星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜 作:百合太郎
レッスンの終わり際、壱護がアイを呼んだ。
「アイ、少し話がある。こっち来い」
音楽が止まり、候補生たちがそれぞれ水を飲んでいた時だった。
アイはタオルで汗を押さえながら顔を上げる。
「はい」
隣にいた凛も、当然のように一歩動いた。
壱護がそれを見る。
「今日は保護者面談じゃない」
凛は止まらない。
「付き添いです」
「待ってろ。すぐ終わる」
「何の話ですか」
「今後の確認だ。センター位置と写真の話。あと、声と表情のチェック」
凛は少しだけ目を細めた。
壱護は肩をすくめる。
「食ってかかるな。取って食うわけじゃない」
「怪しい人はみんなそう言います」
「まだ怪しい扱いか」
「必要なだけ」
壱護は軽くため息をついた。
アイが少し笑って、凛を見る。
「大丈夫。行ってくる」
凛はアイの顔を見た。
笑いすぎていないか。
無理していないか。
たぶん、それを見ている。
アイはわざとらしくない程度に笑った。
「ほんとに大丈夫」
凛は短く言う。
「笑いすぎない」
アイは少し肩を落とした。
「そこ?」
「そこ」
「分かった」
アイは壱護についていく。
扉が閉まる。
レッスン室の前の待合スペースに、凛だけが残った。
正確には、凛だけではない。
高峯が壁にもたれて水を飲んでいる。
渡辺は荷物を整理している。
ニノは椅子に座って靴紐を結び直していた。
きゅんぱんとありぴゃんは、レッスン後の疲れを隠せない顔で床に座り込んでいる。
そこに、アイはいない。
いつもなら、空気の真ん中にはアイがいた。
明るく笑う。
少し困ったように言葉を選ぶ。
誰かの棘を受け止めようとする。
それが良いか悪いかは別として、アイがいると空気はアイを中心に動いた。
でも今、その中心が抜けている。
残ったのは、少し気まずい沈黙だった。
最初に口を開いたのは、きゅんぱんだった。
「凛ちゃんって、いつもいるよね」
凛は椅子に座ったまま頷く。
「うん」
ありぴゃんが髪を指で整えながら聞く。
「学校同じなんだっけ?」
「同じ」
渡辺が顔を上げる。
「家も近いの?」
「同じ」
一瞬、空気が止まった。
高峯が眉を動かす。
「同じ?」
凛はいつも通りの声で答えた。
「家族だから」
誰かが、小さく息を飲んだ。
ニノが靴紐を結ぶ手を止める。
「え、姉妹?」
「姉妹みたいなもの」
「みたいなものって何」
「名字は違う。家は同じ」
渡辺は少しだけ表情を変えた。
何かを察したような顔だった。
「そうなんだ」
それ以上、凛は言わなかった。
施設にいたこと。
渋谷家に迎えられたこと。
星野という名前を残していること。
それは凛が勝手に話していいことではなかった。
高峯も、それ以上は踏み込まなかった。
ただ、きゅんぱんだけが空気を変えるように明るく言った。
「じゃあ、アイちゃんって家でもあんな感じ?」
凛が見る。
「どんな感じ?」
「なんか、キラキラしてる感じ」
ありぴゃんも頷く。
「朝からアイドルです、みたいな」
凛は少し考えた。
「家では、足が痛いって言う」
数秒、誰も動かなかった。
「足?」
ありぴゃんが聞き返す。
「レッスン後」
きゅんぱんが吹き出しかけた。
「それ、急に普通で笑う」
凛は真面目に頷く。
「普通」
ニノが小さく言った。
「……想像つかない」
「言うよ」
「へえ」
ニノはそれだけ言って、また靴紐へ視線を落とした。
でも、さっきより少しだけ空気が緩んでいた。
渡辺が凛を見る。
「凛ちゃんって、アイちゃんのこと、よく見てるよね」
「見るって決めたから」
高峯が腕を組む。
「マネージャーみたい」
「違う」
「じゃあ、何?」
凛は少しだけ考えた。
「隣にいる人」
ニノが顔を上げる。
「隣?」
「うん」
「それ、自分で言うの?」
「事実だから」
「……ふーん」
ニノはまた視線を逸らした。
けれど、興味が消えたわけではなかった。
むしろ、さっきより気にしている。
高峯が少しだけ踏み込んだ。
「アイって、こっちのことどう思ってるの?」
凛はすぐに答えた。
「分からない」
高峯の表情が止まる。
「分からないの?」
ニノも少し呆れたように言った。
「いつも一緒にいるのに?」
凛は二人を見る。
「私はアイじゃない」
それだけだった。
でも、その言葉で、少しだけ空気が変わった。
渡辺が静かに聞く。
「でも、よく見てるんでしょ?」
「見てる。でも、全部は分からない」
高峯が言う。
「じゃあ、何なら分かるの」
凛は視線を落とさなかった。
「アイは、仲良くなりたいと思ってる」
少しの沈黙。
きゅんぱんが小さく笑いかけて、やめる。
凛は続けた。
「でも、仲良くなろうとすると作る」
ニノが聞き返す。
「作る?」
「笑顔とか、言葉とか」
誰もすぐには返せなかった。
それは、たぶん全員が感じていたことだった。
アイの笑顔は綺麗だった。
綺麗すぎた。
謝る時も。
褒める時も。
困った時も。
相手を傷つけないように、場を壊さないように、ちゃんと整えられた笑顔を出す。
それが優しさに見える時もある。
でも、距離に見える時もある。
凛は言った。
「アイは、嫌われたくないと、綺麗に笑う」
ニノが目を伏せた。
渡辺が静かに言う。
「それ、分かるかも」
高峯も小さく息を吐いた。
「でも、それやられると余計遠い」
凛は否定しなかった。
「うん」
高峯は少しだけ意外そうに凛を見る。
「庇わないんだ」
「庇うところじゃないから」
凛の声は淡々としていた。
「アイが笑う理由はある。でも、遠く感じるのも本当だと思う」
ニノがぽつりと言った。
「この前の、分からないって言ったやつ」
凛がニノを見る。
ニノは視線を合わせないまま続ける。
「あれ、凛ちゃんが言わせたの?」
「言わせてない」
「じゃあ、何したの」
「止めただけ」
「何を?」
「笑ってごまかすの」
その言葉で、待合スペースが少し静かになった。
きゅんぱんが膝を抱えたまま呟く。
「凛ちゃん、けっこう厳しいんだね」
「たぶん」
渡辺が少し笑う。
「アイちゃんにも、そうなの?」
「もっと」
「うわ、アイちゃん大変」
「大変」
ありぴゃんが思わず笑った。
「否定しないんだ」
「しない」
きゅんぱんも笑った。
ほんの少しだけ。
仲良くなったわけではない。
でも、誰かが少し笑ったことで、張りつめていた糸が少し緩んだ。
その空気の中で、ニノが小さく言った。
「アイちゃんってさ」
全員の視線が、自然とニノへ向く。
ニノは膝の上の手を握った。
「ずるいよね」
空気が固まった。
渡辺が低く名前を呼ぶ。
「ニノ」
「分かってる」
ニノはすぐに返した。
でも、止まらなかった。
「分かってるけど、ずるいじゃん」
声は大きくない。
けれど、ずっと胸の中にあったものが漏れるような声だった。
「可愛いし、目立つし、社長はアイちゃん見てるし」
凛は黙っていた。
怒らない。
止めない。
ただ聞いている。
「それで性格悪かったら、こっちも嫌えるのに」
ニノの声が少しだけ揺れた。
「普通に、こっちに気を遣うじゃん」
誰も笑わなかった。
「それも、なんか嫌」
言ってから、ニノは唇を噛んだ。
言いすぎたと分かっている顔だった。
でも、言わずにはいられなかった顔でもあった。
凛は少し黙ってから言った。
「うん」
ニノが顔を上げる。
「うんって何」
「そう思うのは、ニノのものだから」
「……は?」
「ずるいって思うのも、嫌って思うのも、ニノのもの」
ニノは眉を寄せる。
「何それ」
凛はそのまま続けた。
「でも、それをアイが全部受け取る必要はない」
その言葉で、ニノは固まった。
高峯も、渡辺も、少しだけ表情を変える。
凛は怒っていなかった。
でも、線を引いていた。
ニノの感情を否定しない。
けれど、それをそのままアイへ投げていいとも言わない。
「凛ちゃん」
渡辺が静かに言う。
「それ、アイちゃんにも言うの?」
「言う」
「同じように?」
「たぶん、もっと短く」
きゅんぱんが小さく笑う。
「怖い」
凛は首を傾げる。
「怖くない」
ありぴゃんが言う。
「いや、ちょっと怖いよ」
「そう?」
「うん」
凛は少し考えた。
「じゃあ、少し」
そのやり取りで、また少しだけ空気が緩んだ。
けれど、ニノの顔はまだ少し硬い。
渡辺が、今度は自分から聞いた。
「アイちゃんって、私たちのこと怖いのかな」
凛はすぐに答えた。
「怖いと思う」
高峯が顔を上げる。
「私たちが?」
「うん」
ニノが少し刺々しく言う。
「こっちだって怖いよ」
「うん」
「何それ」
凛はニノを見る。
「どっちも怖いなら、どっちかだけ悪いわけじゃない」
沈黙。
高峯が目を伏せた。
渡辺は小さく息を吐いた。
きゅんぱんは何か言いたそうにして、結局言わなかった。
ありぴゃんも、髪を指でいじるだけだった。
誰かがすぐに納得したわけではない。
ニノの胸の中から嫉妬が消えたわけでもない。
高峯の引っかかりがなくなったわけでもない。
それでも、ほんの少しだけ、違う見え方がそこに置かれた。
アイだけが怖いわけではない。
メンバーだけが傷ついているわけでもない。
どちらも怖い。
どちらも分からない。
そのまま、同じステージに立とうとしている。
扉が開いたのは、その時だった。
アイが戻ってくる。
「お待たせ」
そして、待合スペースの空気を見て少し止まった。
「……何の話してたの?」
メンバーたちは、なぜか一斉に凛を見る。
凛は平然としていた。
「アイの話」
アイの笑顔が固まる。
「え」
「悪口だけじゃない」
「だけ、って何?」
きゅんぱんが口元を押さえた。
ありぴゃんも少し笑いそうになっている。
高峯は視線を逸らす。
渡辺は困ったように微笑む。
ニノは、アイを見ないまま言った。
「別に、大した話じゃない」
その言い方は、冷たいようで、完全には閉じていなかった。
アイは少し戸惑ったまま凛を見る。
凛は何も説明しない。
「本当に?」
アイが聞くと、凛は頷く。
「本当に」
「怖いんだけど」
「怖い話もした」
「余計怖いよ」
そこで、ニノがぽつりと言った。
「凛ちゃん、変だね」
アイはニノを見る。
「急に?」
ニノは少しだけ目を逸らしながら続けた。
「でも、アイちゃんの隣にいる理由は、ちょっと分かった」
アイは言葉を失った。
凛が淡々と言う。
「変は余計」
ニノは短く返す。
「そこは本音」
「じゃあ仕方ない」
その返しに、きゅんぱんが今度こそ少し笑った。
「凛ちゃん、ほんと変」
「二回目」
「ごめんごめん」
謝りながらも、きゅんぱんの声はさっきより軽かった。
アイはその空気を見ていた。
自分がいなかった間に、少しだけ何かが変わっている。
それが何なのか、まだ分からない。
でも、完全に悪いものではない気がした。
帰り道。
アイは凛の隣を歩きながら、何度も横目で見た。
凛は気づいていた。
「何」
「本当に何話してたの?」
「アイのこと」
「だから、それが怖いんだってば」
「怖い話もした」
「もう、それは聞いた」
凛は前を向いたまま歩く。
「でも、少し話せた」
「私抜きで?」
「うん」
アイは少し複雑な顔をした。
自分のいないところで、自分の話をされる。
それは、少し怖い。
何を言われたのか分からない。
どんな顔で話されたのかも分からない。
でも、そこに凛がいた。
それが、少しだけ安心でもあった。
「私も」
アイはぽつりと言った。
「ちゃんと話せるようになりたい」
凛はすぐに答える。
「なる」
「簡単に言うね」
「練習」
「やっぱりそれか」
「うん」
アイは少し笑った。
「でも、練習なら、できるかも」
凛は頷く。
「うん」
渋谷家に帰ると、アイはいつも通り「ただいま」と言った。
夕飯のあと、自分の小さな机に向かう。
予定表を開く。
今日は、自分がいなかった時間のことを書くのは少し変な感じがした。
けれど、書いておきたい気もした。
凛ちゃんが、メンバーと話した。
私の話だったらしい。
少し怖い。
でも、少しだけ近づいた気もする。
そこで手が止まる。
何が近づいたのかは分からない。
メンバーとの距離なのか。
凛とメンバーの距離なのか。
それとも、自分が知らない自分の輪郭なのか。
アイは少し考えて、最後に書いた。
私がいないところでも、私はB小町の中にいる。
その文字を見つめる。
自分がいない場所で、自分の話がされるのは少し怖かった。
けれど、それは悪口だけではなかったらしい。
分からない。
怖い。
羨ましい。
ずるい。
それでも、同じステージに立つ。
アイは予定表の端に、小さく丸をつけた。
私がいないところでも、私はB小町の中にいる。
そのことが、少し怖くて、少しだけ嬉しかった。