい人ほど怖い。

 

優しくされたあとにいなくなられるくらいなら、最初から近づかない方がいい。

 

アイはそう思っていた。

 

そう思っているのに。

 

教室の端で、凛が誰かに短く返事をしているのを見ると、なぜか胸の奥が少しだけ落ち着かなくなった。

 

帰りの会が終わった。

 

「さようなら」

 

子どもたちの声が揃う。

 

椅子を引く音。

ランドセルを背負う音。

廊下へ駆け出す足音。

 

アイは何人かの女子と一緒に教室を出た。

 

「アイちゃん、こっち?」

 

「うん、途中まで」

 

凛は少し遅れて教室を出る。

 

階段を下り、下駄箱で靴を履き替える。

 

外は晴れていた。

 

昨日の雨が嘘みたいに、空は明るい。

ただ、校庭の水たまりだけが、雨の名残を残している。

 

アイはクラスの子たちと一緒に校門を出た。

 

凛はその後ろを、少し離れて歩く。

 

追いかけるつもりはなかった。

 

ただ、同じ方向だった。

 

そういうことにしておいた。

 

少し歩いたところで、アイは一緒にいた子たちと手を振って別れた。

 

「じゃあね!」

 

「また明日!」

 

「うん、また明日!」

 

アイは笑って手を振る。

 

友達が角を曲がって見えなくなるまで、ずっと笑っていた。

 

そして、誰もいなくなった瞬間。

 

その笑顔が消えた。

 

凛は立ち止まりかけた。

 

でも、止まらなかった。

 

少し距離を空けたまま歩く。

 

アイは気づいているのか、いないのか分からない。

 

振り返らない。

走らない。

ただ、昨日と同じ方角へ歩いていく。

 

住宅街を抜ける。

 

商店の並ぶ道を過ぎる。

 

凛の家とは違う方へ。

凛がよく知っている道から、少しずつ外れていく。

 

やがて、アイは一つの建物の前で立ち止まった。

 

大きな家、というには少し違う。

 

門があり、掲示板があり、庭のような場所から子どもたちの声が聞こえる。

 

建物の入り口には、職員らしき大人が立っていた。

 

凛は道の向こう側で足を止めた。

 

看板に文字が書いてある。

 

漢字が多くて、全部はすぐに読めない。

 

でも、その中に「児童」と「施設」という文字があった。

 

児童養護施設。

 

凛は、その言葉を見た。

 

意味はよく分からなかった。

 

でも、普通の家ではないことは分かった。

 

アイは門の前で、一度だけ立ち止まった。

 

学校で見せていた笑顔はない。

 

疲れたような、何も考えていないような顔をしていた。

 

それから、建物の中から誰かに呼ばれたのか、アイは顔を上げる。

 

その瞬間。

 

笑顔を作った。

 

学校で見せるものより少し弱い。

でも、やっぱり笑顔だった。

 

アイはその顔のまま、門の中へ入っていく。

 

凛は動けなかった。

 

アイは、帰る前にも笑顔を作った。

 

家に帰る時に笑うのではなく。

 

帰るために、笑顔を作った。

 

それが、凛にはよく分からなかった。

 

でも、胸の奥が少しだけ重くなった。

 

凛はしばらくその建物を見ていた。

 

門の向こうに、アイの姿はもうなかった。

 

帰り道。

 

凛はいつもよりゆっくり歩いた。

 

ランドセルが、少し重く感じる。

 

花屋の前まで来ると、母が店先で花を並べていた。

 

「凛、おかえり」

 

「ただいま」

 

いつもの声。

 

いつもの店先。

 

土の匂い。

水の匂い。

花の匂い。

 

凛は、その全部を見てから、母の方を向いた。

 

「ねえ、お母さん」

 

「なに?」

 

「児童養護施設って、なに?」

 

母の手が止まった。

 

ほんの少しだけ。

 

花の鉢を持ったまま、母は凛を見た。

 

「どこで聞いたの?」

 

「見た」

 

「見た?」

 

「アイが入っていった」

 

母の表情が、静かに変わった。

 

驚きすぎるわけではなかった。

 

でも、昨日アイに会った時のことを思い出したような顔だった。

 

母は鉢を棚に置く。

 

それから、凛の目線に合わせるように少しかがんだ。

 

「児童養護施設はね」

 

母は言葉を選びながら話した。

 

「いろんな事情で、お父さんやお母さんと一緒に暮らせない子が生活する場所だよ」

 

「一緒に暮らせない?」

 

「うん」

 

「家じゃないの?」

 

母はすぐには答えなかった。

 

凛は黙って待つ。

 

母は少しだけ息を吐いた。

 

「家の代わりになる場所ではあるよ」

 

「代わり」

 

「でも、その子にとって、簡単に家って言えるかは分からないかな」

 

凛はその言葉をゆっくり考えた。

 

家の代わり。

 

でも、家とは言えないかもしれない場所。

 

アイはそこに入る前に、笑顔を作った。

 

凛は眉を寄せる。

 

「そういう子って、ただいまって言うの?」

 

母は少し驚いたように凛を見た。

 

それから、やわらかく目を伏せる。

 

「言う子もいると思うよ」

 

「言えない子もいる?」

 

「いるかもしれないね」

 

凛は小さく呟いた。

 

「アイ、言えなさそう」

 

母は何も言わなかった。

 

ただ、凛を見ていた。

 

凛の中で、何かが形になりかけていた。

 

でも、それはまだ言葉にはならない。

 

かわいそう、ではない。

 

同情、でもない。

 

ただ、気になる。

 

昨日の雨の中で消えた笑顔。

白いご飯を前に止まった箸。

大丈夫と言い続ける声。

門の前で作った笑顔。

 

それが、頭から離れなかった。

 

「凛」

 

母が静かに呼んだ。

 

「なに?」

 

「気になるなら、急に踏み込まないこと」

 

「なんで?」

 

「傷に触れる時は、優しくしても痛いことがあるから」

 

凛はその言葉を聞いて、少しだけ黙った。

 

傷。

 

アイには傷があるのだろうか。

 

膝の擦り傷みたいに見えるものではなくて。

 

白いご飯を怖がる理由とか。

帰る場所を曖昧にする理由とか。

大丈夫と笑う理由とか。

 

そういうものが、傷なのだろうか。

 

「優しくしても、痛いの?」

 

「うん」

 

母は頷いた。

 

「優しくされたからこそ、痛くなることもあるよ」

 

凛には、全部は分からなかった。

 

でも、覚えようと思った。

 

「分かった」

 

「本当に?」

 

「たぶん」

 

母は小さく笑った。

 

「凛らしいね」

 

「そう?」

 

「そう」

 

母は凛の頭に軽く手を置いた。

 

凛は少しだけ視線を落とした。

 

店先には、昨日アイが見ていた花があった。

 

淡い青色の、小さな星みたいな花。

 

ブルースター。

 

幸福な愛。

 

凛はその花を見る。

 

アイは、愛という言葉に反応した。

 

あの時、指が止まった。

 

ご飯の前でも、止まった。

 

施設の前でも、笑顔を作った。

 

凛には、まだ何も分からない。

 

何があったのか。

何が怖いのか。

何を隠しているのか。

 

分からない。

 

ただ、ひとつだけ思った。

 

アイは、大丈夫じゃない。

 

その日は、それで終わった。

 

夜になっても、凛は何度かブルースターのことを思い出した。

 

幸福な愛。

 

その言葉が、どこか遠いものみたいに感じた。

 

アイはあの花を見て、変な名前だと言った。

 

それは本当に、ただ変だと思っただけなのか。

それとも、愛という言葉が分からなかったのか。

 

凛には分からない。

 

分からないことばかりだった。

 

けれど、不思議と目を逸らしたいとは思わなかった。

 

翌日の放課後。

 

凛はいつもより少し早く家に戻っていた。

 

学校では、アイとはほとんど話せなかった。

 

挨拶はした。

目が合えば笑われた。

でも、それだけだった。

 

アイは今日も人気者で。

今日も明るくて。

今日も上手だった。

 

凛はそれ以上、追いかけなかった。

 

母の言葉を思い出していたからだ。

 

急に踏み込まないこと。

 

傷に触れる時は、優しくしても痛いことがある。

 

だから凛は、何も聞かなかった。

 

花屋の店先には、昨日と同じようにブルースターの鉢が並んでいる。

淡い青色の花びらが、夕方の光を受けて小さく揺れていた。

 

母は奥で帳簿を見ている。

父はまだ帰っていない。

 

凛は店の前で、花の位置を少し整えていた。

 

ブルースターの鉢を、少しだけ手前に出す。

 

水はもう足りている。

でも、葉の向きが少し気になった。

 

その時、店の前を誰かが通りかかった。

 

凛は顔を上げる。

 

アイだった。

 

ランドセルを背負ったまま、店の前で立ち止まっている。

 

昨日と同じ帰り道ではない。

施設へ向かう道からは、少しだけ外れている。

 

たぶん、遠回りをしたのだと思った。

 

アイは店を見るでもなく、凛を見るでもなく、ただブルースターを見ていた。

 

淡い青の花。

 

星みたいな形。

 

幸福な愛。

 

アイは小さく笑った。

 

「変な名前」

 

その声は、本当に小さかった。

 

誰に聞かせるつもりもない声だった。

 

凛は声をかけるか迷った。

 

母の言葉を思い出す。

 

傷に触れる時は、優しくしても痛いことがある。

 

なら、どうすればいいのだろう。

 

声をかけない方がいいのか。

でも、黙って見ているのも違う気がした。

 

その時、店の奥から母の声がした。

 

「凛、そこの札、少し右にずらしてくれる?」

 

アイの肩がびくっと揺れた。

 

凛の名前を聞いたからだ。

 

アイはすぐに顔を上げる。

凛と目が合う。

 

一瞬、逃げようとした顔をした。

 

それから、笑顔を作る。

 

「偶然だね、凛ちゃん」

 

「うん」

 

凛は頷く。

 

たぶん、偶然ではない。

 

けれど凛は、それを言わなかった。

 

アイの笑顔はいつも通りだった。

 

でも、手がランドセルの肩紐をぎゅっと握っている。

 

凛は、施設のことを聞かなかった。

昨日の雨のことも。

白いご飯のことも。

帰る場所のことも。

 

ただ、ブルースターを見た。

 

「花、見る?」

 

アイは少し目を丸くした。

 

「え?」

 

「見るだけなら、別にいいよ」

 

凛はそう言った。

 

アイはすぐには答えなかった。

 

断ることもできた。

笑ってごまかすこともできた。

「用事あるから」と言って走っていくこともできた。

 

でも、足は動かなかった。

 

アイはブルースターを見た。

 

淡い青色。

小さな星。

 

幸福な愛。

 

変な名前。

 

でも、少しだけ目を離せない。

 

「……見るだけ」

 

アイは小さく言った。

 

「うん」

 

凛はそれ以上、何も言わなかった。

 

アイは店先に一歩だけ近づく。

 

凛は隣に立った。

 

近すぎず。

遠すぎず。

 

昨日の傘の下より、少し離れた距離。

 

アイは花を見ている。

 

凛は、アイを見なかった。

 

施設のことを聞かれたら、どうしようと思っていた。

昨日どうして逃げたのか聞かれたら、笑えばいいと思っていた。

ご飯が怖いのかとまた聞かれたら、怒ったふりをしようと思っていた。

 

でも、凛は何も聞かなかった。

 

ただ、隣にいた。

 

それだけだった。

 

アイはブルースターを見つめる。

 

何も聞かれないことが、こんなに苦しいとは思わなかった。

 

何も聞かれないことが、こんなに楽だとも思わなかった。

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