星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜 作:百合太郎
凛がモデルの仕事を始めてから、渋谷家の朝には新しい音が混ざるようになった。
シャッター音ではない。
けれど、それに近いもの。
鏡の前で立ち位置を変える足音。
服の裾を整える小さな衣擦れ。
表情を確認するための、短い沈黙。
アイはステージのために笑顔を作る。
凛は、写真のために笑わない練習をする。
同じ芸能の仕事なのに、二人の向かう場所は少し違っていた。
アイは、客席の目を奪う。
凛は、画面の中で目を止める。
小さな雑誌の撮影の日。
カメラマンは、凛を見て少しだけ首を傾げた。
「笑わなくていいよ。そのまま」
凛はカメラの前で動きを止める。
「そのまま?」
「うん。君は、笑わせるより、見返す方が強い」
凛は意味を測るように、少しだけ目を細めた。
カメラマンはシャッターを切る。
「そう。それでいい」
その一言で、凛は少しだけ理解した。
アイのように、光を放つ必要はない。
ただ、そこに立って、見返す。
視線を受けて、逃げずに返す。
それだけで、誰かの目が止まる。
撮影が終わったあと、凛は自分の写真を見せられた。
そこにいたのは、いつもの自分のようで、少し違った。
笑っていない。
けれど、弱くはない。
冷たいわけでもない。
ただ、静かにこちらを見ている。
凛は画面の中の自分を見て、少しだけ不思議な気持ちになった。
見られる側に立つ。
それは、思っていたより息が詰まる。
けれど、嫌ではなかった。
渋谷家に帰ると、アイがすぐに雑誌を持ってきた。
「凛ちゃん、これ見たよ」
凛は少しだけ身構える。
「変だった?」
「綺麗だった」
アイは素直に言った。
「なんか、こっち見てるのに触れない感じ」
凛は眉を動かした。
「それ、褒めてる?」
「かなり」
「分かりにくい」
「凛ちゃんの写真の方が分かりにくいよ」
アイは笑う。
凛も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「アイみたいに笑えない」
「凛ちゃんは笑わない方が凛ちゃんっぽいよ」
「アイは笑いすぎ」
「それ、褒めてる?」
「注意」
「厳しいなぁ」
アイはそう言いながらも、どこか嬉しそうだった。
同じ芸能界にいる。
でも、同じ場所ではない。
アイはB小町として、ステージに立つ。
凛はモデルとして、カメラの前に立つ。
違う場所で、違う視線を受けて、それぞれ少しずつ変わっていく。
それが不思議で、少し楽しかった。
B小町の名前も、前より広がっていた。
小さなライブ会場の客席は、少しずつ埋まるようになった。
深夜番組の短いコーナーに出た日には、翌日の物販で見覚えのない客が増えた。
雑誌の端に小さく載った写真を見て来た、という人もいた。
「昨日テレビ出てたよね?」
「真ん中の子、アイちゃんだよね?」
そんな声を、街でも聞くようになった。
アイは最初、驚いて、それから笑った。
嬉しい。
でも、少しだけ怖い。
自分を知っている人が増える。
それは、応援してくれる人が増えるということでもある。
同時に、自分が知らない人から見られることが増えるということでもあった。
ある日、駅前を歩いている時、凛はふと周囲を見た。
アイに向けられる視線が、前より増えている。
好意的なものもある。
気づいて嬉しそうなものもある。
けれど、全部がそうではない。
距離感のおかしい目。
遠慮なく値踏みする目。
気づいたことを、すぐ隣の誰かに囁く目。
凛は少しだけ眉を動かした。
「最近、見られる数が増えた」
アイは隣でクレープ屋の看板を見ていた。
「ファンの人かな」
「ファンだけじゃない」
アイが振り向く。
「心配性」
「事実」
「凛ちゃん、それ多い」
「事実だから」
アイは少しだけ笑った。
けれど、凛は笑わなかった。
その日は、二人で駅前へ出かけていた。
レッスンも撮影もない。
久しぶりに、ただ普通に遊ぶ日だった。
本屋へ行き、雑誌を見た。
アイは自分たちが載っている小さなページを見つけて、少しだけ頬を赤くした。
凛は自分の写真が載っているページを見て、無言で閉じようとした。
アイが慌てて止める。
「閉じないでよ。記念だよ」
「変」
「変じゃないって」
「自分を見るの、変」
「それはちょっと分かる」
二人で笑った。
そのあと、レッスン用の服を見て、文房具屋に寄って、カフェで少し休んだ。
アイはストローで飲み物を混ぜながら言った。
「今日は普通に遊ぶ日」
凛はカップを持ったまま、少しだけ目を細める。
「普通」
「凛ちゃん、普通って言葉を疑ってる?」
「アイが言うと少し」
「ひどい」
「普通にできる?」
「できるよ。たぶん」
「たぶん」
アイは笑った。
その笑いは、ステージのものではなかった。
雑誌用でもない。
渋谷家で見せるものに近い、柔らかい笑顔だった。
カフェを出たあと、アイがふと立ち止まった。
「ちょっとお手洗い行ってくるね」
凛は頷く。
「ここで待ってる」
「すぐ戻る」
「うん」
アイは手を振って、通路の奥へ向かった。
凛は近くの雑貨屋の前で、並べられたヘアアクセサリーを眺めながら待った。
一分。
二分。
三分。
少し遅い。
混んでいるのかもしれない。
凛はそう思った。
さらに時間が過ぎる。
凛は時計を見る。
「遅い」
胸の奥に、小さな違和感が落ちた。
凛は顔を上げる。
通路の先を見る。
人の流れ。
店の音。
笑い声。
その中に、アイの姿はない。
凛は歩き出した。
お手洗いの前。
いない。
近くのベンチ。
いない。
通路の角。
いない。
さらに奥へ進むと、人気が少し減った。
搬入口に近い通路。
店の裏側へ続くような、照明の少し暗い場所。
そこで、声が聞こえた。
「だから、少しだけだって」
男の声。
若い。
軽い。
けれど、嫌な響きがあった。
次に聞こえた声で、凛の足が止まる。
「離してください」
アイの声だった。
凛の中で、音が消えた。
通路の奥。
壁際にアイがいた。
その前に、数人の少年が立っている。
年上に見える。
派手な服。
粗い笑い声。
そのうちの一人が、アイの腕に手を伸ばしていた。
「あれ、やっぱ本物じゃん」
「B小町の子だろ?」
「写真だけ、写真」
アイは後ずさっている。
笑顔を作ろうとしていた。
穏便に済ませるための笑顔。
相手を刺激しないための笑顔。
「すみません。事務所を通してください」
「真面目かよ」
「ちょっとくらいいいじゃん」
一人の手が、アイの腕に触れた。
その瞬間。
凛の中で、何かが切れた。
怒鳴るより先に。
走り出すより先に。
涙より先に。
感情が、消えた。
世界が細くなる。
アイ。
アイに触れた手。
アイを囲む影。
それ以外が、どうでもよくなる。
凛は歩き出した。
足音は静かだった。
けれど、通路の空気が変わった。
蛍光灯が一瞬、ちらつく。
床の上を、青白い光が細く走った。
少年の一人が振り向く。
「何だよ、お前」
凛は立ち止まらない。
声は低く、静かだった。
「その手を離して」
少年たちは一瞬、きょとんとした。
それから、強がるように笑う。
「は? 何、友達?」
「邪魔すんなよ」
凛は一歩近づく。
床に、また雷の筋が走った。
今度は、はっきりと。
少年たちの顔から笑いが薄れる。
アイは凛を見た。
「凛ちゃん……?」
凛はアイを見ていなかった。
いや、見ている。
でも、いつもの凛ではなかった。
凛の瞳は冷えていた。
感情がない。
怒りさえない。
ただ、目の前の危険を取り除くためだけに存在しているようだった。
凛の額に、薄い影が浮かぶ。
角の輪郭。
小さく、けれど確かに、そこに何かが形を取ろうとしていた。
指先に青白い雷が絡む。
右手の中で、細い光が伸びる。
刀の柄のような輪郭。
まだ完全な形ではない。
けれど、普通のものではない。
少年の一人が後ずさった。
「な、何だよ……」
凛はもう一度言った。
「聞こえなかった?」
その声には、温度がなかった。
一人が虚勢を張って前へ出る。
「ガキが調子――」
言い切る前に、凛の手が動いた。
雷が弾けた。
少年の足元で青白い光が爆ぜる。
直接触れてはいない。
それでも、空気の圧に押されるように、少年は壁際へ尻もちをついた。
通路に乾いた音が響く。
他の二人が息を飲む。
凛は表情を変えなかった。
「次」
それだけだった。
その一言で、少年たちは完全に怯えた。
アイは壁際で動けなかった。
怖い。
絡んできた少年たちも怖かった。
でも、それ以上に、凛が怖かった。
いつもの凛ではない。
アイを守ろうとしている。
それは分かる。
分かるのに、その守り方があまりにも冷たい。
凛は怒っていない。
泣いていない。
焦ってもいない。
ただ、アイ以外を障害物として見ている。
凛の右手に、さらに雷が集まる。
細い刀のような輪郭が、少しずつはっきりしていく。
少年の一人が、震えた声で言った。
「ば、化け物……」
その言葉で、アイは息を飲んだ。
凛の表情は変わらない。
化け物と言われても。
恐れられても。
何も感じていないように見えた。
このままでは、凛が戻ってこない。
そう思った。
「凛ちゃん」
声が震えた。
凛は反応しない。
雷がまた一筋、床を走る。
アイはもう一度呼んだ。
「凛ちゃん!」
その声に、凛の指先がわずかに揺れた。
アイは壁から一歩離れる。
足が震えている。
でも、近づいた。
「もう大丈夫」
凛の背中に向かって言う。
「私、ここにいる」
雷の音が少し小さくなる。
「だから、戻ってきて」
凛の瞳が、わずかに揺れた。
額に浮かんでいた角の輪郭が薄くなる。
右手の刀の形が崩れる。
青白い光が霧のようにほどけていく。
凛はゆっくり振り返った。
その瞳に、ようやく感情が戻ってくる。
「アイ」
「うん」
アイは小さく頷いた。
「いるよ」
その言葉で、凛の肩から力が抜けた。
少年たちは、その隙に逃げ出した。
誰かがスマホを落とし、慌てて拾って、また走る。
一人は足をもつれさせながら、それでも振り返らずに逃げた。
通路には、焦げたような薄い跡だけが残った。
蛍光灯は、何事もなかったように点いている。
凛は無言だった。
アイは凛の手を取った。
冷たい。
指先が、氷のように冷えていた。
「行こう」
アイが言うと、凛は小さく頷いた。
二人は人通りのある場所まで戻った。
ざわめき。
店の音楽。
人の声。
さっきまでの通路が、嘘のように遠くなる。
けれど、凛の手はまだ冷たい。
アイは立ち止まった。
「凛ちゃん」
凛はアイを見た。
最初に聞いたのは、それだった。
「怪我は?」
アイは首を横に振る。
「ない」
「本当に?」
「うん」
凛はそれでも、アイの腕を見た。
さっき掴まれたところが少し赤い。
その赤みに凛の目がまた冷えかける。
アイは慌てて凛の手を握った。
「凛ちゃん」
凛の瞳が揺れる。
そして、目を伏せた。
「ごめん」
アイはすぐには返せなかった。
「何に?」
凛は自分の手を見た。
「怖かったと思う」
アイは黙った。
怖かった。
確かに怖かった。
でも、それだけではなかった。
「怖かった」
アイは正直に言った。
凛の肩が小さく揺れる。
アイは続けた。
「でも、凛ちゃんが戻ってこなくなる方がもっと怖かった」
凛は何も言わなかった。
その言葉が、凛の胸のどこかに刺さったのが分かった。
渋谷家に帰ると、母はすぐに二人の様子に気づいた。
「どうしたの?」
父も奥から出てくる。
「何かあったのか」
アイが口を開こうとした。
けれど、凛が先に言った。
「アイが絡まれた」
声は静かだった。
「私が止めた」
父の表情が変わる。
母は凛を見る。
凛は続けた。
「変な力が出た」
その瞬間、母の顔から血の気が引いた。
ほんの少し。
けれど、確かに。
アイはそれを見逃さなかった。
「知ってるんですか?」
母はすぐには答えなかった。
椅子に座るよう、二人へ促す。
凛は座った。
アイは隣に座る。
父は母を見た。
母はゆっくり息を吸った。
「……出たのね」
その言葉で、部屋の空気が重くなる。
凛が顔を上げる。
「知ってるの?」
母は少しだけ目を伏せた。
「知っている、というほどではないの。でも、私の家の古い話に、似たものがある」
「古い話?」
母は頷いた。
「金剛の家の、血の話」
父が低く言った。
「昔話だと思っていた」
母も頷く。
「私も、そう思ってた」
アイは息を飲む。
金剛。
凛の母方の家。
以前、少しだけ聞いたことがある名前。
母は言葉を選びながら続けた。
「昔、うちの家系には、人ではないものと血が混じったという話があったの」
凛は自分の手を見た。
何もない。
雷もない。
刀の形もない。
額に触れても、角などない。
けれど、あの時は確かにあった。
指先を走った青白い光。
額の奥が熱くなる感覚。
右手に何かが生まれる感覚。
そして、感情が削ぎ落とされるような冷たさ。
「私、あの時……何も感じなかった」
凛の声は小さかった。
「怒ってたはずなのに、すごく静かだった」
アイは凛を見る。
「アイ以外、どうでもよかった」
その言葉に、部屋が静まった。
凛自身が、一番怖がっているように見えた。
母は凛の手を取った。
「それを怖いと思えているなら、まだ大丈夫」
凛は母を見る。
「大丈夫じゃなかったら?」
母は、少しだけ手に力を込めた。
「一緒に考える」
父も頷いた。
「一人で抱えるな」
アイも、凛の隣で手を握った。
「凛ちゃん」
凛がアイを見る。
アイは、震えないようにゆっくり言った。
「守ってくれたのは分かる」
凛は目を伏せる。
「でも、凛ちゃんが何も感じなくなるのは嫌」
凛の表情が揺れた。
「私を守るために、凛ちゃんがいなくなるのは嫌」
その言葉は、凛にとって、雷より強かった。
凛はアイを見る。
いつものアイ。
少し怖がっている。
でも、逃げていない。
自分を見ている。
「いなくならない」
凛は言った。
アイはすぐに返す。
「約束」
「約束」
短い言葉だった。
でも、凛はその言葉を、自分の中に強く刻んだ。
その夜。
凛は一人で、自分の手を見ていた。
指先には何もない。
青白い火花もない。
ただの手だった。
モデルの撮影で、カメラの前に置いた手。
アイの手を握った手。
そして、さっき雷を纏った手。
凛は額に触れる。
そこにも何もない。
角などない。
けれど、あの瞬間、確かに何かがあった。
身体の奥から、冷たいものが立ち上がった。
守るための力。
いや。
排除するための力。
守るという言葉は、もっと優しいものだと思っていた。
アイの隣にいること。
無理を止めること。
笑いすぎたら気づくこと。
帰る場所を忘れないようにすること。
でも、今日、自分の中から出てきたものは違った。
優しくなかった。
温かくなかった。
ただ冷たく、速く、迷いがなかった。
アイを守るためなら、私は何になれるのだろう。
何になってしまうのだろう。
凛には分からなかった。
ただ、アイの声だけが耳に残っていた。
戻ってきて。
あの声がなければ、自分はどこまで行っていたのだろう。
凛には分からない。
ただ一つだけ分かる。
次に同じことが起きた時。
自分はまた、ためらわずにあの冷たさへ落ちる。
それでも、戻る場所を忘れてはいけない。
アイの声が届く場所に、いなければならない。