星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜 作:百合太郎
B小町の名前は、少しずつ外へ広がり始めていた。
最初は、小さなライブ会場の片隅だった。
客席の人数も多くない。
照明も派手ではない。
それでも、何度かステージに立つうちに、前の方で手を振ってくれる人が増えた。
名前を呼ぶ声が増えた。
物販に並ぶ人が増えた。
「真ん中の子」と呼ばれていたアイは、少しずつ「アイちゃん」と呼ばれるようになった。
もちろん、それはアイだけではなかった。
高峯のダンスを褒める声もあった。
渡辺の歌を聞きに来る人もいた。
ニノの表情が好きだと言う人もいた。
きゅんぱんとありぴゃんの明るさに救われると言う人もいた。
それでも、最初に目を奪うのは、やはりアイだった。
ステージの上で笑うと、客席の温度が変わる。
それはもう、メンバーたちにも分かっていた。
分かっているから、余計に難しかった。
「次、雑誌の小さいコーナーだって」
きゅんぱんが控室で声を弾ませた。
「本当に?」
ありぴゃんが目を輝かせる。
「テレビは?」
「深夜のちょっとした番組なら、話が来てるって」
渡辺が予定表を覗き込む。
「すごいね。ちょっとずつだけど、増えてる」
高峯はタオルで汗を拭きながら言った。
「浮かれすぎると足元すくわれるよ」
ニノが苦笑する。
「高峯、言い方」
「でも、間違ってないでしょ」
「まあね」
アイはそのやり取りを見ながら、小さく笑った。
以前より、少しだけ会話に入れるようになった。
仲良し、とはまだ言えない。
高峯は相変わらず距離を取る。
ニノは時々、刺すようなことを言う。
渡辺は間を取り持つように笑う。
きゅんぱんとありぴゃんは明るいけれど、踏み込みすぎない。
その距離感は、もどかしい。
でも、完全に閉じているわけではなかった。
それだけでも、前よりはずっと進んでいる。
壱護が資料を片手にレッスン室へ入ってきた。
「少しずつだが、露出が増える」
全員の視線が向く。
「雑誌、ラジオ、次は小さい番組。深夜帯だが、画面に映る仕事も入る」
きゅんぱんが声を上げた。
「テレビ出るの!?」
ありぴゃんも続く。
「深夜でもすごくない?」
高峯が釘を刺す。
「だから、浮かれすぎ」
ニノが笑う。
「今日は高峯がブレーキ係だね」
壱護は軽く流して、資料をめくった。
そして、アイを見る。
「アイ、お前はもう一段必要だな」
アイは瞬きをした。
「もう一段?」
「ああ」
壱護は紙を閉じる。
「表情は強い。目もある。ステージで客を引っ張る力もある」
褒められているはずなのに、アイは少し身構えた。
壱護がこういう言い方をする時は、大抵そのあとに課題が来る。
「だが、言葉の芝居がまだ浅い」
「芝居……」
「アイドルは歌って踊るだけじゃない。番組、雑誌、ドラマ仕事、全部に繋がる。表情だけで持っていける場面もあるが、言葉で空気を作る場面も増える」
アイは少し黙った。
嘘を本当にする練習。
それは、歌やダンスだけでは足りないのかもしれない。
壱護は続けた。
「劇団ララライのワークショップに参加してこい」
その名前に、レッスン室の空気が少し変わった。
渡辺が小さく呟く。
「ララライ……」
高峯も少しだけ目を細める。
アイは名前を聞いたことはあった。
演劇の世界では知られた劇団。
舞台。
役者。
アイドルとは違う場所。
「私、役者になるんですか?」
「今すぐじゃない」
壱護はあっさり答えた。
「だが、表現の幅を広げろ。お前の目は強い。だからこそ、受ける芝居を覚えた方がいい」
「受ける芝居……」
「見せるだけじゃなく、相手から受け取れ」
アイはその言葉を胸の中で繰り返した。
見せるだけじゃない。
受け取る。
その横で、凛が当然のように言った。
「私も行く」
壱護は凛を見る。
「ワークショップには参加できないぞ」
「見学」
「毎回それだな」
「付き添いなので」
壱護は少しだけ額に手を当てた。
「……まあ、見学できる範囲は確認しておく」
「お願いします」
凛は短く頭を下げた。
アイは凛を見る。
「凛ちゃん、来るの?」
「行く」
「私だけでも大丈夫だよ」
凛は即答した。
「知らない場所だから」
アイは少しだけ笑った。
「またそれ」
「大事」
その夜、渋谷家の食卓で、アイはララライの話をした。
父は少し驚いた顔をした。
「劇団か。アイドルとはまた違う世界だな」
母も湯呑みを置き、慎重に聞く。
「無理に広げすぎてない?」
「怖いです」
アイは正直に答えた。
「でも、気になります」
嘘ではなかった。
怖い。
でも、気になる。
知らない世界へ向かう時、最近のアイはその二つを一緒に持てるようになってきていた。
凛が横で言う。
「私も見る」
父が凛を見る。
「凛も?」
「うん。アイが知らない場所に行くから」
母は凛を静かに見た。
「凛ちゃんが全部背負わなくていいんだよ」
凛は少しだけ黙った。
そして、ゆっくり言う。
「全部は背負わない」
その答えに、母は少しだけ目を細めた。
凛は続ける。
「でも、見たい」
それは、今までの凛とは少し違う言葉だった。
アイを守るためだけではない。
凛自身が、自分の目で見ようとしている。
芸能界という場所を。
アイが立っている場所を。
そして、これからもっと深く入っていくかもしれない場所を。
劇団ララライのワークショップの日。
建物に入った瞬間、アイは空気の違いを感じた。
苺プロのレッスン室とは違う。
音楽が流れているわけでもない。
手拍子が響いているわけでもない。
それなのに、部屋全体がどこか張りつめている。
床に座って台本を読む人。
壁際で発声をしている人。
誰かと向かい合って、無言で立っている人。
笑っている人もいる。
けれど、その笑い方もアイドルの控室とは少し違った。
見せるための笑顔ではなく、何かを探っている途中の顔。
アイは少しだけ圧倒された。
凛は見学できる場所に案内され、壁際に立った。
アイは参加者の中へ入る。
講師が手を叩いた。
「今日は台詞ではなく、相手を見る練習から始めます」
相手を見る。
アイは少しだけ息を吸った。
見ることなら、ずっとやってきた。
観客を見る。
ファンを見る。
相手が欲しい笑顔を探す。
どんな言葉を返せばいいかを考える。
でも、劇団ララライで求められた「見る」は、少し違った。
相手の目を見る。
呼吸を見る。
言葉を言う前の沈黙を見る。
自分が何かを届ける前に、相手から何が来ているのかを受け取る。
アイドルの目線は、届ける。
芝居の目線は、受け取る。
そう言われたわけではない。
けれど、アイは身体で少しだけそう感じた。
ペアになった相手の目を見つめる。
笑おうとすると、講師に止められた。
「すぐに表情を作らない」
アイは固まる。
「はい」
「相手を安心させなくていい。まず見て」
安心させなくていい。
その言葉は、アイには少し難しかった。
相手を安心させるために笑う。
空気を柔らかくするために笑う。
嫌われないために笑う。
それをせずに、ただ見る。
それは、思っていたより怖かった。
休憩時間。
アイは廊下の端で台本を見ていた。
難しい言葉が並んでいるわけではない。
でも、声に出そうとすると、自分の中でうまく形にならない。
「星野アイさん、だよね」
声をかけられて、アイは顔を上げた。
そこに立っていたのは、綺麗な顔立ちの少年だった。
アイより少し年上に見える。
線が細く、中性的で、静かな雰囲気をまとっている。
目元は柔らかい。
声も穏やかだった。
「はい。えっと……」
「神木ヒカル」
少年は小さく笑った。
「ここの劇団で勉強してる」
「神木さん」
アイは軽く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「よろしく」
神木はアイの手元の台本を見る。
「さっきの目線、面白かった」
アイは少しだけ首を傾げる。
「面白い?」
「誰かに見せるのは上手いのに、見られると少し迷う」
言葉は柔らかかった。
でも、当てられた感じがした。
アイは少しだけ笑う。
「見られるのは、慣れてるつもりだったんですけど」
「アイドルだから?」
「はい」
「アイドルって、愛される仕事なんだよね」
その言葉に、アイは少し止まった。
神木は穏やかに続ける。
「じゃあ、愛するのは?」
アイはすぐに答えられなかった。
愛される。
愛する。
その二つは、似ているようで違う。
ステージで「好き」と言うこと。
ファンに笑いかけること。
自分を見てくれる人へ、何かを返すこと。
それを愛と呼んでいいのか、アイはまだ分からない。
「それは……まだ練習中です」
アイがそう言うと、神木は静かに笑った。
「練習で愛せるようになるなら、すごいね」
優しい声だった。
でも、少しだけ冷たかった。
アイはその冷たさの理由が分からず、言葉を探す。
神木はアイを見ていた。
見ているのに、どこか遠い。
「でも、君の嘘は綺麗だと思う」
アイの指が、台本の端を握った。
「……嘘?」
「違った?」
神木の笑顔は崩れない。
責めているようではない。
からかっているようでもない。
ただ、そこにあるものを言っただけのようだった。
アイは返せなかった。
嘘。
それはずっと、自分が向き合ってきた言葉だった。
でも、初めて会った相手にそう言われると、胸の中を直接触られたような気がした。
その少し離れた場所で、凛は二人を見ていた。
神木ヒカル。
綺麗な少年だった。
丁寧で、柔らかくて、言葉も穏やか。
アイに向ける笑顔も、決して乱暴ではない。
けれど、凛はその笑顔を見た瞬間、胸の奥に小さな違和感を覚えた。
アイの笑顔とは違う。
アイは怖い時に笑う。
欲しい時にも笑う。
嫌われたくない時にも笑う。
そこには、怖さや迷いが見える。
綺麗に整えても、奥に熱がある。
神木の笑顔には、それが見えなかった。
笑っているのに、こちらを見ていない。
そこに人がいるのに、人ではなく、硝子越しの何かを見ているような目だった。
凛はゆっくり近づいた。
「アイ」
アイが振り向く。
「凛ちゃん」
神木も凛を見る。
「君は?」
「凛」
「アイさんの友達?」
凛は一拍も置かずに答えた。
「家族」
神木は少しだけ目を細めた。
「そうなんだ」
その笑顔は、やはり綺麗だった。
「いいね。帰る場所があるんだ」
凛の中で、何かが細く鳴った。
言葉自体は普通だった。
羨ましい、という声も自然に聞こえる。
それでも、どこか薄い。
「あります」
凛は短く答えた。
神木は微笑む。
「羨ましいな」
アイは二人を見比べた。
「凛ちゃん?」
凛は神木から目を逸らさない。
「そろそろ戻る時間」
「え、もう?」
「うん」
神木は少しだけ下がった。
「またね、星野さん」
アイは軽く頭を下げる。
「はい。また」
凛は何も言わなかった。
帰り道。
アイは少し興奮していた。
「ララライ、すごかったね」
凛は隣を歩く。
「うん」
「みんな、目が違った。アイドルのレッスンとも違うし、何か……怖いけど、面白い」
「うん」
アイは凛を見る。
「神木さんも、すごかった」
凛の返事は、少し遅れた。
「うん」
「何か、見透かされた感じがした」
「近づきすぎない方がいい」
アイは足を止めそうになった。
「え?」
凛は前を向いたまま言った。
「あの人、笑ってるのに温度がない」
アイは黙った。
神木の笑顔を思い出す。
綺麗だった。
穏やかだった。
でも、確かにどこか不思議だった。
「怖い人?」
凛はすぐには答えない。
「分からない」
「分からないんだ」
「証拠はない」
凛は淡々としていた。
だからこそ、余計に本気だと分かる。
「でも、アイが笑いすぎる時と違う」
アイは少しだけ眉を寄せる。
「どう違うの?」
凛は少し考えた。
「アイは、怖いから笑う」
その言葉に、アイは何も言えない。
「嫌われたくないから笑う。何かほしい時も笑う。困った時も笑う」
「……うん」
「あの人は、何もないところに笑顔を置いてる感じ」
アイは神木の横顔を思い出した。
星野アイさん、だよね。
君の嘘は綺麗だと思う。
その声は優しかった。
でも、優しさの奥が見えなかった。
「気をつける」
アイは小さく言った。
「でも、また会うかも」
「その時は見る」
「凛ちゃんが?」
「うん」
アイは少しだけ笑った。
「やっぱり、付き添いだね」
凛はすぐには返さなかった。
しばらく歩いてから、言った。
「付き添いだけだと、見えないものがある」
アイは凛を見る。
「え?」
凛は歩きながら、今日見たものを思い出していた。
ララライの参加者たち。
子どもなのに、大人のような目をした人。
笑顔の裏に疲れを隠す人。
才能を測る大人の視線。
神木ヒカルの、綺麗で温度のない笑顔。
アイドルの世界だけではない。
芸能界そのものが、光だけでできているわけではない。
アイは、その中へ進んでいる。
今はまだ、B小町の小さなステージ。
けれど、露出が増えれば、知らない人も増える。
知らない大人も増える。
綺麗な笑顔で近づいてくる人も増える。
凛が外から見ているだけでは、届かない場所がある。
数日後。
苺プロの事務所で、壱護が凛へ声をかけた。
「渋谷」
凛は顔を上げる。
「何ですか」
「お前も、見られる側に立つ気はないか」
アイは隣で目を瞬かせた。
「凛ちゃんが?」
凛も少しだけ驚いた顔をした。
「私が?」
壱護は資料を一枚差し出す。
「前から何件か声はあった。雑誌の読者モデル、広告の端役。お前、顔と空気は悪くない」
凛は資料を見る。
「悪くない、って」
「褒めてる」
「怪しい」
「まだ言うか」
壱護は苦笑した。
「アイほど派手に客を引っ張るタイプじゃない。だが、静かに目を止める力がある。写真向きだ」
凛は資料を見つめた。
読者モデル。
小さな広告。
衣装。
撮影。
見られる側。
自分がそこに立つことを想像して、少しだけ胸の奥が揺れた。
怖い、とは少し違う。
知らない場所をのぞき込む感覚。
壱護は続ける。
「すぐ決めろとは言わない。家で話してこい」
凛は資料を受け取った。
「分かりました」
その夜、渋谷家の食卓で凛は言った。
「私も、少し芸能の仕事をする」
父が湯呑みを置いた。
「凛が?」
母も驚いた顔をする。
「芸能の仕事って……」
アイが身を乗り出す。
「凛ちゃんが?」
凛は頷いた。
「うん。モデル」
アイは資料を見る。
「どうして?」
凛は少しだけ黙った。
理由はいくつもあった。
アイの近くにいたい。
芸能界を外側からではなく、中から見たい。
綺麗な笑顔で近づく人たちを、自分の目で確かめたい。
けれど、それだけでは続かないことも、凛は分かっていた。
「外から見てるだけだと、分からないことがある」
母が静かに聞く。
「アイちゃんのため?」
凛はすぐには答えなかった。
そして、正直に言った。
「アイのためもある」
アイの目が少し揺れる。
凛は続けた。
「でも、それだけだと続かないと思う」
父は凛を見た。
「凛自身は、やってみたいのか」
凛は資料に視線を落とす。
写真の中のモデルたち。
服。
表情。
光。
ステージとは違う、静かな見られ方。
「少し」
その答えは短かった。
でも、凛にとっては大きかった。
アイは凛を見つめる。
嬉しい。
驚き。
少しの不安。
いろいろな感情が混ざる。
「私のために無理してるなら、嫌だよ」
凛はすぐに答えた。
「無理なら言う」
「ほんと?」
「言う。アイにも言わせてるから」
アイは少しだけ笑った。
「それはそうだ」
凛も、ほんの少しだけ表情を緩める。
「それに、見られる側に立てば、アイの怖さも少し分かるかもしれない」
アイは黙った。
その言葉は、嬉しかった。
でも、少し怖かった。
自分がいる世界へ、凛が入ってくる。
守られるだけではなく、隣に立つかもしれない。
いつか、並び立つかもしれない。
それは、アイが想像していたよりずっと眩しくて、少しだけ怖い未来だった。
母は凛とアイを見て、静かに言った。
「やるなら、きちんと条件を確認しようね」
父も頷く。
「学業と体調も優先だ。無理な仕事は受けない」
凛は頷いた。
「うん」
アイも言った。
「凛ちゃんが無理したら、今度は私が止めるからね」
凛は少しだけ目を瞬かせる。
「できる?」
「できるよ」
「笑いながら?」
「笑わずに」
凛は少しだけ考えて、頷いた。
「じゃあ、お願い」
アイは笑った。
今度は、作りすぎない笑顔だった。
その夜。
アイは予定表を開いた。
今日の欄に、ゆっくり書く。
劇団ララライへ行った。
神木ヒカルさんに会った。
綺麗な笑顔だった。
凛ちゃんは、温度がないと言った。
凛ちゃんがモデルをやるかもしれない。
文字を見つめる。
アイドルのステージは、眩しかった。
けれど、その光の外側にも、知らない廊下が続いていた。
劇団。
雑誌。
カメラ。
大人たちの目。
そして、綺麗に笑う少年。
アイは最後に、もう一行書いた。
芸能界は、思っていたより広くて、少し暗い。
少し迷って、その下に小さく書き足す。
凛ちゃんが、こちら側に来る。
それは嬉しくて、少しだけ怖かった。