星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜 作:百合太郎
合同レッスンの日。
アイは、いつもより少しだけ早く目を覚ました。
窓の外はまだ明るくなりきっていない。
渋谷家の中も静かだった。
店先の準備が始まる前の、短い時間。
アイは布団の中で、昨日聞いた言葉を思い出していた。
B小町。
グループ。
センター。
真ん中。
その言葉は、眠っている間もどこかに残っていたらしい。
目を閉じても、鏡の前に立つ自分が浮かぶ。
隣に誰かがいる。
後ろにも誰かがいる。
自分は、その中心にいる。
一番前で笑っている。
そう想像した瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。
怖い。
けれど、逃げたいだけではない。
その感覚を、もうアイは知っていた。
朝食の席で、母が言った。
「今日は合同レッスンだったね」
アイは湯呑みを持ったまま頷く。
「はい」
父が新聞を畳む。
「B小町の子たちと?」
「まだ候補生ですけど」
そう言ってから、アイは少しだけ口元を緩めた。
候補生。
自分も、その一人なのだろうか。
まだ実感は薄い。
けれど、遠すぎる言葉でもなくなってきていた。
凛が隣で言う。
「真ん中の日」
アイは凛を見る。
「言い方が重い」
「でも、そう」
「まだ分からないよ」
「たぶん、そう」
凛はいつも通りだった。
言葉は短い。
でも、ずっと見ている。
それが、少しだけ安心で、少しだけ逃げ場がなかった。
母がアイの顔を見る。
「怖い?」
アイはすぐに笑おうとして、やめた。
凛が隣にいる。
母も見ている。
ここで笑ってごまかしても、たぶんすぐにばれる。
「怖いです」
アイは正直に言った。
「でも、行きます」
父は静かに頷いた。
「うん」
母も微笑む。
「行っておいで」
凛が湯呑みを置く。
「無理したら止める」
アイは少しだけ笑った。
「もう、それがあるから行ける気がする」
凛は一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、短く答える。
「うん」
苺プロダクションのレッスン室には、いつもより人が多かった。
鏡の前に数人の少女たちがいる。
アイより年上に見える子。
同じくらいの子。
背筋がすっと伸びていて、立っているだけでダンスが得意そうな子。
発声練習をしていて、声がよく通る子。
緊張しているのか、何度も髪を直している子。
明るく周りに話しかけている子。
アイは、レッスン室の入口で一度足を止めた。
空気が違う。
いつもの基礎練習の空気ではない。
誰かと一緒に立つ場所。
誰かと比べられる場所。
誰かの視線が、こちらへ向く場所。
凛は隣でそれを見ていた。
アイが一歩入る。
すると、候補生たちの視線が動いた。
一瞬だけ。
でも、確かに。
「あの子?」
小さな声が聞こえた。
「社長が連れてきたっていう」
「まだ入ったばっかりだよね」
「でも、なんか……」
その先は、聞こえなかった。
聞こえなかったふりをしたのかもしれない。
アイは明るく笑った。
「星野アイです。よろしくお願いします」
笑顔は、うまく作れた。
たぶん、かなり綺麗に。
候補生たちはそれぞれ挨拶を返した。
「よろしく」
「よろしくね」
「こっちこそ」
言葉だけを見れば、普通だった。
けれど、普通の奥にあるものを、アイは少し感じ取っていた。
好奇心。
警戒。
値踏み。
そして、少しの棘。
凛は見学席へ向かいながら、その空気を見ていた。
壱護は壁際に立っている。
トレーナーが手を叩いた。
「今日は合同で基礎と簡単なフォーメーションを見ます。まずはストレッチから」
最初は、いつもの基礎だった。
ストレッチ。
リズム取り。
短いステップ。
アイは前より動けるようになっていた。
足の出し方も、息の吸い方も、少しずつ分かってきている。
けれど、隣の候補生を見ると、自分よりずっと滑らかに動いている子がいた。
リズムを外さない子。
腕の角度が綺麗な子。
息が乱れても、姿勢が崩れない子。
アイは思う。
すごい。
私だけじゃない。
それは安心でもあった。
同時に、少しだけ怖かった。
こんな子たちの中で、自分だけが特別に見られているのだとしたら。
それは、どう見えるのだろう。
トレーナーが言った。
「じゃあ、次は簡単なフォーメーションを試します」
候補生たちの空気が少し変わった。
並びが指示される。
右、左、後ろ、斜め。
アイは自然に端の方へ移動しようとした。
そこなら、誰かの邪魔にならない。
目立ちすぎない。
全体を見て合わせられる。
そう思った。
だが、トレーナーの声が飛んだ。
「アイちゃんは中央」
アイの足が止まる。
「……私ですか」
壱護が言った。
「そうだ」
候補生たちの視線が、また動いた。
今度はさっきよりも分かりやすく。
アイはそれを感じながら、中央へ向かった。
床の線の上。
鏡の正面。
自分がいちばん大きく映る場所。
そこに立つと、背中が少し冷たくなった。
隣の候補生たちの呼吸まで聞こえる気がした。
誰かが小さく息を吐く。
誰かが髪を耳にかけ直す。
誰かが、こちらを見てすぐに視線を逸らす。
アイは笑った。
笑顔を作った。
明るく。
柔らかく。
敵意なんてありません、と言うように。
誰の場所も奪うつもりはありません、と言うように。
凛は見学席から、それを見ていた。
曲が流れる。
短い練習曲。
トレーナーの手拍子に合わせて、候補生たちが動き出す。
アイは中央に立ったまま、足を出す。
腕を上げる。
視線を前へ向ける。
けれど、途中で無意識に少しだけ後ろへ下がった。
周囲と合わせるため。
隣の子の動きを邪魔しないため。
自分だけ前に出ないため。
誰かの場所を取らないため。
そう思った。
思った、というより、身体が勝手にそうした。
すぐにトレーナーが手を叩く。
「止めます」
音が切れる。
アイは息を止めた。
トレーナーが鏡越しに言う。
「アイちゃん、下がってる」
「え?」
アイは自分の足元を見る。
確かに、最初に立っていた線から少し後ろにいる。
壱護の声が低く響いた。
「真ん中で下がるな」
アイは壱護を見る。
壱護は腕を組んだまま、まっすぐこちらを見ている。
「センターは、前に出るための位置だ。遠慮して下がるなら、そこには立てない」
その言葉は厳しかった。
レッスン室の空気が少し固くなる。
アイは唇を結んだ。
「私が前に出たら」
声が小さくなる。
「他の子の場所を取る気がします」
候補生たちの表情が、少し動いた。
壱護はすぐに言った。
「違う」
「違うんですか」
「真ん中は、他を消す場所じゃない。客の目を集めて、周りへ渡す場所だ」
その言葉は、前にも聞いた話の続きだった。
視線を集める。
周りへ流す。
グループ全体を見せる。
分かる。
頭では、少し分かる。
でも、今この場所に立っていると、それはとても難しかった。
すると、横から小さな声がした。
「別に、譲ってほしいわけじゃないし」
アイは振り向いた。
歌が上手い年上の候補生だった。
彼女は正面を見たまま、続けた。
「そうやって遠慮される方が、なんか……感じ悪い」
別の候補生も、少しだけ視線を逸らしながら言った。
「社長に言われたなら、真ん中立てば?」
言葉は大きくなかった。
けれど、十分に刺さった。
アイは固まった。
譲ったつもりだった。
気を遣ったつもりだった。
自分だけが前に出ないようにしたつもりだった。
でも、それは相手にはそう見えなかった。
社長に選ばれているのに、私はそんなつもりありませんという顔で下がる。
そう見えたのかもしれない。
アイは、何も言えなかった。
トレーナーが空気を切るように手を叩いた。
「一度休憩にします」
候補生たちがばらける。
水を飲む子。
鏡の前で動きを確認する子。
あえてアイの方を見ない子。
アイは水筒を持って、凛の近くまで来た。
凛は座ったまま、アイを見る。
アイは小さく聞いた。
「私、邪魔だったかな」
凛はすぐには答えなかった。
少し考えた。
「たぶん、下がったのがよくなかった」
「だって、私だけ前に出るのは……」
「譲ったんじゃないと思う」
アイの指が止まる。
「じゃあ、何?」
凛はまっすぐに言った。
「逃げた」
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
アイは反射的に笑いそうになった。
でも、凛が見ている。
笑っても、きっとばれる。
「……逃げた」
「うん」
「私、そんなつもりじゃ」
「たぶん、向こうにはそれが見えた」
凛の声は厳しかった。
でも、責める声ではない。
「アイが真ん中に立つのが怖くて下がったの、たぶん見えた」
アイは水筒を握りしめた。
怖くて下がった。
その言葉は、否定できなかった。
自分だけが前に出るのが怖かった。
見られるのが怖かった。
候補生たちの視線が怖かった。
だから、下がった。
優しさのふりをして。
遠慮のふりをして。
「じゃあ、どうすればよかったの?」
アイの声は少し震えた。
凛は少しだけ目を伏せる。
「分からない」
「分からないの?」
「うん」
凛は顔を上げた。
「でも、笑ってごまかすのは違う」
アイは何も言えなかった。
その通りだった。
次の練習の前、アイは候補生たちのところへ歩いた。
心臓が速い。
できれば逃げたい。
でも、逃げたまま真ん中には立てない。
アイは、さっき声を出した年上の候補生に向かって言った。
「ごめんね。さっき、変な感じになっちゃって」
笑った。
明るく。
綺麗に。
相手が困らないように。
この空気を柔らかくするように。
けれど、その笑顔は少し整いすぎていた。
候補生はアイを見た。
そして、短く言った。
「別に」
それだけだった。
拒絶ではない。
でも、受け入れでもない。
アイは一瞬、言葉に詰まった。
隣の候補生も、何も言わずに靴紐を結び直している。
空気は変わらなかった。
笑顔だけでは、ほどけない。
アイは、そのことを知った。
見学席の凛は、何も言わなかった。
けれど、アイには分かった。
今のも、作りすぎだった。
トレーナーが声をかける。
「もう一回いきます」
候補生たちが位置につく。
アイも中央へ向かう。
今度は、足元を見た。
床の線。
中央。
一番前。
一番見られる場所。
自分がここに立つことを、全員が歓迎しているわけではない。
それでも、立つ。
曲が流れる。
アイは息を吸った。
笑う前に、立つ。
足を置く。
下がらない。
右へ。
戻る。
腕を上げる。
視線を前へ向ける。
鏡の中の自分が見える。
中央にいる。
隣の候補生の動きも見える。
誰かの視線も感じる。
期待ではない。
好意でもない。
嫉妬。
警戒。
少しの不満。
それらが、真ん中に立つアイへ向いている。
怖い。
けれど、下がらない。
笑顔を作りすぎない。
でも、消さない。
アイは、少しだけ笑った。
客席に向ける笑顔ではない。
自分が今、ここに立っていることを認めるための笑顔。
曲は短い。
それでも、一曲分を踊り切る頃には息が上がった。
足も少し震えている。
最後のポーズ。
アイは中央にいた。
下がっていなかった。
トレーナーが手を叩いた。
「今の方が良かった」
壱護も言う。
「そうだ。真ん中は逃げる場所じゃない」
アイは息を整えながら頷いた。
「……はい」
凛が見学席から言った。
「下がってない」
アイは凛を見る。
「そこ褒めるところ?」
「大事」
アイは少しだけ笑った。
候補生たちの反応は、大きく変わったわけではなかった。
拍手が起きるわけでもない。
笑顔で近づいてくるわけでもない。
さっきの年上の候補生は、水を飲みながらアイを見た。
そして、ぽつりと言った。
「さっきよりは、よかった」
アイは顔を上げる。
「あ……ありがとうございます」
候補生は視線を逸らした。
「でも、別に納得したわけじゃないから」
それだけ言って、鏡の前へ戻っていく。
アイはその背中を見つめた。
少し胸が痛かった。
けれど、不思議とさっきより息はしやすかった。
好かれたわけではない。
認められたわけでもない。
でも、下がらなかったことだけは、見られた。
レッスン後。
壱護がアイに声をかけた。
「どうだった、真ん中は」
アイは少し考えた。
「怖かったです」
「だろうな」
「でも」
アイは候補生たちの方を見た。
「下がる方が、もっと怖いって分かりました」
壱護は口元を上げた。
「いい答えだ」
アイは壱護を見る。
「褒めてます?」
「かなり」
凛が横から言う。
「怪しい」
壱護は凛を見た。
「まだ言うか」
「必要です」
壱護は肩をすくめる。
「渋谷家は手強いな」
凛は短く答えた。
「はい」
帰り道。
アイはいつもより少し疲れていた。
身体の疲れだけではない。
視線を受けた疲れ。
笑顔でほどけなかった疲れ。
下がらないと決めた疲れ。
駅前の人混みを抜けながら、アイはぽつりと言った。
「嫌われたかな」
凛は少しだけ考えた。
「少なくとも、好かれてはない」
アイは苦笑する。
「正直すぎる」
「でも、嘘で好かれるよりはいい」
その言葉に、アイは黙った。
嘘で好かれる。
それは、たぶん自分が一番やりやすいことだった。
明るく笑う。
相手が欲しい言葉を言う。
困らせない。
敵意を向けられないようにする。
でも、それで本当に同じグループになれるのだろうか。
凛は続けた。
「アイは、馴染みたいんだと思う」
アイは小さく頷いた。
「うん」
「でも、真ん中に立つなら、馴染むだけじゃ足りない」
その言葉は、冷たくはなかった。
けれど、優しすぎもしなかった。
アイは空を見上げる。
「難しいね」
「うん」
「凛ちゃんでも難しいって言うんだ」
「分からないから」
「そっか」
少し沈黙。
それから、アイは小さく笑った。
「でも、今日、逃げたって言われてよかったかも」
凛が横を見る。
「よかった?」
「痛かったけど」
アイは胸元を軽く押さえる。
「笑ってごまかす前に、止まれた」
凛は少しだけ目を細めた。
「なら、よかった」
渋谷家に帰ると、母が店先で花を並べていた。
「おかえり」
「ただいま」
アイと凛の声が重なる。
父も奥から顔を出した。
「どうだった?」
アイは少しだけ迷った。
うまくいった、と言うのは違う。
失敗した、と言うのも少し違う。
だから、正直に言った。
「真ん中に立ちました」
父の目が少し大きくなる。
「おお」
母が静かに聞く。
「どうだった?」
アイは鞄を持ち直した。
「怖かったです」
「うん」
「一回、下がりました」
父も母も、黙って聞いている。
「それで、逃げたって言われました」
母の目が少し動いた。
父も何か言いかけて、止めた。
アイは続ける。
「でも、もう一回立ちました」
凛が横で言う。
「下がらなかった」
父はゆっくり頷いた。
「それは、すごいな」
アイは父を見る。
「すごいですか」
「怖いところで下がらないのは、すごい」
母も頷く。
「でも、疲れたでしょう」
アイは少し笑う。
「疲れました」
母は微笑んだ。
「今日はちゃんと休もうね」
「はい」
凛が言う。
「笑いすぎてない」
アイは凛を見る。
「今日の判定?」
「うん」
「合格?」
凛は少し考えた。
「仮」
アイは思わず笑った。
「また仮なんだ」
「まだ本契約じゃない」
「足と同じ扱い?」
「うん」
父が首を傾げる。
「本契約って何の話だ?」
アイと凛は同時に答えた。
「足」
父はさらに分からない顔をした。
その夜。
アイは予定表を開いた。
今日の欄に、ゆっくり書く。
初めて真ん中に立った。
一度、下がった。
逃げたと言われた。
候補生の子に、少し嫌な顔をされた。
もう一度、真ん中に立った。
書いた文字を見て、胸が少し痛む。
きれいな日ではなかった。
楽しいだけの日でもなかった。
誰かと仲良くなれた日でもない。
でも、大事な日だった。
アイは最後に、もう一行書いた。
真ん中は、仲良くなる場所ではなかった。
まず、見られる場所だった。
その視線は、ファンのものではなかった。
期待でも、好意でもない。
嫉妬。
警戒。
少しの不満。
それでも、真ん中に立つなら、その視線から逃げてはいけない。
アイは予定表の端に、小さく「B小町」と書いた。
その名前は、思っていたより少し冷たかった。
けれど、その冷たさごと、逃げずに見ておきたいと思った。