星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第41話 同じ楽屋の距離

 

 

初ライブの翌日。

 

苺プロダクションのレッスン室へ向かう道で、アイはいつもより早く歩いていた。

 

凛は隣で、それに合わせている。

 

「早い」

 

「え?」

 

「歩くの」

 

アイは足を止めかけて、それから苦笑した。

 

「……早く着きたいのかも」

 

「逃げたいんじゃなくて?」

 

凛の言葉は、いつも通りまっすぐだった。

 

アイはすぐには答えられなかった。

 

昨日の控室の空気が、まだ胸の奥に残っている。

 

拍手。

 

照明。

 

観客の目。

 

その後の、冷えた楽屋。

 

「お客さん、ほとんどアイちゃん見てたもんね」

 

そう言われた時の、喉が詰まる感じ。

 

謝っても、届かなかった感じ。

 

「逃げたい気持ちも、ある」

 

アイは正直に言った。

 

「でも、それより……ちゃんと話したい」

 

「話せる?」

 

「分からない」

 

「じゃあ、分からないまま行く」

 

「うん」

 

アイは小さく頷いた。

 

分からないまま行く。

 

最近、そればかりだ。

 

でも、分かったふりをして笑うよりは、たぶんましだった。

 

レッスン室に入ると、まだ全員は揃っていなかった。

 

鏡の前で高峯がストレッチをしている。

 

背筋がまっすぐで、動きに無駄がない。

 

渡辺は隅の方で荷物を置いていた。

 

目が合うと、やわらかく笑う。

 

「おはよう、アイちゃん」

 

「おはようございます」

 

アイは少しだけ緊張しながら返した。

 

きゅんぱんは床に座って靴紐を結んでいて、ありぴゃんは鏡の前で前髪を直している。

 

「昨日すごかったねー」

 

きゅんぱんが明るく言った。

 

「ほんと、真ん中の子って感じだった」

 

ありぴゃんも軽い口調で続ける。

 

言葉は明るい。

 

けれど、アイにはその奥が分からなかった。

 

本当に褒めているのか。

 

それとも、距離を取るための明るさなのか。

 

判別できない。

 

分からないから、笑ってしまいそうになる。

 

アイは、その笑顔を少しだけ抑えた。

 

「ありがとう。でも、私もまだ全然で……」

 

言いかけたところで、高峯が顔を上げる。

 

「全然、って言われると困るんだけど」

 

アイは言葉を止めた。

 

高峯はストレッチを続けながら、淡々と言う。

 

「昨日、あれだけ見られてたんだから」

 

責めるような声ではない。

 

けれど、柔らかくもない。

 

アイは胸の奥が小さく縮むのを感じた。

 

「……ごめんなさい」

 

言ってから、すぐに違うと思った。

 

昨日も、それでは届かなかった。

 

高峯はそれ以上、何も言わなかった。

 

その沈黙が、余計に重い。

 

そこへ、扉が開いた。

 

ニノが入ってくる。

 

他のメンバーより少し遅れて、鞄を肩にかけたまま立ち止まった。

 

「……おはよう」

 

「おはよう、ニノちゃん」

 

アイは反射的にそう返した。

 

ニノは一瞬だけ止まる。

 

「ちゃん付け、別にいいけど」

 

アイは少し慌てる。

 

「嫌だった?」

 

「嫌ってほどじゃない」

 

ニノはそれだけ言って、荷物を置いた。

 

嫌ではない。

 

でも、近づいたわけでもない。

 

その微妙な距離が、レッスン室の空気そのものみたいだった。

 

アイは、昨日から考えていたことを言おうとした。

 

「昨日、みんなの動き見てて、すごいなって思ったの」

 

高峯がこちらを見る。

 

「本番中に?」

 

アイは一瞬詰まった。

 

「少しだけ。高峯さん、振りが全然崩れなくて」

 

本当にそう思った。

 

ステージの上で、アイは客席の視線に追われていた。

 

それでも、横目に見えた高峯の動きは綺麗だった。

 

足の置き方も、腕の角度も、最後まで崩れていなかった。

 

だから、伝えたかった。

 

でも、高峯は少しだけ目を伏せる。

 

「……見てた余裕あったんだ」

 

空気が、また少し冷えた。

 

アイは息を止めた。

 

違う。

 

そういう意味ではない。

 

そう言いたかった。

 

けれど、言えば言うほど言い訳になる気がした。

 

渡辺がやんわりと口を挟む。

 

「高峯、そういう意味じゃないでしょ」

 

高峯は短く答えた。

 

「分かってる」

 

分かっている。

 

それでも、刺さった。

 

その事実だけが残った。

 

ニノが、鏡の前で髪を結び直しながら言う。

 

「アイちゃんは、そういうの上手いよね」

 

アイは顔を上げる。

 

「え?」

 

「褒めるのとか。笑うのとか。空気を良くするのとか」

 

言葉だけなら、褒めている。

 

でも、温度が違った。

 

ニノは鏡越しにアイを見る。

 

「だから、お客さんも見ちゃうんだろうね」

 

アイは何も返せなかった。

 

ニノの目には、嫌悪だけがあるわけではなかった。

 

むしろ、そこにはもっと複雑なものがある。

 

悔しさ。

 

憧れ。

 

納得できなさ。

 

嫌いと言い切れないからこその、行き場のない感情。

 

アイには、それがなんとなく分かった。

 

分かったから、余計に何も言えなかった。

 

見学席の凛は、黙ってそのやり取りを見ていた。

 

アイは歩み寄ろうとしている。

 

でも、近づこうとすればするほど、笑顔や言葉が整いすぎる。

 

作りすぎではない。

 

でも、近づこうとしすぎている。

 

凛は、今は止めなかった。

 

アイ自身が、その距離に触れなければ分からないこともある。

 

トレーナーが入ってきて、手を叩いた。

 

「始めます。今日は昨日のライブ映像を踏まえて、視線の流し方を見ます」

 

アイは背筋を伸ばした。

 

視線を渡したい。

 

昨日、予定表にそう書いた。

 

自分に集まった視線を、隣へ。

 

それができれば、昨日の冷たさを少し変えられるかもしれない。

 

曲が始まる。

 

アイは中央に立った。

 

下がらない。

 

まず、それを意識する。

 

足を置く。

 

息を吸う。

 

顔を上げる。

 

最初の目線は客席へ。

 

そこから、横へ流す。

 

高峯へ。

 

渡辺へ。

 

ニノへ。

 

きゅんぱんへ。

 

ありぴゃんへ。

 

見て。

 

この子たちを見て。

 

そう思って、目線を渡そうとする。

 

けれど、意識しすぎた。

 

アイの笑顔が、少し弱くなる。

 

自分が光らないように。

 

自分だけが見られないように。

 

そう思うほど、中心にいるはずのアイの存在感が薄くなった。

 

トレーナーが止める。

 

「アイちゃん、今のは暗い」

 

「暗い……?」

 

アイは戸惑う。

 

壱護が腕を組んだまま言った。

 

「お前が消えてどうする」

 

その言葉に、アイの胸が詰まる。

 

「でも、私だけ見られたら……」

 

「見られるのが役目だ」

 

壱護ははっきりと言った。

 

「渡すのは、その後だ」

 

アイは黙った。

 

見られるのが役目。

 

渡すのは、その後。

 

頭では分かる。

 

でも、昨日の楽屋の空気を思い出すと、どうしても怖くなる。

 

自分が光れば、誰かが影になる。

 

だから、少し暗くすればいいと思った。

 

それも、違うと言われた。

 

どうすればいいのか分からない。

 

休憩になった。

 

アイは水を飲みながら、壁際に立っていた。

 

声が聞こえたのは、その時だった。

 

高峯とニノが、少し離れたところで話していた。

 

大きな声ではない。

 

でも、レッスン室ではよく響いた。

 

「アイが悪いわけじゃないのは分かるけど」

 

高峯の声。

 

ニノが答える。

 

「分かるから余計に嫌なんじゃん」

 

アイの手が止まった。

 

ニノは続ける。

 

「あれで性格悪かったら、嫌いで済むのに」

 

渡辺が小さく止める。

 

「ニノ」

 

ニノはすぐに口を閉じた。

 

それから、こちらを見た。

 

聞こえていたことに気づいたのだろう。

 

少しだけ気まずそうな顔をして、それでも目を逸らしきらない。

 

「……分かってる。聞こえてたら、ごめん」

 

謝られた。

 

でも、それもまた、どう受け取ればいいのか分からなかった。

 

アイは反射的に笑いそうになる。

 

大丈夫。

 

気にしてない。

 

私が悪いから。

 

そう言えば、たぶん場は少しだけ丸くなる。

 

でも、それは違う。

 

凛の声が、頭の中に残っている。

 

笑ってごまかすのは違う。

 

アイは唇を結んだ。

 

「私」

 

声が少し震えた。

 

全員が、こちらを見る。

 

アイは湯呑みではなく、水筒を握っていた。

 

レッスン室の床が、妙に冷たく見える。

 

「私、どうしたらいいか分からない」

 

言った瞬間、自分でも驚いた。

 

正解ではない。

 

きれいな言葉でもない。

 

でも、嘘ではなかった。

 

ニノが少し目を見開く。

 

アイは続けた。

 

「昨日、お客さんの目を持っていったのは分かる」

 

言葉にすると、胸が痛い。

 

「でも、消えたら違うって言われた」

 

壱護の言葉。

 

お前が消えてどうする。

 

「渡したいけど、やり方が分からない」

 

高峯は黙っている。

 

渡辺も黙った。

 

きゅんぱんは困ったように笑って、すぐにその笑顔を引っ込めた。

 

ありぴゃんは視線を逸らす。

 

誰も、すぐには何も言わなかった。

 

その沈黙が怖い。

 

でも、アイは笑わなかった。

 

ニノが小さく息を吐く。

 

「そんなの、こっちも分かんないよ」

 

アイはニノを見る。

 

ニノの声は、少し荒かった。

 

でも、泣きそうにも聞こえた。

 

「私たちだって、どうしたらアイちゃんの横で見てもらえるのか分かんない」

 

その言葉は、胸に刺さった。

 

アイだけが悩んでいるわけではない。

 

メンバーも悩んでいた。

 

アイの横で。

 

アイの光の隣で。

 

どう立てばいいのか、分からずにいた。

 

ニノは続ける。

 

「でも」

 

一度、言葉を切る。

 

「分かんないって言われる方が、まだマシ」

 

アイは小さく聞いた。

 

「え?」

 

ニノは視線を逸らした。

 

「完璧な笑顔で謝られるより」

 

その言葉で、アイは何も言えなくなった。

 

謝ればいいと思っていたわけではない。

 

でも、謝ることに逃げていた。

 

整った笑顔で、悪くない謝罪をする。

 

相手をこれ以上困らせないように。

 

自分をこれ以上嫌わせないように。

 

でも、それは相手にとって、さらに遠いものだったのかもしれない。

 

高峯が小さく言った。

 

「……もう一回、やる?」

 

アイは顔を上げた。

 

高峯は目を合わせない。

 

「視線を渡すとか、言うだけじゃ分かんないし」

 

渡辺が少し笑った。

 

「そうだね。やってみないと」

 

きゅんぱんが手を上げる。

 

「じゃあ、次は私にも視線ちょうだい。受け取れるか分かんないけど」

 

ありぴゃんがぼそっと言う。

 

「言い方軽いなぁ」

 

「軽い方がやりやすいでしょ」

 

空気が、少しだけ動いた。

 

仲良くなったわけではない。

 

距離が縮まったと言えるほどでもない。

 

でも、止まっていたものが少しだけ動いた。

 

レッスンが再開する。

 

曲が流れる。

 

アイは中央に立った。

 

今度は、自分を消さない。

 

まず、前を見る。

 

客席を想定した鏡の向こうへ。

 

視線を受ける。

 

そのあと、隣へ。

 

高峯へ。

 

高峯は、踊りながらほんの少し顎を上げた。

 

次に、渡辺へ。

 

渡辺は柔らかく声を乗せる。

 

ニノへ。

 

ニノは一瞬だけ目を逸らしかけて、それでも前を向いた。

 

きゅんぱん、ありぴゃんへ。

 

まだ滑らかではない。

 

視線の流れもぎこちない。

 

アイ自身の笑顔も、少し迷っている。

 

トレーナーは最後まで止めなかった。

 

曲が終わる。

 

短い沈黙。

 

トレーナーが言った。

 

「今の方がいい」

 

壱護も頷く。

 

「さっきよりはな」

 

アイは息を吐いた。

 

さっきよりは。

 

そのくらいが、今はちょうどよかった。

 

帰り道。

 

アイは凛と並んで歩いていた。

 

身体は疲れている。

 

けれど、昨日のような冷たい重さとは少し違う。

 

「今日、少しは近づけたかな」

 

凛は少し考えた。

 

「分からない」

 

アイは苦笑する。

 

「分からないかぁ」

 

「でも、笑顔だけよりは近かった」

 

アイは凛を見る。

 

「それ、褒めてる?」

 

「たぶん」

 

「たぶんかぁ」

 

アイは笑った。

 

凛は前を見たまま続ける。

 

「仲良くなろうとしすぎると、アイはまた作る」

 

「……うん」

 

「分からない時は、分からないって言う」

 

アイは少しだけ空を見る。

 

「それで嫌われたら?」

 

凛はすぐには答えなかった。

 

少し歩いてから言う。

 

「完璧な笑顔で嫌われるより、まだ分かる」

 

アイは目を伏せた。

 

「厳しいなぁ」

 

「でも、たぶん」

 

「うん」

 

アイは頷いた。

 

「その方がいい」

 

渋谷家に帰ると、父が店先にいた。

 

「おかえり」

 

「ただいま」

 

母も奥から出てくる。

 

「今日はどうだった?」

 

アイは靴を脱ぎながら、少し考えた。

 

「メンバーとは、まだ仲良くなれません」

 

父はすぐに頷いた。

 

「そうか」

 

母は柔らかく聞く。

 

「でも、話せた?」

 

「少しだけ」

 

アイは鞄を下ろした。

 

「分からないって言いました」

 

母は静かに微笑んだ。

 

「それは、大事だったかもね」

 

父が腕を組む。

 

「仲良くなるのは目的じゃなくて、同じステージに立つための途中かもしれないな」

 

「途中……」

 

「最初から仲良しじゃないといけないわけじゃないだろ」

 

母も頷く。

 

「無理に仲良しのふりをしなくてもいいと思う」

 

その言葉に、アイは少しだけ息を吐いた。

 

無理に仲良しのふりをしない。

 

それは、簡単そうで難しい。

 

笑顔なら作れる。

 

明るい空気なら作れる。

 

でも、その奥にある距離を見ないふりにしてしまうと、また遠くなる。

 

「……はい」

 

アイは頷いた。

 

その夜。

 

アイは予定表を開いた。

 

今日の欄に、ゆっくり書く。

 

メンバーと話した。

高峯さんには少し刺さった。

ニノちゃんには、完璧な笑顔で謝られるよりマシと言われた。

仲良くはなれなかった。

でも、分からないとは言えた。

 

書き終えてから、少しだけ手を止める。

 

仲良くなれたわけではない。

 

距離が縮まったとも、まだ言えない。

 

でも、綺麗な笑顔で埋めようとした隙間に、初めて別の言葉を置けた。

 

分からない。

 

それは答えではなかった。

 

アイは最後に、もう一行書き足した。

 

同じグループでも、同じ気持ちとは限らない。

 

その文字を見つめる。

 

寂しい言葉だった。

 

でも、嘘ではなかった。

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