星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第40話 スポットライトの温度

 

 

苺プロダクションのレッスン室に、いつもより多い人数が集まっていた。

 

鏡の前に並ぶ候補生たち。

 

少し離れて立つ壱護。

 

トレーナーは資料を手にしている。

 

アイは凛と一緒にレッスン室へ入って、すぐに空気が違うことに気づいた。

 

いつもの基礎練習の日ではない。

 

足を合わせるだけの日でもない。

 

何かが、始まる前の空気だった。

 

壱護が全員を見渡して言う。

 

「正式な形はまだ調整中だが、このメンバーで小さなステージに出す」

 

一瞬、部屋の中が止まった。

 

それから、小さくざわつく。

 

「ステージ……?」

 

アイの声も、思わず漏れた。

 

壱護は頷く。

 

「地下の小さいイベントだ。客も多くない。持ち時間も短い」

 

そこで一度、言葉を切る。

 

「ただし、客の前に立つことに変わりはない」

 

客の前。

 

その言葉で、アイの背中が少しだけ伸びた。

 

鏡の前ではなく。

 

トレーナーの前でもなく。

 

壱護の前でもなく。

 

本当に誰かの目の前で、歌って、踊って、笑う。

 

アイは喉の奥に小さな緊張が生まれるのを感じた。

 

候補生たちの声が続く。

 

「もうライブ?」

 

「早くない?」

 

「小さいイベントなら、まあ……」

 

その中に、少し違う温度の声が混じった。

 

「アイちゃんが入ってから急に進んだよね」

 

「まあ、社長が連れてきた子だし」

 

聞こえた。

 

アイは、聞こえないふりをした。

 

反射的に笑いそうになって、少しだけ止める。

 

笑っても消えない。

 

この前、それを知ったばかりだった。

 

凛は見学席の近くで、その声を聞いていた。

 

何も言わない。

 

けれど、視線だけが少し鋭くなる。

 

トレーナーが手を叩いた。

 

「今日はライブ用のフォーメーション確認をします。動きはシンプル。でも、客席を意識して」

 

候補生たちが並ぶ。

 

歌が上手い年上の子。

 

ダンスが得意な子。

 

明るく場を回そうとする子。

 

緊張しやすい同年代の子。

 

そして、アイ。

 

トレーナーが位置を指示していく。

 

「右。左。後ろ。斜め。アイちゃんは中央」

 

予想していた。

 

それでも、実際に言われると胸が少し詰まる。

 

候補生の一人が小さく呟いた。

 

「やっぱり真ん中なんだ」

 

アイは顔を向けなかった。

 

顔を向けたら、たぶん笑ってしまう。

 

大丈夫そうな顔をしてしまう。

 

でも、今はそれをしない方がいい気がした。

 

アイは中央へ立った。

 

床の線の上。

 

鏡の正面。

 

後ろに候補生たちの気配がある。

 

横に立つ子の呼吸が聞こえる。

 

視線が刺さる。

 

怖い。

 

でも、下がらない。

 

前回、下がった。

 

逃げたと言われた。

 

あの痛みは、まだ胸の奥に残っている。

 

だから、今日は下がらない。

 

壱護が腕を組んで見ている。

 

トレーナーが音を流す。

 

短い曲。

 

ライブで使う予定の、まだ仮の音源。

 

イントロが流れた瞬間、アイの身体が少し固くなる。

 

でも、足は動いた。

 

右へ。

 

戻る。

 

腕を上げる。

 

視線を前へ。

 

笑う前に、立つ。

 

笑顔はまだ乗せすぎない。

 

ただ、中央にいることから逃げない。

 

曲が終わる。

 

トレーナーが頷いた。

 

「今の形でいきます。細かいところは詰めるけど、立ち位置はこれ」

 

候補生たちの空気がまた動いた。

 

アイは何も言えなかった。

 

B小町という名前は、少しずつ形を持ち始めていた。

 

けれど、その形の中央に自分が置かれていることが、こんなに空気を変えるのだと知った。

 

ライブ当日。

 

会場は、小さな地下イベントスペースだった。

 

階段を降りると、空気が少し湿っている。

 

壁にはいくつものポスターが貼られていて、狭い通路にはスタッフや他の出演者が行き来している。

 

照明も豪華ではない。

 

控室も広くない。

 

大きな鏡もなく、衣装を確認するには小さな鏡を譲り合う必要があった。

 

アイは衣装の袖を整えながら、鏡の中の自分を見た。

 

いつもの自分より、少しだけ遠い。

 

でも、完全に知らない顔ではない。

 

隣では、ダンスが得意な候補生が靴紐を結び直している。

 

年上の候補生は、軽く発声をしていた。

 

明るい子が手を叩いて言う。

 

「まあ、小さいステージだし、気楽にいこうよ」

 

年上の候補生がすぐに返す。

 

「小さくても、お客さんはいるから」

 

空気が少しだけ硬くなる。

 

明るい子は「そうだよね」と笑った。

 

アイはそのやり取りを見ていた。

 

何か言いたい。

 

みんなで成功させたい。

 

そう思う。

 

でも、その言葉をどう出せばいいのか分からない。

 

笑顔で言えば、軽く聞こえるかもしれない。

 

真面目に言えば、上から目線に聞こえるかもしれない。

 

センターに立つ自分が言うと、余計に。

 

アイは少しだけ口を開き、結局、いつもの言葉を選んだ。

 

「よろしくお願いします」

 

丁寧に。

 

でも、少しだけ距離がある言葉。

 

候補生たちは、それぞれ頷いた。

 

「よろしく」

 

「うん」

 

「頑張ろ」

 

返事はある。

 

でも、重なっていない。

 

控室の扉の外で、凛が待っていた。

 

関係者用の札を首から下げている。

 

アイが少しだけ外に出ると、凛は顔を上げた。

 

「怖い?」

 

アイはすぐに頷いた。

 

「うん」

 

「笑いすぎない」

 

アイは思わず小さく笑う。

 

「そこ?」

 

「そこ」

 

「でも、アイドルは笑うでしょ」

 

「笑う。作りすぎは違う」

 

アイは息を吸った。

 

「分かった」

 

凛は少し間を置いて続ける。

 

「あと、下がらない」

 

「うん」

 

「でも、全部持っていかない」

 

アイは止まった。

 

「それ、難しくない?」

 

凛は即答した。

 

「難しい」

 

「だよね」

 

「でも、たぶん大事」

 

アイは控室の方を見る。

 

メンバーたちの声が小さく聞こえる。

 

全部持っていかない。

 

視線を集める。

 

でも、渡す。

 

そんなことが、自分にできるのだろうか。

 

「……やってみる」

 

凛は頷いた。

 

「うん」

 

本番が始まった。

 

ステージは近かった。

 

客席も近い。

 

照明は思っていたより熱い。

 

目の前には、数十人ほどの観客。

 

多くはない。

 

けれど、全員の目がこちらを向いている。

 

その距離の近さに、アイは一瞬だけ息を忘れた。

 

音が鳴る。

 

イントロ。

 

メンバーが並ぶ。

 

アイは中央に立っている。

 

下がらない。

 

足を置く。

 

息を吸う。

 

笑う。

 

最初の数秒は、緊張で身体が硬かった。

 

足も少し重い。

 

けれど、顔を上げた瞬間、空気が変わった。

 

客席の目が見えた。

 

一人。

 

二人。

 

三人。

 

視線が、アイに留まる。

 

アイは、その視線を受け止めた。

 

あなたを見ています。

 

あなたに笑っています。

 

そう思わせる目線。

 

その瞬間、客席の温度が変わった。

 

ざわ、と小さな揺れが走る。

 

凛は客席の端で、それを見ていた。

 

あ、持っていった。

 

そう思った。

 

アイが何か特別な動きをしたわけではない。

 

歌が圧倒的に上手いわけでもない。

 

ダンスが一番きれいなわけでもない。

 

それでも、顔を上げて笑った瞬間、観客の目がアイに引き寄せられた。

 

戻ってこない。

 

曲は進む。

 

アイのソロに近いパート。

 

ほんの短いフレーズ。

 

アイは一歩前に出る。

 

照明が当たる。

 

笑う。

 

作りすぎないように。

 

でも、届くように。

 

客席の目が、さらに強くアイへ向いた。

 

観客の中の誰かが、小さく息を飲む。

 

別の誰かが、隣に何かを囁く。

 

それは成功だった。

 

ステージとしては、間違いなく成功だった。

 

袖で見ていた壱護は、小さく口元を上げた。

 

「やっぱりな」

 

けれど、ステージの上にいるメンバーたちは感じていた。

 

自分たちを見ていたはずの視線が、アイへ流れる。

 

そして、戻ってこない。

 

歌が上手い年上のメンバーの声が、一瞬だけ揺れた。

 

ダンスが得意なメンバーの表情が硬くなる。

 

明るい子の笑顔が少しだけ強張る。

 

アイは、それに気づけなかった。

 

客席の光を受け止めるだけで精一杯だった。

 

自分が下がらないこと。

 

笑いすぎないこと。

 

足を止めないこと。

 

歌うこと。

 

視線に潰されないこと。

 

それだけで、いっぱいだった。

 

曲が終わる。

 

最後のポーズ。

 

一拍の静けさ。

 

そして、拍手。

 

小さな会場にしては、大きな反応だった。

 

「真ん中の子、すごくない?」

 

「あの子、誰?」

 

「目が離せなかった」

 

そんな声が、客席から漏れる。

 

アイの耳にも、少しだけ届いた。

 

息が上がっている。

 

胸が熱い。

 

ステージの照明は熱かった。

 

拍手も、温かかった。

 

でも、その温かさの中で、背中の方が少し冷えていることに、アイはまだ気づいていなかった。

 

控室に戻ると、最初に聞こえたのは、誰かのため息だった。

 

アイは水を飲み、息を整える。

 

「終わった……」

 

本当に終わった。

 

足が震えている。

 

手も少し冷たい。

 

でも、胸の中には確かに何かが残っていた。

 

観客に見られた。

 

笑顔が届いた。

 

自分の目が、誰かを引き寄せた。

 

それは怖くて、少し嬉しかった。

 

壱護が入ってくる。

 

「初回にしては上出来だ」

 

トレーナーも頷く。

 

「課題は多いけど、反応は良かった」

 

その言葉に、アイは少しだけほっとした。

 

けれど、すぐに別の声がした。

 

「すごかったね、アイちゃん」

 

年上のメンバーだった。

 

言葉だけなら、褒め言葉だった。

 

でも、温度が低かった。

 

アイは顔を上げる。

 

「え……」

 

別のメンバーが衣装の袖を直しながら言う。

 

「お客さん、ほとんどアイちゃん見てたもんね」

 

アイの息が止まる。

 

「そんなこと……」

 

年上のメンバーが静かに言った。

 

「あったよ」

 

その一言は、短かった。

 

でも、逃げ道がなかった。

 

アイは言葉を探す。

 

違う。

 

そんなつもりじゃなかった。

 

みんなで立ったステージだった。

 

自分だけ見られたかったわけじゃない。

 

そう言いたい。

 

でも、どう言っても言い訳に聞こえそうだった。

 

「ごめん」

 

口から出たのは、それだった。

 

すぐに謝った。

 

昔から、そうしてきた。

 

空気が悪くなったら謝る。

 

自分が原因かもしれないと思ったら謝る。

 

謝れば、少しだけ場が丸くなるかもしれない。

 

でも、今回は違った。

 

年上のメンバーは眉を寄せた。

 

「謝られても困る」

 

別の子も言う。

 

「別に、アイちゃんが悪いわけじゃないし」

 

明るい子が苦笑する。

 

「でも、そういうことじゃないよね」

 

アイは何も言えなくなった。

 

悪いわけじゃない。

 

でも、違う。

 

その空気が、控室に残った。

 

壱護はそれを見ていた。

 

トレーナーも、何かを言いかけて止めた。

 

今、外から言葉を入れても、余計に歪む。

 

そんな空気だった。

 

凛は控室の外で待っていた。

 

アイが出てくると、すぐに表情を見た。

 

笑っている。

 

でも、作りすぎる直前の顔だった。

 

凛は少しだけ眉を動かした。

 

「謝った?」

 

アイは目を見開く。

 

「なんで分かるの」

 

「顔」

 

アイは苦く笑った。

 

「凛ちゃん、本当に顔で何でも分かるね」

 

「全部じゃない」

 

少し間。

 

凛は言った。

 

「謝るだけだと、たぶん違う」

 

アイは視線を落とす。

 

「じゃあ、どうすればいいの?」

 

凛はすぐに答えなかった。

 

考えている。

 

でも、答えは簡単には出ない。

 

「分からない」

 

アイは少しだけ笑った。

 

「分からないんだ」

 

「うん」

 

凛は、それでも続けた。

 

「でも、アイが全部悪いみたいに笑うのは違う」

 

アイは息を止める。

 

「アイが光ったのは、悪いことじゃない」

 

凛の声は静かだった。

 

「でも、みんなが影になったのも、なかったことにしちゃだめ」

 

胸の奥が、痛くなった。

 

光。

 

影。

 

自分が光った。

 

その光で、誰かが影になった。

 

そんなこと、考えていなかった。

 

いや。

 

考えたくなかったのかもしれない。

 

帰り道。

 

アイはいつもよりずっと静かだった。

 

小さなライブ会場の熱は、まだ身体に残っている。

 

拍手の音も残っている。

 

客席の目も残っている。

 

それなのに、控室の冷たさも残っていた。

 

アイはぽつりと言う。

 

「私、奪ったのかな」

 

凛は隣を歩いたまま答える。

 

「たぶん、そう見えた」

 

「そんなつもりじゃなかった」

 

「うん」

 

「でも、見えたんだ」

 

「うん」

 

否定してほしかったのかもしれない。

 

そんなことないよ、と言ってほしかったのかもしれない。

 

でも凛は言わなかった。

 

その代わり、隣を歩いている。

 

アイは少しだけ唇を噛みそうになって、やめた。

 

「じゃあ、次は渡さなきゃ」

 

凛が横を見る。

 

「渡す?」

 

「私を見た人が、みんなを見るように」

 

言いながら、自分でも難しいことを言っていると思った。

 

でも、そう思った。

 

逃げるのではなく。

 

下がるのでもなく。

 

自分に集まったものを、隣へ渡す。

 

「できるか分からないけど」

 

凛は少しだけ考えた。

 

「それは、いいと思う」

 

アイは凛を見る。

 

「ほんと?」

 

「うん」

 

「でも、難しいよね」

 

「難しい」

 

「だよね」

 

少しだけ、二人で笑った。

 

渋谷家に帰ると、母が店先で待っていた。

 

「おかえり」

 

「ただいま」

 

アイの声は少し疲れていた。

 

父も奥から出てくる。

 

「どうだった?」

 

アイは靴を脱ぎながら、少し考えた。

 

成功した。

 

たぶん、ライブとしては。

 

でも、それだけではなかった。

 

「ライブは成功したと思います」

 

父と母は黙って聞いている。

 

「でも、メンバーとは少し遠くなりました」

 

母は静かに頷いた。

 

「そう」

 

父は短く息を吐いた。

 

「悔しいな」

 

アイは顔を上げる。

 

「私が悪いんでしょうか」

 

母はすぐには答えなかった。

 

父も、簡単には言わなかった。

 

少しの沈黙のあと、母が言う。

 

「悪い、だけでは片づけられないと思う」

 

父も頷く。

 

「光ったことは悪くない。でも、光が強いと影もできる」

 

「影……」

 

アイは凛の言葉を思い出す。

 

母が続ける。

 

「その影に気づけたなら、次にできることがあるかもしれない」

 

アイは自分の手を見る。

 

ステージで震えていた手。

 

拍手を受けた手。

 

何もできずに謝った手。

 

「次……」

 

父が言う。

 

「次があるなら、今度は見方が変わる」

 

母も頷く。

 

「一人で抱えなくていいよ」

 

その言葉に、アイの胸が少しだけ緩んだ。

 

一人で抱えない。

 

それは、何度も教えてもらってきたことだった。

 

でも、ステージの上では、忘れそうになる。

 

自分だけが見られると、自分だけで受け止めなければいけない気がする。

 

けれど、帰ってくる場所では、そうではなかった。

 

その夜。

 

アイは予定表を開いた。

 

足は疲れている。

 

喉も少し熱い。

 

でも、今日書かないといけない気がした。

 

鉛筆を持つ。

 

初ライブ。

小さいステージ。

お客さんが見てくれた。

でも、メンバーの顔が少し冷たかった。

ごめんと言っても、違った。

 

書いた文字を見て、胸が痛む。

 

ごめんだけでは足りない。

 

下がるだけでも違う。

 

光らないようにするのも、たぶん違う。

 

アイは少し考えて、最後に書いた。

 

次は、視線を渡したい。

 

スポットライトは、温かいだけではなかった。

 

アイを照らした光は、誰かの顔に影を落とした。

 

それでも、アイはその光から逃げたいとは思わなかった。

 

逃げるのではなく、渡したい。

 

自分に集まった視線を、隣へ。

 

アイは予定表の端に、もう一度「B小町」と書いた。

 

その名前は、少し冷たくて、少しだけ眩しかった。

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